575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

「いただきます」について  遅足

2008年06月22日 | Weblog
給食の時、我が子に「いただきます」と言わせないでほしい。
こんな親からの要望があるということ。
給食費を払っているのに、頂きます、
というのはオカシイというのが理由とか。
確かに理屈は通っている。

こうした親たちを育てたのは、今の高齢者である私たち。
私達のなかにも、こうした考え方があったから、
こうした子どもが育ってきたのかも。

この話を聞いて思い出したのが、中学の昼休み。
お弁当を食べる時に呪文のごとく唱えさせられたコトバ。
「ホントウニ生キンガタメニ、今、コノ食ヲイタダクマス・・・」
後を覚えていないのが残念。
同年輩の人も、子どもの頃、家で、
先祖や親、天に感謝するコトバを述べたという。

「いただきます」というコトバを、学校から給食をいただいている
としか理解できなくなったのは何故か?
天地から食をいただいている、という意味がスッポリと抜けてしまった。

これは私達の生活から「祈り」が消えていったことと深く関わっていそう。
自分や人間を越えた存在を想像する能力がなくては、
祈りは生まれてきません。
私達の世代は、人間中心のヒューマニズム、個を大切にすることを
第一に考えてきた。
それが新鮮だったのは、人間や個を抑圧する軍国主義などが存在していたから。
対抗するものが消えていった後に、ヒューマニズムが変質する可能性に気づかなかった。

子どもの世代は、そういう対抗する存在のないなかで、
人間中心、個の尊重を刷り込まれて来た。
人間を越えた存在を否定したために「祈り」は消えてしまった。
いただきます、の相手は見えなくなってしまったのでしょう。

もちろんバランス感覚がある人がほとんどですから
極端な行動に走るのは、ごく一部でしょうが、
根底には同じ考えがあるのではないでしょうか。

  昨日は夏至。時の流れの早いこと!
  今日は一日ということ。

  明日はに。
コメント (6)
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