おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

氏家宿~喜連川宿~佐久山宿~大田原宿。その1。(「奥州街道」をゆく。第2日目。)

2016-09-27 22:24:53 | 奥州街道
 うっとうしい雨ばかり、久々に晴れ間が広がった、9月25日(日)。「奥州街道」の2日目。
 事前の天気の予想は曇りのち雨でしたが、一日中、晴れ。しかし、実に蒸し暑い一日でした。
 8:40少し前にJR「氏家」駅に到着。そこから旧道まで戻って左折。

 その前に「氏家宿」の解説を。

氏家宿
 奥州街道(奥州道中)の19番目の宿駅(宿場町)。現在の栃木県さくら市氏家。
 氏家宿は、江戸時代に奥州街道(奥州道中)下野国塩谷郡にあった宿場町で、白沢宿の次の宿駅である。天保14年(1843年)の『奥州道中宿村大概帳』によれば、氏家宿は家数235軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35軒、人口879人であった。 氏家宿本陣は平石家、脇本陣は伝馬屋が担っていた。
 江戸時代、氏家宿南傍の鬼怒川東岸にあった阿久津河岸(あくつかし)は、主に東北地方で獲れた米ほか特産物を鬼怒川の水運を利用して江戸に送るための集積地となり、このため氏家宿の旅籠もたいへんな活況を呈したと云われている。氏家には会津西道、会津北道、原方道、水戸道が開通し、交通の要衝地となった。江戸の常盤津の歌人等も多く氏家に移住したといい、江戸末期には卯の花連(うのはなれん)と呼ばれる俳句会が生まれた。その歌集には、水戸道を通って10里ほどの太平洋沿岸村落から氏家宿に四季折々に海魚が大量に運び込まれ、鶏卵や川魚、塩辛等しか食せない山路にしては珍しく海魚を食すことが出来たことが書かれており、このような宿場は氏家宿以北、仙台や酒田に至るまで無かったと云われている。
 現在、氏家宿は栃木県さくら市にあり、市域には東京から栃木県を経て東北地方を結ぶ国道4号および鉄路JR宇都宮線(東北本線)が通るが、JR氏家駅が宿の西側に置かれ周辺の市街地化とともに宿並は廃れたものの、主要国道の経路が氏家市街地から反れている為、喧騒からは隔離された比較的静かな装いを呈している。

本陣  平石六右衛門
脇本陣 伝馬屋
旅籠 ほてい屋市兵衛
休所 うすいや秀八
旅籠 石井孫兵衛

                                  (以上、「Wikipedia」参照)

旧道沿いのおうち。

 「上町交差点」で「奥州街道」は右に折れていきます 。その先、沿道の左手には見応えのあるおうちが二軒並んでいます。手前が、「村上家」、その隣が「瀧澤家」のお屋敷です。(08:55)

    

 左の屋敷:桜野村の名主の家で、道に面した門は「分間延絵図」にも描かれた近世の門です。
 右の屋敷:明治の豪商。豪壮な長屋門のある「瀧澤家」。

 今日は休館日で鐡竹堂の外観しか見られず。
    

栃木県指定有形文化財建造物(平成10年1月16日指定)
           瀧澤家住宅(鐡竹堂・蔵屋敷・長屋門) 
 瀧澤家住宅は旧奥州街道に面して、伝統的な板塀を巡らし、堂々たる長屋門を開くなど、屋敷構えは今なお旧家の面影を留めている。
 瀧澤家は、明治になって紡績等の事業で財をなした旧家であり、明治期の当主であった瀧澤喜平治は貴族院議員などを歴任し、第四十一銀行の設立や那須野が原の開拓にも尽力した人物として知られる。指定の3棟は、明治25年(1892)10月23日に氏家町で陸軍大演習が行われた時、喜平治宅が明治天皇の休息所に充てられた際、新築あるいは増築されたものと考えられている。

○鐡竹堂(南北6.5間×東西7間)
 鐡竹堂は明治天皇の休息所として使用された建物で喜平治の雅号「鐡竹」にちなんで名付けられた。平屋建ての入母屋造りで北側の庭園に対して4室をL字型に並べ、東側正面に車寄せを張り出している。北西の6畳間が主室で、床、違い棚、付書院を完備し、金地の、襖絵素木の格天井とするなど、天皇の御座所にふさわしい造りとなっている。休息のために揃えた調度品とともに当時のままの姿で残されている。

○蔵座敷(桁行4.5間×梁間4間)
 蔵座敷は、総2階建、切妻瓦葺の伝統的な土蔵の屋根のほぼ中央に洋風の望楼を乗せた特徴のある建物である。望楼は方形造銅板平葺、四面に装飾的な上部半円状の扉を開き、周囲には洋風唐草模様の鉄柵を巡らしている。洋風望楼は、明治初期洋風建築の大きな特徴の一つであり、この地方においても、明治期の旧奥州街道沿いに同様な洋風望楼を乗せた建物が幾つか存在していたといわれるが、現存するのはこの建物だけである。
 この洋風望楼部分は明治20年の建造当初のものではないことが内部構造から判明しており、明治25年の行幸が増築のきっかけになった可能性が高い。

○長屋門(桁行8.5間×梁間2.5間)
 長屋門は、入母屋造、桟瓦葺で左右を小部屋とし、中央部を門とする典型的な長屋門形式である。門は内寄りに門柱を立てて両開きの扉を吊り、東側に通用門(潜門)を開く。正面1階には出窓形式の武者窓を背面2階に格子戸を設けている。
 地方に残る長屋門の中でも最大級のこの長屋門は建築年代を確定する資料は残されていないが、門の飾り金具にはすべて菊花が用いられていることや部材の腐食度から見て、鐡竹堂と同時期の建築と推定できる。

                                     栃木県教育委員会・さくら市教育委員会

奥に見えるのが「蔵座敷」。洋風の望楼がユニーク。

    
                            広い敷地が続く。

 (09:02)少し進んだ左側の田圃の脇に、十九夜塔や二十三夜塔等が4基あります。
         

その先、左側にも石仏が。

沿道には門構えの立派なお屋敷。

 (09:25)しばらく進むと、「桜野交差点」で「国道239号線」と合流します。田園地帯が広がります。
    

            実りの秋。

直線道路をひたすら歩く。

 (09:50)国道に合流して30分程進んだ「松山交差点」の手前右側のおうちの民家の門前に、一里塚の標柱と解説板があります。
    

奥州街道一里塚(史跡)
 近世になると江戸を中心にして諸街道が整備され、宿場や一里塚などが設けられた。一里塚は主要街道の一里ごとに目印として両側に塚を築き、榎や松などを植えた。奥州街道は日光街道と宇都宮で分岐して白河までを指し、これらの街道にも一里塚が設けられた。
 氏家地内には堂原地蔵堂南側と挟間田の二か所あったが、堂原一里塚は明治以降消滅した。挟間田の一里塚も北側は破壊され、南側に一基が現存するだけになった。
 延宝6年(1678)の宿並絵図によると、この地点は、奥州街道の北側は下松山村、南側は狭間田新田村で、一里塚は両村の宿並中央部に一基ずつ明記されている。江戸日本橋を起点として32里目にあたる一里塚である。
 奥州街道の一里塚は現存例が少なく、氏家地内唯一の一里塚として確認できるものである。

                           氏家町教育委員会

注:「氏家町」は喜連川町と合併して「さくら市」になっています。

庭の盛り土の上に祠があります。

そこから来た道を振り返って望む。

「松山」交差点角にある建物? 

金魚池。

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