永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(180)

2017年03月30日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (180) 2017.3.30

天延二年(このあたり暦日が前後している)であれば、
兼家  四十六歳
作者  三十八歳
道綱  二十歳


「『忍びたるかたに、いざ』と誘う人もあり、『なにかは』とてものしたれば、人おほう詣でたり。誰と知るべきにもあらなくに、われひとり苦しう、かたはらいたし。払へなどいふところに、垂氷いふかたなうしたり。をかしうもあるかなと見つつ帰るに、大人なるものの、童装束して、髪をかしげにて行くあり。見れば、ありつる氷を単衣の袖に包み持たりて食ひゆく。」

◆◆「人目につかぬところへご一緒に」と誘う人があって、「では参りましょう」といって出かけますと、大勢の人が参詣しています。私を誰と知る人がいるはずもないけれど、自分ひとりが苦しく気恥ずかしい思いがしました。払所に、氷柱(つらら)が、言いようのないほど見事に垂れ下がっています。それをすばらしいなあと眺めて帰る途中に、大人でありながら、子供の装束をして、髪をきれいに整えて行く者がいます。見ると、さっきのつららを単衣の袖に包み持って食べながら歩いて行きます。◆◆



「ゆゑあるものにやあらんと思ふほどに、わがもろともなる人、ものを言ひかけたれば、氷くくみたる声にて、『丸をのたまふか』と言ふを聞くにぞ、なほものなりけりと思ひぬる。頭ついて、『これ食はぬる人は思ふことならざるは』といふ。『まがまがしう、さ言ふものの袖ぞ濡らすめる』とひとりごちて、又思ふやう、
<わが袖の氷ははるもしらなくに心とけても人の行くかな>

◆◆どこか由緒ある身分の人かと思っていると、一緒の人がものを言いかけると、氷をほおばった声で、「私に仰せでございますか」と言う。それを聞くと、取り立てて言うほどの者でなさそうな下賎の者だなあと思われました。頭を地面につけてかしこまり、「これを食べない人は、願いごとがかなわないのですよ」という。私は心の中で「縁起でもない、そう言う自分が袖を濡らしている様子だこと」とつぶやいて、それからまたこんな歌を、
(道綱母の歌)「私の袖で凍った涙は春の来たことを知らず、少しも溶けないのに、人々は何の物思いもないように参詣していることよ」



【解説】 蜻蛉日記 下巻  上村悦子著から

 (前略)寺社(どこか不明)へ参詣したところかなりの人ごみでにぎわっていた。こうした壷装束(境内は徒歩であろう)微行の参詣ゆえ、誰も自分を大納言兼右大将兼家公の
北の方という素性を知るまいと思う(彼女の心中では兼家の北の方であるという誇りと、今では彼の北の方とは名のみで顧みが少なく大手を振って北の方としての外出もできない自分を寂しくも感じる。我の強い人だけにこうした思いが彼女を苦しめたであろう)と「われひとり苦しうかたはらいたし」のことばとなる。(中略)
 社寺のつららを食べないと、せっかくお参りしても願いごとがかなわないですよというので、作者はすっかり軽べつしてしまう。つららを食べたからって願いが成就するという俗信を、単純に信じて実行する直者(ふつうの者)に反発を感じる。
 自分はこれまで多くの神社仏閣に参籠したり、幣や歌を奉納して誠心誠意祈願したが願いがかなわず、以前から袖は涙で濡れどおしで寒い今それが凍っている身である。そういえば見かけたところ、その直者だって袖が氷の水か涙かしらないが濡れているではないか!

