永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(65)の3

2015年08月31日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (65)の3 2015.8.31

「あくれば川渡りて行くに、柴垣しわたしてある家どもを見るに、いづれならん、よもの物語の家など、思ひ行くに、いとぞあはれなる。今日も寺めくところに泊まりて、又の日は椿市といふところに泊まる。」
◆◆夜が明けて泉川を渡って行きますと、その途中、柴垣を廻らしてある家などを見るに付け、どの家かしら、よもの物語に出てくる家は、などと思いながら行くので、なかなか風情がありました。今日も寺のようなところに宿泊し、次の日は椿市という所にとまりました。◆◆


「又の日、霜のいと白きに、詣でもし帰りもするなめり、脛を布の端して引きめぐらしたる者ども、ありき違ひさわぐめり。蔀さしあげたるところに宿りて、湯わかしなどするほどに見れば、さまざまなる人の行き違ふ。おのがじしはおもふことこそはあらめと見ゆ。とばかりあれば、文ささげて来る者あり。」
◆◆その翌日、霜が真っ白に置いている朝、参詣をしに行く者、帰って来る者であろう、脛(はぎ)を布切れで巻いている者たちが行き来して騒いでいるようです。蔀を上げた所に泊まって、潔斎の湯を沸かしている間に見ていると、さまざまな人が行ったり来たりしています。その人々はみな何かの悩み事があるように見えます。そうしているときに、兼家からの文を捧げ持って来る者がいます。◆◆


「そこにとまりて、『御文』と言ふめり。見れば、『きのふ今日のほど、なにごとか、いとおぼつかなくなん。人すくなにてものしにし、いかが。言ひしやうに三日さぶらはんずるか。帰るべからん日聞きて、迎へにだに』とぞある。」
◆◆そこに立ち止まって、「お手紙でございます」と言っている様子。見ると、「昨日といい、今日という、いったいどうしたことか。供の者も少なく出かけたが、大丈夫か、変わったことはないか。前にも言っていたように三日間参籠するおつもりか。帰る予定の日を聞いて、せめて迎えにだけは行こう」とありました。◆◆


「返りごとには、『椿市といふところまでは平らかになん。かかるついでにこれよりも深くと思へば、帰らん日をえこそきこえ定めね』と書きつ。『そこにてなお三日候ひ給ふこと、いと便なし』などさだむるを、使ひ、聞きてかへりぬ。」
◆◆私からの返事は「椿市というところまでは無事に参りました。ここに参りましたついでに、もっと山深く入りたいと思いますので、帰る日はいつと決めて申し上げることができません」と書いたのでした。侍女たちが「あそこで三日もお籠りなさいますのは、よくありません」などと話しているのを、使いの者が聞いて帰って行きました。◆◆


■よもの物語=他本には「かもの物語」。今に残っていない。

■椿市(つばいち)=。「海石榴市」とも書くこの地は、大和国城上郡の長谷山口(現在の奈良県桜井市金屋)にあり、初瀬詣が盛んになった平安時代以降、長谷寺への参詣者を受け入れる宿泊地として栄えました。椿市から長谷寺までは、東へと初瀬川を遡る約4kmの道のりです。
両側を山に囲まれた谷中の道を、長谷寺へと登ってゆくことになります。

*写真は長谷寺本堂

蜻蛉日記を読んできて(65)の2

2015年08月26日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (65)の2 2015.8.26

「見やれば木の間より水の面つややかにて、いとあはれなるここちす。しのびやかにと思ひて、人あまたもなうて出で立ちたるも、わが心の怠りにはあれど、我ならぬ人なりせばいかにののしりて、とおぼゆ。車さしまはして、幕など引きて、後なる人ばかりを下ろして、川に向かへて、簾まきあげて見れば、網代どもさしわたしたり。行きかふ舟どもあまた、見ざりしことなれば、すべてあはれにをかし。」
◆◆あたりを見渡すと、木々の間から宇治川の水面がきらきらとかがやき、風情ある景色にうっとりします。目立たぬようにとの忍んでの旅なので、一行を人数少なく出発したのは私の不用意ではありましたが、私のような人間でなければどんなに大仰な旅になるのかと思いやられるのでした。車の向きを変え、幕などを引きめぐらして、後ろの人(道綱か)だけを下ろして、車を川に真正面に向けて、簾を巻き上げて見ると、川には網代が一帯にしかけてあります。行き交う舟も多く、今まで見たこともない景色に、すべてが趣き深く、面白く感じられたのでした。◆◆


