おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

房総東往還・伊南房州道往還。総集編。第4日目。外房線「茂原駅」~「上総一ノ宮駅」。

2024-02-23 19:51:23 | 房総東往還

茂原駅。右にモニュメント。

11月18日(土)曇り時々晴れ。強風。

往還歩きの途中、長生村を通過します。

長生村のマンホール。中央に村章「ち」を図案化した規格型。

長生村のマンホールには、九十九里浜の荒波と鶴、亀を デザインした汚水管マンホール蓋があるようですが、見つけられませんでした。

(「」より)実にめでたい絵柄です。

長生村と一宮町との境界。         

「いちのみやはし」。

上流方向。

下流(海側)。

              「一宮川」。河口は「長正村」。

街中に入ります。

 一宮町は平安時代頃に成立した上総国一之宮・玉前神社を中心に発展してきました。古くから多くの信仰を集めた玉前神社は、一宮町の町名の由来でもあり、今でも一宮町のシンボル的存在です。

※玉前神社の祭神は玉依姫命。神武天皇の母で、すぐ東に広がっている太平洋からこの地に上陸したという伝説も伝わっている。

※上総一ノ宮では、「一ノ宮海岸」・「芥川龍之介愛の碑」などを散策しました。

「上総一ノ宮駅」東口。

駅東口からの海岸への直線道路を進みます。

実は、この道路がかつての風船爆弾基地への引込線でした。

↓。

                                       (「今昔マップ」より)

            

■「奇妙な気球が空に消えた」

昭和19年12月、よく晴れた寒い朝だった。教師だった長谷川英美さん(89)=一宮町=は通勤途中、上総一ノ宮駅に近い七島踏切で奇妙な気球を目撃した。

 海岸の松林の上空。クラゲのような形の気球がふわっと浮かんでいる。風に吹かれ、横になり、斜めになってよろよろと上昇していく。やがて気球は直立。満球となってぐんぐん高度を上げ、空に消えていった。

 気球の正体は、日本軍が開発した秘密兵器「風船爆弾」だった。

 当時の長谷川さんは知る由もない。しかし、予兆はあった。戦局が悪化した19年、大勢の鉄道部隊の兵士らが一宮町に現れた。上総一ノ宮駅から約2キロ東の海岸に向けて引き込み線を建設した。また、放球台や兵舎など打ち上げ基地も整備された。

 「なんのためにレールを敷いているのか、住民には秘密だった。基地が完成した頃には、列車の窓の鎧(よろい)戸が閉じられ、海側を見ることは禁じられた。私は基地に近寄ったことはありません。憲兵に捕まりますよ」と回想する。

奇想天外の兵器、風船爆弾は、陸軍登戸(のぼりと)研究所(川崎市)が主力となって開発した。同研究所は謀略・秘密兵器専門の機関だった。風船爆弾は「ふ号兵器」と秘匿名称で呼ばれた。

 構想は壮大だ。風船爆弾を冬季に吹く偏西風に乗せ、太平洋を横断。米国本土に落下させる作戦だった。一宮海岸で試作品の飛行実験が行われた。実験と改良を繰り返し、実戦に投入できる見通しが立った。

 ◆「米国まで飛ばしているのではと推測した」

 風船爆弾の気球は巨大だ。直径約10メートル。和紙とコンニャク糊で造った。多くの人手が必要で全国の女学生らが動員された。気球に爆弾と焼夷(しょうい)弾を装着。水素ガスを充填(じゅうてん)して打ち上げる。偏西風が吹く上空は酷寒の世界だ。気球が収縮して落下する恐れがある。精密な高度維持装置も考案された。約1万発が製造されたという。

打ち上げ基地は太平洋に面した一宮町と茨城県北茨城市、福島県いわき市の3カ所に建設された。19年11月から翌年春まで計約9300発が断続的に放球されたという。

 「一宮町の基地で爆発事故が起きたことがある。そのとき私は、気球に爆弾を付けて米国まで飛ばしているのではと推測した。偏西風の存在は、旧制中学の授業で習ったので知っていましたよ」と長谷川さんは語る。

