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湘南文芸TAK

逗子でフツーに暮らし詩を書いています。オリジナルの詩と地域と文学についてほぼ毎日アップ。現代詩を書くメンバー募集中。

「雁」に登場する蕎麦屋

2015-06-01 01:43:10 | 旅行
台東区・文京区を巡った森鴎外文学散歩ルポその3は「雁」にたびたび出てくるお蕎麦屋さん。

「蓮玉へ寄って蕎麦を一杯食って行こうか」と、岡田が提議した。
 僕はすぐに同意して、一しょに蓮玉庵へ引き返した。その頃下谷から本郷へ掛けて一番名高かった蕎麦屋である。

蓮玉庵は安政6年創業の老舗。鴎外自身も通っていたそうです。入口の上にかかっている看板の文字は久保田万太郎の筆。
池之端の蓮玉庵に吾も入りつ上野公園に行く道すがら これは斎藤茂吉の短歌。
店舗はもっと不忍池に近い場所から一度移転しているそうですが、移転した当時はこんな環境じゃなかったんだろうなぁと無常な時の流れを思ってしまう風俗街っぽい環境の場所でした。

昼限定メニューの三段重ね古式せいろを「雁」の登場人物になった気分でいただきました。三段の内一段が変わり蕎麦になっています。
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森鴎外住居跡巡り

2015-05-25 07:20:35 | 旅行
5月17日に行った森鴎外文学散歩のルポ。今日は鴎外住居編を投稿します。

明治22年に海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚。その夏、根岸からこちらに移り住んだのだそうです。

現在の住所でいうと台東区池之端3丁目で、天然温泉付き宿泊施設が建っています。ホテルの中庭に鴎外旧居が保存され食事処として使われています。

明治23年に鴎外は登志子と離婚。本郷区駒込千駄木町57番地に転居しました。今の住所でいうと文京区向丘2丁目で日本医科大学同窓会館が建っています。碑文・鎌倉漱石会、題字・川端康成と脇に彫られた碑があります。
そう、ここは鴎外が次の家(終の棲家となった観潮楼)に引っ越してから約十年後に、夏目漱石が移り住んだ場所なのです。文豪の町の中でも文豪濃度の高いスポットですね! ここで漱石が「我輩は猫である」を執筆しその舞台ともなったことから「猫の家」と呼ばれています。塀の上には猫の像が

鴎外は30歳の時、本郷区駒込千駄木町21番地に居を構え、大正11年に60歳で亡くなるまでここに住みました。現在の住所でいうと文京区千駄木1丁目です。この住居跡地が鴎外生誕150年を記念して、平成24年に文京区森鴎外記念館になりました。プロポーザルコンペで選ばれた設計のモダンな建物です。7月12日まで特別展「谷根千“寄り道”文学散歩」を開催中。

外壁にこのような解説板が付けられています。
増築した2階部分から東京湾が眺められたとされたことにより、観潮楼と名付けられた。鴎外はこの地において半生を過ごし、「青年」「雁」「阿部一族」「高瀬舟」「渋江抽斉」など代表作を執筆した。その後、建物は火災や戦災により焼失したが「胸像」「銀杏の木」「門の石畳」「三人冗語の石」は残り、当時の姿を偲ぶことができる。(観潮楼 解説板より)
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森鴎外「雁」の舞台

2015-05-21 01:28:52 | 旅行
旅行カテゴリーのコンテンツを増やすべく、この間の日曜日に参加した文学横浜の会&横浜文学学校「森鴎外文学散歩」のルポを投稿します。
訪れたのは台東区・文京区だから日帰りというか半日のツアーでしたけど、国内旅行の行き先トップで外国人旅行者も最近特に大勢訪れている世界のTOKYOですから、このカテでいいんです
 無縁坂
その頃から無縁坂の南側は岩崎の邸であったが、まだ今のような巍々たる土塀で囲ってはなかった。きたない石垣が築いてあって、苔蒸した石と石との間から、歯朶や杉菜が覗いていた。
左側に長く続いている石塀+煉瓦塀の中が旧岩崎邸。高利貸しの末造が囲っていたお玉の家は道を隔てた向かい側、この道はお玉が恋い焦がれる東大生岡田の散歩道という設定になっています。


現在、ラブラブで不忍池&上野の森越しにスカイツリーを眺められるベンチがあるこの場所で、作中の明治時代の東大生たちったら、池に群れる雁を獲って食おうなどと考えていたとは
 「こんな所に立って何を見ていたのだ」と、僕が問うた。
 石原は黙って池の方を指ざした。岡田も僕も、灰色に濁った夕の空気を透かして、指ざす方角を見た。その頃は根津に通ずる小溝から、今三人の立っている汀まで、一面に葦が茂っていた。その葦の枯葉が池の中心に向って次第に疎になって、ただ枯蓮の襤褸のような葉、海綿のような房が基布せられ、葉や房の茎は、種々の高さに折れて、それが鋭角に聳えて、景物に荒涼な趣を添えている。このbitume色の茎の間を縫って、黒ずんだ上に鈍い反射を見せている水の面を、十羽ばかりの雁が緩やかに往来している。
鴎外の住んだ家の跡などを巡った報告は、後日投稿します。
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春琴抄の舞台、道修町

2015-03-15 14:25:06 | 旅行
一行の詩を書くためには、あまたの都市、あまたの人々、あまたの書物をみなければならない (リルケ)
旅行カテゴリーがあるのに今まで旅の記事をアップしていなかったことに気が付きました。
そこで今日は、大阪旅行の時に少彦名神社の前で見つけた文学碑を紹介します。
 春琴抄の碑(平成12年建立)
「中央公論6月号」と入稿判が押してある直筆原稿が使われています。文字サイズの指定は9ポイント。小さいですね。
下記のような説明文が刻まれています。
春琴抄(昭和8・1933年)は、谷崎が道修町を舞台に借りて、松子夫人に対する思慕を、架空の人物―幼時に失明した琴三弦の天才春琴と、彼女に献身的に使える佐助に託した、日本文学史上屈指の名作である。
舞台になった道修町は薬の町。町の名が読めなかったんだけど「どしょうまち」っていうんですね。

参道の脇にこの町で創業したさまざまな製薬会社の製品が展示してあるガラスケースが。社務所ビル内に「くすりの道修町資料館」もあります。
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