「後のかたを見れば、来こうじたる下衆ども、悪しげなる柚や梨やなどをなつかしげに持たりて食ひなどするも、あはれに見ゆ。破籠などものして、舟に車かき据ゑて、行きもて行け贄野の池、泉川などいひつつ、鳥どもゐなどしたるも、心にしみてあはれにをかしうおぼゆ。かいしのびやかなれば、よろづにつけて涙もろくおぼゆ。」
◆◆後ろの方をみると、歩き疲れた下人たちが、みすぼらしい柚子や梨などを大事そうに持って
食べたりしているのも趣ぶかい。破籠(わりご)のお弁当などを食べて、舟に車をかつぎ乗せて川を渡り、ずんずん進んで行くと、贄野(にえの)の池だとか、泉川などといいながら、水鳥などが群がっていたりする風景を眺めていますと、心に沁みて感慨深くおもしろく思われます。ひっそりとした内輪の旅なので、何事につけても涙がこぼれそうになります。◆◆


「その泉川も渡らで、橋寺といふところに泊まりぬ。酉のときばかりに下りてやすみたれば、旅籠所とおぼしき方より、切り大根、柚の汁してあへしらひて、まづ出だしたり。かかる旅だちたるわざどもをしたりしこそ、あやしう忘れがたう、をかしかりしか。」
◆◆その泉川(木津川)も渡らないで、橋寺というところに泊まりました。夕方六時ごろに車から下りて休んでいますと、旅籠(旅人に食料や、馬のまぐさなどを提供するところ)の調理場と思われるところから、刻んだ大根を柚子の汁で和え物にしたものを、最初に出してきました。このような旅先で経験したいろいろなことは忘れられず、面白い思い出になったことでした。◆◆


■網代(あじろ)=漁具の名称 (a)宇治川・瀬田川に設置され,木の杭を左右に立ち並べ,中間に簀を張った簗(やな)。その漁人は古くから天皇に贄(にえ)を貢献した。宇治網代は《万葉集》に〈八十氏河の網代木〉とみえ,田上網代は883年(元慶7)の官符に近江国の内膳司御厨として現れる。

蜻蛉日記を読んできて(65)の1

2015年08月23日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (65)の1 2015.8.23

「かくて、年ごろ願あるを、いかで初瀬にと思ひ立つを、立たむ月にと思ふを、さすがに心にしまかせねば、からうして九月に思ひ立つ。『立たむ月には大嘗会の御禊、これより出で立たるべし。これ過ぐしてもろともにやは』とあれど、わが方のことにしあらねば、しのびて思ひ立ちて、日悪しければ、門出ばかり法性寺の辺にして、あか月より出で立ちて、午時ばかりに宇治の院にいたり着く。」
◆◆こうしていたころ、長年考えていた心の願いのあったこともあって、何とかして初瀬にお参りしたいと思い、来月(八月)にはと思っていましたが、なかなかお思い通りにはいかず、どうにかして九月に出かけることに決めたのでした。あの人が「来月には大嘗会の御禊があり、わたしのところから女御代が立たれることになっている。これを終えて一緒に出かけてはどうか」と言ってきたけれど、私の方のことではないので、(時姫腹のむすめ)こっそりと参詣を思い立ち、出発の日が方角が悪いということで、門出だけを法性寺のあたりにして、翌日夜明け前から出発して、午(うま=今の十二時前後の二時間の幅)の時刻に宇治の院(兼家の別荘か)にたどり着きました。」

