百島百話 メルヘンと禅 百会倶楽部 百々物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

桃から百記。

2023年02月12日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)

地元の新聞コラムで、ちょっと気になる記事を見つけた。

1336年(延元元年)旧暦10月11日(新暦11月22日)、鎌倉幕府を倒した後の南北朝時代。

南北朝時代、瀬戸内海芸備諸島の覇権は、伊予の河野水軍にあった。

足利尊氏と対立した新田義貞が、再起を期して京都から越前へと、その道中の木ノ芽峠(現在の福井県敦賀市から南越前町の北陸トンネルの頭上)での悲劇。

雪の木ノ芽峠は、難所。

11月22日ならば、通常まだまだ雪は降らないが、その年は風雪が強かったらしい。

新田義貞に付いていた伊予の国(愛媛県)の300人もの騎兵が、木ノ芽峠で雪の為、凍死したと、太平記巻17に記載されているとの事。

おそらく、伊予の河野水軍の騎兵だと想像出来る。

雪の犠牲になった中に、百島を含めた近隣界隈の者がいたかもしれない。

今から700年ほど昔の悲劇だか、雪に関して全く知識がない瀬戸内海の人間が、いきなり襲ってきた寒冷の雪中行軍は、地獄のように辛かっただろう。

合掌

その木ノ芽峠から、日本海側越前海岸に降りると、河野村(現在、南越前町)がある。

ルーツとなる先祖は、伊予の河野水軍という事で、河野という地名を残したという謂れがある。

それから、約100年後、南北朝から室町時代へと、河野水軍から派生した村上水軍が歴史上に登場する。

1441年には、嘉吉の乱が起こる。

赤松一党、播磨よりも西へと、桃島にも逃げ落ちる。

折り返し同時期、海の伊予の国から、海の無い近江の京極氏のもとに守備傭兵がやって来て、「百々」と名乗る。

この時に、桃島から百島へと地名を変えたのではないかと、憶測する。

その名付け親が、百々一族との傭兵ネットワークを目論見、企てたのかもしれない。

時が流れ流れて、江戸時代には、越前河野村界隈の舟乗りが北海道から瀬戸内海まで活躍、北前船の登場となる。

越前海岸の方言は、瀬戸内海沿岸と似たちょっと懐かしい響きがある。



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