蜻蛉日記を読んできて(179)

2017年03月26日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (179) 2017.3.26

「さてこの霜月に、県ありきのところに産屋のことありしを、えとはで過ぐしてしを、五十日になりにけん、これにだにと思ひしかど、ことごとしきわざはえものせず、ことほきをぞさまざまにしたる、例のごとなり。白う調じたる籠、梅の枝につけたるに、
<冬篭り雪にまどひし折すぎてけふぞ垣根の梅をたづぬる>
とて、帯刀の長なにがしなどいふ人、使ひにて、夜に入りてものしけり。使ひつとめてぞかへりたる。薄色の袿ひとかさねかづきたり。
<枝若み雪間に咲ける初花はいかにととふににほひますかな>
など言ふほどに、行ひのほどもすぎぬ。」

◆◆さて、この十一月に、地方官歴任の父の所でお産のことがありましたが、お祝いもできずに過ごしてしまったので、五十日(いか)のお祝いの時になったかしら、せめてこの機会にでもお祝いをとおもいましたが、大仰なことはようせずに、心をこめてお祝いをしました。しきたりどおりの事として。白い色で作った籠を、梅の枝につけたのに、
(道綱の母)「冬の間、雪で外出もままなりませんでしたが、春になって今日、若君のお祝いを申し上げます」
と言う歌を添えて、帯刀の長(たちはきのおさ)なにがしという人を使いにして、夜になってから届けました。使いは翌朝帰ってきました。薄紫色の袿ひとかさねを祝儀をしてもらってきました。
(父倫寧の歌)「若枝に雪間から顔を出して咲く梅の初花のような子は五十日をお祝いを頂いただいて、一段と光輝いています」
などと返歌が届くうちに正月のお勤めの時期も過ぎました。◆◆


【解説】 蜻蛉日記 下巻 上村悦子著より

出産の祝いのあったのは「父のところ」と考えられるが、理能(まさとう)が作者より四歳ほど年長とすると天延元年四十一、二歳となるので、倫寧は六十一、二歳となる。清少納言は清原元輔五十九歳の時の子であるから、子どもが生まれてもおかしくはない。(中略)
倫寧が若い女性を妻にして出来た子であろうか。
 ところで、「冬こもり」の歌は出産のお祝い、あるいは五十日の時のお祝いの歌としてはあまりにも祝意があふれていない感じがする。子宝を種々の寺社に祈願した作者であったが、ついに道綱以外には授からなかった作者の寂しい心情の反映でもあろうか。



蜻蛉日記を読んできて(178)

2017年03月22日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (178) 2017.3.22

「さて廿よ日にこの月もなりぬれど、あと絶えたり。あさましさは、『これして』とて冬のものあり。『御文ありつるは、はや落ちにけり』といへば、『おろかなるやうになり、返りごとせぬにてあらん』とて、なにごとともえ知らでやみぬ。ありしものどもはして、文もなくてものしつ。そののち、夢の通ひ路たえて、年暮れ果てぬ。」

◆◆さて、二十日過ぎにこの月もなってしまったけれど、あの人からの訪れも絶えてしまったのでした。あきれたことには「これを仕立ててほしい」などといって冬の着物をよこしてきました。使いの者が「御文があったのですが、落としてしまいました」というので、「随分ぞんざいに扱ったせいで、落としたのでしょう。こちらからも返事を添えないでおこう」ということで、結局はどういう内容だったのか分らずに終わってしまったのでした。寄こした着物は仕立てて、手紙も添えず届けました。その後は、夢の中でもあの人と会うこともなく、その年も暮れてしまったのでした。◆◆



「つごもりにまた『<これして>となん』とて、はては文だにもなうてぞ下襲ある。いかにせましと思ひやすらひて、これかれに言ひあはすれば、『なほこのたびばかり心みにせよ、。いと忌みたるやうにのみあれば』など、さだむることありて、留めて、きたなげなくして、ついたちの日、大夫に持たせてものしたれば、『<いときよらなり>となんありつる』とてやみぬ。あさましといへばおろかなり」

◆◆(九月の)下旬になってまた、使いの者が「これを仕立ててください」との仰せですといって、今度は手紙さえも無くて装束の下襲ねをよこしてきました。いったいどうしたものかと思案して、何人かに相談しますと、「やはり、今度だけは、殿のご様子をみながら、なさいませ。お断りしては、本当に忌み嫌っているみたいですから」などと言うことになって、受け取って、こぎれいに仕立てて、十月の一日に、大夫に持たせて届けたところ、「大層きれいにできた、との仰せでした」とのことでしたが、そのままそれっきりになってしまいました。あきれてしまったというくらいでは、胸が収まらない。◆◆


