永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(大内裏と内裏)

2008年04月30日 | Weblog
平安京大内裏

 平安京の北中央部に位置し、東西約1.2Km、南北約1.4Km、行政施設・国家儀式や年中行事を行う殿舎・天皇の居住する内裏が設置されている。
大内裏の周囲は 築地の大垣がめぐらされ、この築地を宮城垣(きゅうじょうがき)また外の重(とのえ)という。
大内裏の門は最も外側に面した 宮城門、その内側に内裏に向かって 宮門・ 閤門の順に中心に近付く三段階の門の構成になっている。

 ◆大内裏の中の内裏(上の黄色の部分)

 「うち」ともいって天皇の日常の居住空間(皇居)で、南北百丈(約303m)、東西七十三丈(約220m)に 築地をめぐらせる。これを「 宮垣」といい、この間に開く門を「 宮門」といった。また宮垣の中に長い 廊が巡らせてある。これを「 内の重」といい四つの 閤門がある。内の重に囲まれた部分は南北七十二丈(約218m)、東西五十八丈(約176m)からなっていて、この中に 後宮が建てられている。

源氏物語を読んできて(35)

2008年04月30日 | Weblog
4/30  
【花宴】(はなのえん)の巻 (1)
 
 翌年になります。
源氏20歳春 藤壺25歳 葵の上24歳 紫の上12歳
 
 2月20日過ぎ頃、内裏の南殿で桜の宴が催されました。弘徴殿女御は、藤壺の、今をときめいていらっしゃるのを、心安く思われていないものの、催しには無関心ではいられなくて、参上されます。この日はよく晴れて、文学に携わる人々はみな、探韵を賜り詩をお創りになります。

◆探韵=帝の前で、韻字を1つずつ探り取って、その韻で即席に詩を創ること。

 源氏の「春といふ文字賜れり」――春という文字を頂きました――という声さえ美しく、続く頭の中将もすぐれていましたが、他の人々は気後れしている様子です。帝はこの方面に大層優れていらっしゃるので、れっきとした博士どもも、緊張している様子はちょっと
可笑しいくらいです。舞楽がつづきます。東宮が源氏に青海波を所望されましたので、仕方なく、袖の一振り舞われます。左大臣は日頃のうらめしさも忘れ涙を落としています。。
続いて頭の中将、上達部(かんだちめ)たちが、皆次々と舞います頃は、もう上手下手の区別もつきません。詩を披講するときも、一句毎に褒めそやしはやし立てて大騒ぎです。

 藤壺は、どこにいても一際目立って美しい源氏にお目が留まるにつけて、
 「大かたに花のすがたを見ましかばつゆもこころのおかれましやは」
――何の関係もなくて花(源氏)の姿を見るのなら、露ほども心が疼かぬでしょうに――
と、一人心の中で歌われたことでした。
夜も更けて宴が果てました。

 この明るい月夜をこのまま過ごすのももったいなく、源氏は酔い心地に、
「もしさりぬべき隙もやある」
――もしや藤壺に遭えるような機会でもありはせぬか――
と藤壺のあたりをやたらに忍んで窺い歩きますが、

「語らふべき戸口も鎖してければ、うち歎きて、なほあらじに、弘徴殿の細殿に立ち寄り給へば、三の口あきたり」
――相談すべき王命婦の局の戸口も閉めてあるので、ああ、と嘆きつつもこのままでは気持ちが収らず、弘徴殿の西側の廂(ひさし)の間の、北から三番目の戸口が開いている――
ここのあたりでは、弘徴殿女御が上の局に上がられて、物音もせず、人も少ない。

「かやうにて世の中の過ちはするぞかし」
――こんな不用心から男女の間違いはしでかすものだ――と言って、やおら入って覗いてみます。

ではまた。

源氏物語を読んできて(横笛)

2008年04月30日 | Weblog
◆横笛(よこぶえ)
 
 雅楽の横笛には、神楽笛(かぐらぶえ)・龍笛(りゅうてき)・高麗笛(こまぶえ)の三種があるが、とくに唐楽に用いる龍笛を横笛(ようじょう)という。吹き口を歌口(うたくち)といい、指穴は七孔ある。「葉二(はふたつ)」「小枝(さえだ)」「柯亭(かてい)」などと名づけられた名器が伝えられた。


源氏物語を読んできて(箏・そう)

