おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

水戸偕楽園。3分咲きの。その1。(「水戸街道」をゆく。第6日目。)

2017-02-15 18:49:39 | 水戸街道

食事をして、駅北口からバスに乗り、「偕楽園」東門まで。

 着いたときにはもう2時近くなっていましたが、見物客がたくさん。
 東京を出るとき、以前来たことがある方に聞くと、けっこう風が吹いて寒かった、と。梅はすばらしいけど、「千波湖」から吹き上げてくる風と寒さで参った、とか。
 しかし、今日は真冬とは思えない、穏やかな陽射しで、午後になっても寒さを感じずに散策。ただ、まだ2分か3分咲きなのが惜しかった!

                「偕楽園の歩き方」

                 (HPより)

偕楽園(かいらくえん)
 国の史跡及び名勝に指定されており(指定名称は「常磐公園」)、隣接する千波湖周辺の拡張部を含めた「偕楽園公園」は、都市公園としてニューヨークのセントラルパークに次ぎ世界第2位の面積を持つ。また伝統的に、岡山市の後楽園や金沢市の兼六園と並んで日本三名園の一つに数えられてきた。
 偕楽園には、拡張部を含めない本園部分だけで100種3000本のウメ(梅)が植えられている[13]。園内には梅の異名「好文木」に由来する別荘好文亭があるが、晋の武帝が学問に親しむと花が開き、学問をやめると花が開かなかったという故事に基づいている。弘道館は偕楽園と一対の施設であり、同じく梅の名所である。
 水戸藩第9代藩主徳川斉昭(烈公)は、1833年(天保4年)藩内一巡後、水戸の千波湖に臨む七面山を切り開き、回遊式庭園とする構想を持った。同じく彼の設立した藩校弘道館で文武を学ぶ藩士の余暇休養の場へ供すると同時に、領民と偕(とも)に楽しむ場にしたいと、この巨大な大名庭園は斉昭自らにより「偕楽園」と名づけられた。偕楽とは中国古典である『孟子』の「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」という一節から援用したもので、斉昭の揮毫『偕楽園記』では「是れ余が衆と楽しみを同じくするの意なり」と述べられている。水戸学へ帰着する斉昭の愛民精神によりこの庭園は、江戸時代当初から毎月「三」と「八」が付く日には領民にも開放されていた。伝統を受け継ぎ、いまなお偕楽園は日本三名園のうちで唯一、入園無料である(ただし、前述の好文亭を利用する場合は有料)。
 偕楽園では毎年2月下旬から3月下旬に、水戸の梅まつりが開催される。水戸の梅まつりは、2016年時点で120回開催された。開催期間中には多数の観光客で賑わい、キャンドルライトを使って梅をライトアップする夜梅祭や茶会など、種々様々な催し物が行われる。また園内で4月には水戸の桜まつり、5月には水戸のつつじまつり、9月には水戸の萩まつりが行われる。偕楽園公園を含め8月には水戸黄門まつりが行われる。関連の観光大使として茨城県水戸市により水戸の梅大使が毎年選出されている。
 また、毎年6月第2土・日に梅の実を偕楽園公園センターで頒布する。ただし、平成28年は不作だったため、6月11日土曜日のみの頒布となる予定。なお、頒布価格は平成26年は300円/1.5kg・袋(1人2袋まで)、平成27年は300円/1.5kg・袋(1人3袋まで)、平成28年は200円/1kg・袋(1人1袋のみ)

 表門から好文亭までは孟宗竹や杉の林の中を通る道が通じている。
偕楽園の正式な入り口である旧来の表門は、敷地の北西側に位置しており、この表門は黒塗りであることから黒門とも呼ばれている。表門から園内に入り、一の木戸と呼ばれる門を潜ると、偕楽園の西半分を構成するモウソウチク(孟宗竹)やスギ(杉)の鬱蒼した林の中を進む道が続いている。この道に沿って東へと進み、幾つかの門を経由して好文亭へと至ると風景が一転し、千波湖を一望する高台に位置する、明るく華やかな一面の梅林へと到着する。
 好文亭付近には、偕楽園創設の趣旨を記した石碑『偕楽園記の碑』があり、自然界の陰と陽の調和についての説明がある。偕楽園は西半分に位置する杉や竹の林が陰の世界を、北東の梅林が陽の世界を表すことで、園全体で陰陽の世界を体現しているともいわれ、表門から入ってこそ園の設計に沿った、偕楽園本来の魅力を堪能することができるのだと解釈する説もある。
 現代においては、表門は偕楽園駅や主要な駐車場から遠く離れており、この門から入園する観光客は少ない。現在は梅林へと直接通じる東門が主要な出入り口として利用されている。
                                     (以上、「Wikipedia」参照)