■御文ありつるは、はや落ちにけり=使いが主人の手紙をぞんざいに扱ったため落としてしまった。兼家の手紙を見ていないので作者は返事のしようがない。大事な手紙なら、「これは大切な手紙だから」というべきで、落すことはなかったであろう。しかし勘ぐれば、最初から手紙は無かったのかもしれない。作者は兼家の愛情につながるものを感じなかったので、返事をする気にもならなかったのではないか。


【解説】蜻蛉日記 下巻  上村悦子著から

 作者が広幡中川に移居してから兼家の訪れはもちろん、やさしい便りさえない。一説にはこの移転を「床離れ」と見る。そうとも考えられるが、いずれにせよ、兼家はまったく無沙汰を続けてわれ関せずの有様であるにかかわらず、相変わらず仕立物を次から次へと頼んでくる。しかも依頼状やねぎらいの手紙さえもないので、(中略)このように夫らしい義務や責任にはそっぽを向いて権利のみ行使するする相変わらずの身勝手者の兼家である。


蜻蛉日記を読んできて(177)

2017年03月20日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (177) 2017.3.20

「東の門の前なる田ども刈りて、結ひわたして懸けたり。たまさかにも見え訪ふ人には、青稲刈らせて馬に飼ひ、焼米せさせなどするわざに、おりたちてあり。小鷹の人もあれば、鷹ども外にたちいでてあそぶ。例のところにおどろかしにやるめり。」

◆◆東の門の前にある田を刈って、その稲を束にして稲掛けにかけてある。たまたま訪れてきた人には、青い実の入っていない稲を刈らせて馬の飼葉に与えたり、焼米を作らせたりする仕事を、私自身、身を入れて指図もします。小鷹狩ををする大夫もいるので、その鷹が何羽も外に出て遊んでいます。大夫は例の大和の女のところへ手紙を届けるようです。◆◆



「<狭衣のつまも結ばぬ玉の緒の絶えみ絶えずみ世をやつくさん>
返りごとなし。又ほどへて、
<露ふかき袖に冷えつつあかすかな誰長き夜のかたきなるらん>
返りごとあれど、よし、書かじ。」

◆◆(道綱の歌)「あなたに相手にされぬまま、命のあるかないかの有様で一生を終えるのでしょうか。」
返事はなく、又少し経って、
(道綱の歌)「私は独り寝の涙にぬれた袖に冷えつつ寂しい夜をあかしますが、この秋の夜長をあなたと過ごす男の人はいったいだれなのでしょう」
返事はあったけれど、まあまあ、書かないでおきましょう。◆◆

■焼米(やいごめ)=「やきごめ」の音便。籾のままの米を炒り、それを搗いてもみがらを取り去った米。新米。

■小鷹(こたか)=隼(はやぶさ)やハシタカなどの小型の鷹。小鷹狩は小型の鷹を使って鶉(うづら)などの小鳥を捕まえる狩猟で秋に行われる。

蜻蛉日記を読んできて(176)その2

2017年03月17日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (176)その2   2017.3.16

「山近う川原かたかけなるところに、水は心のほしきに入りたれば、いとあはれなる住まひとおぼゆ。二三日になりぬれど、知りげもなし。五六日ばかり、『さりけるを告げざりける』とばかりあり。返りごとに、『さなんとは告げきこゆとなん思ひし。いと便なきところに、はた難うおぼえしかなん、見たまひなれにしところにて、いまひとたびきこゆべくは思ひし』など、絶えたるさまにものしつ。『さもこそはあらめ。便なかなればなん』とて、あとを絶ちたり。」