■初瀬(はつせ)=奈良県桜井市の長谷寺。
長谷寺の創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集めた。
十一面観音を本尊とし「長谷寺」を名乗る寺院は鎌倉の長谷寺をはじめ日本各地に多く240寺程存在する。他と区別するため「大和国長谷寺」「総本山長谷寺」等と呼称することもある。
初瀬山の山麓から中腹にかけて伽藍が広がる。入口の仁王門から本堂までは399段の登廊(のぼりろう、屋根付きの階段)を上る。本堂の西方の丘には「本長谷寺」と称する一画があり、五重塔などが建つ。国宝の本堂のほか、仁王門、下登廊、繋屋、中登廊、蔵王堂、上登廊、三百余社、鐘楼、繋廊が重要文化財に指定されている。このうち、本堂は慶安3年(1650年)の竣工で、蔵王堂、上登廊、三百余社、鐘楼、繋廊も同じ時期の建立である。仁王門、下登廊、繋屋、中登廊の4棟は明治15年(1882年)の火災焼失後の再建であるが、江戸時代建立の堂宇とともに、境内の歴史的景観を構成するものとして重要文化財に指定されている。
仁王門は明治18年(1885年)、下登廊、繋屋、中登廊は明治22年(1889年)の再建である。

■大嘗会(だいじょうえ)=天皇即位の儀式の後、はじめて行う新嘗祭(にいなめさい)で、
     十一月におこなう。その年の新穀を天皇みずから神々に供える大礼で、神事の最大の
     もの。天皇一代に一度だけ行われる。

■御禊(ごけい)=大嘗会に先立ち、十月下旬に加茂の河原でおこなうみそぎの儀式をいう。

■女御代(にょうごだい)=大嘗会の御禊に奉仕する女官。このときの女御代は、兼家の女(むすめ)で、時姫腹の超子が(ちょうし)が選ばれていた。その後入内。

*写真:長谷寺遠景



蜻蛉日記を読んできて(64)  

2015年08月19日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (64) 2015.8.19

「五月に、帝の御服ぬぎにまかでたまふに、さきのごと、『こなたに』などあるを、『夢にものしく見えし』など言ひて、あなたにまかでたまへり。さてしばしば夢のさとしありければ、『違ふるわざもがな』とて、七月、月のいと明かきに、かくのたまへり。」
◆◆五月に先の村上天皇の一周忌の喪明けに、貞観殿さまが退出なさるときに、前のように私の邸へなどということでしたが、「不吉な夢を見たので」ということで、あちらへお下がりになりました。それからも度々夢のお告げがあったので、「不吉な夢を避ける方法でもあればよいのに」とおっしゃっていましたが、七月のとても月の明るい晩に、このように言ってこられました。◆◆


「<見し夢を違へわびぬる秋の夜ぞ寝がたきものと思ひしりぬる>
御かへり、
<さもこそは違ふる夢はかたからめ逢はでほどふる身さへうきかな>
たちかへり、
<逢うふと見し夢になかなかくらされてなごり恋しくさめぬなりけり>
とのたまへれば」、
◆◆(登子の歌)「夢たがえをしゆとして出来ない今宵、秋の夜長の寝づらいものだとよくわかりました」
私からのお返事は、
(道綱母の歌)「夢を違えるのはさぞかし難しいでしょうが、そのためにお逢いできないのが、とても辛いです」
それにまた、
(登子の歌)「あなたにお逢いする夢を見たばかりに、私の心がぼんやりして、夢の名残り惜しさに、そのまま夢から覚めないでいるのでした」
と、おっしゃるので、◆◆


「また、
<言絶ゆるうつつや何ぞなかなかに夢は通い路ありといふものを>
又、『言絶ゆるはなにごとぞ。あなまがまがし』とて、
<かはとみて行かぬこころをながむればいとどゆゆしくいひやはつべき>
とある御かへり、
<渡らねば遠方人になれる身を心ばかりは淵瀬やは分く>
となん、夜一夜いひける。」
◆◆また、私の方から、
(道綱母の歌)「お目にかかれずお話ができないとはどうしたことでしょう。夢なら思うままに人に逢えると申しますのに、夢の中でさえお目にかかれずにおります」
そして、又お返事に、
『言絶ゆる』とはどういうことでしょう。まあ縁起でもない。とあって
(登子の歌)「あなたが川をへだてて近くに居るのを知りながら逢いに行けずに物思いをしているのですから、言絶ゆる、とは縁起でもないことをおっしゃいますな」
とのお返事に、私から、
(道綱母の歌)「その間を隔てている川を渡らないので、別れ別れでなかなかお目にかかれませんが、体はともかく心だけは淵瀬の別もなく御方かさのもとに参っております」
などと、夜どおし歌を詠み交わしたのでした。◆◆


