金子光晴「作詩法入門」より第四条を引用します。
かならずしも詩は、実景を模写するものではなく、じぶんのなかでべつの現実をつくりあげることで、いっそう、いきいきと実景のこころまであらわすことができるものであることについて。
自然や人事の現実を細描しただけでは、対象がうきあがってくるものではありません。レアリズムは、この穴ぼこに落ちこんで、ながらくはい出ることができませんでした。ものをいきいきと表現するについては、それこそ順序がたいせつです。それよりもっとたいせつなことは、なにとなにが特徴をあらわすうえに重要かという秘密を直感して、よけいなものは切りすてることです。説明したいことが、あとからぞくぞく出てきても、いちいちそれにかかずらわって、際限なくことばをつかってみても、かえってそれでは、混乱と、相殺を招き、実体はなにもつかめずに終わるということになります。いいたいことを切りすてるのは、つらいことですが、それもひとつの技法なのです。
実景は、詩人の個性をとおして、アレンジされてこそ、いきいきとしてくるものです。そのために、しばしば、常識的に考えて無縁なものが持ち出され、それがいっそうやくだつような場合もあります。サンボリズムという方法も、レアリズムの平板さと貧しさを救うためにあらわれたアクセントのようなものです。美しい女といった場合、素朴な表現ではありますが、どのような美しさなのか、じかになまなましくふれてくるものがありません。花のように美しい女とか、月のように美しい女とかいえば、それはただの比喩です。花や月と同格で、しかもこれらの比喩は、比喩としてもあまりに使いふるされたもので、特別な感銘を人にあたえることはできません。桜花のような女、芙蓉の花のような女、といえば、すこし説明がこまかくなって、その女のうつくしさの大体をつかむことができるかもしれませんが、比喩であることにかわりはありません。(後略)
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