◆◆東山が近く、鴨川の川原に接するところで、川の水を思う存分邸内に引き入れてあるので、とても風情のある住まいに思われます。二、三日になるけれど、あの人は気がついた様子もない。五、六日ほどして、あの人から、「引っ越したのを知らさなかったね」とだけ言ってきました。返事に、「引っ越しましたと申し上げねばと思っていました。大層不便なところで、きっとお出でいただけまいと存じましたので。親しみ下さったあの家で、もう一度ゆっくりお話申し上げたいと思っておりましたのに。」などと、もうすっかり縁が切れてしまったかの様なふうに書いて送りました。あの人からは、「そうであろうな。まったく不便なところだそうだから」と言ってよこしたきり、ぱったり音信不通となったのでした。◆◆



「九月になりて、まだしきに格子をあげて見いだしたれば、内なるにも外なるにも川霧たちわたりて、ふもとも見えぬ山のみ見やられたるも、いとものがなしうて、
<ながれての床とたのみて来しかどもわが中川はあせにけらしも>
どぞ言はれける。」

◆◆九月になって、朝、まだ早い時刻に格子をあげて外を眺めると、邸内の流れにも外の川にも川霧が一面に立ち込め、麓も見えない山だけが空にながめやられるのも、とてももの悲しくて、
(道綱母の歌)「辺鄙なところですが(あなたの訪れを)頼みにしていましたが、中川の水が涸れるように私どもの仲も疎遠になってしまったようです」
と口ずさまれたのでした。◆◆


【解説】 『蜻蛉日記』下巻 上村悦子著より

兼家が兵部大輔の時、「世の中をいとうとましげにて、ここかしこ通ふよりほかのありきなどなければ」とあったと同様、兄兼通の専横下、政治的に不遇であった彼は近江のもとへ足しげく通って、作者の所へは足を向けなかったので、とうとう兼家に顧みられなくなったかと思い、荒れ放題の一条西洞院を思い切って人に譲り(道綱の将来を考え貸したのかもしれない)、父倫寧のすすめに従い京の郊外、広幡中川に移転することを決心した、その前後の作者と兼家のやりとりを記した。兼家は作者の移転に対してけわめて冷淡なようである。一夫多妻下本邸に同居しない北の方のあり方とくに年がたけてからの生き方について種々問題を提供している。


蜻蛉日記を読んできて(176)その1

2017年03月13日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (176)その1 2017.3.13

「六七月、おなじほどにありつつ果てぬ。つごもり廿八日に、『相撲のことにより内裏にさぶらひつれど、こちものせんとてなむ、いそぎ出でぬる』などて見えたりし人、そのままに八月廿よ日まで見えず。聞けば、例のところ繁くなんと聞く。移りにけりと思へばうつし心もなくてのみあるに、住むところはいよいよ荒れゆくを、人少なにありしかば、人にものして我が住むところにあらせんといふことを、我がたのむ人さだめて、今日あす広幡中川のほどに渡りぬべし。」

◆◆六月七月は、あの人の訪れはおなじような間隔で過ぎてしまった。七月の月末の二十七日に、あの人が「相撲のことで内裏に伺候していたけれど、こちらに来ようと思って、急いで退出してきた」などと言って見えたけれど、そのままに八月二十日過ぎまで訪れがない。聞くところによると、例の女のところに足しげく通っているとのことです。心が私から移ってしまったと思うと、正気もなくただぼんやり過ごしているうちに、この住居はますます荒れていくし、人も少なでもあったので、これを人に譲って、自分の家(父の家)に住まわせようということを、我が頼みにする父親が取り決めて、今日明日にも広幡中川のあたりに引っ越すことにまったのでした。◆◆



「さべしとはさきざきほのめかしたれど、『今日』などもなくてやはとて、『きこえさすべきこと』とものしたれど、『慎むことありてなん』とて、つれもなければ、『何かは』とて、音もせで渡りぬ。」

◆◆そうする予定だと、以前からほのめかしていたけれど、「今日引っ越すことを知らせなくてはならないと」などというので、「申し上げたいことがございまして」と使いの者に言わせましたが、「慎むことがあって、そちらへ行けない」と、つれない返事でしたので、「何、それなら」と黙って引っ越してしまいました。◆◆