■御服ぬぎ(おんぶくぬぎ)=喪服をぬぐこと。村上天皇の一周期。

■夢のさとし=夢のお告げ。間違いや悪事が起ることを夢によって神仏が警告する。

*「蜻蛉日記(上)上村悦子著の解説から」
悪夢を見たとき夢違え観音に参拝して悪夢を解消し、できれば善いことへ転ずることもあるし、夢解きに合わせてもらい気をやすめる場合があるが、このように一晩中眠らないで、歌をやりとりするのも、いかにも歌を教養の第一とする王朝上流階級らしい風習である。
登子という人は、色好みで歌を愛された村上天皇にあれだけ寵を得た人だけに、美貌はもとより、歌才も豊かに備えていた才媛であったのだろう。


蜻蛉日記を読んできて(63)

2015年08月16日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (63) 15.8.16

「この御方、東宮の御親のごとして候ひ給へば、まゐり給ひぬべし。『かうてや』など、たびたび『しばししばし』とのたまへば、宵のほどにまゐりたり。時しもこそあれ、あなたに人の声すれば、『そそ』などのたまふに、聞きも入れねば、『宵まどひしたまふやうにきこゆるを、論なうむるかられたまふは。はや』とのたまへば、『乳母なくとも』とてしぶしぶなるに、者あゆみ来てきこえ立てば、のどかならで帰りぬ。
又の日の暮れにまゐり給ひぬ。」
◆◆この御方(貞観殿登子)は、東宮(村上天皇の第五皇子、守平親王。後の円融天皇。冷泉天皇即位に伴って九月一日立太子に。このとき十歳)の御親代わりとしてお仕えになっておられましたので、やがて参内なさるにちがいないでしょう。「このままお別れするのでしょうか」などとおっしゃり、幾度も「ほんのしばらくの間でも」とおっしゃるので、宵の間に参上しました。時もあろうに、あいにく私の住いの方で、あの人の声がしたので、貞観殿さまが「それそれ、兄がおいでになっていますよ」と注意をされますが、聞き入れずにいますと、「大きい坊やが宵のうちから眠たがってぶつぶつ言っているように聞こえますよ。さあ早くお帰りなさい」とおっしゃいます。私が「乳母がいなくても大丈夫ですわ(自分を坊やの乳母に見立てて)」と帰りをしぶっていましたが、あちらから家の者がやってきて、やかましく催促申し上げますので、のんびりも出来ず帰ってきたのでした。
貞観殿さまは、翌日の夕方に宮中に参られました。◆◆


■東宮の御親のごと=東宮の守平親王の母君安子(あんし=兼家の姉か妹)は喘選子内親王が亡くなったので、その妹の登子が母代(ははしろ)になったのであった。

■宵まどひ=共寝をしたい意。

■『かうてや』=「かう」「て」「や」。こうなるでしょうから。(平安時代の話し言葉がどうであったのか知りたいですね。)

■『しばししばし』=ちょっとの間、重ねて意を強める。

■『そそ』=「それそれ」と、指し示すことば。



蜻蛉日記を読んできて(62)

2015年08月13日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (62) 2015.8.13

安和元年(968)
兼家  四十歳
作者  三十二歳
道綱  十四歳

「三月にもなりぬ。客人の御方にとおぼしかりける文を、持てたがへたり。見れば、なほしもあらで、『近きほどにまゐらんと思へど、【我ならで】と思ふ人やはべらんとて』など書いたり。年ごろ見給ひ馴れにたれば、かうもあるなめりと思ふに、なほもあらで、いとちひさく書き付く。
<松山のさし越えてしもあらじ世を我によそへてさわぐ波かな>
とて、『あの御方に持てまゐれ』とて、かへしつ。」
◆◆はや三月にもなったころ、登子様宛と思われる(兼家からの)手紙を間違ってこちらへ届けてきました。見ますと単なる用件の手紙ではなくて、「近くに居るので参上しようと思うが、『我ならで(登子を独り占めにしよう)』と思っている人(道綱母)が居るので)」などと書いてありました。年来仲のよい兄妹なので、このような遠慮のないことも言うのだろうと思い、そのままではなく、小さくこのように書きました。
(道綱母の歌)「御方さま(登子)を横取りしようなどとは思ってもいません。あの人は浮気な自分と同じように考えて人を疑っていますこと」
と、「あちらの御方さまへお持ちしなさい」と言って持たせました。◆◆


「見たまひてければ、すなはち御かへりあり。
<松島の風にしたがふ波なれば寄るかたにこそ立ちまさりけれ>
◆◆ご覧になってすぐに、御方さまからお返事がありました。
(貞観殿登子様の歌)「波が風に従うように、手紙が届いたあなたの方にこそ、兄(兼家)の思いが勝っていたからでしょう」

■「我ならで…」の元歌=「我ならで下紐とくな朝顔の夕かげまたぬ花にはありとも」伊勢物語。



蜻蛉日記を読んできて(61)

2015年08月09日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (61) 2015.8.9

「つごもりの日になりて儺などいうふ物こころみるを、まだ昼より、ごぼごぼはたはたとするにひとり笑みせられてあるほどに、明けぬれば、昼つかた、客人の御方、男なんど立ちまじらねば、のどけし、我もののしるをば隣に聞きて、『待たるるものは』なんど、うち笑ひてあるほどに、ある者、手まさぐりに、掻栗をあしたてて、にへにして、木をつくりたる男の、かた足に尰つきたるに荷なはせて持て出でたるを、とり寄せて、ある色紙のはしを脛に押しつけて、それに書きつけて、あの御方にたてまつる。」
◆◆大晦日の日になって、追儺(ついな)などという行事をしてみますが、まだ昼間から、ごぼごぼばたばたと騒いでいるので、つい一人でにこにことしているうちに、一夜明けて元日になると、昼ごろ、お客様の方(貞観殿の御方)は、男客など訪れてきませんので、のどかでいらっしゃる。私の方も同じで、隣りの騒ぎを耳にしながら、「待たるるものは…」などと言いつつ笑っているときに、側にいた侍女が、手なぐさみに、かいくりを糸でかがりつけて、進物の体裁にして、木の従者姿の人形で、片足に腫れ物ができているのに担わせて、持って来たのを手にとって、そばにあった色紙の端を人形の脛(はぎ)に貼り付け、それにこのような歌を書きつけて、あちら(貞観殿)の御方にさしあげました。◆◆


「<かたこひや苦しかるらん山賤のあふごなしとは見えぬものから>
ときこえたれば、海松のひき干しの短くおし切りたるを、結ひあつめて、木のさきに荷なひ代へさせて、細かりつる方の足にも異の尰をも削りつけて、もとのよりも大きにて、返したまへり。」
◆◆(道綱母の歌)「片足に腫れ物を患う身では苦しいでしょう。荷物をつける天秤棒はあるけれども、使ってないようなので。(「尰(こひ)」に「恋」、「杤(あふご)」に「逢う期」をひびかせて、こちらばかりお慕い申し上げる片恋はまことにつらいもの、逢う機会がないとは思われませんのに)」
と申し上げますと、海松(みる)の乾物の短くちぎったのを束ねて、杤(あふご)の先につけ、前の荷物と取り替えて担わせ、細かった方の足にも、別の腫れ物をくっつけて、前のものよりも大きな腫れ物にして、お返しになりました。◆◆


「見れば、
<山賤のあふご待ちいでてくらぶればこひまさりけるかたもありけり>
日たくれば、節供まゐりなどすめる、こなたにもさやうになどして、十五日にも例のごとして、過ぐしつ。」
◆◆拝見しますと、
(貞観殿登子の歌)「逢う機会を得て、比べてみますと、「恋(尰)」は私のほうが大きいですよ」
日が高くなって、あちらではお節など召し上がっておいでのようで、こちらでも同じようにして、日を経て、十五日にはいつもどおり、七種粥などして過ごしました。◆◆


■『待たるるものは』=兼家来訪を待つ意。「あらたまの年たちかへるあしたより待たるるものは鶯の声」古今六帖

■儺(な)=追儺(ついな)ともいう。大晦日に悪鬼を払う習俗。

■掻栗をあしたてて(かいくりをあしたてて)=未詳

■尰つきたるに(こひつきたるに)=足の腫れ。

■杤(あふご)=(おうこ )とも。荷物にさし通して肩にかつぐ棒。天秤(てんびん)棒。歌では「会ふ期(ご)」にかけて用いることが多い。

■海松のひき干し(みるのひきほし)=海松(みる)は食用にする海藻。「引き干し」はそれを引っ張って干したもの。

■十五日にも例のごと=正月十五日には、望粥(もちがゆ)を食べる習慣があり、粥を煮た木(薪とも、かき回した木とも)で女の尻を打つと、子供が出来るといわれている。作者も当然そうしてもらった筈。

■『蜻蛉日記』上 上村悦子著の中から抜粋。
「兼家の妹、登子(とうし)と作者とは元来うまが合ったので、宮中から作者邸の西の対に退出してきたのだろう。作者の生涯中での幸福な年末年始であった。作者の笑い声が絶えず、明るい色彩で終始している。歌の造詣の深い二人は、木こりの人形を種として、愉快な、しかも相手を敬慕する意味をこめて歌の贈答を行って楽しんでいる。ことばを二重に使用して巧みに一首を作り上げる知的遊戯であり、教養の豊かな仲のよい上流貴婦人どうしの社交生活の一こまでもある。こうした生活が続けば、『蜻蛉日記』は執筆されなかったであろう。」



蜻蛉日記を読んできて

2015年08月07日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (60) 2015.8.7

「かかる世に、中将にや三位にやなど、よろこびをしきりたる人は、『ところどころなる、いとさはり繁ければあしきを、近うさりぬべき所いできたり』とて、渡して、乗り物なきほどにはひ渡るほどなれば、人は思ふやうなりと思ふべかめり。霜月なかのほどなり。しはすつごもりがたに、貞観殿の御方、この西なる方にまかで給へり。」
◆◆このような世の中で、中将になったり、三位になったりして、次から次へとめでたいことの重なる人(兼家)は、「離れ離れに住んでいるのは不都合が多いので、近くに手ごろな邸が見つかった」といって、私を移らせて、乗り物がなくてもすぐに来られるところなので、世間の人は(又は、兼家は)私の思いどおりになった、と思ったでしょうか。それは十一月の中旬ごろのことでした。十二月の末ごろに貞観殿さまが、この邸の西の対にさがっておいでになりました。◆◆

■兼家は十月七日に中将になり、従三位になったのは翌年安和元年十一月二十三日である。
 先帝の縁故者は悲しみに沈んでいるが、新帝の関係者は昇任したり、明るい道を歩んでいる。
 兼家もその一人で、出世街道を颯爽と進んで行く。多忙になるにつけ、時姫や作者を自邸の近
 くの適当な家にそれぞれ住まわせた。


■貞観殿の御方(じょうがんでんのおんかた)=兼家の同母妹。(58)に詳細。



蜻蛉日記を読んできて(59)

2015年08月04日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (59) 2015.8.5

「御四十九日はてて、七月になりぬ。上に候し兵衛の佐、まだ年もわかく、思ふことありげもなきに、親をも妻をもうち捨てて、山にはひのぼりて法師になりにけり。『あないみじ』とののしり、『あはれ』といふほどに、妻はまた尼になりぬと聞く。」
◆◆村上天皇の四十九日の法要も過ぎて七月になりました。その村上帝の殿上に近侍されていた兵衛の佐という方が、年もまだ若く、何かの悩みもありそうにないのに、肉親も妻もきっぱりと捨てて、比叡山に入って法師になってしまわれました。「まあ、大変なこと」と大騒ぎし「なんと、おいたわしいこと」と言っていましたが、程なく妻も又出家して尼になったと聞きました。◆◆


