おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

SL PALEO EXPRESS。車窓から。熊谷~三峰口。その1。そして「立秋」。(「荒川を遡る」番外編。)

2021-08-07 20:09:28 | 荒川を遡る

電気機関車に引かれてホームに。

フリー切符1,600円。

孫達とその父親と4人で秩父鉄道の蒸気機関車「SL PALEO EXPRESS」に乗って、「熊谷」から「三峰口」まで。

熊谷駅 10:12発 三峰口駅 12:45着。

当初は、往復ともSLに乗る予定でしたが、2時間以上乗っているうちに、孫達は飽きてしまったようで、往復はやめ、途中で変更。

帰りは、普通電車で「御花畑」駅へ。そこから「西武秩父」駅まで歩き、「西武秩父」駅からは、14:24発の特急ラビュー「ちちぶ30号」に乗って池袋まで、とあわただしい「ミニ周遊」の旅に。

「緊急事態宣言」が首都圏に発出される前に予約したので、ちょっと迷いましたが孫達の期待もあったので、出かけることに。

車内や駅構内などは子供連れがいましたが、思ったよりも少なめで、お互いに安心。

車内のようす。

                    

客席はレトロ調。懐かしい雰囲気。蒸気機関車に乗ったのは、50年以上昔に、会津若松に出かけた時以来? 

孫達は蒸気の大きな音と煙、匂いにいささか不安気。大人達はけっこう気分を味わっているようですが、・・・。

沿線でもSLの写真を撮る人がたくさん。手を振って見送ってくれています。

何日もかけて歩いたコースを汽車の旅で再確認。スピードはかなりゆっくり。昔もこんなだったのかな、と。

ところで、客車を牽引する蒸気機関車「C58 363」とは?

1944年(昭和19年)2月19日に川崎車輛(現・川崎重工業車両カンパニー)で製造された(製番2941)。同年4月2日に釜石機関区(現・釜石線営業所)に配置され、5か月後の9月5日に仙台機関区(現・仙台総合鉄道部)に転属した。1950年(昭和25年)11月1日に長町機関区(現・仙台総合鉄道部)に転属してからは、主に入れ換え作業に使用された。・・・主に東北地方で使用された。累計走行キロ数1,054,826kmで廃車となり、1973年5月31日から国鉄からの貸与という形で埼玉県北足立郡吹上町(現・鴻巣市)立吹上小学校に展示された。

廃車から15年後、国鉄分割民営化直前の1987年(昭和62年)3月6日に、翌年に開催された'88さいたま博覧会の目玉として復活することが決定し、車籍を復活。同年3月26日に高崎運転所(現・高崎車両センター)に配置され、そのまま東日本旅客鉄道(JR東日本)に承継された。車籍復活後、大宮工場(現・大宮総合車両センター)や大阪府サッパボイラでの復元工事を実施し、同年12月26日に工事が完了、同年12月28日付けでJR東日本から除籍され、動態保存を行う秩父鉄道に移籍。1988年(昭和63年)2月22日から同鉄道で試運転が開始され、同年3月15日から秩父本線熊谷 - 三峰口間で「SLパレオエクスプレス」として運転を開始した。・・・

(この項「Wikipedia」参照)

名前の由来

「パレオ」は秩父地方におよそ2000万年前に生息していた海獣パレオパラドキシアにちなんだ名前です。
パレオパラドキシアとはラテン語で「昔の不思議な動物」という意味があるそうです。大昔、秩父地域は海の底にあったことが数々の化石により証明されていますが、その中でもパレオパラドキシアの化石は珍しく、世界でも数体しかありません。
その貴重な文化遺産から「パレオ」を、急行を意味する「エクスプレス」とあわせて、「パレオエクスプレス」という愛称が生まれました。
※パレオパラドキシアの骨格復元像が埼玉県立自然の博物館(上長瀞駅下車徒歩5分)に展示されています。

(この項「秩父鉄道」HPより)

秩父鉄道はトンネルが一ヶ所もないので、実現したのか? 一方、秩父市などでは建物が沿線に建ち並び、煙や音で悩まされているのでは? そんな感想を持ちながらのSLの旅でした。

