永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(寝殿造)

2008年06月07日 | Weblog
寝殿造 
 
 寝殿は檜皮葺(ひわだぶき)の屋根で木造の高床式家屋である。開放的な造りで、室外とは蔀戸(しとみど)などで仕切る。前方には池・築山などをもつ庭園が造られた。作庭記などによるこれまでの研究成果によって典型的な形態は一般的に三位以上の上流貴族の邸宅にみられ、敷地は平安京の条坊保町の制により方一町を標準に、敷地の周りに築地がめぐらされ、通常は南以外に門がある。正門は東西どちらかで、そのありかたにより「礼門」「晴門」と呼ばれる。
 
 門の性格は建物や庭園地割とも密接な関連がありそれぞれの建物は渡殿という廊によって連結され、庭園(坪庭と呼ばれる)を四周囲む。東西の対屋からは南へ廊が伸び、その途中に中門が設けられ、これらの廊で区画された寝殿前面の広場は南庭と呼ばれ、ここには白砂が敷かれる。この庭と池とが庭園の中心部分となる。
 
 寝殿は南面し、南庭が設けられたが、南門のなかった点は中国の形式と異質のものである。年中行事の儀式の場とされた。 寝殿造りの室内は1室住居で間仕切はなく、移動家具である几帳・屏風・衝立などを使っての軽い仕切のみで建物の外周に壁はなく、蔀戸を跳ね上げればまったく開放されて室内外は一体となり、庭全体はパノラマのように見渡すことができた。
 
 寝殿造からの庭の眺めは生得の山水や国々の名所を縮景したもので構成される。池には大きさによっていくつかの中島が設けられ、北岸にちかい中央前面からみて斜に朱塗りのこう覧をもつ反り橋、次の中島や対岸にむけて平橋がかけられる。中門の廊の先端に池に乗り出してくつくられる庭園建築である釣殿が設けられ、舟遊の際の乗降場にあてられたり、納涼や月見、雪見の場所とされる。中島の裏側には楽屋が造られ、舟遊びに興をそえることもあった。
 
 池への給水は京都の地形から敷地の北東部からの流れが導かれることが多く、水路は寝殿と東対屋の間をとおし南に流れて池に注ぐ。これは当時の陰陽五行思想によって順流とされるもので、遣水とよばれ、浅いせせらぎとなるよう工夫が凝らされる。これを建物近くに流して滝・遣水とし、寝殿と対屋の間などのつぼ庭には嵯峨野や紫野などの野の趣を移し、野筋といわれるゆるやかな起伏を作り、野草を植えて虫を放ち前栽とする。

◆写真は 寝殿造りの典型としての東三条殿

源氏物語を読んできて(人々の暮らし)

2008年06月07日 | Weblog
人々の暮らし   

庶民の住居(奈良・平安時代)

 人々の住居はそまつな堀立柱の竪穴(たてあな)でした。
住居の形態は方形を基調とし、北側の壁に粘土等を用いた竈(かまど)を設けたものが一般的でした。その規模は、奈良時代当初は古墳時代のものと比べ遜色ないのですが、平安時代以降、次第に小型化がすすんでいます。
 
 日常生活品としての土器は、土師器と須恵器が基本です。
 
 弥生時代には、日本列島の人口が59万人位に増えましたが、奈良時代になり、その人口は451万人に激増し、平安末期には683万人にまで増大しました。

 天皇を中心とした中央集権国家が確立し、土地や人は国家のものとされ(公地公民)、地方の行政区画を定め、戸籍を作成して統一的な税制を実施していきました。また、仏教によって国を護るという方針のもと、地方に国分寺が建立されました。

 このような行政単位に編成された人々は、戸籍に登録され、班田収授(はんでんしゅうじゅ)の法によって六歳以上の人に口分田(くぶんでん)が与えられ、租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)などの租税が課せられました。ほかに雑徭(ぞうよう)・仕丁(しちょう)・兵役(へいえき)なども課せられ、重税により生活は大変苦しいものでした。

 


源氏物語を読んできて(70)(71)

2008年06月07日 | Weblog
6/7      

【花散里(はなちるさと)】の巻 (2)

この麗景殿は、故桐壺院の特には、はなばなしいご寵愛こそなかったものの、睦まじくおいでであったことなどを思い出されてのお話に、源氏もついもらい泣きをされます。

 次に御妹の花散里の西面のお住いに、源氏はさりげない、人目に立たないようにお顔をだされます。花散里は源氏の立派さに、たまのご訪問をも打ち消されるような心持ちでございました。お互いに心を交しあって過ごされたのでした。源氏が親しく思われただけあって、間遠なお扱いにもかかわらず、この姫君はおっとりとお待ちになっておいででした。

「それをあいなしと思ふ人は、とにかくにかはるも、道理の世のさがと思ひなし給ふ。……」
――それをつまらないと思う人は何かと心変わりをするが、これも世の習いとあきらめていらっしゃる。(先ほどの中川の女なども、心変わりしてしまった所なのであった)――

花散里の巻  おわり。



6/7 

【須磨(すま)】の巻  その(1)

 源氏 26歳3月~27歳3月
 紫の上 18歳
 夕霧 5歳

 源氏は、ますますご自分に具合の悪いことばかりが重なるので、
「せめて知らず顔にあり経ても、これよりまさる事もやと思しなりぬ。」
――強いて平気を装ってはいても、もっと悪いことがおこりはしないかとお思いになります――
須磨というところは、以前は貴人の別荘が立ち並んでいたらしいが、今は人里離れて寂しい所のようだ。京からも離れすぎている……と人聞きの悪いほど悩まれます。

「憂きものと思ひ棄てつる世も、今はと住み離れなむ事を思すには、いと棄て難きこと多かる中にも、姫君の明け暮れにそへては思ひ嘆き給へるさまの、心苦しうあはれなるを、……」
――つらい思って棄ててしまった世間でも、さて今こそここを離れようと思うには、あまりにも棄てがたい事が多いものです。とりわけ紫の上とは、一、二日離れていても、心細く思っていらっしゃるご様子には心を痛めておいでです。――

 源氏の悩み

 無情な世では、少しの別れと思っても、そのまま死別ということもあるので、こっそりと紫の上をお連れしようか。しかし須磨のような波風の他は訪れる人もなさそうな所へは、不似合いの上、自分自身にも何かと物思いの種となりそうだ。

 紫の上は「いみじからむ道にも、後れ聞えずだにあらば、……」
 ――たとえ死出の旅路でも、お伴さえできますれば、と、心の内を示されて、恨めしげに思われました――

◆ 寝殿造二条院の想定図

 公卿と呼ばれる上級貴族の典型的な寝殿造。敷地は一町(約120m四方、面積
 14,400平方m)、寝殿と東西の対および中門を備える。光源氏は東対、紫上は西対 に住んだ。そのほか念誦堂(ねんずどう)、御倉(みくら)、下屋(しものや) と呼ぶ雑舎(ぞうしゃ)があった。
 写真は風俗博物館より

ではまた


源氏物語を読んできて(かさねの色目)

2008年06月07日 | Weblog
平安の美意識・かさねの色目

「かさねいろめ」は「襲色目」とも書かれますが、これは主に女房装束(いわゆる十二単)の何枚も重ねる場合の色目を指す場合が多いようです。狩衣の場合は表裏だけの色目なので「重色目」が正しい表記といえるでしょう。

◆写真 風俗博物館より