永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて【解説】その1

2017年08月30日 | Weblog
『蜻蛉日記』上村悦子著  巻末の解説から  2017.8.30

一、 作者および近親者たち

(1)作者

 朱雀天皇の承平六年(936)ごろ誕生し、一条天皇の長徳元年(995)五月上旬逝去する。享年60歳ごろか。藤原倫寧(ともやす)の娘で兼家と天暦8年秋、結婚し、翌年8月道綱を産んだので道綱の母と呼ばれている。実名は不詳。勅撰和歌集では右大将道綱母、大納言道綱母、東宮大夫道綱母などと見えており、宮内庁書陵部の歌集には道綱母集、傳大納言殿母上集(ふのだいなごんどのははうえしゅう)の名が冠せられている。道綱が三条天皇の東宮時代に大納言で東宮傳(とうぐうふ)を兼任していたからである。
(中略)
 『尊卑分脈』、『和歌色葉集』、『百人一首抄』に、「本朝古今美人(三人)之内也」とあって美貌の持主と思われる。
(中略)  
……努力肌の歌人で、古歌や漢詩文にも通じ、その中の語句を活用し、種々修辞技巧を凝らしたソツのない歌を詠んでいる。この日記の中にはわが身のはかなさを百パーセント歌いあげた秀歌も多く見られ、歌人としてもすぐれていたが、どちらかと言うと作家としての才能の方がより豊かであると考えられる。

(2)父
 倫寧(ともやす)は藤原北家の流れを汲む冬嗣の長男長良(ながら)の孫惟岳と山城守恒基王女と間に延喜八年(908)ころ生まれ、文章生(もんじょうしょう)出身で天慶四年(941)ころに中務少丞となり、右衛門少尉、右馬助を経て天歴八年陸奥守、応和三年河内守、天禄元年ごろ丹波守、貞元元年伊勢守となる。典型的な受領として地方官を歴任したようで、日記にも「県(あがた)歩きの所」としばしば呼ばれている。温厚・円満な人柄であったことは日記を通して伺われるが、実直、忠な受領であったことは『小右記(おうき・小野宮実資の日記)』長元五年八月二十五日の条に、陸奥守在任中毎年遺金三千余両金を弁進していたことが実頼の日記をを引用して記されていることにより伺われ、さらに倫寧筆と伝えられる『本朝文粋』第六記載の源順、藤原為雅、橘伊輔との連署の奉状(内容は除目に際して新旧半々に任用してほしい)により学識の程も知られる。道綱母にとってもきわめて良き父であった。貞元二年(977)正四位下伊勢守在任中に没している(『尊卑分脈』)。



蜻蛉日記を読んできて(209)と解説

2017年08月27日 | Weblog
蜻蛉日記 下巻 (209) 2017.8.27

「今年いたう荒るるとなくて、はだら雪ふたたびばかりぞ降りつる。助のついたちのものども、また白馬にものすべきなどものしつるほどに、暮れはつる日にはなりにけり。明日の物、折り巻かせつつ、人にまかせなどしておもへば、かうながらへ、今日になりにけるもあさましう、御魂など見るにも、例のつきせぬことにおぼれてぞはてにける。京のはてなれば、夜いたうふけてぞたたき来なる。とぞ本に。」

◆◆この年は、天候がひどく荒れるというわけでもなく、まだら雪が二度ばかり降っただけでした。助の元日の装束など、また、白馬の節会に来ていく物などを用意しているうちに、この年の最後の日になってしまいました。明日被け物ととしての反物を折ったり、同じく被け物の絹を丸く巻いたり、侍女に任せなどして、考えてみるとこのように生きながらえて、今日まで過ごしてきたのも、あきれるばかりで、御魂祭などを見るにつけ、いつものように尽きることのない物思いにふけって、今年も終わってしまったのでした。ここは京のはずれなので、夜がすっかり更けてから、門を叩きながら回ってくる音が聞こえてくる。(とぞ本に)

■白馬(あおうま)=正月七日の白馬の節会

■明日の物=明日は元日。元日に禄、被け物として与える反物の類。

■御魂(みたま)=死者の霊を祭る仏事の魂祭(たままつり)で、当時は十二月晦日におこなわれた。

■たたき来(たたきく)=追儺をする人たちが門を叩きながら町を回る。夜が更けてから作者の家にもそれが回ってくる。

■とぞ本に=書写者がもとの本にこうなっているとの注記。


蜻蛉日記 下巻  上村悦子著から
【解説】

 巻末の三十日の記事は次の世代を担う若い貴公子道綱の新年を迎える準備に、母、作者は忙殺されたが静かな夜を迎えると、作者の脳裏には過ぎ去った二十一カ年のことが、ところどころ鮮明に思い浮かべられ、走馬灯のように流れ去っていった。

 ――摂関家の若い貴公子兼家の求婚、結婚、道綱出産、夫の漁食癖に悩んだ青春の日々、ライバル時姫の子女五人の出産、宿願の本邸入りの夢が破れたあとの不安の中年の日々、結婚十七年目元日の邸前素通り、鳴滝の山寺長期参籠、広幡中川への移居等々――
 
兼家との関係ももう書きつけるほどのこともなくなり、次の世代の人々にバトンを渡す今、道綱や養女のように新しい年に対する夢で胸のふくらむ思いもなくなったことをしみじみ感慨深く思われたのであろう。外では追儺の戸を叩く音が耳にひびき、静かな京のはずれの住居の大晦日の夜は次第に更けて行く。

以上で下巻が終わるとともに道綱母の二十一年間の日記文学『蜻蛉日記』上・中・下三巻も記事が終わり擱筆された。



蜻蛉日記を読んできて(解説)

2017年08月24日 | Weblog
蜻蛉日記 下巻  上村悦子著より  2017.8.24

【解説】

 この項は道綱が八橋の女に求婚し、彼とその女との贈答歌が記されている。前述の大和だつ女の場合にも考えられたと同様にこの項の道綱の歌も作者が応援して添削したり代詠なども行われていたと考えられる。
(中略)

 道綱は八橋の女へ刻苦勉励して求婚歌を送り続け、この求婚に対して真剣であり、相手に対して誠意を有してしることを示そうと努力している。(中略)当事者二人とも相手の容貌・風姿や人柄、性格、声などもまったく知らない。
(中略)
 
 当人が歌を贈答しあっている間に女性の親や後見者は求婚者の身元を十分調べて、これなら大丈夫と見極めて結婚ということになる。
(中略)

 さて、今一つ注目すべきこととして、この年、史実においては道綱が家の女房源広女(みなもとのひろしのむすめ)との間に道命(どうみょう)を儲けているので、遅くともこの女性と天延元年以前から関係を有していたと思われる。

 しかしこの日記にはそうした道綱の行状や前述のごとき兼家の苦境時の姿はまったく描かれず、青年道綱の真剣な求婚の姿ならびに、貫録のついた高官兼家の悠揚迫らざる姿や(184項)のように大勢の上達部や殿上人にかしずかれ、とりまかれている華やかな姿しかしるされていないところに、本日記がありのままの事実のみを書き記した日記ではなく、作家道綱母の手になる日記文学作品であることを感じるのである。こうして(この部分だけでなく三巻を通じて)作者の虚構も加わって『蜻蛉日記』が形成されているようにおもわれるのである。

蜻蛉日記を読んできて(208)

2017年08月22日 | Weblog
蜻蛉日記 下巻 (208) 2017.8.22

「ふる年に節分するを、『こなたに』など言はせて、
〈いとせめて思ふ心を年のうちに春くることも知らせてしがな〉
返りごとなし。

◆◆年内に節分をするので、助が「方違えはこちらへ」などと言わせて、
(道綱の歌)「年内に春がきたように、思いつめているこの胸の中をすっかり打ち明けて晴々したとお知らせしたいものです。どうかこちらへおいでいただき、私の思いを聞き届けてください」
返事はきませんでした。◆◆



また『ほどなきことを、すぐせ』などやありけむ、
〈かひなくて年暮れはつるものならば春にもあはぬ身ともこそなれ〉
こたみもなし。いかなるにかあらんと思ふほどに、『とかう言ふ人あまたあなり』と聞く。さてなるべし。 

◆◆また、助が「方違え(一晩)ほんのわずかな間ですから、こちらでお過ごしください」などと言ってやったのかしら。
(道綱の歌)「待つ甲斐もなくあなたに会えず、年が暮れてしまうのでしたら、私は春を待たずに死んでしまうでしょう」
今度も返事はありません。どうしたものかと思っているうちに、「あの女(ひと)には、いろいろ言い寄る男性がたくさんいるそうです」と言うことを耳にします。
そういうことがあったからでしょうか。◆◆



「〈われならぬ人待つならば松といはでいたくな越しそ沖つ白波〉
返りごと、
〈越しもせず越さずもあらず波寄せの浜はかけつつ年をこそふれ〉

◆◆(道綱の歌)「私以外の人を松のなら、待つ(松)などと紛らわしいことを言って私を裏切らないでくれ」
返事には
(八橋の歌)「あなたを裏切るでもなく、待つでもなく、波が寄せる浜のように、私はどなたにも心を寄せながら長い間過ごしてまいりました」◆◆


「年せめて、
〈さもこそは波のこころはつらからめ年さへ越ゆる松もありけり〉
返りごと、
〈千歳ふる松もこそあれほどもなく超えてはかへるほどや遠かる〉
とぞある。」

◆◆年がおしせまって、
(道綱の歌)「薄情な波(あなた)だけではなく年にまで越されても色を変えぬ松のように、一年間心を変えないで待っている人(わたし)もここにはいますよ」
返事に、
(八橋の歌)「千年を経た松もあるように、千年待つ人もいます。一年越すくらいなんでもありません。あとわずかで年が改まります。あなたの待つ苦しみももう長くはないではありませんか」
と書いてあります。◆◆



「あやし、なでふことぞと思ふ。風吹き荒るるほどにやる。
〈吹くかぜにつけても物をおもふかな大海のなみのしづ心なく〉
とてやりたるに、『きこゆべき人は、けふのことをしりてなん』と異手して、一葉ついたる枝につけたり。たちかへり『いとほしう』など言ひて、
〈わがおもふ人は誰そとはみなせどもなげきの枝にやすまらぬかな〉
などぞ言ふめる。」

◆◆変なことを言う、どういうことかしら。風の吹き荒れている最中に助おが手紙を送ります。
(道綱の歌)「風が吹くにつけても物思いは絶えません。大海の波が立ち騒ぐように心が落ち着かず心が騒いで」
と言ってやると、「お返事を申し上げるはずの人(八橋)は、今日のことで手がいっぱいでありまして」と別人の筆跡で、葉が一枚ついた枝につけて手紙を寄こしました。
折り返し助は、「ああ我ながらみじめな気持で」などと書いて、
(道綱の歌)「私の思う人はあなた以外の誰でもないと信じていますが、まるで木の葉が枝で今にも散りそうにゆらいでいるように、私も嘆きに心が安まらぬことです」
などと言ってやったようでした。◆◆


■ふる年に節分する=年内に立春があったこと。この「節分」は立春の前夜。その夜、方違えをする風習があった。

■けふのことをしりて=八橋の女が、他の男と結婚する、ととる説に従う。他に説もある。

■一葉ついたる枝=「葉」は言葉の意で、最後の手紙を暗示するのか。

蜻蛉日記を読んできて(207)その2  

2017年08月18日 | Weblog
蜻蛉日記 下巻 (207) その2   2017.8.18
 
「しはすになりにたり。また、
〈片敷きし年はふれどもさごろもの涙にしむるときはなかりき〉
『ものへなん』とて、返りごとなし。又の日ばかり、返りごと乞ひにやりたれば、そばの木に、『みき』とのみ書きておこせたり。
やがて、
〈我がなかはそばみぬるかと思ふまでみきとばかりもけしきぶむかな〉
返りごと、
〈雨雲のはるけき松なればそばめる色はときはなりけり〉

◆◆十二月になってしましました。また助から、
(道綱の歌)「片敷きの衣にひとり寝をして長年になりますが、今のようにあなた恋しさのために涙で夜着が濡れたことはありませんでした。」

「余所に出かけていまして」といって返事はありません。次の日あたりに返事を貰いに使いをやったところ、そばの木に「見ました」とだけ書いて寄こしました。

助はそれを受け取るとすぐに、
(道綱の歌)「私とは仲違いしたのかと思うほどに、「見た」とだけの返事とは随分高飛車な返事ですね。」

返事には、
(八橋の歌)「私は雲のかかった高い山の頂に生えている、年中緑色の松のようなものですから、つれない態度はかわりません」



蜻蛉日記を読んできて(207)その1

2017年08月09日 | Weblog
蜻蛉日記 下巻 (207) その1  2017.8.9

「さて助に、『かくてや』など、さかしらがる人のありて、ものいひつく人あり。八橋のほどにやありけん、はじめて、
〈葛城や神代のしるし深からばただ一言にうちもとけなん〉
返りごと、こたびはなかめり。

〈帰るさの蜘蛛手はいづこ八橋のふみみてけんとたのむかひなく〉
こたみぞ返りごと、
〈通ふべき道にもあらぬ八橋をふみみてきともなにたのむらん〉
と書き手して書いたり。また、
〈何かその通はん道のかたからんふみはじめたる跡をたのめば〉
又、返りごと、
〈尋ぬともかひやなからん大空の雲路は通ふあとはかもあらじ〉
負けじと思ひ顔なめれば、又、
〈大空もくものかけはしなくはこそ通ふはかなき嘆きをもせめ〉
かへし、
〈ふみみれど雲のかけはしあやふしと思ひ知らずもたのむなるかな〉
又やる、
〈なほをらん心たのもし葦鶴の雲路おりくる翼やはなき〉
こたみは『暗し』とてやみぬ。

◆◆さて、助に、「このように独り身では」などと世話をやく人がいて、助が求婚する女(ひと)ができました。八橋のあたりに住んでいる女であったかしら。はじめに、
(道綱の歌)「葛城山の一言主(ひとことぬし)の神の霊験が確かなら、私の一言にうちとけて心を開いてほしい」
返事は、このときはなかったようでした。

(道綱の歌)「八橋を通って行ったのですから、手紙を差しあげて安心していたのですが、一体お返事はどこへ行ってしまったのでしょう。手紙を見てくださったことと、頼りにしていましたのに。」

今度は返事がきました。
(八橋の歌)「八橋の道は一度踏んでみたからといってとても通うことはできません。手紙を送り通いたいと期待されても、お受けしませんのに、一度手紙を見たからといって、何を頼みにされるのでしょう」

と、達筆の侍女に書かせてありました。また助から、
(道綱の歌)「どうして通えぬことがありましょう。踏み始めた道の足跡、すなわちお手紙を差し上げはじめて今後に期待をかけているのですから、これから通う道はむずかしくないでしょう。」

また、返事には、
(八橋の歌)「お尋ねくださっても何の甲斐もないでしょう。私の方への道は蜘蛛手ではなく、大空の雲路ですから、踏み通う跡も残ってはいないでしょうから」

負けまいと思っている様子が見えるので、助は、また、
(道綱の歌)「大空にも雲の梯(かけはし)があるのですから、通うことができますよ」

返事に、
(八橋の歌)「足をかけても雲の梯はあやういものだということがお分かりにならず、あてになさっていらっしゃるようですこと」

また、手紙をやります。
(道綱の歌)「何と言われても、雲の梯にとどまっていましょう。いざとなれば、降りるための翼があるのですから。いつかはきっとお逢いできるとあてにしております」

今度は「暗くなったから」ということで返事がありませんでした。



蜻蛉日記を読んできて(解説)

2017年08月01日 | Weblog
蜻蛉日記 下巻  上村悦子著より   2017.8.1

【解説】

 賀茂の臨時の祭の直前、急に道綱が舞人に指名された。舞人が差支えのため(急病とか穢れなどのためか)辞退したのでその代役である。作者は喜びと同時にあわてもし、途方にもくれたであろうが、兼家が支度万端を整えて届くてくれ、供回りなどのこともいっさい指図して取り決めてくれたので作者もほっとしたであろう。父親として当然であるが、また兼家に感謝の心も湧いたであろう。
 
 試楽の日、穢れのため宮中へ付き添ってやれないから、代わりに作者邸に来てリハーサルをしてあげようとの兼家の申し出を素直に受けず、道綱を手早く送り出したが、そのあと一人で泣きくずれてします。気強く会うことを避けた作者の我の強さとともに、反面弱い女心がのぞかれ、権門家の妻として物質面では事欠かなくても、夫との心の交流のない寂しさがにじみ出ている。
 (中略)
 
 久しぶりに見る兼家の姿は権門家の象徴そのものであって、夫が相当高位の官人たちに慇懃にかしずかれ、とりまかれている豪勢な姿や、きらびやかな供人を従えた凛々しいわが息子道綱が上達部から好感を持たれ、ちやほやされている晴姿を目の当たり見て作者も面目をほどこしたような心持になる。老いた父倫寧(ともやす)が兼家に目をかけられている姿もうれしかった。作者が久しぶりに明るい満足感を味わった一ときであったことをしみじみ書いている。
 
 しかし、このころ兼家が実兄の関白太政大臣兼通に不当に圧迫され不遇であったことも前に延べたとおりである。現実では兼通をはばかりこの項のような情景はなかったかも知れないが、ここには、やはり夫、兼家のあるべき姿、あらまほしき姿や試楽の日における父親としてのあるべき言動が描かれ、また道綱の晴れの姿や父倫寧の優遇された姿をも描いている。