永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(6)(7)(8)

2015年04月01日 | 蜻蛉日記を読んできて
蜻蛉日記  上巻   (6)

「かくて、あるやうありてしばし旅なるところにあるに、ものして、つとめて、『今日だにのどかにと思ひつるを、便なげなりつれば、いかにぞ。身には山がくれとのみなむ』とある返へりごとに、ただ、
<おもほえぬかきほにをれば撫子の花にぞ露はたまらざりける>
など言ふほどに、九月になりぬ。」
――こうしているうちに、事情があって(物忌みなどで方たがえ)しばらく別のところに移っていたところに、あの人が来て、翌朝、(兼家歌)「せめて今日くらいはゆっくりしたいと思ったが、どうも迷惑そうだね。どうしたのか私を嫌って山にでもかくれたのかね」と言ってきた返事に、ただ
(道綱母歌)「手折った撫子の花に露が留まらないのとおなじように、あなたは来てもすぐに帰ってしまいます」こんなふうにしたためているうちに9月になりました。――


蜻蛉日記  上巻   (7)(8)

「つごもりがたにしきりて二夜ばかり見えぬほど、文ばかりある返りごとに、
<きえかへり露もまだひぬ袖のうへに今朝はしぐるる空もわりなし>
たちかへり、返りごと、
<おもひやる心のそらになりぬれば今朝はしぐると見ゆるなるらん>
とて、返りごと書きあへぬほどに、見えたり。」
――月末ごろに二夜つづけて訪れがなく文だけがきた返事に、
(道綱母歌)「つづけて二夜もお出でにならず死ぬ思いの私の涙も乾かぬうちに、今朝は時雨までふりそそぐ空、辛くてなりません」
折り返しの返事に、
(兼家歌)「あなたを思うあまり、心がうわの空になったので、うわの空の空から私の涙が時雨となって降るとみえたのでしょう」
とあって、その返事を書く間もなく、あの人が来たのでした――


「また、ほどへて、見えおこたるほど、あめなどふりたる日、『暮れに来ん』などやありけん、
<柏木の森の下草くれごとになほたのめとやもるをみるみる>
返りごとは、みづから来て紛らはしつ。」
――それからまたしばらく訪れがなく、雨が降ってきた日「夕方、伺おう」と文があったでしょうか。
(道綱母歌)「(身分の高いあなたを頼りに生きる)柏木の森の下草のような私に、なおも頼めとばかりおっしゃるのですか。いつもいつも待ちぼうけですのに」
この返事は、あの人が直接やって来て、うやむやにごまかしてしまった。――

「かくて十月になりぬ。ここに物忌みなるほどを心ものなげに言ひつつ、
<なげきつつかへす衣の露けきにいとど空さへしぐれそふらん>
かへし、いと古めきたり。
<思ひあらば乾なまし物をいかでかはかへす衣のたれも濡るらん>
とあるほどに、わがたのもしき人、陸奥国へ出で立ちぬ。」
――こうして十月になりました。私の方で物忌みのため籠っていますと、逢えないもどかしさをこのような歌で言ってきて、
(兼家歌)「逢えぬ嘆きをかさねて、夢でなら逢えるかと衣を裏返して着たが涙に濡れて、それに加えてどうして時雨まで降るのか」
私の返事は、あまりぱっとしない歌になってしまったが、
(道綱母歌)「わたしへの思ひ(火)さえあればすぐ乾くでしょうに。どうして裏返しした衣がお互いに濡れるのでしょう」
こんなふうに過ごしているうちに、私の頼みとする父親が陸奥の国に任官となって出立することになりました。――


■物忌(ものいみ)=忌み (ものいみ)とは、ある期間中、ある種の日常的な行為をひかえ穢れを避けること。斎戒に同じ。
具体的には、肉食や匂いの強い野菜の摂取を避け、他の者と火を共有しないなどの禁止事項がある。日常的な行為をひかえることには、自らの穢れを抑える面と、来訪神 (まれびと)などの神聖な存在に穢れを移さないためという面がある。
民間においても、同様の作法が行われていた。祭りの関係者は祭りの前一定期間は歌を歌わない、肉食をしない、下肥を扱わない、などという習慣が行われていた。






蜻蛉日記を読んできて

2015年03月20日 | 蜻蛉日記を読んできて
蜻蛉日記  上巻 
(その2 ) 2015.3.20

「さて、あはつけかりしすぎごとどものそれはそれとして、柏木の木高きわたりより、かくいはせんと思ふことありけり。例の人は、案内するたより、もしはなま女などして言はすることこそあれ、これは親とおぼしき人にたはぶれにもまめやかにもほのめかししに、『便なきこと』と言ひつるをも知らず顔に、馬にはひ乗りたる人してうちたたかす。」

――さて、これまでちょっとした恋の駆け引きなどもありましたが、それはそれとして、摂関家の御曹司、兵衛府の衛門府官人の藤原兼家殿から求婚のご意向を伝えてくるということがありました。普通このような場合は、仲立ちの労をとるべく縁故や、取次ぎをする者をとおすものですが、これは父親に冗談とも真面目ともつかぬような申し方で言ってきましたので、私の方では「とんでもございません」と言っておりましたのに、そのようなことにはお構い無しに、馬に乗った使者に門を叩かせてよこしたのでした――

「『誰』など言はするにはおぼつかなからずさわいだれば、もてわづらひ取り入れて持てさわぐ。見れば紙なども例のやうにもあらず、いたらぬところなしと聞きふるしたる手も、あらじとおぼゆるまで悪しければ、いとあやしき。」

――「どなた様」と尋ねさせるまでもなく、あまりにわめき散らしますので、仕方無しにお手紙を奥に取り次いでの結果、そこで一騒動になったのでした。見てみますと手紙の料紙なども、懸想文のように凝ったものではなく、また隅々まで非のないように書くものだということを聞いていました筆跡なども、ぞんざいな書きっぷりで、何とも府に落ちないものでした――

「ありけることは、
<音にのみ聞けばかなしなほととぎすことかたらはんとおもふこころあり>とばかりぞある。『いかに。返りごとはすべくやある』などさだむるほどに、古体なる人ありて、『なほ』と、かしこまりて書かすれば、<かたらはん人なきさとにほととぎすかひなかるべき声なふるしそ>」

――そこには、(歌)「あなたのことを噂に聞くだけでは悲しい、お目にかかった是非お話をしたいです」とだけありました。「どうしましょう、お返事はやはりしないわけにはいかないでしょうか」などと相談していますと、古風な母が、「もちろんお返事は差し上げねばなりません」と恐縮して私に書かせましたので、(歌)「親しくなるような者もいないこの家に、何度も声をかけても無駄でございます」と。――

■柏木の木高きわたり=家門の高いことを「柏木」の縁で「木高き」といった。
 藤原兼家(かねいえ)は、右大臣藤原師輔(もろすけ)の三男、当時右兵衛佐であった。
■親とおぼしき人=作者の父、藤原倫寧(ともやす)。…とおぼしき=身内を卑下する婉曲表現。
■古体な母=古風な人。作者の母