チャンネル桜・瓦版:世論(多数意見)の真逆(少数意見)がほとんど正しい・西村浩一ブログ

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 西部邁36。民主主義、「多数性。」という価値基準:バイク塗装・西村コーティングのダイヤモンドコートを!

2016-09-01 21:07:07 |  西部邁師の論

   <西部邁師の論(36)。民主主義という「多数性。」を絶対の価値基準とする時代>

 17世紀末から18世紀初めにかけて、活躍した、ジョヴァンニ・ヴィーコが、カルテジアンを「全てを単純化する、恐ろしい人たち。」と批評したことが、思い起こされます。 

 ( カルテジアンとは、「科学によって、歴史までをも、説明しようとした。」、ルネ・デカルトの徒のことを指します )

 それから300年余、このウルトラ・モダンの時代では、単純模型の大量流行を恐ろしいと思うものたちは、「近代に反逆する、変な人たち。」として、一蹴される始末になっております。

 もちろん、近代化を、模型化、流行化とみなして、それに逆らうべく、「近代の超克。」を訴えた人々の群れというものは、ありはします。

 しかし、それの企ての多くは、前世紀末のポストモダン(後近代)の思想運動が、そうであったように、ウルトラ・モダニズムの『変種』として片づけられたのでした。

 つまり、「差異化された、意見。」は、すぐさま「モデル化。」されて、次に、それが、『商品』にされて、市場で売りだされるといった、転末になりました。

 それもそのはず、それらのポストモダンの試みのほとんどが、自由という近代における、理念のモデルを、なお一層普及させよう、といった類のものだったのです。

 ひとり、保守思想の系譜だけが、近代に真っ向から歯向かってきたといえるでしょう…。

 その思想は、「モデルのモード。」の中に、人間性の「完成と無謬。」を夢みる、近代人の傲慢を看て取っていたのです。

 しかし、その思想は、ますます、少量の現象となっていきました。

 民主主義という「多数性。」(ブルラルティ)を、絶対の価値基準とする時代にあっては、「大量化。」は、どんなものであれ、物事の「単純化。」、「模型化。」、そして、「流行化。」の帰結にすぎぬと、唱える者たちに、出番を設(しつら)えられることは、絶対にありえないのです。 

 出番があるとしたら、その大多数性が、デッドロックに乗り上げ、それゆえ、多数者が、その思考と行動を停止するときでしょう。 

 単純模型の大流行は、物財においてのみ、生じるのではないのです。

 物財それ自体が、技術の産物で、技術は、システム化された精神の産物なのです。 

 モデル化を、支えるものとしての、「システミズム。」(体系主義)、それこそが、近代化精神の『本質』だといえましょう。

 単純なイメージや、プランのための単純な言葉が、大量に出回るのです。

 「自由・平等・友愛、改革・革新・革命、人権・人類・生命・平和。」など、単純きわまる、空疎な言葉で、地球は覆い尽くされております。

 それを如実に、表現しているのが、マスコミュニケーション(大量情報伝達)の現状であることは、良く知られています。

 いえ、「マスコミ。」には、限られません。

 「インターネット。」やらを通じる、双方向の意志伝達においても、誹謗中傷や宣伝広告の文句を始めとして、「単純情報。」が、飛び交っているといってよいでしょう。

 「軽少短薄。」は、単に、物財の様式に見られるだけでなく、その物財に伴う、「情報の特性。」でもあります。

 


 鶴見和子―芸術としての人生:チャンネル桜・瓦版、NYダウ暴落は、欧州銀行(イタリアか?)破たんを切っ掛けとするか?

2016-09-01 09:52:44 | 哲学

     <鶴見和子―芸術としての人生(その1)>

 戦前から、戦後にかけての、男性優位の日本社会において、その人生の軌跡が、美しい、1人の高齢女性として、鶴見和子(1918~2006年)を取り上げてみよう。

 その独創的な「内発的発展論。」において、鶴見和子が、たどり着いた、最良の成果の1つは、序説『南方曼荼羅』では、ないか?

  鶴見和子という、個性を、形容するには、『自律』という言葉が、ぴったりである 

 「自律する生命。」を鶴見は、みずからの内発的発展論の、基礎に据えつつ、生命体は、自律を志向しつつも、1個の生命体をもっては完結しえず、身体と『精神』をつつむ自然の中にあって「生かされ。」、また、自然を生かしており、「人間は、自然のまったき、一部分である。」という。

 たしかに、人間と、自然との関係は、「不即不離。」のものであり、潜在している「生命の力。」や可能性が、外部自然との交流を通して、『顕在』化してくるところに創造のいとなみがある。

 鶴見の内発的発展論の対象は、1個のミクロの「生命体。」から、マクロの地球に及ぶ。

 その方法論は、自然科学から社会・人文科学にわたっている。

 それとともに、それは、「自己修養。」の契機をはらんでいる。

 内発的発展論は、『自律』する生命の「創成論。」であることによって、内なる「生命力。」や可能性をさぐることをうながし、自己も、自己が属する「地域社会。」も、開かれてあることを望ましいものとし、互いのアイデンティティを尊重する。

 そして、地域のアイデンティティに、危機をもたらすものに対して、『批判』する目を養い、また、自己が、「キー・パースン。」かどうかは、『神』のみぞ知ることながら、人は、みな「『使命』的存在。」であると教える。

 人間は、根無し草であってはならず、地域性を担って(社会人)、生きるしかなく、その自覚を高めるようにうながし、すべてのものが、すべてに関係する(縁)ことを説くことによって、地域に深く根ざして、考え、かつ行動しつつ、地球という全体性を見失うことのないように、教えることである。

 内発的発展論の真の秘密は、鶴見の人生、そのものであると思われる。

     (続く)


 追い詰められた中国:欲心から、自分の分・器(正当性)を越えたものは、『災難』となって溢れる?

2016-09-01 07:46:03 | 尖閣諸島

  <追い詰められた中国、日本はどう対応すべきか?>

 南シナ海の領有権問題について、ハーグにある常設仲裁裁判所が下した裁定は、人工島を力ずくで造成し続ける中国にとっては『惨敗』と言えるものでありました。

 しかし、いくら裁定を下しても、国際社会には警察官はいないため、その内容に従うよう大国の中国に強制できる国はありません…。

 国際社会は、南シナ海問題の存在を広く認め、中国が国際法を無視し、力による現状変更を試みていることを改めて認識したでありましょう。

 カントリーリスクが高まることで中国に投資していた外国資本が逃げ出しやすくなるなど、経済分野での悪影響がこれから出てくるが、こうした経済的なデメリットについては、中国政府はあまり予想していないかったと思われます。

 こうなれば、普通の国なら多少は妥協するものだが、ますます危険な行動に走りかねないのが、共産党独裁国家である中国であります…。

 こうした中国に対し、日本はどのように対応していけばいいのでありましょうか?

                (続く)