■例のところ=近江の女

■広幡中川=現在の京都御所東方の地域。

蜻蛉日記を読んできて(175)

2017年03月10日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (175) 2017.3.10

「さて例のもの思ひは、この月も時々、おなじやうなり。廿日のほどに、『遠うものする人に取らせん。この餌袋のうちに、袋むすびて』とあれば、むすぶほどに、『出で来にたりや。歌を一餌袋入れて給へ。ここにいとなやましうて、え詠むまじ』とあれば、いとをかしうて、『の給へるもの、あるかぎり詠み入れてたてまつるを、もし漏りや失せん、異袋をぞ給はまし』とものしつ。」

◆◆さて(兼家の訪れのすくないことの)いつもの物思いは、この月も折々につけて変わりがない。そんな二十日ごろにあの人から「遠方に旅立つ人に贈ろうと思う。この餌袋の内に袋をもう一つ作って欲しい」と言って来たので、作っていると、「出来上がったかね。歌をその袋にいっぱい入れてください。私は気分がすぐれず、まったく詠めそうもないが」と言ってきました。なるほど面白そうなので、「ご注文のもの、詠んだだけは全部入れてさしあげますが、ひょっとして、こぼれて無くなってしまうかもしれません、別の袋をくださいませんか」と言ってやりました。◆◆



「二日ばかりありて、『心ちのいと苦しうても、こと久しければなん、一餌袋といひたりしものを、わびてかくなんものしたりし。かへし、かうかう』などあまた書きつけて、『いとようさだまて給へ』とて、雨もよにあれば、すこしなさけある心ちして待ち見る。劣り勝りは見ゆれど、さかしうことわらんもあいなくて、かうものしけり。
<こちとのみ風のこころを寄すめればかへしは吹くも劣るらんかし>
とばかりぞものしける。」

◆◆二日ほど経って、あの人から「気分がよくないのだが、あなたの方の歌の出来方が大分ひまどるので待てず、餌袋いっぱいと頼んだ例のものを、私が苦心してこのように詠んでやった。先方からの返歌はこれこれ」などとたくさん書き付けて、「どちらが優れているか判定して返してください」と言って、雨のふる中を届けてきたので、少し風流な心持ちがして、期待して見ました。兼家の歌の良いものも、返歌で良いものもどちらにも優劣はあるけれども、利口ぶって判定するのも興ざめな気がして、こう言って送りました。
(道綱母の歌)「あなたの方の歌を贔屓目に見るからでしょうか。あなたの歌に比べ、返歌の歌は劣っているように思えます」
とだけ書いてやりました。◆◆

■【解説】 蜻蛉日記 下巻  上村悦子著より
…このころ兄兼道は内大臣、関白であり、二月二十九日は女(むすめ)媓子を入内させ、勝手気ままに人事を行い、兼家は憂鬱至極のころであったので作者を相手に冗談を言ってきたり、また作者も明るく冗談を言って応対もしたのだろう。


■餌袋(えぶくろ)=竹駕籠風のもので、網目があり、口も広いので、使いの者がうっかりすると中身を落す恐れがある。

■東風(こち)=こちらの方。兼家の方。


蜻蛉日記を読んできて(174)

2017年03月07日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (174)  2017.3.7

「五月のはじめの日になりぬれば、例の、大夫、
<うちとけて今日だに聞かんほととぎす忍びもあへぬ時は来にけり>
返りごと、
<ほととぎす隠れなき音を聞かせてはかけ離れぬる身とやなるらん>」

◆◆五月のはじめの日になったので、例のように、大夫が、
(道綱の歌)「五月になるとほととぎすが声を忍ばず鳴き出します。きょうこそあなたの本心を聞きたい。」
返事には、
(大和だつ女の歌)「あなたに打ち解けてしまえば、きっと捨てられる身になることでしょう」◆◆



「五日、
<もの思ふに年へけりともあやめ草今日をたびたび過ぐしてぞ知る>
返りごと、
<つもりける年のあやめも思ほえず今日も過ぎぬる心見ゆれば>
とぞある。『いかにうらみたるにかあらん』とぞ、あやしがりける。」

