多様性(プルラルティ)を正統・正当とみなすにせよ「政治的正しさ。」を振り回すにせよ、その背後には、「人間性の尊重。」という「ヒューマニズム。」があります。
18世紀後半にイマヌエル・カントが概念的に定式化したように、自由意思がヒューマニティ(人間性)の根本条件であり、それを認めればこそ人間精神に責任感が内在することになるのです。
「神の意志。」なり「自然法則。」にもとづいて人間が生きているとしたら、人間のなすどんな行いも人間の責任に帰すわけにいかないのです。
自らの責任の所在を明らかにするために、人間は、「自分の欲しないことを他人に為すな。」という道徳的命令をおのれに貸し、それにもとづいて徳律や法律を作りもしてきたのでした。
そのようにして「自由と責任。」および「権利と義務。」という双対のソーシャル・ノーム(社会規範)が出来上がってきたのです。
しかし、それらの規範はあくまで抽象的な概念です。「欲すること。」と「為すこと。」の具体的な様相はどんなものか?
さらに「自由と責任。」そして「権利と義務。」の具体相は何かと問われたら、それらは人間の性が直面する具体的な『状況』のなかにおかれて初めて明らかになる、と答えるほかありません。
続いて、シチュエーション(状況)とは何かとなれば、それは、一方で、過去からの歴史の功績を引きずっており、や法で、未来への創造によって航路が変更さえていく、といった種類のものです。
このことをさしてバークは、「人間の権利が何を意味するか分からないが、イギリス国民の権利なら存分に守ってやろう。」といったのだと思われます。
要するに、人間の生は「国家の状況。」との関わりでしか営まれないということです。
ここで「国家の実体。」はというと、政府のことには「限られず。」、家族、地域、職場、(社会の)広場、議会、外交折衝の場などにわたる広い「人間関係。」の具体的在り方のことだ、ということになります。
「『状況』の中の人間の生。」にあっては、自由・平等・友愛という3種の『理想』のあいだの相互葛藤が渦巻いております。
秩序・格差・競合という3種の『現実』にあっても然りです。
それにもかかわらず、理想と現実のあいだの『平衡』としての活力・公正・節度を求めて、人間は「生の危機。」を「危機としての生。」において引き受けて、平衡の作業に成功したり失敗したりしています。
その試行錯誤の歴史的な積み重ねの中から、良性と悪習がないまぜになった個人の『習慣』(ハビット)と集団の『慣習』(カスタム)がもたらされるのです。
そしてその良悪の判断基準を示唆するものとして、『伝統』という名の精神が形成され持続させられていきます。
その精神形式に支えられて、未来への(夢想ならぬ)希望も、絶望と共に、創り出されるということになるのです。
こうし生の具体状況にあって、人間性という抽象観念を礼賛するのは、それを非難するのと同じく、実に虚しい試みだというしかありません。
人間の生において在るのは、心理的かつ社会的な葛藤において平衡を取るべく、他者を説得し自己において決断することだけ、といってよいでしょう。
その説得と決断の具体相は、「時と所と場合。」に応じいて、カレイドスコープ(万華鏡)に映したように転変します。
いや、そのおのれの生を示すあまりの不安定性に耐えかねて、それを安定に近づけるべく、人は確実性の根拠を究めるのです。 その結果、「歴史の物語。」あるいは「物語としての歴史。」がおのれの精神の基底で奏でられているように感じられます。
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