6/17
【須磨】の巻 その(11)
源氏は一人目を覚まして、秋風のひどく荒れますのが、波が枕元に寄せて来るばかりに思われ、侘びしさに琴を少し掻き鳴らしてごらんになると、われながらに音のさえて凄い様に聞えますので、さらにお弾きになって
「恋ひわびてなく音にまがふ浦波は思ひかたより風や吹くらむ」
――浦波の音が、恋いわびて泣く自分の声に似ているのは、恋しいもののいる方から風がふくからでしょうか――
人々が目を覚まして、結構に感ずるにつけても、堪えかねて、あちこちでひっそりと鼻をかんでいます。
源氏は
「げにいかに思ふらむ、わが身ひとつにより、親兄弟かた時たち離れ難く、ほどにつけつつ思ふらむ家を別れて、かく惑ひあへる、と思すに、いみじくて……」
――ここに居る者たちはどう思うであろう、私一人のために親兄弟と片時も離れがたいであろう家から別れてきて、こうして流離っていると思うとひどく気の毒に思われます。(自分が萎れていては、もっと心細いであろうと、昼はなにかと冗談など仰っては気を紛らわし、暇にまかせては、いろいろの色の紙を継ぎ継ぎして、漢詩や和歌など書いて手習いをなさったり、さまざまな絵をお描きになったり、海や山を今はじかにお目にふれますので、何事も見事になさっておいでです)――
前栽の花が色とりどりに咲き乱れて、風情ある夕暮れに、源氏は海の見える廊にお出になって、佇んでいらっしゃるお姿の空恐ろしい程美しくお見えになること、場所が場所だけにこの世のものとも思われません。
源氏は
「白き綾のなよよかなる、紫苑色などたてまつりて、こまやかなる御直衣、帯しどけなくうち乱れ給へる御さまにて『釈迦牟尼佛弟子(さかむにぶつでし)』と名のりて、ゆるるかによみ給へる、また世に知らず聞ゆ」
――白い綾の柔らかな下着に、紫苑色の指貫など召され、色の濃い御直衣に、帯をゆるやかに、くつろいだご様子で「釈迦牟尼佛弟子」と名乗ってゆるやかに読経されますのも、また世になく尊く聞えます――
沖の方からは舟の謡いざわめき漕ぎ行くのが、また雁の鳴く声とをお聞きになっては涙をおはらいになる源氏の御手が、黒檀の数珠に映えてみえるなやましげなご様子に、ふるさとの女たちを恋しく思う者たちの心を慰め安らげてくださるのでした。
◆綾織(あやおり)
織面に経糸・緯糸により綾目が斜めに連なって現れる織物。経糸・緯糸、それぞれ三本以上の組織(三本の場合は「三枚綾」)がつくられるので平織に比べて緻密に厚くでき、風合いが柔らかく光沢に富む。ただ「綾」と言えば無地、「文綾」と言えば有文の綾地を指すこともある。
◆写真 紫苑色 下左
ではまた。
【須磨】の巻 その(11)
源氏は一人目を覚まして、秋風のひどく荒れますのが、波が枕元に寄せて来るばかりに思われ、侘びしさに琴を少し掻き鳴らしてごらんになると、われながらに音のさえて凄い様に聞えますので、さらにお弾きになって
「恋ひわびてなく音にまがふ浦波は思ひかたより風や吹くらむ」
――浦波の音が、恋いわびて泣く自分の声に似ているのは、恋しいもののいる方から風がふくからでしょうか――
人々が目を覚まして、結構に感ずるにつけても、堪えかねて、あちこちでひっそりと鼻をかんでいます。
源氏は
「げにいかに思ふらむ、わが身ひとつにより、親兄弟かた時たち離れ難く、ほどにつけつつ思ふらむ家を別れて、かく惑ひあへる、と思すに、いみじくて……」
――ここに居る者たちはどう思うであろう、私一人のために親兄弟と片時も離れがたいであろう家から別れてきて、こうして流離っていると思うとひどく気の毒に思われます。(自分が萎れていては、もっと心細いであろうと、昼はなにかと冗談など仰っては気を紛らわし、暇にまかせては、いろいろの色の紙を継ぎ継ぎして、漢詩や和歌など書いて手習いをなさったり、さまざまな絵をお描きになったり、海や山を今はじかにお目にふれますので、何事も見事になさっておいでです)――
前栽の花が色とりどりに咲き乱れて、風情ある夕暮れに、源氏は海の見える廊にお出になって、佇んでいらっしゃるお姿の空恐ろしい程美しくお見えになること、場所が場所だけにこの世のものとも思われません。
源氏は
「白き綾のなよよかなる、紫苑色などたてまつりて、こまやかなる御直衣、帯しどけなくうち乱れ給へる御さまにて『釈迦牟尼佛弟子(さかむにぶつでし)』と名のりて、ゆるるかによみ給へる、また世に知らず聞ゆ」
――白い綾の柔らかな下着に、紫苑色の指貫など召され、色の濃い御直衣に、帯をゆるやかに、くつろいだご様子で「釈迦牟尼佛弟子」と名乗ってゆるやかに読経されますのも、また世になく尊く聞えます――
沖の方からは舟の謡いざわめき漕ぎ行くのが、また雁の鳴く声とをお聞きになっては涙をおはらいになる源氏の御手が、黒檀の数珠に映えてみえるなやましげなご様子に、ふるさとの女たちを恋しく思う者たちの心を慰め安らげてくださるのでした。
◆綾織(あやおり)
織面に経糸・緯糸により綾目が斜めに連なって現れる織物。経糸・緯糸、それぞれ三本以上の組織(三本の場合は「三枚綾」)がつくられるので平織に比べて緻密に厚くでき、風合いが柔らかく光沢に富む。ただ「綾」と言えば無地、「文綾」と言えば有文の綾地を指すこともある。
◆写真 紫苑色 下左
ではまた。