2008年04月29日 | Weblog
◆箏(そう)
現在のいわゆる十三絃の「お琴」(箏)と基本的に同じであるが、とくに雅楽の箏を楽箏(がくそう)とよぶ。

 古来からあった「こと」や「ふえ」などの素朴な楽器に加えて、中国大陸から雅楽とともに多くの種類の楽器が入ってくると、演奏方法も音色も豊富になった。神楽や舞楽の舞の伴奏音楽としても使われたが、貴族の遊びとして楽器だけの合奏が重視されるようになると、個々の楽器がたいせつに扱われるようになり、名器が生まれ、名前がつけられた。

源氏物語を読んできて(34)

2008年04月29日 | Weblog
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【紅葉賀】の巻 (5)

 宮中には、美しく気だての良い宮仕えの女官が多くいらっしゃいます。源氏は幼少の頃から見慣れているせいか、女の方から冗談めかしてのお誘いにも、適当にお返事をして決して乱れないのを、物足りないと思う女達もいるようです。

 典侍(ないしのすけ)という、年老いた女で、人柄もそれなりに、才覚もありながら、ひどく浮気っぽい性質のものがおります。源氏は「かかるもをかしうて」――こんな老婆もまたおもしろかろう――と、遊び心を出します。頭の中将(葵の上の兄)が嗅ぎつけて、何かの折りの、からかいの材料にしようとしたりして、二人とも似たり寄ったりで、かなりふらついていた時期でした。
ではまた。

 ここでも、作者は、典侍の年甲斐もない無ざまな、あだっぽさを、執拗に書き上げていきます。この辺りは長すぎるので、省略します。

 7月になって、藤壺は中宮にお立ちになり、源氏は参議になります。

 帝は御譲位なさろうと御用意なされて、この藤壺腹の若宮を東宮にと、お思いになるものの、しっかりとした後見人がいらっしゃいません。

「御母方、みな親王たちにて、源氏の公事(おほやけごと)しり給ふ筋ならねば、母宮をだに動きなき様にし置き奉りて、つよりにと思すになむありける。弘徴殿、いとど御心動き給ふ、道理なり」
――藤壺方の人々はみな、皇子で、中には源姓の人がいても、今は藤原氏の世で、摂政関白として政務をみる筋合いではないので、せめて母宮の藤壺だけはしっかりとした地位に、お置き申して、若宮のお力にと思われるのでした。弘徴殿女御は大層ご立腹なさいますのも、これまたもっともで御座います――

 帝は藤壺に「東宮の御世、いと近うなりぬれば、疑ひなき御位なり。思ほしのどめよ」
――東宮のご即位が近くなったのだから、あなたは疑いもない地位(皇太后の地位)だ。
安心なさい――

 しかし人々は「東宮の御母にて二十余年になり給へる女御を置き奉りては、引き越し奉り給ひ難き事なりかし」
――今まで東宮の御母として二十数年おいでになった弘徴殿女御を差し超えては、なかなか難しいことでしょうに――

 源氏は、ますます高い地位にあげらてた藤壺(中宮)との間を
うた「つきもせぬ心のやみにくるるかな雲井に人を見るにつけても」
――思う人が及びもつかぬ所へ昇ったのを見るにつけても、じっとしていられない――

御子は成長されるに従って、ますます源氏に似てこられ、藤壺は大層苦痛に思われるが、帝をはじめ、だれも気づく人はいないようです。
「月日の光の空に通ひたるやうにぞ、世の人も思へる」
――源氏と若宮とが似ておられるのを、まるで月と日とが、大空で似通っているように、世間の人も考えていました――
「紅葉賀」の巻 おわり。

源氏物語を読んできて(紫式部の略歴)

2008年04月29日 | Weblog
作者と紫式部(その2)

紫式部の略歴
 
 紫式部は藤原冬嗣の後裔の越前守為時と右馬頭・常陸介藤原為信の女(むすめ)との間に生まれた。かりに式部の年齢を寛弘5年、31歳として逆算すれば、円融天皇の天元元年(987年)の出生となる。もとより正確ではないが、大体この頃と見て大過ないであろう。その兄に惟規・惟道・定暹阿闍梨の3人があり、また一人の姉もあったらしい。曾祖父堤中納言兼輔は延喜時代の有名な歌人であり、三十六歌仙の中にも列している。一門に有名な歌人が多い。                                         

