湘南文芸TAK

逗子でフツーに暮らし詩を書いています。オリジナルの詩と地域と文学についてほぼ毎日アップ。現代詩を書くメンバー募集中。

作詩にあたっての十個条第三条

2015-12-13 01:40:14 | 
昨日の亀岡八幡宮。境内で月1回の骨董市。冬でも昨日のような天候だと骨董好きな人がけっこうやってきます。
 
では、金子光晴「作詩法入門」より第三条を引用します。
表現はじぶんのものであって、同時に他人のものであることを忘れないこと。
 詩は、だれのためにつくるのかという問題があります。みなさんは、それは、じぶんじしんの満足のためさと答える人も、じぶんのなかで整理しきれないものを整理して、心境をはっきりさせるためだと答える人もありましょう。恋愛感情を吐露するような詩はつきつめた心を詩にゆだねることで、心がかるくなり、じぶんが助かるということがあるのでしょう。また、不遇な境涯、悲嘆のどん底で、詩に心をゆずって、その苦しみを忘れるということもあります。(中略)しかし、じぶんのためにつくったつもりの詩が、後世までもてはやされて、多くの人のこころを打つというのは、そこにわが意をみたす以上のものが加わっているのでなければなりません。いいかえれば、真にじぶんを納得させるためには、それが人間社会との連係において、共通な理会を要求しないではおかないもののようです。作家は、知らずしらずのあいだに、この点で腐心し、労苦を惜しまないものです。他人に媚びるのではなくて、他人も同感する場で、仕事をするのでなくては、満足できないのです。それですから、作品は、いつでも、自分のつくったものでありながら、同時に、他人のものなのです。さもなければ、批評が成り立ちませんし、作品の進展の積みかさなりもないわけです。裏がえしていえば、作家は、いかにすんなりと他人のサイズに納まるかを考慮して、ひとつのことば、一行の効果をゆるがせにしないものだということにもなります。もっとべつないいかたをすれば、作品は、作っているさいちゅうだけ、作者のもので、でき上がったときは、もっぱら他人のものであり、煮て食おうと焼いて食おうと、それは、読むほうのがわでしまつしなければならないともいえるのです。もちろん、その場合のことを作者も心におさめて、作品がなるたけよい待遇をしてもらえるように、サービスしないわけにはゆきませんし、作品を作っているあいだは、そのことがただちに、じぶんを納得させるかどうかという試験台にのせられていることになるもののようです。
 さて、そうなると、作品は、恣意であってはならず、じぶんでわかっているというだけで満足していては危険なもので、人の理会にぴったりとおさまることが肝要となります。すると、人の心におさまるための順序だてをまず、作らねばなりません。この順序がめちゃめちゃだったり、入れかわっていたりしては、他人はなんのことだかわからなくなります。たとえば、藤村の詩、
   小諸なる古城のほとり
と書き出し、まず場所の概念をのみこませ、
   雲白く遊子悲しむ
とその情況を述べてゆきます。
   緑なす繁蔞は萌えず
   若草も藉くによしなし
ただぼうぜんとたたずんで、哀傷している詩人の姿が、おいおいと順序を追って人の心のなかにはいってまいります。だいたいこの詩も、起・承・転・結法をとって、第一行の起をうけて、つぎの聯までが承、暮れて行けば浅間も見えずで転となり、濁り酒濁れる飲みて、草枕しばし慰むで全体を結んでいます。藤村の頭のなかには、やはり明治人の伝統で、漢詩の方法がしみついていたことでしょう。日本の伝統的な表現法として、足利時代の謡曲の、序・破・急という形もあります。
     
 わたしは啜泣きと      ジャン・モレアス
   わたしは啜泣きと涙に溢れた恋をおもふ。
   雨に打たれて色褪せた薔薇の冠を、
   その色青い額のうへに飾した恋。
   わたしは啜泣きと涙に溢れた恋をおもふ。
                    (山内義雄訳)
 この詩のなかには、ふたつの方法が見いだせます。涙にあふれた恋と、薔薇の冠というふうに、並列する方法と、わたしは、ではじまるおなじ行のルフランです。くりかえしや、並列のリズムで、読者の心にふかく感情を焼きつける音楽的効果があります。先人の作品をよむとき、共感した個所を擦過しないで、ふみとどまって、その構成や、ことばの配置、たたみこむことばの配列の順序などに注意して、研究するようにすれば、得るところが非常に多いとおもいます。
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