おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

房総東往還・伊南房州道往還。総集編。第3日目。外房線「大網駅」~「茂原駅」。

2024-02-22 20:09:20 | 房総東往還

外房線「大網駅」。

11月3日(祝)。晴れ。まだまだ暑い夏日が続く一日でした。

この道を歩くことに。

左右に田園風景が広がります。

外房線が遠くに。               

右手に旧道があります。

        「水準点」。

国土地理院が管理する水準点は、一等水準点、二等水準点などがあり、全国の主要国道等に沿って約2キロメートル毎に設置しており、各地点の高さを測るための基準として利用されています。 

※「水準点」が全国の主要国道等に設置されている、ということは、この道が当時の主要道路ということに。

本納(宿)へ向かいます。

街道筋らしい町並み。            

曲尺手(かねんて)」が見えてきます。      

※曲尺手は、直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、大名行列同士が、道中かち合わないようにする役割も持っていた。宿場の出入口には必ず設けられた。「桝形(ますがた)」ともいう。

振り返る。

 看板建築。

看板建築とは,主に東京や関東周辺で関東大震災後に商店などに用いられた建築様式である。具体的には,木造2階建ての店舗兼住宅で,建物の前面を垂直に立ちあげ,モルタルや銅板,タイルなどで洋風のデザイン装飾を施した建物をいう。その装飾の多くは,正式なギリシャ古典様式を踏襲したものではないが,むしろその違いこそが地方の看板建築の特徴といえる。無名の職人たちが,西洋の様式や意匠をもとに,在来の技術や技能によって新たに創り上げた,日本独自の庶民の建築様式である。

                  

「公立長生病院」。

この先で、「国道128号」に合流します。

  

               大きな幹線道路で車も多い。 

国道の西側の低山の麓に民家が並び、東は広く開け、田園地帯が広がっています。沿道には、自動車販売などの大型店が連なっています。

左折し、外房線をくぐります。

「大多喜天然ガス」マンホール。

                  大多喜ガス㈱の前身、「大多喜天然ガス」のマンホール蓋。

千葉県は国内で天然ガスが産出する数少ない地域です。

葉県の天然ガスを葉県で費(千産千消)しているため、輸送時のコストや二酸化炭素排出量を抑えることができるので、安定した価格で、かつ環境にやさしく、みなさまのご家庭にガスをお届けすることができます。

(この項、「」HPより)

千葉県の天然ガスは、明治時代の中頃から利用されるほど歴史が古く、現在では純国産の天然ガスの中でも全国第2位の生産量を誇っています。

「新茂原駅」に向かう途中に「掩体壕」が残っているので、探してみます。

農家の一角に。          

                  森の中に隠れるようにあります。

掩体壕(えんたいごう)は、防御設備である掩体の1種で、軍用機などの装備・物資や人員を、敵の攻撃から守るためにコンクリートなどで造った横穴状の施設。欧米ではHAS(Hardened Aircraft Shelter)と呼ばれる

                                       (「Wikipedia」より)

 

「新茂原駅」。

駅前。現在はこぢんまりとしている。

左手に「阿久川遊水池」。

     沢井製薬 関東工場。

この建物の南側一帯に「茂原海軍航空基地」がありました。現在は、「三井化学」の広大な工場等になっています。

この先、歩く道筋の両側はかつての基地の跡になります。

この付近の今昔。「三井化学」の敷地がかつての海軍基地の中心。東西にかなり広がっています。

 ○が茂原海軍航空基地。西側に司令部などの官舎が並ぶ。南北の線路が基地への引込み線。(「今昔マップ」より)

※「司令部跡」は現萩原小学校、「兵舎跡」は現茂原中学校、「滑走路跡」は三井化学(株)東側の約1,000mの道路。

茂原海軍航空基地

1941年(昭和16年)07月に建設決定し、同年09月に着工。東郷地区の約150戸と東郷小学校及び寺社等が強制移転。(旧東郷小学校跡記念碑がある)
1942年12月に「第五五二航空隊」が茂原に開隊。しかし翌年昭和18年にマーシャルに進出し、茂原に戻ることなくテニアンにて解隊。
1943年9月に佐伯空艦爆隊を主体とする「第五〇二航空隊」が茂原海軍航空基地の管理部隊となる(現駐は松島基地)。同隊は1944年2月に北海道に転進し、1944年10月に解隊。
1943年10月に夜戦部隊を主体とする「第三二一航空隊 (鵄)」が茂原に開隊。1944年2月にマーシャルに進出し、7月に解隊。
1943年11月に第三〇一航空隊 (艦戦)が、茂原基地を原駐として横須賀基地で開隊。1944年7月に硫黄島にて解隊。
1942年に館山で開隊した第二五二航空隊 (元山航空隊戦闘機部隊を主体) はマーシャルで壊滅状態となり、1944年2月に館山基地にて再建。本部は館山基地に置かれ、1944年(昭和19年)8月以降、茂原基地に転進している。
「二五二空」は本土防空の迎撃に従事。1945年(昭和20年)5月28日、米軍が茂原飛行場を強襲。「二五二空」は郡山飛行場に退避。そのまま終戦を迎えた。

戦後の1955年(昭和30年)3月18日、茂原海軍航空基地が自衛隊の基地になろうとしたとき、茂原市議会は満場一致で基地に反対する決議し、跡地の大部分は工業地帯と学校用地、農地、住宅地となった。

(この項、「近代史跡・戦跡紀行~慰霊巡拝 戦跡紀行ネット -日本の近代と慰霊の地を巡る‐ https://senseki-kikou.net/」HPより拝借)

右からの道を合わせ、「茂原駅」方向へ。

茂原市のマンホール。

             市の木ツツジの花、三輪をデザイン。

振り返る。長生高校。

外房線のガードを抜けます。

「高師」交差点。

この付近で「茂原街道」(浜野~茂原)と合流する?

※新茂原駅近くにかつてあった「新茂原貨物駅」。後日、その跡地を訪ねました。

以下は番外編。 

外房線・本納駅方向。右に貨物駅・駅舎跡。

草むらから覗くと、

          プラットホーム上部。地面は、コンクリートで覆われています。

        

北側から望む。

すっかりさび付いた線路。

              

構内信号機。  

     

北側の踏切に行ってみます。

本線からの引き込み線。

本納駅方向。

   

         貨物駅へ。

道路上の線路。 

帰りの車窓から。

右手に見えてきます。

           

本線からの分岐線。


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