田園風景が広がります。

   

孫二人は車内販売のアイスに夢中。

「入船寿司」。TV番組で観たことが。

     小前田駅。

寄居駅に到着。

「荒川を遡る」歩き旅の第6日目の下車駅でした。

この先、歩きでは、荒川沿いに玉淀から長瀞と、荒川の景観を眺めながらの旅ですが、車内からよく見えません。

左に「国道140号線(「彩甲斐街道」)。ここを歩きました。

         

 

波久礼駅。印象深い駅名。

そして、今日が二十四節気の一つ「立秋」。秋の気配が立ち始める日です。七月節。『暦便覧』では「初めて秋の気立つがゆゑなれば也」と説明しています。

「夏至」と「秋分」の中間で、この日から立冬の前日までが秋という区分になりますが、日本ではまだまだ猛暑が厳しい時期です。

立秋からの暑さを「残暑」といい、手紙などの時候の挨拶は、この日から暑中見舞いではなく残暑見舞いを出すことになります。

ちなみに旧暦では今日は、まだ6月29日です。

「七十二候」では、三つに分け、

・初侯 8月7日〜8月11日頃 涼風至(すずかぜいたる)

夏の暑い風から、秋の涼しい風に替わりはじめる頃。まぶしく輝いている太陽も日射しを和らげ、夕方に鳴く虫たちの音色も涼しさを演出してくれるはず。

・次侯 8月12日〜8月16日頃 寒蝉鳴(ひぐらしなく)

夏の終わりを告げるかのように、ヒグラシが鳴いている頃。ヒグラシは日の出前や日没後によく鳴き、過ぎゆく夏を惜しんでいるかのように聞こえてくる。

・末侯 8月17日〜8月22日頃 蒙霧升降(ふかききりまとう)
 
森や水辺に白く深い霧がたちこめる頃。朝夕のひんやりとした心地よい空気の中、深い霧が幻想的な風景をつくりだす。

藤原敏行の歌「秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる」(古今和歌集)が有名。

また、これからの長雨は「秋雨」と呼びます。

台風の到来する季節にもなってきます。今日、明日が心配。

次の「処暑」までしばらくの我慢。

コロナ禍での夏、残暑お見舞い申し上げます。

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秩父鉄道三峰口駅~西武観光バス「秩父湖」。その4。三十槌の氷柱(みそつちのつらら)。二瀬ダム。(「荒川を遡る」第10日目。)

2021-08-05 18:43:45 | 荒川を遡る

                       「道の駅大滝温泉」観光案内図。

道の駅には、車で見える方の姿のみ。徒歩の客は見当たらない。ま、この炎天下で歩く人はまずいないのでしょう。

今回、地元の方を含め、歩いている人とはまったく出会いませんでした。

蔵造り。

二階建て。現代風の建物ですが、沿道の部分は昔ながらの店構え。食堂か何かだったのか?

          

ここから約4キロの道のりで「秩父湖」に。

旧大滝村役場。

2005年4月1日に、秩父市吉田町荒川村と新設合併し、新たに秩父市となった。

面積は約332km2、埼玉県の自治体の中で最も広かった。旧村域全体が秩父多摩国立公園に指定されていた

秩父山地の主脈を村域とし、村域の97%は山林である。村内には甲武信ヶ岳をはじめ、標高2,000m級の山々が12峰連なり、そこから荒川が流れ出している。よって、「荒川の源流郷」でもある。

山:甲武信ヶ岳、三宝山雲取山和名倉山御岳山三峰山三国山両神山など

河川: 荒川、中津川滝川大洞川大血川など

湖沼: 秩父湖奥秩父もみじ湖  

(この項「Wikipedia」より)

この手前に対岸に向かう「大滝橋」がある。

荒川の流れ。

             

右手から「中津川」が合流。

「落合橋」。上流。

新しい「国道140号線」は中津川沿いに進み、「大峰トンネル」を経て、川又で再び合流します。「秩父湖」方面には荒川沿いの旧国道を行きます。

かつては奥に建物があった。

車の量が少なくなります。

                   