「さきざきなども文かよはしなどする中にて、いとあはれにあさましき事をとぶらふ。
<奥山の思ひやりだにかなしきにまたあま雲のかかるなになり>
手はさながら返りごとしたり。
<山ふかく入りにし人もたづぬれどなほあま雲のよそにこそなれ>
とあるも、いとかなし。」
◆◆これまでも文を交し合う間柄でしたので、胸をうたれ、なんと意外なこととお見舞いもうしあげます。
(道綱母の歌)「奥深い山で出家した夫君のことを伺うだけでも悲しく思いますのに、あなたまでもが、尼になられるとは何としたことでしょう」
筆跡は前と同じで(姿は尼になられても)お返事ありました。
(兵衛佐妻の歌)「山深く出家した夫のあとを追おうとも、尼の身では比叡山にも入れず、逢うこともできません。二人の間は隔たってしまいました」
と書かれていました。ほんとうに悲しいことです。


■兵衛の佐(ひょうえのすけ)=藤原敦忠(あつただ)の4男。村上天皇に近侍していたが、天皇崩御後、康保(こうほう)4年(967)比叡(ひえい)山で出家、真覚と名乗る。天禄(てんろく)2年岳父の藤原文範(ふみのり)が創建した京都大雲寺の開山となる。子の文慶(もんきょう)が同寺の初代別当になった。

■さきざきなども文かよはしなどする中=佐理の妻は、道綱母の姉の夫である為雅の姉妹か、
 という。作者とも文を交わす間柄であったので。


蜻蛉日記を読んできて(58)

2015年08月01日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (58) 2015.8.1

「五月にもなりぬ。十よ日に内裏の御薬のことありて、ののしるほどもなくて二十よ日のほどにかくれさせ給ふ。東宮の亮といひつる人は、蔵人の頭などいひてののしれば、悲しびはおほかたのことにて、御よろこびといふことのみ聞こゆ。あひこたへなどして、すこし人心地すれど、わたくしの心はなほおなじごとあれど、ひきかへたるやうにさわがしくなどあり。」
◆◆五月になりました。十日過ぎに、帝のご病気ということが起きて、大騒ぎであったが程なく二十過ぎの頃に崩御されました。東宮の亮であったあの人(兼家)は、蔵人の頭に任ぜられて騒いでいますので、崩御の悲しみは表向きのことで、昇進のお祝いということばかり言いに来ます。私は応対などして少し人並みになった気がするものの、わたし自身の気持ちは以前とまったく同じで変わらないけれど、これまでとは打って変わったように身の回りが騒々しくかんじられるのでした。◆◆


「御陵やなにやと聞くに、時めきたまへる人々いかにと思ひやりきこゆるに、あはれなり。やうやう日ごろになりて、貞観殿の御方に『いかに』などきこえけるついでに、
<世の中をはかなき物とみささぎのうもるる山になげくらむやぞ>
御返りごと、いとかなしげにて、
<おくれじとうきみささぎに思ひいる心は死出の山にやあるらん>
◆◆(村上天皇の崩御は五月二十五日)御陵や何やかやと聞くにつけ、天皇の時代に栄えていらした人々は今はどんなに嘆いていらっしゃるのかとお察し申し上げると、しみじみとした思いになります。次第に日が経ってから、貞観様に「どのようにお過ごしでいらっしゃいますか」などとお伺い申し上げますついでに、
(道綱母の歌)「御方さまは、この世を無常なものとお観じになり、御なきがらの埋もれている御陵の山をしのんで、お嘆きのことでございましょうね」
そのお返事に、とても悲しそうに、
(貞観殿の歌)「亡き帝に遅れ申すまいと、御陵に思いを寄せる憂き身は、すでに死出の山に入っているのでございましょうか」◆◆


■東宮の亮(すけ)といひつる人は、蔵人の頭などいひて=兼家のことで、東宮坊の次官であったが、東宮即位に伴い蔵人の頭(くろうどのとう)に任ぜられた。

■東宮=村上天皇第二皇子、憲平親王。安子腹(兼家の異母妹)で十八歳。

■ののしる=大騒ぎする
 
■貞観殿の御方(じょうがんでんのおんかた)=藤原師輔の女(むすめ)で答子(とうし)。兼家の同母妹。はじめ重明親王妃、親王薨後、村上天皇の寵を受けた。