<鶴見和子―芸術としての人生(その1)>
戦前から、戦後にかけての、男性優位の日本社会において、その人生の軌跡が、美しい、1人の高齢女性として、鶴見和子(1918~2006年)を取り上げてみよう。
その独創的な「内発的発展論。」において、鶴見和子が、たどり着いた、最良の成果の1つは、序説『南方曼荼羅』では、ないか?
鶴見和子という、個性を、形容するには、『自律』という言葉が、ぴったりである
「自律する生命。」を鶴見は、みずからの内発的発展論の、基礎に据えつつ、生命体は、自律を志向しつつも、1個の生命体をもっては完結しえず、身体と『精神』をつつむ自然の中にあって「生かされ。」、また、自然を生かしており、「人間は、自然のまったき、一部分である。」という。
たしかに、人間と、自然との関係は、「不即不離。」のものであり、潜在している「生命の力。」や可能性が、外部自然との交流を通して、『顕在』化してくるところに創造のいとなみがある。
鶴見の内発的発展論の対象は、1個のミクロの「生命体。」から、マクロの地球に及ぶ。
その方法論は、自然科学から社会・人文科学にわたっている。
それとともに、それは、「自己修養。」の契機をはらんでいる。
内発的発展論は、『自律』する生命の「創成論。」であることによって、内なる「生命力。」や可能性をさぐることをうながし、自己も、自己が属する「地域社会。」も、開かれてあることを望ましいものとし、互いのアイデンティティを尊重する。
そして、地域のアイデンティティに、危機をもたらすものに対して、『批判』する目を養い、また、自己が、「キー・パースン。」かどうかは、『神』のみぞ知ることながら、人は、みな「『使命』的存在。」であると教える。
人間は、根無し草であってはならず、地域性を担って(社会人)、生きるしかなく、その自覚を高めるようにうながし、すべてのものが、すべてに関係する(縁)ことを説くことによって、地域に深く根ざして、考え、かつ行動しつつ、地球という全体性を見失うことのないように、教えることである。
内発的発展論の真の秘密は、鶴見の人生、そのものであると思われる。
(続く)
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