しばらく進むと、「三十槌の氷柱」の看板。

奥秩父の冬の名勝「三十槌の氷柱(みそつちのつらら)」は、岩肌から湧き出る湧水によりつくりあげられる、高さ約8m、幅約30mにもなる大規模な氷のオブジェです。
天然の氷のため毎年、姿も変わります。
荒川源流の大自然の中、氷柱は1年で最も寒さの厳しい1月中旬から2月下旬までご覧いただけます。
※氷柱は天候や気温などで条件が変わる場合がございますので、ご了承ください。

(「ぶらっとちちぶ―秩父観光協会」HPより)

     

      

この先、ダムサイトに向かう急カーブの上り坂が続きます。最後のひとふんばり。車から気の毒そうな視線が。

やっと下り坂になり、一気に秩父湖へ。

舗装道路でなければ深山の雰囲気が。

やっと今回のゴール地点が見えてきます。

「二瀬ダム」。

荒川は名前が示す通り古くから氾濫を繰り返す河川であった。1947年昭和22年)のカスリーン台風によって流域は更なる被害を受けた。建設省(現・国土交通省関東地方整備局)は荒川の治水を図るべく「荒川総合開発事業」に着手。この中でダムによる洪水調節を目論んだ。こうして計画されたのが二瀬ダムであり、1952年(昭和27年)より建設が開始され1961年(昭和36年)に完成した。

ダムの型式は重力式コンクリートダムアーチ式コンクリートダムの利点を兼ね備えた重力式アーチダムであり、ダムの高さは95mである。荒川沿岸の洪水調節、荒川沿岸の既得農地に対する慣行水利権分の農業用水補給を図る不特定利水、および埼玉県企業局による水力発電が目的の多目的ダム特定多目的ダム)である。

(この項「Wikipedia」より)

上流を望む。

「みやま商店」に入ってビールでのどを潤し(今回の旅で会話したのは、食堂の方とここのご主人と二人だけ)、1時間近く待って、西武秩父駅行きのバスに乗りました。

暑い一日でしたが、眼下に、しだいに渓谷に変わっていく荒川を眺めながらの歩きでした。

次回は、ここから「川又」まで往復することになりそうです。

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秩父鉄道三峰口駅~西武観光バス「秩父湖」。その3。三峰ロープウェイ。道の駅大滝温泉。(「荒川を遡る」第10日目。)

2021-08-04 21:45:34 | 荒川を遡る

大輪は、三峰神社参拝の拠点として賑わったところ。表参道の入口にあたり、三峰の門前町として栄えた。

左手には「一之鳥居」。また、参道へ通じる、荒川に架かる橋は朱塗りの「登竜橋」。

「三峰ロープウェイ」の発着場所でもあった。現在は、神社まで2時間あまりの道のりとなる「三峰山ハイキングコース」(表参道・裏参道)の起着点となっている。

注:「三峰ロープウェイ」=「大輪」駅と「三峰山頂」駅を結んでいた。1939年(昭和14年)開業、2007年(平成19年)廃止。現在、西武観光バスが三峯神社への路線バスの運行を開始し、現在平日6往復、土休日7往復運転している。

学生の頃、友人とここから三峰山山頂までロープウェイで行き、そこから雲取山まで歩いたことがあります。それ以来、登山が面白くなって、山登りを始めました。

「ぶらっとちちぶ―秩父観光協会―」HPより)

懐かしい映像を「youtube」から借用。1993年(平成5年)8月撮影。

     

               

「三峰まんじゅう本舗」。

先に進みます。

眼下に荒川の流れ。

右側には崖が迫る。

三峰山方向?

雲取山方向? 

