<日本文明特有の『見立て』という、融通無碍な「発想力。」の本質>
「あはれ。」を題材にした、デュアル・スタンダードの話ですが、デュアルという概念は、「日本には、神と仏がいる。」ということを説明する上でも、有用な議論だと思います。
神と仏、あるいは、縄文と弥生、それから野性的な「荒ぶる魂。」と和(やわ)らぐ、『和魂』(にぎみたま)のように、2つの概念が、「デュアル。」に存在していることを伝えないと、日本文明は、伝わらない。
『神道とは、何か?』で、仏教と神道の違いを、「神は、在るもの、仏は、成るもの。 神は、来るもの、仏は、往くもの。 神は、立つもの、仏は、座るもの。」という標語で表現してみました。
そのように、原理的に異なる、神と仏が、なぜ、本地垂迹・神仏習合のように、『合体』していくことができるのかを、考えていくことによって、繋がりえないと思われるものを、メタフォリカル(暗喩的)、かつ詩的に、結びつけてしまう、日本文化特有の『見立て』という「融通無碍な、発想力の本質。」が、見えてくるような気がします
なぜ、そのような「見立て」が、可能かといえば、やはり、日本の自然の『多様』さが、絶対的な要件でしょう。
日本は、四季移ろいもあり、東西南北に幅広く、少し走れば、すぐ、山から海まで、到達でき、太平洋プレートをはじめ、4つのプレートが、ぶつかり合う「プレートの十字路。」でもあります。
まさに、「フラジャイル(こわれやすい)な、日本列島。」です。
さらにいえば、火山や台風や地震などによって、数十年単位で、大『変動』が、起こりうる。
千年かかって滅びた、楼蘭のような、長期変動型ではありません。
だからこそ、日本では、「やってくるもの。」を、短期的に、かつ敏速に『察知』する感覚を、研ぎ澄まさなければならなかった。
「やってくるもの。」と「受けるもの。」との、鍵と鍵穴を、つねに、持つと同時に、さらに、その鍵と鍵穴の間に、受け入れのための、ある種の『間』を構えておく。
こういう、インターフェース(接点)を、文化や生活のなかに築いてきた。
しかも、「やってくるもの。」と「待つもの。」、あるいは、「陰と陽。」という関係が、つねに、きわめて動的に意識されていた。
このような思想を、象徴する『装置』が、神道だったともいえます。
新しい命が、誕生するか、どうか?は、その2つの力を、うまく結合できるかどうかによる。 おそらく、「日本文明の本質。」も、そういう構造なのでは、ないか?と思います。
(続く)