(梅の写真はHPより)

 シーズン前の今の時期、自家用車やタクシーで来ると着やすいが、バスは意外と便が少ないようです。会社によっても停留所が異なるようです。
 今回は、バス停の関係で「東門」から表門へ散策することに。同じように、上の案内図(本来の作庭意図に近い)とは異なって、「陽」から「陰」へと一巡して戻る人も多そう。


                     「千波湖」を望む。

仙奕台(せんえきだい)
 千波湖をはじめ周囲の景観が一望できるこの突き出た台地を仙奕台と称します。
 「奕」は囲碁を意味し、四方を眺め湖上から吹き上げる涼風を受けながら碁や将棋などを楽しんだところです。
 石でできた碁盤や将棋盤、琴石、卓石は当時のものです。

    
                                           石でできた将棋盤。

やっと咲き始めた気配。見事なほどたくさんの梅の木。

 遙か目の下、見渡す限り広大な敷地。下までは降りていくには時間がなさそう。


「偕楽園記碑」。


偕樂園記
天有日月地有山川曲成萬物而不遺禽獸艸木各保其性命者以一陰
一陽成其道一寒一暑得其宜也譬諸弓馬焉弓有一張一弛而恒勁馬
有一馳一息而恒健弓無一弛則必撓馬無一息則必殪是自然之勢也
夫人者萬物之靈而其所以或爲君子或爲小人者何也在其心之存與
不存焉耳語曰性相近習相遠習於善則爲君子習於不善則爲小人今
以善者言之擴充四端以脩其德優游六藝以勤其業是其習則相遠者
也然而其氣禀或不能齊是以屈伸緩急相待而全其性命者與夫萬物
何以異哉故存心脩德養其與萬物異者所以率其性而安形怡神養其
與萬物同者所以保其命也二者皆中其節可謂善養故曰苟得其養無
物不長苟失其養無物不消是亦自然之勢也然則人亦不可無弛息也
固矣嗚呼孔子之與曾點孟軻之稱夏諺良有以也果從此道則其弛息
而安形怡神將何時而可邪必其吟詠華晨飲醼月夕者學文之餘也放
鷹田野驅獸山谷者講武之暇也余嘗就吾藩跋渉山川周視原野直城
西有闓豁之地西望筑峯南臨僊湖凡城南之勝景皆集一瞬之間遠巒
遙峰尺寸千里攢翠疊白四瞻如一而山以發育動植水以馴擾飛潛洵
可謂知仁一趣之樂郊也於是藝梅樹數千株以表魁春之地又作二亭
曰好文曰一遊非啻以供他日茇憩之所蓋亦欲使國中之人有所優游
存養焉國中之人苟體吾心夙夜非懈既能脩其德又能勤其業時有餘
暇也乃親戚相携朋友相伴悠然逍遙于二亭之間或倡酬詩歌或弄撫
管弦或展紙揮毫或坐石點茶或傾瓢樽於華前或投竹竿於湖上唯從
意之所適而弛張乃得其宜矣是余與衆同樂之意也因命之曰偕樂園
天保十年歳次己亥夏五月建 景山撰并書及題額

(碑陰)