 式部は天性聡明で、幼少の頃、兄惟規が父から史記を習うとき、傍で聞いていて、兄より早く習得したので、父をして「口惜しう男子にてもたらぬこそ幸なかりけれ」と歎ぜしめたと日記にみえている。19歳頃、父が越前守として赴任するとき、式部も父に伴われその任国に赴き、約一年後の秋頃都に帰った。その道中で詠んだ歌が家集や続古今集などに見え、帰京後間もなく右衛門権佐藤藤原宣孝との交渉が始まり、長保元年に結婚した。その頃宣孝は四十八歳くらい、式部は22歳くらいであったらしい。宣孝との間に一女賢子(けんし)を生んだ。(賢子は後冷泉天皇の御乳母越後弁で、太宰大貳高階成章に嫁して大貳三位と呼ばれた女である。)

 夫宣孝は、結婚後わづか2.3年にして没し、式部はその後数年わびしい寡婦生活をつづけた。亡き夫の思い出を守りつつ、その遺児賢子を養育した式部の生活は、当時の女性の経済事情もあって、物質的にはかなり苦しかったものと想像される。しかし作家としての式部の本質は、この不幸な生活によって曇らされることなく、帰ってその才能を琢磨し、あの大きな小説に筆をとらせ、ついにこれを完成せしめたのである。

 こうして、式部は寛弘2年あるいは3年(1006~1007年)12月29日の夜、初めて一条天皇の中宮彰子(しょうし)に仕えた。彼女の日記は、この宮仕え生活において見聞した主な出来事を中心に記録し、これに感想を加えたもので、現在の本は寛弘5年7月、御懐妊により中宮の退出されている土御門殿で、修法が行わせられるところから始まり、翌々7年正月、後朱雀天皇の御五十日の御儀で終わっている。この間彰子に白氏文集の楽府を進講したり、一条天皇が源氏物語を称揚せられて、「この人は日本紀をこそよみ給ふべけれ。まことに才あるべし」と仰せられたため、「日本紀の御局」と呼ばれたこと、また、公任に「若紫や侍ふ」と尋ねられたことなどによって、宮仕え中は、源氏物語作者としての名誉と尊敬を一身に集めていたことが窺われる。
 箏の伝授のことも知られ、源氏物語りに音楽の記述の多い点についても、この方面の教養の深さを察することができる。

 しかし、式部の宮仕え生活の以後は、消息が全く知られていない。出家か死没か不明であるが、長和2年5月(1013年)から万寿3年正月(1026年)までの間に宮仕えを止めたであろうとされるのが穏当であろう。
(日本古典全書 池田亀鑑校注より)
 
 

源氏物語を読んできて(作者・紫式部)

2008年04月28日 | Weblog
作者について

 源氏物語の作者は、古くから紫式部ということになっている。しかし、これについては異説がないわけではなかった。 源氏物語の小説としての構成形成は、長編的な巻々と、短編的な巻々とから成っている。そして源氏物語の主流をなすものは長編的な巻々である。
 更級日記には、すでに短編的な性格の夕顔の巻と、長編的な性格の宇治の巻々とを共に認め、源氏物語の統一的な組織内のものとして取り扱っている。今主題・構想の点から見ても、また最も作者の本質を端的に顕示する語彙や文体の点からみても、式部以外の作家、もっと厳密にいうならば紫式部日記の筆者以外の作家、例えば、枕草子の清少納言、和泉式部集の作者、栄華物語の作者に擬せられる赤染衛門、その他の人々の所為とすることはできない。
  以上のように源氏物語は紫式部の作と断定して差し支えない。


紫式部の略歴(その1)

 紫式部は初めは籐式部と呼ばれたであろう。「籐」は藤原氏の略称で、式部は、父か兄が式部丞であったのによるものであろう。籐式部が紫式部と呼ばれるようになったのは、源氏物語中の若紫の巻が特にすぐれていたためとも、一条天皇が御乳母子の式部を上東門院に参らせられる時、わがゆかりの者ゆえ、あはれと思し召せと宣うたゆえとも、また、籐式部の名が幽玄でないとて、藤の花のゆかりに、紫の字に改めたとも諸説がある。私見では、この「紫」は、物語の女主人公の藤壺の名に関係があると考える。
 紫の上は「紫のゆかりの君」の意であって、若紫の巻の言辞の歌、「手につみていつしかも見む紫の根に通ひける野辺の若草」による。この「紫」は元来藤壺を指す。藤壺のゆかりの君というべきを、紫のゆかりの君と言ったのである。紫のゆかりという語は、源氏物語の随所にあらわれるが、すべて藤壺の血縁なる人の意に用いられ、常に紫の上を指している。
 そこで籐式部が紫式部と呼ばれるようになったのは、この藤壺のゆかり即ち紫のゆかりの物語りに由来すると思う。

