おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

葛飾北斎の描いた風景をたどる。+α。隅田川沿い。その1。

2017-09-22 21:47:38 | 世間世界
 自転車で本所吾妻橋まで出かけ、その帰り道、隅田川沿いの土手道・墨堤通りを走っていると、最近設置された解説板が目につきました。葛飾北斎の描いた風景。さらに他にも記念碑が。さすが北斎の地元・墨田。力の入れ方が違います。
 まだ陽も高いので、さっそく上流に向けて走ってみました。
「⑯大川橋の月 小梅の泊舩(船)」。


 隅田川の1年を描いた狂歌絵本『隅田川両岸一覧』は全3巻25作品で、隅田川両岸の様子を中心に高輪から吉原までを描いたものです。中巻に収められたこの作品は大川橋(現在の吾妻橋)のあたりが描かれており、現在の墨田区役所はこの絵の中では大川橋の真上にあたります。大川橋の左の小さな橋が北十間川に架かる枕橋です。画面の手前には御休處でくつろぐ人たち。タライを回して子どもたちと戯れる人、そして茶店に集う人々の活き活きとした様子が描かれています。また橋の上やたもとにはたくさんの人たちが往来し、当時の賑わいを知ることができます。

 ここから上流にかけて⑯~⑨。さらに総武線を挟んだ両国を中心に8ヶ所あるようです。
            

 その脇には新しい記念碑が。
 

隅田川ボート記念碑の除幕式を開催
オアズパーソン有志が総力をあげて取り組んできた「隅田川ボート記念碑」が 全国の大学ボート部OB会、東京のボート団体、二つの高校ボート部OB会、国土交通省下水道部、日本下水道協会、墨田区などの協力を得て このほど完成し、その除幕式が2016(平成28)年9月3日(土)に隅田川の墨堤で盛大に催されました(主催:ボート記念碑建設委員会)。
明治天皇海軍漕艇天覧記念碑の横に設置。

「明治天皇海軍漕艇展覧玉座趾」の碑。

                    
              
この記念碑は墨田区の協力(向島1~5丁目の地元町内会の同意もいただき)によって、明治天皇海軍漕艇天覧記念跡地の横に設置されました。 素材は御影石で、大きさは縦180cm×横110cm×厚さ20cm。表面には「漕」の文字、「隅田川とボートのつながり」、ボート記念碑建設委員会・半藤一利会長(作家、東京大OB)の碑文が、 裏面には1954(昭和29)年9月19日に墨田川に英国からケンブリッジ大学を招いて行われた「朝日招待レガッタ」の光景とこの記念碑建設に対する協賛団体名が刻まれています。
天候に恵まれた式典当日、関係者約200人が見守る中で 半藤会長、墨田区・山本亨区長、日本ボート協会・木村新理事長、国土交通省下水道事業課・加藤裕之課長、によって除幕されました。 除幕後、半藤会長からは記念碑の寄贈目録書が、山本区長からは感謝状が互いに手渡されました。
記念碑横のステンレス製歴史年表板。「夏目漱石も漕ぎ、福沢諭吉も漕ぎ、レガッタは『春のうららの隅田川』と瀧廉太郎の『花』にも歌われボートは隅田川の華であった」の書き出しで始まる。裏面には当時の艇庫の位置を示した墨堤(隅田川堤)の地図が記されている。
(以上の文章は、HPより引用。)

 ここに登場する「歴史探偵家」半藤さんは、大学時代、ボートに明け暮れていたとのこと。



                                     

「艇庫とレガッタ」。

さらに進みます。隅田公園の変遷など解説板が随所に設置されています。また、観光案内板、史跡解説なども充実しています。
「江戸時代の墨堤」

 

 「隅田公園」は、1923年に発生した関東大震災により壊滅的な被害を受けた東京の復興事業の一環として、浜町公園(中央区)、錦糸公園(墨田区)と並んで計画・整備されました。隅田川の東岸に位置する公園は元、水戸徳川家の屋敷跡で、邸内の池等、遺構を利用して造られています。
 また、約1キロに渡る隅田川両岸の桜並木は、八代将軍徳川吉宗の命により植えられました。江戸時代から花見シーズンには多くの出店が列び、賑わっていました。隅田公園内には約700本の桜があり、日本さくら名所100選に選定されていて、毎年さくらまつりが開催されます。