対岸には「蕎麦カフェ神庭」。

      (「Googleマップ」より)当日は休業でした。

そろそろ昼飯タイム。

と、「道の駅大滝温泉」。

   

ここで、右手のお店「郷路館」で手打ちそばを食べ、小休止。美味しいお蕎麦でした。  

店内に国語学者の金田一晴彦さんの似顔絵とコメントが。「春風秋雨是人生」と。 

 

      道の駅大滝温泉にある歌碑。
 日本三大峠の一つとして「日本書紀」にも歌われた雁坂峠を金田一春彦文学博士が詠んだ歌を記したもの。
 

秩父往還   ぶなの木林
      石坂(ごうろ)登れば   雁坂峠
      甲斐の平野は   眼下に開け
      富士は大きく   正面に
           
    日本武尊も   岩根を伝い
      日には十日の   雁坂峠
      三峰詣での   信徒の群も
      繭を葛籠(つづら)の   女子衆も
           
    旅人泣かせの   八里の道も
      今は昔の   雁坂トンネル
      大滝の湯から   川浦の湯へ
      夢の通い路   小半時

「道の駅「大滝温泉」~金田一春彦の詩碑~

 

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秩父鉄道三峰口駅~西武観光バス「秩父湖」。その2。大血川橋。新旧秩父往還道。大輪。(「荒川を遡る」第10日目。)

2021-08-03 20:31:47 | 荒川を遡る

        トンネル脇に小道があり、景色を眺めながら、小休止。    

その先、眼下に大血川橋

荒川河口から141.1 kmの位置に架かる大達原地区と大血川地区を結ぶ橋。水面からの高さは20メートル

少し上流には「上石橋」があります。

大血川橋の500メートル上流に架かる「上石橋」は、荒川の右岸側に位置する大洞第一発電所や石灰の採石場への交通の便となっている橋で、直ぐ下流側で大血川が荒川に合流する地点があり、大血川橋よりも上石橋の方がより近くに位置している。また、下流側に密接して上石橋より高く、幅員がやや広い私設の仮設橋が架けられている。上石橋の橋長25メートルで、荒川の源流部の入川を除くと、荒川本流において、右岸側と左岸側を直接結ぶ橋としては最も長さが短い橋

(この項「Wikipedia」参照)

「奥秩父源流・中津川」観光案内。

だんだん山深く。

                 左手にチラッと見えるのが「上石橋」。 

石碑が三つ並ぶ。

近づいて見ましたが、詳細不明。

          

右手は断崖絶壁。分厚いコンクリートでしっかり固められているか、落石防止の頑丈なネットが張られています。

この付近。かつての旧道(「秩父往還道」)は、現在の荒川沿いの道路(「国道140号線」)ではなく、「強石」付近からもう少し高い、山道として等高線沿いにたどっていたようです。「今昔マップ」より。

→が旧道。○が「金蔵落しの渓流」の看板がある付近。「大血川」は、右下の流れ。

旧道にあったのが、「大達原手堀りの隧道」か?

        (「Googleマップ」)より)

眼下は荒川の清流。上流。

                 下流。

「若宮のモミジ」。

              

この付近には、モミジが並んでいます。

「大輪」地区に入って行きます。

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秩父鉄道三峰口駅~西武観光バス「秩父湖」。その1。強石。金蔵落としの渓流。大血川。(「荒川を遡る」第10日目。)

2021-08-02 21:41:35 | 荒川を遡る

                        秩父鉄道「三峰口」駅。

久々の「荒川を遡る」。

7月31日(土)。曇りのち晴れ。炎天下の歩き。時々、木陰が道路上まで伸びて。それでも、これほど蒸し暑いとは!

歩き出したトタンに汗が噴き出します。一面の豊かな緑が助けに。

秩父鉄道「三峰口駅」から「白川橋」を渡り、国道140号線(彩甲斐街道・秩父往還)へ。

車道沿いの道を。

「秩父多摩甲斐国立公園」碑。

「荒川」左岸沿いの道。左手に荒川の流れが。

せせらぎの音と蝉の声はしきりに、大きく聞こえますが、荒川の流れは所々で垣間見るのみ。

「馬頭尊」などの石仏群。

「強石(こわいし区」。

解説板。

秩父多摩甲斐国立公園及び大滝の玄関口である強石は大正時代に県道が開通した頃から物資が集まる交通の起点として大いににぎわいを見せた。馬車の発着点、木炭の問屋、銀行の支店、飲食店、菓子店、旅館などあらゆる種類のお店が軒を連ね、昭和40年代までにこのにぎわいは続いた。現在は、宿が一軒営業し、ほぼ生活の場となっている。強石は、巨大な岩石が多く、落石があり交通の難所出会ったために名づけられたといわれている。