 紫式部日記に藤原公任(きんとう)が、式部を探して「このわたりに若紫や侍ふ」と言ったと見えているのも、恐らく「紫の物語」、さらに言えば「若紫の物語の作者」という意味を象徴的に表現しているに相違ないと思われる。
(日本古典全書 池田亀鑑校注より)

源氏物語を読んできて(33)

2008年04月28日 | Weblog
4/28  
【紅葉賀】の巻 (4)

 紫の上は、源氏が御殿に居られながら、こちらに直ぐに来られないので、拗ねてむかむかしていらっしゃったのか、
源氏が「こちや」――こちらへいらっしゃい――
とお声をかけでも、知らん顔で、「入りぬるいその」(万葉集のうた)と、ただ口ずさんでおられるののが「いみじうざれてうつくし」――ひどく女っぽくて美しい――
源氏は「あなにく。かかる事口慣れ給ひにけりな」
――なんと憎らしい、こんなことが言えるようになったのですね――

 箏の琴を取って、いつものように笛を吹きつつお教えになり、また一緒にかき鳴らしていらっしゃいます。紫の上は、何事にも上達が早く、賢くていらっしゃいます。
源氏が、さあ、そろそろ…と言って例のごとく、夜の外出をされようとしますと、紫の上は心細そうにうつ伏してしまわれました。

 源氏は「外なるほどは恋しくやはある」
――私が留守にすると恋しいですか――
などと言って、この夜は「出でずなりぬ」
――今夜はどこにも行かないことにする――と言いますと、ご機嫌が直るのでした。

 源氏は、こんな風に御自邸に居られることの多いのを、左大臣方へ申し上げる人が居たようで、
左大臣邸の女房たちの話
「誰でしょう。もってのほかですこと。今までそんな女が居るとは聞いていませんし。殿を側に引きつけて、ふざけてるなんて、どうせ上品で奥ゆかしい人ではないでしょう。宮中でちょっと見かけて懇意になった女を、お隠しになっているのでしょう。なんでもまだ
物心つかぬおぼこだとのことですよ」

 帝の耳にも入られて
帝「いとほしく大臣の思ひ嘆かるなること……、おふなおふなかくわざとものしたる心を、……などかさ情けなくはもてなすなるぞ」
――気の毒にも、左大臣が嘆いているとのことだ。まだ物心つかぬ頃から、精一杯こうしてわざわざ世話をしてくれたものを、それ位のことが分からぬ年頃でもあるまいに、なぜそう無情な振る舞いをするのだ――

一方で帝は「心ゆかぬなめり、といとほしく思召す」
――さては、満足ゆかぬ夫婦仲らしい、気の毒だともお思いになるのでした。――
「この辺にいる女房にせよ、又方々の女達にせよ、素振りも評判もないようなのに、一体どこを遊び歩いてこんなに人にうらまれるのか」と言われます。 

 源氏は恐れ入った様子で、ご返事もおできになれない。

ではまた。


源氏物語を読んできて(恋文)

2008年04月27日 | Weblog
平安時代の恋をめぐっては、直接逢う前にまず、恋文のやりとりがありました。
思いを伝えるために、手紙には趣向を凝らしたに違いありません。
紙の選び方、色の選びかた、字の美しさ、歌のうまさ、教養の深さが重要でした。
高貴な姫君には、有能な女房がお側でその意を汲んで書いたようです。
一夫多妻のこの時代は、財力さえあれば、男性の思うまま、男女の年齢も幅広く、
自由だったと思われます。

この結び文には、桔梗が添えられています。

 しかし、藤原兼家の第二婦人であった、「蜻蛉日記」の作者は、そんな境遇の中で、女性の本心を書き上げました。「源氏物語」の書かれる約50年前でした。
(夫である藤原兼家との結婚生活や、兼家のもうひとりの妻である時姫(藤原道長の母)との競争、夫に次々とできる妻妾のことが書かれ、また唐崎祓、石山詣、長谷詣などの旅先でのできごと、上流貴族との交際、さらに母の死による孤独、息子藤原道綱の成長や結婚、兼家の旧妻である源兼忠女の娘を引き取った養女の結婚話とその破談など……)

話が逸れましたね。ではこの辺で。