こういう解説板も。「鬼平情景」。
 みめぐりの土手
 「大川の隠居」に登場します。大川(隅田川)の土手のうち三囲神社の鳥居の貫から上が川面から見える辺りを指したようです。作品名になった大鯉が現れる直前の場面で、舟から暮色に沈む風景を描写しています。土手の奥には長命寺、寺嶋のくろぐろとした木立が望まれ、目を転ずると浅草寺の大屋根が月光をうけている。概ねこのような内容ですが、両岸の寺社の位置関係がよく分かります。
 竹屋の渡しで結ばれたこの流域からは鬼平犯科帳には三囲神社、対岸の待乳山聖天をはじめ料亭、船宿が多く登場します。「大川の隠居」では平蔵が友五郎を誘って、山谷堀の今戸橋近くの船宿〔嶋や〕に上がります。杯を交わしながら、平蔵が亡父遺愛の銀煙管に煙草を詰めるところで実に小気味のよい結末となります。
 ※対岸(台東区側)にある「竹屋の渡し」跡碑。

説明板。

「竹屋の渡し」跡付近からの「スカイツリー」。
竹屋の渡し
 「向島の渡し」とも称される。待乳山聖天のふもとにあったことから「待乳(まつち)の渡し」とも。「竹屋」の名は付近にあった茶屋の名に由来する。現在の言問橋のやや上流にあり、山谷堀から 向島・三囲(みめぐり)神社を結んでいた。付近は桜の名所であり、花見の時期にはたいへん賑わったという。文政年間(1818年 - )頃には運行されており、1933年(昭和8年)の言問橋架橋前後に廃された。

「⑮新板浮絵 三囲牛御前両社之図」。
北斎50歳頃の作品とされています。「牛御前」は現牛嶋神社。

桜橋。

下流を望む。

桜橋とポトマック帰りの桜。



                     
石造墨堤永代常夜燈
 石造墨堤永代常夜燈は、高さ5メートルを超え、琴柱状の脚が特徴的です。天辺の宝珠部分には牛嶋神社の社紋があり、基台上段には同神社の地位を表す「本所惣鎮守」の銘が彫刻されています。また、石組基壇には「永代常夜燈」の銘と「石工宮本平八」の名前を刻んだ石製プレートがはめ込まれています。
 東京府文書によれば、この常夜燈は、江戸近郊の名所の演出にあずかってきた牛嶋神社の氏子17名、具体的には植半や八百松、武蔵屋など有名料亭の主人たちの発意によって奉納されたようです。明治4年(1871)の牛嶋神社の臨時祭に併せて奉納されたもので、元来は墨堤から牛嶋神社旧地(弘福寺西隣)へ下りる坂の頂にありました。
 設置当時、この付近は夜になると真っ暗だったそうで、常夜燈の火が貴重な明かりとして利用されたことがうかがわれます。発起人17名の東京府へ提出した設置許可申請書にも、この付近を通行する人々の役にも立つはずだとの思いがしたためられています。
 この常夜燈は、設置以来、墨堤を代表する風物詩の一つとして絵画にも描かれるなどしてきました。平成28年7月21日、墨田区市営有形文化財に指定されました。

平成29年2月        墨田区教育委員会

              当時の常夜燈付近の様子と「竹屋の渡し」。

「⑭須佐之男命厄神退治之図」。
葛飾北斎晩年期の傑作といわれている。縦1.2㍍余、横2.8㍍に及ぶ大きな板絵です。
北斎は弘化2(1845)年頃、牛嶋神社(現在向島1丁目)付近に住んでいたと伝えられ、この板絵を奉納しました。・・・画面右下には「前北斎卍筆 齢八十七歳」の落款があります。残念ながら大正12(1923)年、関東大震災で消失してしまいましたが、現在は原寸大の復元パネルが牛嶋神社の社殿に飾られています。
                            
 

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