 米軍は風船爆弾の出現に驚いた。太平洋上で発見すると、戦闘機で撃墜した。それでも多くの風船爆弾が、警戒網を突破して米国本土に到達した。各地で山火事が発生した。電線が切断され、停電も起きた。オレゴン州では子供ら6人が死亡している。

 一宮町の風船爆弾基地は20年春、作戦を終えた。部隊の主力はひそかに去った。

 70年後の現状を長谷川さんが案内してくれた。上総一ノ宮駅に向かう。

 「戦後、引き込み線は解体されました。今では駅の一番線のレールに面影を残すだけです」

(「千葉から語り継ぐ戦後70年 風船爆弾基地(一宮町)長谷川英美さん」産経新聞015/8/10 より)
 
〇付近。風船爆弾打ち上げ 基地跡。
 
風船弾(ふうせんばくだん)

「風船爆弾」は戦後の用語で、終戦間際に陸軍登戸研究所神奈川県)へ配属された元職員は、「ふ号」「風船」は防諜のための符号であって当時の呼称は「気球爆弾」であり、「風船爆弾」は戦後のマスコミによる造語と述べているが、名古屋陸軍造兵廠学徒勤労動員された女学生は「今日から君たちは風船爆弾を作ることになる」と訓示されたと回想している

日本陸軍日本海軍が開発し、陸軍が特殊兵器として実戦投入した。日本海軍の風船爆弾は「八号兵器」と呼称し、潜水艦に搭載してアメリカ大陸沿岸部まで進出し、放球する方式を想定していた。

材質は製の和紙が使われ、接着剤には気密性が高く粘度が強いコンニャク糊が使用された。このためコンニャク芋が軍需品となったため食卓から姿を消した。楮の繊維が縦方向の大判に対し、小判の繊維を横方向にし網目状に組み合わせ、和紙を5層にしてコンニャク糊で貼り合わせ、乾燥させた後に、風船の表面に苛性ソーダ液(水酸化ナトリウムを塗ってコンニャク糊を強化し、直径10mほどの和紙製の風船を作成した。

気球を調査したアメリカ軍は、それが紙製であることはすぐに突きとめたものの、紙を張り合わせている接着剤が何であるかを特定することはできなかった。気球内には水素ガスを充填した。大佛次郎は1944年10月17日の日記に「新聞を読むと、ヘチマコンニャクが航空機の基地で入用で供出を求めている。防諜用だとのこと」と記している

埼玉県比企郡小川町では1933年(昭和8年)頃、小川和紙から風船爆弾用の気球紙が開発された。昭和19年以降は高知市をはじめ日本国内の他の地域でも気球紙は製造されるようになったが、開発段階で小川和紙が選ばれた理由は、楮の繊維が長く強靭であり、東京に近く、以前から軍需紙を漉いてきた歴史があることなどが挙げられている。その後は生産量の増加命令に伴い、各地方でもふ号兵器用の気球紙が製造されるにあたり、小川和紙の手法が全国の和紙産地に伝えられた。当時、紙漉き作業に携わった人々には爆弾に使用されるとは知らされてはいなかった

気球一基に対し和紙は約600枚必要であった。気球紙のサイズは2種類あり大判は635分×2尺2寸(約193×67cm)、小判は2尺2寸四方(約67×67cm)だった。昭和19年には軍の命令により楮の皮剥作業や紙漉きに対しても昼夜休むことなく作業するよう警察の監督のもとに作業が続けられた。

(この項、「Wikipedia」参照)

かつての線路跡の道路の両側には、のどかな田園地帯が広がります。

          

線路跡の直線道路から離れ、「一宮川」方向へ進みます。

丘の上から海岸を望む。

広場には、

「芥川龍之介愛の碑」。

芥川龍之介の愛のはじまりは彼が東大在学中二十三才の頃であった。

当時彼は吉田弥生という女性に初恋し 激しい相愛の仲になったものの 養家(彼の母の実家)芥川家が士族 吉田家が平氏であるとの理由だけで許されざる恋となった。

彼の親友堀内利器はそれを見かね 堀内の故郷一宮に誘い 大正三年七月中旬からこの地に滞在した。

しかし 彼女への恋情はいよいよ深くなり 止宿先で綴った悲恋の歌の一つに

     美しき人妻あらむ かくてああ

        わが世かなしく なりまさるらむ

もう美しき彼女は自分のものにはなり得ないという 一宮時代からはじまる悲恋の苦悩こそは 人間の醜いエゴイズムを古典の世界をかりて表現したユニークな芥川文学を誕生させた。

