永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(89)

2008年06月25日 | Weblog
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【明石(あかし)】の巻  その(1)

源氏    27歳3月~28歳8月
藤壺    32歳~33歳
紫の上   19歳~20歳
六條御息所 34歳~35歳
明石の上  18歳~19歳

 なおも風雨は止まず、雷も鳴りやまず数日になります。
源氏は、このような不吉なことの数知れなく続くことに、心細く思われますが、

「かかりとて都に帰らむことも、まだ世にゆるされもなくては、人わらはれなる事こそまさらめ、……」
――そうかといって、天候が不安だといって都に逃げ帰る事も、まだ勅許もない以上、余計もの笑いの種となりましょう。(いっそもっと、山奥に隠れてしまおうか、いや波風の騒ぎくらいで…などと後世までひどく軽率の評判をとってしまうだろう)――

と、御心は乱れ、悩まれます。まして御夢にも、はじめの異形のものが付きまとって離れないのでした。

 二條院から、びしょぬれのみすぼらしい姿で使いの者が参って、紫の上の御文といって、差し出されましたのには、
紫の上から、おそろしいほどに降り続く雨に、空までもかぶさったような気がしまして、須磨の方をやるかたなく眺めております。

おうたは、「うら風やいかに吹くらむ思ひやる袖うちぬらし波間なきころ」
――須磨の浦の風はどんなに吹いているでしょう。お察しするさえ袖をぬらして、涙の波の絶え間ないこの頃です――

そのほか、たくさんの悲しいことが書き集められております。

使者は
「京にもこの風雨、いとあやしき物のさとしなりとて、仁王会(にんおうえ)など行はるべしとなむ聞え侍りし。内裏に参り給ふ上達部なども、すべて道とぢて、まつりごとも絶えてなむ侍る」
――都でもこの風雨を、大層不思議な何かの前兆では、と、仁王会を行うべしとのことをお聞きしています。上達部方も一切往来を断って、天下のまつりごとも絶えているようでございます――

と、もじもじとして語りますのを、源氏はもっと近くに呼び寄せてお聞きになるには、
「とにかく雨が降り続き、風が吹き荒れて数日続きますのは、聞いたこともありませんのに、地の底を通るほどの雹(ひょう)が降り、雷の鳴り止まないことはございませんでした」

 源氏もみなも、心細い気持ちが勝ったのでした。

 こうしているうちに世が滅亡してしまうのか、と、思われますのに、またさらに翌日の明け方から大風が吹き、海面は高く満ちて波の音が荒々しく寄せて、山も岩もさらって行きそうなものすごさに、雷の閃光が絶え間なくして、轟き、今にも落雷しそうで、みな生きた心地もしません。
供人たちは、いったい何の罪があってこんな目にあうのだろう、父母にも妻子にも逢えず死ぬのだろうか、と嘆いております。

◆仁王会=国家の祈願のため、毎年3月と7月に吉日を選んで、大極殿か紫宸殿・清涼殿などで、仁王護国般若経を講ぜしめられる行事。
今回のように臨時にも行われることがあった。

ではまた。


源氏物語を読んできて(女房の日常 双六の遊び方)

2008年06月25日 | Weblog
女房の日常 双六の遊び方
 
 当時の双六は、現在の双六遊びとは別種のもので、中央部を空けて12に区分された盤を挟んで2人が相対して、筒に入れた2つの賽を振って出た目に応じて黒白各15個の駒を進め、どちらが先に自分の駒すべてを相手の陣地に入れるかを競う遊びでした。

 双六は囲碁に比べると格下の遊びと見なされていたようです。

◆写真 風俗博物館より

源氏物語を読んできて(陰陽道と物忌)

2008年06月25日 | Weblog
 陰陽道と物忌(おんみょうどう、と、ものいみ)

起源

 中国起源の陰陽五行の思想に基づいて、平安時代に盛んに行われた方術。伝来は6世紀頃。やがて占いに重きを置くようになる。たとえば、方角の犯しによる災いを避けるためや、暦の凶日、悪夢や穢れに触れたときなどに、一定期間身を清めて家に籠る行為。平安中期には隆盛を極め、さまざまな禁忌は貴族達の生活に大きな影響を及ぼした。

 物忌の日は、邸の門を閉ざして外出を控え、来客も断る。
必要な外来者は前日の夜前に邸内に入れ、その日一日は共に邸に籠る。ただし、軽い物忌のときは門を細めに開け、縄を懸ける場合もあった。

 帝の物忌の場合は、帝は清涼殿を出ず、殿上人は宮中に宿直するか、逆に忌が明けるまで参内できないことになっていた。(雨夜の品定めの例)
物忌のときは、手紙のやり取りもしない。

◆写真 物忌みの日、普段なら巻き上がっている筈の御簾が全部下がっています。
    そして御簾のあちこちには「物忌」と書かれた札が刺してあります。
    風俗博物館より