湘南文芸TAK

逗子でフツーに暮らし詩を書いています。オリジナルの詩と地域と文学についてほぼ毎日アップ。現代詩を書くメンバー募集中。

作詩にあたっての十個条第一条

2015-12-07 01:55:47 | 

金子光晴「作詩法入門」(昭和43年刊行)から第一条を引用します。
機が熟するまでは、腰をあげないこと。蒸れのたりないアイディアは、おもいつきに終わる危険がある。
 はじめに、こういうことを詩に表現しようということが、火花のようにパッと閃めくとします。しかし、たいていの場合、アイディアの東道(あんない)のままに、不用意についていった作品は、不備に終わります。アイディアだけで、とりいそいで作った作品には、ことばが出そろいませんから、舌たらずになり、あとでよんで不満が出てくるものです。ことを早急にせず、まずその対象をつきとめ、それが、ちょっとしたおもいつきで、根のないものではないか、または、それが、じぶんには元来そぐわないものではないか、じぶんがもっていない世界であるために、かりそめに心をひかれるのではないかを検討します。もし、それがじぶんにふさわしい発案だとおもったときは、さらに、どこまで熟しているか、その世界のなかで、どのていど、じぶんが生活しているかとながめてみます。それがふじゅうぶんであれば、根本がしっかりせず、ことばも作品をささえる力をもっていないことになります。この識別は、元来は、叡智によるものですが、練習によってその叡智をじぶんの身につけることも可能です。非常に短い詩の場合は、この操作もかなり短縮できますが、ながい詩になるほど、燻熟にはてまをかけずばならず、そのあいだに、表現上のテクニック、舞台装置や、段取りの劇的構成にも心をつかわねばならなくなります。ともかく、作品の内容を、じゅうぶんにじぶんのものにし、そのなかの世界で生活することが、なにより先にかんじんなことで、じゅうぶんにその世界をじぶんのものにすれば、不用意に出てくることばでも、ことごとく、作品のよい手足となって働いてくれます。ただし、生熟のしおどきを計るということも、かんじんで、いちどしか来ない、もっともいい機会をうっかりやりすごしますと、出てくることばはみな、生彩を失ってしまって、せっかくできた作品は、死にものとなります。
 もうひとつ注意をせねばならないことは、つねづね心であたためていたものが、触発されて、ことばといっしょにほとばしり出るような場合、すでにじゅうぶんに生活しているのですから、早急な発想でも、機を失わず、つかまえて表現しなければなりません。この見わけも、たいせつなことです。専門の詩人の場合は、おのれの個性に従い、そのためにわがままに生きて、日常がそのための生活にあてられているわけですから、はじめから用意のできている態勢になっています。ですから、外界の刺激によって、発現するその表現でも、おおむね、時機を失わないですむということになります。初学初心の人は、夾雑物をよりわけておく操作ができていませんので、なかなかその点がむずかしいとおもいます。
作品を支える力のある言葉を使わねば
コメント
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