大正五年二月出世作「鼻」が恩師夏目漱石に賞賛を受け華やかに文壇にデビューし 失恋の痛手も癒えて 再び思い出の地一宮に 久米正雄と二人で訪れ 一宮館の離れ家(現在芥川荘として保存)に止宿した 大正五年八月十七日から九月二日まで

その時第二の恋人塚本文子宛に「文ちゃん」ではじまる有名な求婚の手紙が身を結び 新しい芥川人生が出発した。

当時 夏目漱石宛に太陽と海と空と砂丘の大自然を背景とした一宮海岸に青春を投げ出している楽しい様子を また晩年にも「微笑」「海のほとり」と題してこの一宮の思い出を書いている。

今日 青春芥川龍之介のロマンスを記念し 郷土の鉄道作家故上田廣氏の発想どおり「芥川龍之介愛の碑」とした。

また新たなる感慨を禁じ得ない。

隣は、この碑を建てることに尽力した上田氏の碑。

「黄塵碑」。

ここには、かつて「国民宿舎 一宮荘」の跡地。

芥川関連の建物、碑へ。「一宮館」本館の裏手にあります。

「芥川荘」は、明治末期から昭和初期にかけて避暑地として開発された一宮町の海岸地区に建つ宿・一宮館の離れで、芥川龍之介が滞在していたことからこう呼ばれている。平屋建、寄棟造、茅葺で、主室、次の間2室の3方に縁を回らせ、縁の一端に洗面所が付く。当地方の伝統的な民家建築の技法になり、周囲の松林に溶け込んで避暑地らしい情景をつくり出している。

(「解説板」より)

一宮の海岸地区は、明治時代から鉄道が通り海水浴場が整備されたことから、明治末期から昭和初期頃まで「東の大磯」と称され、名士の別荘が100軒近く建ち並ぶ避暑地として栄えた。

 芥川荘は、海岸地区の一宮川河口に位置する旅館・一宮館の離れで、大正3年(1914)と大正5年(1916)に芥川龍之介がこの離れに滞在したことから、この名がつけられた。芥川は滞在中にこの離れから、後に妻となる塚本文に長い求婚の手紙を送り、一宮での思い出を「微笑」「海のほとり」「玄鶴山房」「蜃気楼」などの作品に登場させている。

 建物は、明治30年(1897)の建築。茅葺寄棟造の木造平屋建で、主屋と次の間2室の3方に縁側を回らし、縁側の一端には洗面所を設けており、当地方の伝統的な民家建築技法で建てられ、周囲の松林の閑静な雰囲気と相まって良好な景観となっている。

(この項、「千葉県教育委員会」HPより)

                

         

 

      

 

      

「芥川龍之介文学碑」。

文学碑を建立して      一宮館 金沢 良一郎

 九十九里浜の南端に位置するここ上総一の宮は、かつては別荘が立ち並び、東の大磯と言われたところです。
 芥川龍之介先生は、友人久米正雄氏と大正五年八月十七日から九月二日まで、当一宮館の離れで一夏を過されました。滞在中は夏目漱石師にボヘミアンライフぶりを紹介したり、のちの夫人文さんに愛をうちあけた長い求婚の手紙をお書きになっています。
 この稀にみる偉大な作家の人生の舞台の一つとして、当一宮館が選ばれましたことは、幾多の偶然が重なったとはいえ、たいへん誇らしいことと思っています。先生は当館滞在時代の思い出を「微笑」や「海のほとり」その他の作品に綴られていますが、近年、文学散歩で当館においでになるお客様が、年ごとに増えております。
 龍之介先生のご滞在以来、その離れを“芥川荘”と名づけて、大切に守って参りましたが、先生ゆかりのこの地に記念碑を建てることは、私どもの長い間の夢でした。
 本年は、先生の生誕数えで百年、また恋文を書かれてから七十五年を閲みしました。当館では、このことを記念して、このたび芥川瑠璃子さんはじめ芥川家の皆様方の快いご了解をいただき、また関係の皆様方のご賛同と、身にあまるお力添えを賜りまして、“芥川荘”を包む松林の碑と一隅に、恋文全文を刻した文学碑を建立する運びとなりました。
 私どもはこれを機会に、この偉大な作家の更なる理解と、文学の啓蒙につとめて参りたいと、意を新たにいたしております。どうか末永くご支援くださいますよう、お願い申しあげます。