右手の高台に住居が広がります。

荒川に架かる「万年橋」。

「荒川」。渓谷に。

右手から導水管。

右岸に小さな集落。

深い谷。

少しずつ上りに。振り返る。

    

右手にオーバーハングの巨岩。

右手の高台には「光の村養護学校秩父自然学園」。それを過ぎると一段と渓谷美に。

            

この付近が「金蔵落しの渓流」。

紅葉の時期にはさぞかし見事。

「金蔵落しの渓流」は「大血川渓谷」とも呼ばれます。

「大血川」という名前の由来については平将門伝説に因むもので、2つの説がある。 一つは承平天慶の乱により平将門が討死した際に、大陽寺に隠れ住んでいた平将門の妻、桔梗と従者99人が川の源流付近で集団で自害したという説で、また、平将門が討死した際に自害ではなく、救いを求めて大陽寺に逃げ込む際に途中の大日向で追っ手の源経基らの襲撃に会い、打ち首にされたという説もある。いずれにせよその流血で川が七日七晩染まったことから大血川と呼ばれるようになったというものである。桔梗と従者99人を祀った九十九神社が大血川の傍らに建立されている。また、桔梗たちの墓といわれている桔梗塚も大血川地区の集落に残されている

もう一つは自害ではなく、桔梗らは無事に大陽寺にたどり着き、そこで平和に暮らしたという説で、近傍にある川がまるで大蛇(おろち)のように見えたたことから「おろち川」と呼ばれ、そのおろち川が訛化して大血川となったというものである[11]。なお、大血川には大蛇に関わる畠山重忠の出生伝説があり大陽寺で寺の大師諏訪湖に棲む大蛇の化身である女性の間に生まれた嬰児不浄に思い、近くの大血川に流した伝承が残されている。川に流された嬰児は現在の深谷市畠山に流れ着き、そこで畠山庄司重能に拾われ、畠山重忠として育てられたと言われている

(この項、「Wikipedia」より)

一方、「金蔵落し」は、この地で遭難した人の名からとったようです。どちらも、物騒な伝説が残されています。

       (「ぶらっとちちぶ―秩父観光協会―」HPより)

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「落語鑑賞教室」その8。五街道雲助。

2021-08-01 18:52:13 | 落語の世界

                    五街道雲助。

                          

吉原の、お客を相手に世辞を旨く使いこなして男を骨抜きにしてしまうお話を枕に。

大金を無尽で手に入れた男。行きつけの女郎にこれで夫婦仲になろうと持ちかける。だまされたに違いないという叔父さんから一芝居を打つように仕向けられた源さん。

酒の席で人を殺してしまった、一緒に死んでくれ、と頼まれた、お玉。二人で大川(隅田川)にやってくるが、二人とも身投げをする気はさらさら無い。女は、男をせかせて飛び込むように差し向けるが、男もその気はまるでない。女は焦れて先に石を身代わりに投げ込む。

男は女が身投げしたと思って、続いて、大きな石を投げ込み、成仏してくれ! 

ところがお茶屋に男は羽織を女はかんざしを置いてきた。それを取りに戻って、二人は出くわす。

驚いた二人、「いやだね、さっき娑婆で会ったばかり」。

五街道雲助師匠。当代は六代目となっているが、明確な資料が残っておらず、名跡であることに変わり無いのだが代数がはっきりしていないため、当代の師匠である10代目金原亭馬生が六代目と付けた。

自身が珍しい名前を名乗っていることから、弟子には真打昇進と同時に珍しい名前を名乗らせている。

雲助師匠は1948年に墨田区本所の生まれ。1968年に十代目金原亭馬生に入門。1972年の二ツ目昇進で五街道雲助と改名、1981年に真打。古き良き江戸落語を今に伝える「通好みの本格派」。

「落語は江戸東京の感覚に根ざした地域芸能であるという一面を残しておきたい」という五街道雲助師匠。その武骨な演出・話風には「江戸の風」が吹いているようです。

なお、この出演後(5月上席)、新型コロナ感染症の陽性反応が出たため、その後は、休演しました。ワクチンを接種したあとの発症のようです。

 

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