おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

宇都宮宿~白沢宿~氏家宿。その3。(「奥州街道」をゆく。第1日目。)

2016-09-21 21:23:22 | 奥州街道
 (11:40)前方に「ここから白沢宿内」の案内表示が見えてきます。が大事なヒント。

                   
 横断歩道橋のある分岐点になりますが、左にカーブする道路の方が広く、車もそちらへ。ついその道を行ってしまう場合もありそう。正解は右に少しカーブしている道が白沢宿への道。

 (11:50)しばらく進むと、右手に四阿風の休憩施設。ここで、こちらも小休止。
「ここは江戸より30里」という説明。
 右奥の建物の周囲には「立ち入り禁止」のロープが張ってあります。いったい何があったのか?

大きな石塔「勝善神」。

 路傍に建てられている「馬頭観音」が馬の安全や健康を祈ったり、死んだ馬の冥福を祈ったりするものであるのに対して、
勝善神は、主として馬産地において名馬の誕生を祈願する意味の強い信仰であるようです。
 「勝善」や「ショウデン」も蒼前〔ソウゼン〕がなまったものといわれています。
 「日光道中」でも「宇都宮宿」を出た先に、大きな「勝善神」碑がありました。

長い下り坂になります。

 (12:14)ゆるやかな下り坂の途中、左手に「やげん坂」の解説板があります。

    
やげん坂
 この坂は、漢方の薬種をくだく舟形の器具(薬研やげん)に坂の形が大変似ているところから、「やげん坂」と呼ばれるようになったと言い伝えられています。
 また慶長14年(1609)白沢として町割ができる以前からここには海道の道しるべとして夫婦の大きな榎があった由緒あるところです。                       河内町

「やげん坂」を振り返って望む。

(12:15)前方に公衆トイレのような建物。

 近づいてみると、江戸時代の公衆便所でした。残念ながらトタン板で囲まれていて、様子はうかがえません。


その代わり、当時の絵が。

 なかなかユニークな紹介。この後も「白沢宿」に対する地元の熱意を感じさせるものがいくつも。 



 落ち着いた町並みが続きます。それぞれのおうちにはかつての屋号などが掲げられています。
    
        「碇屋」。                                「樋口屋」。    

 (12:20)「白沢宿」という交差点を左に折れると、「白沢宿」の中心部。側溝には豊かに水が流れ、水車も設置されるなど、情緒ある町並みが現れます。
    

「住吉屋」。
                     連子格子のある旅籠屋らしい雰囲気を残しています。。

「本陣・宇加地家」。

奥には江戸末期の本陣の建物が見えます。

 その前には、「白沢宿」解説板などが立っています。旧型の郵便ポストも。


    

白沢宿
 奥州街道(奥州道中)の18番目の宿駅(宿場町)。現在の栃木県宇都宮市の北東部、白沢町白沢宿。
 白沢宿(白澤宿)は、江戸時代に奥州街道(奥州道中)下野国河内郡にあった宿場町で、宇都宮宿の次の宿駅。江戸から丁度30里余に位置する。
 天保14年(1843年)の『奥州道中宿村大概帳』によれば、白沢宿は家数71軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠13軒、人口369人であった。
 白沢宿本陣は宇加地家、脇本陣は福田家が拝命していた。白沢宿の名物として鬼怒川の鮎と白沢の牛蒡(牛房:ごぼう)が知られていた。当時、稚児ヶ坂の中程に茶屋があり、四季を問わず牛房汁を出していたと言われている[1]。
 宇都宮宿から白沢街道(旧奥州道中)を歩くと稚児ヶ坂(ちごがさか、ちがさか)を登り切った宝木台地の北東端付近に白沢地蔵堂(しらさわじぞうどう)が、またこの宝木台地を下る薬研坂(やげんざか)を下りて左折した宿内には村社白髭神社(しらひげじんじゃ)が、また宿の北端には薬師堂(やくしどう)が建つ。坂上の白沢地蔵堂は鎌倉時代に源頼朝の命を受けて一族で奥州に下向した伊沢家景が旅中に病死した実子の亡骸を葬って祀ったのが起源、また、白髭神社は白髪神社とも書き白沢宿の名前の起源とも云われるが、不詳である。
 薬師堂は宇加地家墓所に併設する。奥州道中は薬師堂の辻口で右折し宿外に出て九郷半川および西鬼怒川(にしきぬがわ)を渡って白沢の一里塚(しらさわのいちりづか)に至る。この一里塚は江戸より30番目、30里に当たる塚で当時は鬼怒川の河原にあったが、度々の水害で破壊され痕跡が残っておらず、現在は白沢河原に白沢各自治会によって記念碑が建てられている。
 現在、白沢宿は東京から栃木県を経て東北地方を結ぶ国道4号のルートから外れており、白沢宿を通る旧奥州街道沿道には鬼怒川から取水された用水が両側を流れ、その用水には水車が設けられ、沿道の民家には屋号が掲げられているなど、江戸期の静かな風情を髣髴させる宿並みとなっている。
(以上、「Wikipedia」参照)

 上に出てくる「白沢の一里塚」記念碑は、道を間違えてしまい、行きそびれたので紹介します。



私たちの地域には「白澤の一里塚の碑」があります。
奥州街道白澤宿の会では、江戸時代に多くの人たちが利用した一里塚の歴史を構成に伝えるため、会員と地元白沢河原、白沢甲部、白沢南の各自会の皆さんの協力を得て、ここに白澤の一里塚の碑を建立しました。
 設置場所は、白沢河原自治会内、奥州街道、鬼怒川と西鬼怒川の間、関東バス白沢河原バス停に隣接しています。
 一里塚は旅人が目的地へ到達するまでの目標と、馬や駕籠の賃銭の支払いの目安に、江戸幕府によって慶長9年(1604年)に設置されました。
 江戸・日本橋を起点にして奥州街道はじめ五街道の両側に一里毎に設けられた塚は、一般に9メートル四方で、この上に榎が植えられました。
 これは、一里塚であることの目的と旅人の日除けの役割を果たしました。
 古文書には、白澤の一里塚は日本橋から30番目で、かつては鬼怒川の河原にあったため、たびたび洪水で壊れてしまったと記されています。
 近年、白澤七福神めぐりに県内外よりウォーキングを楽しむ方が増えています。
 皆さんも是非「白澤七福神めぐり」に合わせて、白沢の一里塚にお立ち寄りください。

                                       (地域情報紙かわち 第15号)

※右の「解説板」
ここは江戸より三十里

 江戸江    参拾里 四町 弐拾間
 宇都宮宿江  弐里弐拾八町

白澤宿 与利

 氏家宿江   壱里半
 喜連川宿江  参里 拾八町
 佐久山宿江  六里 拾弐町 参拾六間
 大田原宿江  八里 壱町  拾七間
 ・・・(中略)
 白河宿江   拾八里参拾四町 拾九間半 (69。6㎞)

 奥州道中白河宿より、宇都宮宿迄弐拾壱里余りを、膝栗毛によって踏破した記念にこの高札を掲げる。 

 平成参年(一九九一)拾壱月四日
   奥州街道白澤宿の会
   奥州街道膝栗毛の会

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