  

             

大正五年八月廿五日朝 一の宮町海岸一宮館にて

文ちゃん。

僕は、まだこの海岸で、本を読んだり原稿を書いたりして暮らしてゐます。何時頃 うちへかへるか それはまだ はっきりわかりません。が、うちへ帰ってからは 文ちゃんに かう云う手紙を書く機会がなくなると思ひますから奮発して 一つ長いのを書きます

ひるまは 仕事をしたり泳いだりしてゐるので、忘れてゐますが 夕方や夜は 東京がこひしくなります。さうして 早く又 あのあかりの多い にぎやかな通りを歩きたいと思ひます。しかし、東京がこひしくなると云ふのは、東京の町がこひしくなるばかりではありません。

東京にゐる人もこひしくなるのです。さう云う時に 僕は時々 文ちゃんの事を思ひ出します。文ちゃんを貰ひたいと云ふ事を、僕が兄さんに話してから 何年になるでう。(こんな事を 文ちゃんにあげる手紙に書いていいものかどうか知りません)

貰ひたい理由は たった一つあるきりです。さうして その理由は僕は 文ちゃんが好きだと云ふ事です。勿論昔から好きでした。今でも 好きです。その外に何も理由はありません。

僕は 世間の人のやうに結婚と云ふ事と いろいろな生活上の便宜と云ふ事とを一つにして考へる事の出来ない人間です。ですから これだけの理由で 兄さんに 文ちゃんを頂けるなら頂きたいと云ひました。さうして それは頂くと も頂かないとも 文ちゃんの考へ一つで きまらなければならないと云ひました。

僕は 今でも 兄さんに話した時の通りな心もちでゐます。世間では 僕の考へ方を 何と笑つてもかまひません。世間の人間は いい加減な見合ひと いい加減な身元しらべとで 造作なく結婚してゐます。僕には それが出来ません。その出来ない点で 世間より僕の方が 余程高等だとうぬぼれてゐます。

兎に角 僕が文ちゃんを貰ふか貰はないかと云ふ事は全く文ちゃん次第で きまる事なのです。僕から云へば 勿論 承知して頂きたいのには違ひありません。しかし 一分一厘でも 文ちゃんの考へを 無理に 脅かすやうな事があっては文ちゃん自身にも 文ちゃんのお母さまやお兄さんにも 僕がすまない事になります。ですから 文ちゃんは 完く自由に 自分でどっちともきめなければいけません。万一 後悔するやうな事があっては 大へんです。

僕のやってゐる商売は 今の日本で 一番金にならない商売です。その上 僕自身も 碌に金はありません。ですから生活の程度から云へば 何時までたっても知れたものです。それから 僕は からだも あたまもあまり上等に出来上がってゐません。(あたまの方は それでも まだ少しは自信があります。)うちには 父、母、叔母と、としよりが三人ゐます。それでよければ来て下さい。

僕には 文ちゃん自身の口から かざり気のない返事を聞きたいと思ってゐます。繰返して書きますが、理由は一つしかありません。僕は文ちゃんが好きです。それでよければ来て下さい。

この手紙は 人に見せても見せなくても 文ちゃんの自由です。

一の宮は もう秋らしくなりました。木槿の葉がしぼみかかったり 弘法麦の穂がこげ茶色になったりしてゐるのを見ると 心細い気がします。僕がここにゐる間に 書く暇と書く気とがあったら もう一度手紙を書いて下さい。「暇と気とがあったら」です。書かなくってもかまひません。が 書いて頂ければ 尚 うれしいだらうと思ひます。

これでやめます 皆さまによろしく

                  芥川龍之介

碑の後ろには、松林が広がっています。

「小高倉之助歌碑」。

地元の農民歌人。桑の形をした歌碑で、碑は斜めになっています。平成3年12月建立。

              

再び「一宮川」沿いを歩いて「上総一ノ宮駅」に向かいます。           


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