![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/7a/8d661f4c3b5701d056dc949f06586a08.jpg)
「市宿通り 昔の町屋」。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/d7/feb1db123e9beb2d640164cec060fafc.jpg)
「市宿通り観光案内図」。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/d3/be4f1f2623c3effe1608e012cbabce65.jpg)
こんなモニュメントも。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/f1/d7b46ddef42b7cbb92496cb1817c7de5.jpg)
ところどころにこんな建物も。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/97/eee116800646f57934d4684ef54661e0.jpg)
自販機も何だか「高札場」風のつくり。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/68/f0649751a3785d4e1a5d03f019513aa7.jpg)
(15:12)「日光御成道岩槻藩高札場」。
「高札場と市宿通り」。
江戸時代に幕府や岩槻藩が定めた犯罪手配・火災防止等を木札に書き高く掲げ庶民に知らせるために人の集まる道辻・船乗り場・宿場に設けられた広報板です。
田追えば生類憐み令・渡来銭通用禁止令・享保の改革の贅沢禁止令・キリシタン禁止令がありました。
市宿通りの新町横町辻にも高札場がありました。現在、日本橋品川河岸・木曾街道馬籠宿・妻籠宿・倉賀野・甲州街道府中などにあります。
市場通りは、徳川将軍が日光東照宮を社参した日光御成道で、六斎市(一と六の日)の発祥地として市が開かれ、当時は大変賑わいました。近くには八雲神社(市神様)が鎮座されています。
問屋場とは
旅人の荷物を次の宿場まで運ぶ場所で、通信業務(伝馬制)があるため馬役人を揃えた場所です。経費は、門口より地元で費用負担し不足の時は、補うための助郷制がありました。
市宿通り道路整備協議会 平成25年吉日
街並みも宿場・街道を意識した建物が目立ちます。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/0d/c1c74edcd68ffc7c580812b241db35bc.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/4e/396023bca7f2903223b8ac1a5343ceab.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/08/c14a18ba61ac21f699df62c5703a814f.jpg)
裏手には土蔵造りの建物も。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/6c/e25cd104d9e8665b21d8f5f5edf736ee.jpg)
「人形のまちいわつき」。
岩槻市の由来
岩槻市は埼玉県東部のほぼ中央に位置しており、元荒川と綾瀬川にはさまれた岩槻台地を中心に発展した街です。
当地には室町時代の終わり頃に扇谷上杉家の命に従い太田道灌等によって岩槻城が築かれてからは、その城下町として発展し、江戸時代には日光御成道のとしても栄え、武蔵国東部地域の経済の中心となりました。・・・
城下町のたたずまいを残す自然豊かな都市として発展しております。
当市の地場産業である岩槻人形は、江戸時代頃から起こり、現在その生産量は日本有数の位置を占め、「人形のまち いわつき」として全国にその名を知られています
注:岩槻市は、2005年(平成17年)4月1日にさいたま市に編入。現在は、全域、「さいたま市岩槻区」
「人形の町 岩槻」
・・・もともとこの付近は、上質の桐の生産地として有名。それに加えて胡粉の溶解と発色に適した水が豊富にあったことなどから江戸期以来、人形作りが盛んに行われてきました。
現在、岩槻には東玉を筆頭に500軒余の人形工房があり、名実ともに日本一の人形の町となっています。
次回に「岩槻宿」を見て回ることにして、東武線「岩槻駅」に向かいました。
(15:20)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/6e/bf6d3bccc72a3106c56e55bcfd842374.png)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/8d/89190ff2180e984935e4cff338b816d6.png)
現在のようす。左上が東武野田線・岩槻駅。 1880年代のようす。街道は斜めに進む道。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/f2/32377d2411607885aabe9bc6ab29d3a8.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/d7/feb1db123e9beb2d640164cec060fafc.jpg)
「市宿通り観光案内図」。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/d3/be4f1f2623c3effe1608e012cbabce65.jpg)
こんなモニュメントも。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/f1/d7b46ddef42b7cbb92496cb1817c7de5.jpg)
ところどころにこんな建物も。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/97/eee116800646f57934d4684ef54661e0.jpg)
自販機も何だか「高札場」風のつくり。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/68/f0649751a3785d4e1a5d03f019513aa7.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/7f/5c10cad078cfe90c12a23e75433451b3.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/62/a4182483958f9ccf0dcaab1ff8df232b.jpg)
江戸時代に幕府や岩槻藩が定めた犯罪手配・火災防止等を木札に書き高く掲げ庶民に知らせるために人の集まる道辻・船乗り場・宿場に設けられた広報板です。
田追えば生類憐み令・渡来銭通用禁止令・享保の改革の贅沢禁止令・キリシタン禁止令がありました。
市宿通りの新町横町辻にも高札場がありました。現在、日本橋品川河岸・木曾街道馬籠宿・妻籠宿・倉賀野・甲州街道府中などにあります。
市場通りは、徳川将軍が日光東照宮を社参した日光御成道で、六斎市(一と六の日)の発祥地として市が開かれ、当時は大変賑わいました。近くには八雲神社(市神様)が鎮座されています。
問屋場とは
旅人の荷物を次の宿場まで運ぶ場所で、通信業務(伝馬制)があるため馬役人を揃えた場所です。経費は、門口より地元で費用負担し不足の時は、補うための助郷制がありました。
市宿通り道路整備協議会 平成25年吉日
街並みも宿場・街道を意識した建物が目立ちます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/0d/c1c74edcd68ffc7c580812b241db35bc.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/4e/396023bca7f2903223b8ac1a5343ceab.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/08/c14a18ba61ac21f699df62c5703a814f.jpg)
裏手には土蔵造りの建物も。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/6c/e25cd104d9e8665b21d8f5f5edf736ee.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/bf/aa158d41a5634527662203ca1975a0fc.jpg)
岩槻市の由来
岩槻市は埼玉県東部のほぼ中央に位置しており、元荒川と綾瀬川にはさまれた岩槻台地を中心に発展した街です。
当地には室町時代の終わり頃に扇谷上杉家の命に従い太田道灌等によって岩槻城が築かれてからは、その城下町として発展し、江戸時代には日光御成道のとしても栄え、武蔵国東部地域の経済の中心となりました。・・・
城下町のたたずまいを残す自然豊かな都市として発展しております。
当市の地場産業である岩槻人形は、江戸時代頃から起こり、現在その生産量は日本有数の位置を占め、「人形のまち いわつき」として全国にその名を知られています
注:岩槻市は、2005年(平成17年)4月1日にさいたま市に編入。現在は、全域、「さいたま市岩槻区」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/6d/fd9b3589997627311b38e5d1d41044cf.jpg)
・・・もともとこの付近は、上質の桐の生産地として有名。それに加えて胡粉の溶解と発色に適した水が豊富にあったことなどから江戸期以来、人形作りが盛んに行われてきました。
現在、岩槻には東玉を筆頭に500軒余の人形工房があり、名実ともに日本一の人形の町となっています。
次回に「岩槻宿」を見て回ることにして、東武線「岩槻駅」に向かいました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/db/ac37b4d71116bb204a3025e131ee1bd3.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/df/cc9fe21f97b0282ee91d46ebe9bf9d45.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/6e/bf6d3bccc72a3106c56e55bcfd842374.png)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/ea/c9f22f7394bb119d24af08930d2a0317.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/8d/89190ff2180e984935e4cff338b816d6.png)
現在のようす。左上が東武野田線・岩槻駅。 1880年代のようす。街道は斜めに進む道。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます