永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(102)(103)

2016年02月28日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (102)2016.2.28

「さはれ、よろづにこの世のことはあいなく思ふを、去年の春、呉竹植ゑんとて乞ひしを、このごろ『たてまつらん』と言へば、『いさや、ありも遂ぐましう思ひにたる世の中に、心なげなるわざをやしおかん』と言へば、『いと心狭き御ことなり。行基菩薩はゆくすゑの人のためにこそ、実なる木は植ゑたまひけれ』など言ひて、おこせたれば、あはれにありし所とて、見む人も見よかしと思ふに、涙こぼれて植ゑさす。」
◆◆それにしても、なにもかもこの世のことはおもしろくないと思うこのごろですが、去年の春に呉竹を植えようと思って頼んでおいたのを、このごろ、「差し上げましょう」と言うので、「さあ、どうしましょう。いつまでも居られまいと思うようになったこの世に、思慮無く未練があるように見られることをしておく気になりません」といいますと。「それはまことにお心の狭いお考えです。行基菩薩は後の世の人のためにこそ、実のなる庭木をお植えになりましたよ」などと言って、呉竹を届けてきましたので、この呉竹を見る人があるなら、ここがかつて道綱母が住んでいたところだと、気の毒に思って見てくれたら良いと思い、涙をこぼしながら侍女に植えさせたのでした。◆◆



「二日ばかりありて雨いたく降り、東風はげしく吹きて一すぢ二すぢうち傾きたれば、いかで直させん、雨間もがなと思ふままに、
<なびくかなおもはぬ方に呉竹のうき世の末はかくこそありけれ>
◆◆二日ほどたって、雨がひどく降り、東風がはげしく吹いたので、一、二本倒れかけていたので、なんとかして直させよう、雨の晴れ間が欲しいのにと思いながら、
(道綱母の歌)「庭の呉竹が思いがけぬ方向に傾いてしまった。夫兼家の浮気もそれと同じで、ままならぬ夫婦の末路はこうなるものだったのだ。」◆◆





蜻蛉日記  中卷  (103) 2016.2.28

「今日は二十四日、雨の脚いとのどかにてあはれなり。夕つけていとめづらしき文あり。『いとおそろしきけしきにおぢてなん、日ごろへにける』などぞある。返りごとなし。
五日、なほ雨やまで、つれづれと、思はぬ山にとかや言ふやうに物のおぼゆるままに、つきせぬ物は涙なりけり。
<降る雨の脚とも落つる涙かなこまかに物を思ひ砕けば>」
◆◆今日は二十四日(二月)、雨足はたいそうのどかでしみじみとしています。夕方になんと珍しくあの人から手紙がきました。「とてもあなたの怒っている様子を思うと気後れしてしまって、ついつい日数を重ねてしまったので…」などと書いてあります。返事はしません。二十五日もなお雨は止まず、手持ち無沙汰でいると、「思わぬ山に」とかいう古歌が思い出されて、私のいまの状態がそのままに思え、それにつけても尽きせぬものは涙なのでした。
(道綱母の歌)「降り続く雨のように涙がこぼれることよ、ちぢに思い乱れているので」◆◆


■「思はぬ山に…」=後撰集「時しもあれ花の盛りにつらければ思はぬ山に入りやしなまし」


蜻蛉日記を読んできて(101)

2016年02月26日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (101) 2016.2.26

「二月も十よ日になりぬ。『きく所に三夜なん通へる』と、千種に人はいふ。つれづれとあるほどに彼岸に入りぬれば、なほあるよりは精進せんとて、表筵、ただの筵のきよきに敷き替へさすれば、塵はらひなどするを見るにも、かやうのことは思ひかけざりし物を、など思へばいみじうて、
<うち払ふ塵のみ積もる狭筵をなげく数にはしかしとぞ思ふ>」
◆◆二月も十日すぎになりました。「(兼家様が)うわさの女の所へ三夜(結婚の成立)通ったそうな」と人々はさまざまに言っています。なんとはなしに日を送っているうちに、彼岸に入ったので、何をせぬよりは精進しようと思いついて、表筵(うわむしろ)を普通のこざっぱりとし他筵に敷き替えさせて、侍女が塵をはらったりしているのを見るにつけ、こんなに塵が積もるほど夫が訪れなくなるとは思いもかけなかったと思うと、切なくなって、
(道綱母の歌)「払い捨てるほどの塵が積もりに積もったこの上筵を、嘆き尽きせぬ私はもう敷くまい」◆◆



「これよりやがて長精進して山寺にこもりなんに、さてもありぬべくは、いかでなほ世の人のたはやすく背く方にもやなりなましと思ひ立つを、人々『精進は秋のほどよりするこそ、いとかしこかなれ』と言へば、えさらず思ふべき産屋のこともあるを、これ過ごすべしと思ひて、立たむ月をぞ待つ。」
◆◆今から早速長精進して山寺に籠ろう、そしてできるなら、世間の人が尋ねて来にくく、自分の方も俗世間と縁を切って尼にでもなろうかしらと、そんな気になったのに、侍女たちが、「精進は秋ごろからするのが当たり前のことで、時期が悪うございます」などと言いますし、捨てては置けない出産(妹の)のこともあるので、これを済ませてからにしようと思って、翌月になるのを待つことにしました。◆◆


■■きく所=噂のところ。近江の女をさす。

■■表筵(うはむしろ)=帳台の中の敷物で、綿入りの高級品。

蜻蛉日記を読んできて(100)

2016年02月22日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (100) 2016.2.22

「また二日ばかりありて、『心の怠りはあれど、いと事繁きころにてなん。夜さり物せんにいかならん、おそろしさに』などあり。『心地あしきほどにて、えきこえず』と物して、思ひ絶えぬるに、つれなく見えたり。あさましと思ふに、うらもなくたはぶるれば、いと妬さに、ここらの月ごろ念じつることを言ふに、いかなる物とたへていらへもなくて、寝たるさましたり。」
◆◆それから二日ほどして、あの人から「私の怠慢から伺わない日が続いているが、公務も多忙でしてね。今夜伺いたいと思うがご都合はいかが。こわごわながら」などとありました。「気分がすぐれません折から、お答え申しあげかねます」と返事をして、すっかりあきらめていますと、平気な顔をしてやってきました。あきれたと思っているのに、けろっとしていちゃついてくるので、憎らしく、ここのところの我慢に我慢を重ねてきた恨みつらみをぶつけると、何一つ返事もせず、寝たふりをしています。◆◆


「聞き聞きて、寝たるがうちおどろくさまにて、『いづら、はや寝たまへる』と言ひ笑ひて、人わろげなるまでもあれど、岩木のごとして明かしつれば、つとめて物も言はで帰りぬ。」
◆◆よくよく聞いておきながら、寝ていて急に目が覚めたふりをして、「どれ、もうお寝すみかね」と言って笑い、きまり悪いくらいからかって、みっともないくらいの振る舞いをしてくるけれど、私はその手に乗るまいと身体を固くして一晩過ごしたので、早朝あの人は物も言わず出て行ってしましました。◆◆


「それよりのち、しひてつれなくて、例のことはり、『これとしてかくして』などもあるもいと憎くて、言ひ返しなどして、言絶えて廿よ日になりぬ。『あらたまれども』といふなる日のけしき、鶯の声などを聞くままに、涙の浮かぬ時なし。」
◆◆それから後、ことさら平気な態度で、「この着物をこうして、ああして」などと言ってくるのも憎らしく、断って返したりして、音沙汰なくなって二十日あまりにもなってしまったのでした。「改まれども…」と古歌にある春の日差し、うぐいすの声などを耳にするにつけても、「ふりゆく」わが身が思われて、涙の浮かばぬ時とてないのでした。◆◆


■例のことはり=未詳

■あらたまれども=古今集「百千鳥さへづる春は物ごとに改まれどもわれぞふりゆく」

蜻蛉日記を読んできて(99)の2

2016年02月20日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (99)の2  2016.2.20

「三日、また申の時に一日よりもけにののしりて来るを、『おはします おはします』と言ひ続くるを、一日のやうにもこそあれ、かたはらいたしと思ひつつ、さすがに胸はしりするを、近くなればここなる男ども中門おし開きて、ひざまづきてをるに、むべもなく引き過ぎぬ。今日まして思ふこころおしはからなん。」
◆◆三日(四日の誤記か)、また申の時(午後三時~五時ごろ)に、一日のときよりも一層高らかに先払いの声をしてくるので、侍女たちが「お越しです。お越しです」と言い続けているものの、この間のようになる恐れもあるし、心苦しく切なく思いつつも、やはりどこか胸がどきどきしていたのです。しかし、一行が近づいてきたので、召使いたちが中門の扉を開いて、膝まづいているのに、案の定素通りしてしまったのでした。今日は先日にも増してどんなに辛く恥ずかしい思いであったか、私の心中を察してほしい◆◆



「またの日は、大饗とてののしる。いと近ければ、こよひさりともと心みんと、人しれず思ふ。車の音ごとに胸つぶる。夜よきほどにて、みな帰る音も聞こゆ。門のもとよりもあまた追ひ散らしつつ行くを、過ぎぬと聞くたびごとに心はうごく。かぎりと聞き果てつれば、すべてものぞおぼえぬ。あくる日まだつとめて、なほもあらで文見ゆ。返りごとせず。」
◆◆次の五日は、右大臣藤原伊尹邸での大饗宴とてたいそう騒がしい。我が家にたいへん近いので、あの人はいくらなんでも今夜こそは来るのではないか、様子を見てみようと内心では思っていました。車の通る音ごとに胸がどきどきする。夜がかなり更けたころ、招かれた人々が帰って行く車の音も聞こえてきます。我が家の門のすぐそばを通って、次々と威勢よく先払いしながら過ぎていくのを、ああ一台過ぎた、また一台、と聞くごとに胸がうずく。今通り過ぎたのが最後の車だったと聞き終わってしまうと、私は呆然として放心状態になってしまったのでした。
翌朝、早くに、あの人は放っておくわけにもいかないと見えて手紙を寄こした。私は返事をしない。◆◆

■三日=「大饗」が五日なので、その前日として四日の誤記か。

■かたはらいたし=心苦しく、切ない

■大饗(だいきょう)=正月に中宮・東宮・摂関・大臣家で行われた大饗宴。ここは右大臣伊尹(これただ=兼家の兄)

■いと近ければ=藤原伊尹邸は一条大宮、作者邸は一条西洞院で、近い

蜻蛉日記を読んできて(99)の1

2016年02月17日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (99)の1  2016.2.17

天禄二年(971年)
作者道綱母:35歳
兼家   :43歳
道綱   :17歳

「さて、年ごろ思へば、などにかあらん、ついたちの日は見えずしてやむ世なかりき。さもやと思ふ心づかひせらる。未の時ばかりに先追ひののしる。『そそ』など人もさわぐほどに、ふと引き過ぎぬ。急ぐにこそはと思ひかへしつれど、夜もさてやみぬ」
◆◆さて、これまでの年月(結婚後十六年間)というものを考えると、不思議にも元日にあの人が姿を見せずじまいになる時はなかった。ひょっとして今日も来てくれるかしらと、
気がそわそわする。未(ひつじ=午後一時~三時)の時刻に、やかましい先払いの声が聞こえてきました。「そら、そら」と侍女たちが騒ぎたっているうちに、さっさと門前を通り過ぎてしまったのでした。急ぎの外出だったからかしらと思い返してみたけれど、夜もそれっきりで音沙汰がなかったのでした。◆◆



「つとめて、ここに縫ふ物ども取りがてら、『きのふの前渡りは、日の暮れにし』などあり。いと返りことせまうけれど『なほ、年のはじめに腹だちな初めそ』など言へば、すこしはくねりて書きつ。かくしも安からずおぼえ言ふやうは、『このおしはかりし近江になん文かよふ。さなりたるべし』と、世も言ひさわぐ心づきなさになりけり。さて二三日もすごしつ。」
◆◆翌朝、こちらに仕立物を取りに使いをよこしたついでに、「昨日、あなたの家の門前を通ったけれど、すっかり日が暮れていたので」などと手紙にありました。とても返事を書く気がしませんでしたが、侍女が、「まあまあ、やはり新年早々腹立ちはじめてはいけません」と言うので、少し恨みを込めて返事を書きました。このように心穏やかならず、それを口に出したりするのは、「何か変だと思っていた近江の女に手紙を通わせている。もうそんな仲になったのだろう」と、世間でもさかんに話題にしている不愉快さのせいだったのでした。そんなふうで、二、三日を過ごしました。◆◆




蜻蛉日記を読んできて(98)の2

2016年02月13日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (98)の2 2016.2.13

「南面にこのごろ来る人あり。足音すれば、『さにぞあなる、あはれ、をかしく来たるは』と、沸きたぎる心をばかたはらに置きてうち言へば、年ごろ見知りたる人向かひゐて、『あはれ、これにまさりたる雨風にも、いにしへは人の障りたまはざめりし物を』と言ふにつけてぞ、うちこぼるる涙のあつくてかかるに、おぼゆるやう、
<思ひせく胸のほむらはつれなくて涙を沸かす物にざりける>
と、くり返し言はれしほどに、寝る所にもあらで夜は明かしてけり。
その月、三たびばかりのほどにて、年は越えにけり。そのほどの作法、例のごとなればしるさず。

◆◆この家の南に面した部屋(妹が住む)に、近頃通ってくる人がいます。足音がしますので、「いつものお方のようね。まあ、この雨の中をよくもお出でになること」と、私は羨ましく妬ましい思いをさておいて言うと、年来私たちのぎくしゃくした夫婦仲を知っている古参の侍女が、「ほんとうに、これ以上の風雨のときにも、昔はお殿さまは苦にもなさらず、お出でになりましたものを」と話すのにつれて、あふれる思いが涙となって頬をぬらしているときに、心に浮かんだ歌は、
(道綱母の歌)「あの人の訪れのない日の苦しみは、抑えても抑えても炎となって燃え立たせ、
悲しみの涙を沸きたぎらせることよ。」
と、何度もつぶやかれているうちに、寝所でもない所で、一夜を明かしてしまったのでした。
その月は三回くらい来てくれた程度で年を越してしまいました。年末年始のしきたりはいつものようなので、わざわざ記さないでおきます。◆◆


蜻蛉日記を読んできて(98)の1

2016年02月10日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (98)の1  2016.2.10

「十二月のついたちになりぬ。七日ばかりの昼、さしのぞきたり。いまはいとまばゆき心地もしにたれば、几帳引き寄せて、けしきものしげなるを見て、『いで、日暮れにけり、内裏より召しありつれば』とて立ちにしままに、おとづれもなくて十七八日になりにけり。」
◆◆十二月のはじめになりました。七日ごろの昼に、あの人がちょっと顔を見せたのでした。いまはとても顔を合わせる気がしないので、几帳を引き寄せて、不愉快そうにしている私をみて、
あの人は「どれ、もう日が暮れてしまった。内裏からお召しがあったので」と言って出て行ったまま、音さたもなくて十七、八日になってしまいました。◆◆


「今日の昼つ方より雨いとうはらめきて、あはれにつれづれと降る。まして、もしやと思ふべきことも絶えにたり。いにしへを思へば、わがためににしもあらじ、心の本上にやありけん。雨風にも障らぬ物とならはしたりし物を、今日おもひ出づれば、昔も心のゆるぶやうにもなかりしかば、わが心のおほけなきにこそありけれ。あはれ、障らぬものとみし物を、それまして思ひかけられぬ、とながめ暮さる。雨の脚おなじやうにて、火ともすほどにもなりぬ。」
◆◆今日、昼ごろから雨がひどく音を立ててぱらぱらと降ってきて、しみじみと寂しく降り続いています。なおさらのこと、ひょっとしてあの人が来てくれるかという望みも絶えてしまった。昔のことを思うと、私へは必ずしも真の愛情の上の訪れではなかったのかも知れなく、あの人の本来の好き心で来たいから来ていたのだろう。でもその頃は、雨風も厭わずいつも訪ねてきてくれたのにと、今になって思いおこすと、昔だって気の許せるようなことはなかったのだから、私がうぬぼれていたということだったのでしょう。あの人の心を雨風にも障らぬものと思っていたのに、そんなことはますます期待できないことだと、物思いに沈みながらぼんやりと一日を過ごしてしまった。雨足は相変わらずで、灯ともし頃になったのでした。◆◆

■まばゆき心地=顔を合わせたくない気持ち。

■几帳(きちょう)=他から見えないように、室内に立てる道具、土居(つちい)という四角な台に二本の細い柱を立て横木をわたして、これに張(とばり)をかけて垂らす。女は親しい人とも、これを隔てて会うのが普通である。写真。

蜻蛉日記を読んできて(97)

2016年02月07日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (97) 2016.2.7

「十一月になりて大嘗会とてののしるべき。その中には、すこし間近く見ゆる心地す。冠ゆへに人もまだあいなしと思ふ思ふのわざも習へて、とかくすれば、いと心あわただし。こと果つる日、夜ふけぬほどにものして、『行幸に候はで悪しかりぬべかりつれど、夜のふけぬべかりつれば、そら胸やみてなんまかでぬる。いかに人言ふらん。あすはこれが衣着かへさせて出でん』などあれば、いささか昔の心ちしたり。」
◆◆十一月に入って大嘗会ということで、あの人はたいそう忙しそうでした。その最中にありながら、結構たびたびこちらへ姿をみせるようでした。叙爵のことがあるので、あの人も私も、道綱にはまだ無理かと思う御礼言上の作法も、よく練習するようにと言って、あれこれ面倒をみてくれるので、ひどくあわただしい。大嘗会の終わった日、あの人が真夜中にならないうちに訪れてきて、「行幸に最後までお供しないで、本当に悪かったけれど、夜がすっかり更けてしまいそうだったから、胸が苦しいと仮病を装って退出してきたのだ。人はどんな噂をしているだろう。明日はこの子(道綱)の衣装を五位の官服に着替えさせて出かけよう」などと言うので、すこしばかり、昔に返ったような気がしたのでした。◆◆



「つとめて、『供にありかすべき男どもなどまゐらざめるを、かしこに物してととのへん。装束して来よ』とて出でられぬ。よろこびにありきなどすれば、いとあはれにうれしき心地す。それよりしも、例の慎むべきことあり。二日も『かしこになん』と聞くにも、たよりにもあるを、さもやと思ふほどに夜いたくふけ行く。ゆゆしと思ふ人もただひとり出でたり。胸うちつぶれてぞあさましき。『ただいまなん、帰りたまへる』など語れば、夜ふけぬるに、昔ながらの心地ならましかばかからましやは、と思ふ心ぞいみじき。それより後も音なし。」
◆◆翌朝、あの人は、「道綱の供人に連れて行くはずの従者達がまだ参らぬようだから、邸へ帰って勢ぞろいしよう。道綱は装束をつけて本邸へくるように」と言って出ていかれました。叙爵の御礼回りなどするので、たいそう晴れがましい気がする。その後は例によって、物忌みがあるからとのことでした。二十二日にも、子どもが「本邸に参ります」とのことで、よいついで(道綱を送りがてら)として、ひょっとしてこちらに見えるかしらと思って待っている間に、夜はすっかり更けてしまったのでした。それに心配していた道綱はたった一人で帰ってきました。胸もつぶれるほど、あきれてしまった。「お父上はたった今あちらへお帰りになりました」などと道綱が語るので、真夜中なのに一人で帰宅させるなんて、昔に変わらぬ気持ちがあるならば、こんなつれないことはしないだろうに、と思うと、やはり切ない気持ちになるのでした。それから後も音沙汰無しでした。◆◆


■行幸(みゆき・ぎょうこう)=天皇が大嘗会のため八省院(17日)、豊楽院(18~20日)に御幸すること。

■衣=従五位に叙せられたので、道綱に五位の緋色の袍をきせる。
従五位(じゅごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正五位の下、正六位の上に位する。贈位の場合、贈従五位という。近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。また、華族の嫡男が従五位に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。

■写真:緋色の袍


蜻蛉日記を読んできて(96)

2016年02月04日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (96) 2016.2.4

「九、十月もおなじさまにて過ぐすめり。世には大嘗会の御禊とてさわぐ。われも人も物みる桟敷とてわたり見れば、御輿のつら近く、つらしとは思へど目眩れておぼゆるに、これかれ『や、いで、なほ人にすぐれ給へりかし。あなあたらし』なども言ふめり。聞くにもいとど物のみすべなし。」
◆◆九月、十月もあの人の訪れは同じような状態で過ごしたようでした。世間では大嘗会の御禊だと騒いでいます。私も家の者も(妹か)観覧の席があるというので、行ってみると、御輿のそば近くにあの人(兼家)が、供奉していて、恨めしい人だとおもうけれど、威風堂々たる大将ぶりに、目も眩む思いでいると、周囲のだれかれが、「ほんとうにまあ、なんといっても、まあ、人にずばぬけていられますね。なんとご立派なこと」などと言っているようだ。それを耳にするにつけ、どうしようもなく切ない気持ちになるのでした。◆◆


■大嘗会の御禊(だいじょうえのごけい)=円融天皇即位の大嘗会。この年は十月二十六日。
  御禊は、天皇の即位後、大嘗会 (だいじょうえ) の前月 に賀茂川の河原などで行うみそぎの儀式。


蜻蛉日記を読んできて(95)

2016年02月01日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (95) 2016.2.1

「五日の日は司召とて、『大将に』などいとど栄えて、いともめでたし。それより後ぞ、すこししばしば見えたる。『この大嘗会に院の御給うばり申さん。をさなき人に冠せさせてん。十日の日』と定めてす。ことども例のごとし。」
◆◆五日は司召の除目ということで、あの人は「大将に昇進」などと、ますます栄達して、まことにおめでたいことです。それから後、幾分しげしげと訪れてきました。「今度の大嘗会に、院に叙爵を賜るようお願いするつもりだ。子どもに元服をさせておこう。十九日に。」と決めて、執り行ないました。すべては型どおりに。◆◆


「引き入れに源氏の大納言物したまへり。ことはてて、方ふたがりたれど、『夜ふけぬるを』とて、とどまれり。かかれども、こたみや限りならんと思ふ心になりにたり。」
◆◆引き入れには源兼明(醍醐天皇皇子。高明の兄、五十七歳。一度臣籍に降下、のち、親王宣下を受ける)大納言さまがおなりになりました。式が終わって、方角がふさがっていたけれど、夜が更けてしまったからということで、当家に泊まったのでした。しかしながら、あの人の訪れも、今夜が最後ではないかしらと、こころの片隅で感じていたのでした。◆◆


■司召(つかさめし)=司召の除目(じもく)。兼家は中納言のまま右大将を兼任。

■院の御給うばり(いんのおんたうばり)=「院」は冷泉院。「御給うばり」は院や東宮、三宮(皇后、皇太后、大皇太后)など叙位任官を朝廷に申請する権利を有する方が、推薦した人を叙位任官させ、代償としてその官位に見合った俸禄をその方に納めさせること。

■冠す(かうぶりす)=元服してはじめて冠をつけること。元服するの意。

■引き入れ=元服式の際、加冠をする役。

■十日の日=十九日とも。