おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

氏家宿~喜連川宿~佐久山宿~大田原宿。その3。(「奥州街道」をゆく。第2日目。)

2016-09-30 21:44:25 | 奥州街道

いよいよ喜連川宿(城下町)に入って行きます。

 「喜連川」は、古くは「狐川」と称していました。そういう関係でしょうか? 「きつねの嫁入り」というイベントのポスターが随所に。
                

 (「フィオーレ喜連川」HPより)


 「狐の嫁入り」は、お天気雨のことを指しているのかとばかり思いましたが、それだけではなくて、・・・

 夜間の山野に怪火(狐火)が連なって見えるものを「狐の嫁入り」と呼ぶ。
 昭和中期頃までは、結婚式においては結婚先に嫁いでゆく嫁が夕刻に提灯行列で迎えられるのが普通であり、連なる怪火の様子が松明を連ねた婚礼行列の様子に似ているため、またはキツネが婚礼のために灯す提灯と見なされたためにこう呼ばれたものと考えられている。遠くから見ると灯りが見えるが、近づくと見えなくなってしまい、あたかもキツネに化かされたようなため、などの説がある。徳島県では、こうした怪火を嫁入りではなくキツネの葬式とし、死者の出る予兆としている。
 これらの怪火の正体については、実際の灯を誤って見たか、異常屈折の光を錯覚したものとも考えられている。また戦前「虫送り」といって、農作物を病害から守るため、田植えの後に松明を灯して田の畦道を歩き回る行事があり、虫送りの灯を見誤ったとする可能性も示唆されていている。

 天気雨のことを「狐の嫁入り」と呼ぶ。
 天気雨をこう呼ぶのは、晴れていても雨が降るという嘘のような状態を、何かに化かされているような感覚を感じて呼んだものと考えられており、かつてキツネには妖怪のような不思議な力があるといわれていたことから、キツネの仕業と見なして「狐の嫁入り」と呼んだともいう。ほかにも、山のふもとは晴れていても山の上ばかり雨が降る天気雨が多いことから、山の上を行くキツネの行列を人目につかせないようにするため、キツネが雨を降らせると考えられたとも、日照りに雨がふるという異様さを呼んだともいう。

                                         (以上、「Wikipedia」参照。ただし、要約)

 なるほど! 興味深い話がありました。今年は10月23日(日)だとか。さて、どれくらいの新郎新婦の方々が応募してくるのでしょうか? こちらの方がもっと興味深い。

「案内図」。県道沿いの静かな街並み。

(11:11)街道から左折して路地を行くと「武家屋敷跡」にある「御用堀」。
                         

                              落ち着いたたたずまいのおうちが並んでいます。
     

「解説板」。

御用堀
 本町の河川を概観すると県北部山岳地域と関東平野の接点にあるため一般に奥が浅く流れも急でしかも水量に乏しい。この御用堀は水源を県北部高原山系に発し塩谷町、氏家町を流れて町内早乙女、小入、野辺山に至るこの辺の荒川から分流する用水を運ぶ御用堀である。璉光院下及び辻畑等の水田23、5ヘクタールに灌ぎ、その上150余戸の用水となる農耕に欠することのできない水、各戸の日常生活、防火用水とも言われ、その昔、沿岸の人達は米を研ぎ、歯を磨き、顔を洗った清流であった。今は昔の物語である。時代の流れとともに河川は汚れ、昔日の面影さらになく、昔の人々の郷愁をさそう御用堀である。今も河は静かに流れる。

                                 昭和60年度喜連川商工会むらおこし事業

現在は清流が戻り、鯉がたくさん泳いでいます。

観光案内所。大正モダンな建物。

 右手、「かぶらぎ時計店」(隣の店は閉店?)の建物は往時の旅籠屋「山田屋徳平」だった家。横から見ると往時のようす。



 (11:18)左手奥に見えるのが再現された「喜連川城大手門」。門の奥の高台には「スカイタワー」。
    

 「大手門」からすぐ先、右側に「街の駅本陣」の看板が出ている所がかつての喜連川本陣跡。現在は大正時代の警察署を「カフェレストラン 蔵ヶ崎」として利用しています。ここにも水が湧き出ていて、飲むことができます。
    

街の駅「本陣」について
 喜連川宿は奥州街道十宿の内①白沢宿②氏家宿に次ぐ第三の宿で、本陣・脇本陣・旅籠茶屋が軒を連ね、喜連川足利氏〔格式十万石実高壱万石〕の城下町も兼ね殷賑(いんしん)を極めた。
 本陣とは、参勤交代の大名や公用の幕府の役人が定宿とした高級旅籠で問屋を兼ねる所が多かった。当宿には、奥羽・越後・下野の三十七大名が三月から六月にかけて投宿している。
 当宿の本陣は、江戸中期には郡司十左衛門、斎藤仁右衛門等が経営したが、後期には当街の駅所在地で上野太郎平が経営に当った。
 明治になり本陣跡には警察署、郵便局、銀行が開設された。当「街の駅」舎は大正15年に建築された喜連川警察署の建物で、大正期の警察庁舎で現存するものは全国に数か所しかないという貴重な建造物である。

「観光案内図」。

 ここで「喜連川宿」について

喜連川宿(きつれがわじゅく)
 奥州街道(奥州道中)の20番目の宿駅(宿場町)。現在の栃木県さくら市喜連川。
 江戸時代、喜連川城の城下に奥州街道(奥州道中)氏家宿の次の宿駅として整備された宿場町で、下野国塩谷郡にあった。1843年(天保14年)の『奥州道中宿村大概帳』によれば、喜連川宿は家数290軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠19軒、人口1,198人であった。
 氏家宿本陣は上野家、脇本陣は永井家が担っていた。
 氏家宿から北に向かうと一里塚を通り弥五郎坂(やごろうざか)を下る。弥五郎坂はかつて早乙女坂(さおとめざか)ないし五月女坂(そうとめざか)と呼ばれていたが、戦国時代にこの坂で宇都宮氏当主宇都宮尚綱が那須氏家臣の鮎瀬弥五郎の矢を受けて戦死、のち鮎瀬弥五郎が尚綱を供養して五輪塔を建立したことから、弥五郎坂と呼ばれるようになったという。この五輪塔は今弥五郎殿(やごろうでん)と呼ばれ、弥五郎坂の頂上部に建っている。
 弥五郎坂を下ると道祖神、羽黒社を過ぎ、下妻道(しもつまのみち)との追分を左折すると喜連川宿に入る。宿内には龍光寺、薬師堂、喜連川神社、専念寺などの寺社が建ち、また宿内道側に一里塚があった。宿の北端の奥州道中筋は鉤状となっており、これが宿の内外を分けていた。
                                                                  (以上、「Wikipedia」参照。)

人通りも少なく、車もほとんど通らない閑寂な街並み。

「紙屋」という和菓子屋さん。

左手のおうちからJAZZの調べと子ども達の歓声。「はやき風」というカフェ? 何やら大人と子どもでそれぞれ作品を製作中です。
                       

 「ささや」という呉服屋さん。裏手に蔵がある古そうなお店。
    

 (11:33)「たかしお薬局」の先、「台町交差点」の手前を右に下りる細道を行きます。この道が「旧奥州街道」となります。宿場出入口特有の「鈎の手」になっています。

「宿内」を振り返って望む。左が「たかしお薬局」。

「台町交差点」。その手前の細い道を右折。

 (11:38)下った突き当りを左折して「内川」の土手に出て、「金竜橋」を渡って行きます。


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