◆◆五日、
(道綱の歌)「あなたゆえの物思いで年が経ったことよ。菖蒲の五月五日を一度ならず過ごした今日、つくづくと思い知りました。」
返事は、
(大和だつ女の歌)「物思いで何年も経ったとは何のことでしょう。あなたは今日も浮気をして過ごす人とおもえますので」
とありました。
大夫は、「何ゆえに恨んでいるのだろうか」と不審がっていました。◆◆


■ほととぎすの歌=大和だつ女の歌。「かけはなれ」の「掛け」に卯の花の「陰」を掛ける。「隠れなき音」に結婚の承諾を響かす。

■つもりけるの歌=「あやめ」に「文目(見分け、聞き分けられる分別)と「菖蒲」を掛ける。この歌は大和だつ女の代詠であろうか。現実の二人の関係と食い違っているようである。

【解説】 蜻蛉日記 下巻  上村悦子著より
……岡一男博士のご指摘のように史実を検討してみると道綱の長男道命阿闇利(どうみょうあじゃり)は作者宅の女房源広女(みなもとのひろしのむすめ)を母として、天延二年に生まれている。(九条家本『小右記』によると寛仁四年七月四日、四十七歳で入寂しているので、逆算すると、天延二年の生誕となる)。したがって天延元年の五月には源広女は道綱の召人(めしゅうど)となっているはずである。こうした浮名が世評にのぼり大和だつ女は承知しなかったのかも知れない。
 作者は源広女と道綱の関係を知りつつ、一夫多妻の折柄、大和だつ女を調査の結果、道綱の妻としてふさわしいと考え、この縁談に乗り気で応援したのだろうか。


蜻蛉日記を読んできて(173)

2017年03月03日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (173) 2017.3.3

「かくて又、廿よ日のほどに見えたり。
さて、三四日のほどに、近う火のさわぎす。おどろきさわぎするほどに、いととく見えたり。風吹きて久しう移りゆくほどに酉すぎぬ。『ささなれば』とて帰る。『<ここにと見聞きける人は、まゐりたりつるよしきこえよとて、帰りぬ>と聞くも、面立たしげなりつる』など語るも、屈しはてにたる所につけて見ゆるならんかし。

◆◆こうして、又あの人は二十日過ぎに見えました。そして、二十三、四日ごろに、近いところで火事騒ぎがありました。びっくりして騒いでいると、あの人が急いで掛け付けてこられました。風が吹いて久しく燃え続けた火が下火になったのは午後六時ごろでした。「もう大丈夫だから」と言って帰られました。侍女たちが『「お殿さまが作者邸にいると知ってきた人は、(自分が)こちらにお見舞いに伺ったことを兼家さまにお伝えしてください、と言って帰りました」と下僕が言うのを聞くにつけ、いかにも面目ありげな感じがいたしました。』などと話すのもすっかり顧みられず、卑屈になりきっている我が家なのだから、そのように感じられるのであろうよ。◆◆



「又つごもりの日ばかりにあり。はひ入るままに、『火など近き夜こそにぎははしけれ』とあれば、『衛士の焚くはいつも』と見えたり。」
◆◆また、月末のころに見えました。入ってくるなり、「火事などが近い夜は、この家もにぎやかだが…」などと言うので、「衛士のたく火のように、私の思いの火はいつも燃え盛っていますわ」と答えたのでした。◆◆

■『衛士の焚くはいつも』=古歌「御垣守(みかきもり)衛士の焚く火の昼は絶え夜は燃えつつものをこそ思へ」を引いている。作者は兼家の「火など近き夜は…」と言ったので、「御垣守」の歌を連想し、余情の「火の無い時は」を「兼家の訪れのない夜は」絶え入る思いをしていると言い、要するに、衛士は火を焚いて夜皇居を守るが、自分は昼は絶え入る悲しい思い(火)をし、夜はあなた恋しさに胸の中で「思ひ」の火をもあしつづけていて、火のないときはないと恨みの言葉で応酬したのである。