<M氏の解(9)。日本が、世界の先頭を切って指し示す、未来の経済人(ホモエコノミクス)のあり方。 日本では、小学生から経済人>
人間は、いつ経済人になるのか? たいていの人は、「自分で、飯を食えるだけの稼ぎができたとき。」と答えるでありましょう。
しかし、この定義は、社会が豊かになればなるほど現実的ではなくなります。
一生働かないという人が、だんだん増えてくるが、そういう人たちだって生きている限り消費生活は、確実にしているからであります。
社会全体が「豊かに。」なればなるほど、自分で生産活動に携わらないが、消費するという人が増えていくのです。
それだけではなく、早くから働き始めて早く引退する人も増える。
他人より遅く働き始めて、かなり高齢まで働くという人も増える。
もちろん早くから働き始めて、高齢まで仕事をつづける本当に働くのが好きな人もいるだろうし、逆に遅くから働き始めて早く引退する、ラクチンなのが何よりという人だっているでありましょう。
ようするに、人間の働き方のパターンも今よりずっと多様化し、「そのうちのどれが標準的なあり方か。」というような発想が、意味を持たなくなるのでありましょう。
そして一生働かない人というのも、この多様化複線化した『働き』方のパターンのひとつに過ぎないということであります。
「そういう人間が存在すること自体けしからん。 自分で働いて稼いだ金以外は、全部没収して国家で使ってやる。」というような荒療治でもする気なら別だが、そこまで蛮勇をふるうわけにはいかないとすれば、働かずに消費するだけの人も経済人と認めておく必要があります。
人間が、『経済人』になるのは、自分の『意志』で自分の行きたいところへ行って、自分の持っている予算のなかで、食べたいものを食べ、欲しいものを買って、きちんと帰ってくることができた『時』ではないだろうか?
もしこの『考え方』が正しいとすれば、「二つ。」、非常に興味深い事実に思い当たります。
ひとつは、先進国の大半で、高等教育が普及するにつれて仕事に就く年齢は高まっているが、たいていの先進国で子供が経済人になる年齢は、過去数十年間そんなに変化していないだろうということであります。
もうひとつは、日本の子供たちは、ほぼ間違いなく、世界中の先進国で、いちばん早く『経済人』になっている、ということであります。
子どもたちの大半がいつ経済人になるかという点で、『決定的』に重要なのは、子どもたちが自由に使えるこづかいの額ではありません。
クルマ社会か?電車社会か「徒歩社会。」か?ということのほうが、ずっと『大事』なのであります。
どんなに多額のこづかいをもらっていても、親や大人たちの監視を離れて、自分の買いたいものを自由に変える場所がなければ、そのこづかいに大した意味はありません。
クルマ社会の子供たち、特に女の子たちは、自分たちだけで好きなところに行って、好きなようにお金を使って帰ってくるという点で、決定的な『ハンデ』をしょっているのです。
クルマ社会が必然的にもたらす、大都市中心部の荒廃と郊外ショッピングセンターの遠隔化が、彼女たちをどんどん世間『知ら』ずに育てていることが問題なのです。
これに対して、今のところ先進国では、日本『1国』だけが「電車社会。」を維持しているのです。
電車社会では、大勢の乗客による監視が利いているので、大都市中心部も荒廃していないのであります。
男女を問わず、小学生の高学年にもなると、自分の行きたいところに自分の小遣いで電車の切符を買って行って、自分の予算で好きなものを買って帰ってくるという、『経済人』化の『訓練』を受けるようになっているのであります。
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