 禁條
凡遊園亭者不許先
卯而入後亥而去  
男女之別宜正不許
雜沓以亂威儀
沈醉謔暴及俗樂亦
宜禁
園中不許折梅枝采
梅實
園中不許無病者乘

漁獵有禁不許踰制


偕楽園記 書き下し文

天に日月有り、地に山川有り、万物を曲成して遺(のこ)さず。禽獣草木、各々其の性命を保つ者は、一陰一陽其の道を成し、一寒一暑其の宜しきを得(う)るを以てなり。諸(これ)を弓馬に譬ふ。弓に一張一弛(いっちょういっし)有りて恒(つね)に勁(つよ)く、馬に一馳一息(いっちいっそく)有りて恒に健(すこや)かなり。弓に一弛無ければ則ち必ず撓(たわ)み、馬に一息無ければ則ち必ず殪(たお)る。是れ自然の勢ひなり。夫(そ)れ人は万物の霊にして、其の或いは君子と為(な)り、或いは小人と為る所以(ゆえん)の者は何ぞや。其の心の存すると存せざるとに在るのみ。語に曰く、「性相(あい)近く、習ひ相遠し」と。善に習へば則ち君子と為り、不善に習へば則ち小人と為る。今善なる者を以て之(これ)を言はば、四端を拡充して以て其の徳を修め、六芸(りくげい)に優游して以て其の業に勤(つと)む。是れ其の習ひは則ち相遠き者なり。然(しか)り而(しこう)して其の気稟(きひん)或いは斉(ひと)しきこと能はず。是(ここ)を以て屈伸緩急相待ちて其の性命を全うする者は、夫(か)の万物と何を以て異ならんや。故に心を存して徳を修め、其の万物と異なる者を養ふは、其の性に率(したが)ふ所以にして、形を安んじ神を怡(よろこ)ばしめ、其の万物と同じき者を養ふは、其の命を保つ所以なり。二者皆其の節に中(あた)るを、善く養ふと謂ふべし。故に曰く、「苟(いやし)くも其の養を得ば、物として長ぜざるはなく、苟くも其の養を失はば、物として消せざるはなし」と。是れも亦自然の勢ひなり。然れば則ち人も亦弛息(しそく)なかるべからざるや固(もと)よりなり。嗚呼(ああ)、孔子の曾点に与(くみ)し、孟軻(もうか)の夏諺(かげん)を称する、良(まこと)に以(ゆえ)あるなり。果たして此の道に従(よ)れば、則ち其の弛息して形を安んじ神を怡(よろこ)ばしむること、将(はた)何(いず)れの時にして可ならんや。必ず其の華晨(かしん)に吟詠し、月夕に飲醼(いんえん)する者は、文を学ぶの余なり。鷹を田野(でんや)に放ち、獣を山谷に駆る者は、武を講ずるの暇(いとま)なり。余嘗て吾が藩に就き、山川を跋渉(ばっしょう)し、原野を周視するに、城西に直(あた)りて闓豁(かいかつ)の地有り。西は筑峯を望み、南は僊湖に臨む。凡(およ)そ城南の勝景、皆一瞬の間(かん)に集まる。遠巒遙峰(えんらんようほう)、尺寸千里(せきすんせんり)、翠(みどり)を攅(あつ)め白を畳み、四瞻(しせん)一(いつ)の如し。而(しこう)して山は以て動植を発育し、水は以て飛潜を馴擾(じゅんじょう)す。洵(まこと)に知仁一趣の楽郊と謂ふべきなり。是(ここ)に於て梅樹数千株を芸(う)ゑ、以て魁春(かいしゅん)の地を表す。又二亭を作り、好文と曰ひ、一遊と曰ふ。啻(ただ)に以て他日 茇憩(ばっけい)の所に供するのみに非(あら)ず。蓋(けだ)し亦国中の人をして、優游存養する所有らしめんと欲す。国中の人、苟(いやし)くも吾が心を体し、夙夜(しゅくや)懈(おこた)らず、既に能く其の徳を修め、又能く其の業を勤め、時に余暇有るや、乃ち親戚相携へ、朋友相伴ひ、悠然として二亭の間に逍遙し、或いは詩歌を倡酬(しょうしゅう)し、或いは管弦を弄撫(ろうぶ)し、或いは紙を展(の)べて毫(ふで)を揮(ふる)ひ、或いは石に坐して茶を点じ、或いは瓢樽(ひょうそん)を華前に傾け、或いは竹竿を湖上に投じ、唯(ただ)意の適する所に従ひて弛張せば、乃ち其の宜しきを得ん。是れ余が衆と楽しみを同じくするの意なり。因りて之に命じて偕楽園と曰ふ。
天保十年、歳(とし)己亥に次(やど)る夏五月、建つ。 景山撰并(なら)びに書及び題額。

禁条
凡そ園亭に遊ぶ者、卯に先だちて入(い)り、亥(い)に後れて去るを許さず。
男女の別、宜しく正すべし。雑沓以て威儀を乱すを許さず。
沈酔謔暴及び俗楽も亦宜しく禁ずべし。
園中、梅枝を折り梅実を采(と)るを許さず。
園中、病無き者の轎(かご)に乗るを許さず。  
漁猟禁有り、制を踰(こ)ゆるを許さず。

(「小さな資料室」www.geocities.jp/sybrma/69kairakuenki.html」HPより借用しました)

 偕楽園の名前の由来や創設した理、利用の心得などが、斉昭の直筆で記されています。
 碑には、斉昭の宇宙観や人生観、藩主としての姿勢、偕楽園が弘道館と一対の施設として構想されていたことが記されています。
 また、この公園は自分ひとりのものではなく、領内の人々が学問や武芸を学んだあとで余暇を利用して休息し、心身を養うところであることを明らかにしています。
 偕楽園の名前は、「多くの人々と楽しみをともにしたいとの思いから名付けられました。
 碑の裏には斉昭の定めた園内での禁止事項(六条)が刻まれていますが、その内容は今日の公園管理の先駆けをなすものといえます。


                           

紅梅や白梅が咲きそろえば、さぞかし見事。
    

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