永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(206)その2

2017年07月27日 | Weblog
蜻蛉日記 下巻 (206) その2  2017.7.27

「女車なりけりと見るところに、車の後のかたにあたりたる人の家の門より、六位なるものの太刀はきたる、ふるまひ出で来て、前のかたにひざまづきてものを言ふに、おどろきて目をとどめて見れば、かれが出で来つる車のもとには、赤き人、黒き人押し凝りて、数も知らぬほどに立ててけり。よく見もていけば、見し人々のあるなりけりと思ふ。」

◆◆女車だったのだなあ、とみているところに、車の後ろの方にあたっている家の門から、六位の者たちで太刀を腰につけて、威儀を正して出てきて、車の前の方にきて膝まづいて何かを言っているので、おやと思って注意してみると、その六位の者が出てきた車のそばには、緋色の袍の人たちや黒色の袍の人たちがぎっしり詰めかけていて、数えきれないほど立っているのでした。よくよく見ていくと、顔見知りの人がいるのに気が付きました。◆◆


「例の年よりはこと疾うなりて、上達部の車、かい連れてくるもの、みなかれを見てなべし、そこにとまりて同じところに口をつどへて立ちたり。」

◆◆例年に比べて今年の臨時祭の儀式が早く済んで行列が来ました。上達部の車や、連れだって歩いて来るものはみな、その檳榔毛の車を取り囲んでいる様子を見ていたであろう。
私はそこに止まって、同じところに車の前をそろえてとどめました。◆◆


「わが思ふ人、にはかに出でたるほどよりは、供人などもきらきらしう見えたり。上達部手ごとに菓物などさし出でつつ、もの言ひなどし給へば、おもだたしき心ちす。また、ふるめかしき人も、例のゆるされぬことにて山吹のなかにあるを、うちちりたる中にさしわきてとらへさせて、かのうちより酒など取り出でたれば、土器さしかけられなどするを見れば、ただそのかた時ばかりや、ゆく心もありけん。」

◆◆私の大切な道綱は、急に舞人に召されて出たにしては、供人たちもきらびやかに見えました。上達部たちがめいめいの手に果物などを差し出しては、何か言葉をかけたりなさるので、私も晴がましい気持ちでした。また私の父にも

■六位なるもの=袍は位によって色が異なる。六位は緑色なので、作者は出てきた男を六位だと知った。

■上達部=公卿。大臣、大中納言など三位以上の官人を言う。ただし参議(四位)も入る。

■例のゆるされぬこと=父倫寧は当時、従四位上で散位(無冠)であったので、上達部と同席できなかった。



蜻蛉日記を読んできて(206) その1

2017年07月23日 | Weblog
蜻蛉日記 下巻 (206) その1  2017.7.23


『臨時の祭りあさてとて、助にはかに舞人に召されたり。これにつけてぞめづらしき文ある。『いかがする』などて、いるべきものみなものしたり。

◆◆賀茂の臨時の祭が明後日ということで、助が急に舞人にめされました。このことで珍しくあの人から手紙がきました。「支度はどうしている?」などとあって、必要な支度品の全てを持ってきてくれました。◆◆


「試楽の日あるやう、『けがらひの暇なるところなれば、内裏にもえまゐるまじきを、まゐり来て見出だし立てんとするを、寄せ給ふまじかなれば、いかがすべからん、いとおぼつかなきこと』とある。胸つぶれて、いまさらになにせんにかと思ふこと繁ければ、『疾くさうぞきて、かしこへをまゐれ』とて、いそがしやりたれば、まづぞうち泣かれける。もろともに立ちて、舞ひとわたりならさせて、まゐらせてけり。」

◆◆試楽の日にあの人から言ってきたのは、「穢れゆえ出仕を控えているので、宮中へも参るわけにもいくまいと思うので、そちらへ行って、支度を手伝って送り出してやろうと思うのだが、あなたが寄せ付けてくださらないだろうから、どうしたものだろうか。とても気がかりだが」と言ってきました。私は気も転倒して、今さら来てもらってもどうしようもないことという思いがして、またどうしたものかとも思うので、助に「早く装束をつけて、あちら(兼家邸)へ行きなさい」と言って、せき立てて行かせると、そのあと、何とも言えず涙がしきりにこみ上げてくるのでした。あちらではあの人が助の介添えをして、舞をひととおり練習させて、宮中に参上させました。◆◆



「祭の日、いかがは見ざらんとて出でたれば、北の列になでふこともなき檳榔毛、後、口うちおろして立てり。口のかた、すだれの下より、きよげなる掻練に、紫の織物重なりたる袖ぞさし出でためる。」

◆◆賀茂の臨時祭当日、私が是非とも見物したいと思って出かけたところ、道の北側に、何ということもないありふれた檳榔毛の車、前後の簾を下ろして止まっていました。前あの方の簾の下から、きれいな掻練(かいねり)に紫色の織物の重なった袖が出衣(いだしぎぬ)に差し出されているようです。◆◆


■臨時の祭り=賀茂の臨時祭。四月例祭(賀茂の祭)に対して十一月に行われる。この年は十一月二十三日。


蜻蛉日記を読んできて(解説)

2017年07月20日 | Weblog
【解説】蜻蛉日記 下巻 上村悦子著より  2017.7.20

 作者が忌みきらっている近江が女児を産んだと聞いて、もちろん、ショックをうけたであろうが、町小路女の場合のように取り乱したりせず無関心を装うているが、日記に書きとめるくらいであるから、やはり気にかかっているのであろう。嫉妬もあろうし、養女のライバルともなるであろうと案じたのでもあろう。
 
 ここにはこの日記の最後をかざる一つの事件が起きた。太政大臣兼通が、「かの、いかなる駒か…」の詞書で作者に懸想文を送って来たのである。瓢箪から駒が出てきたとはこの事で作者は仰天した。そもそも「いかなる駒か」の歌句を兼通がどうして知ったか不思議でならないので「いとあやし」とか、「思へども思へどもあやし」と首をひねっている。
(中略)
 
 兼通が太政大臣としてときめいている陰に切歯扼(腕しているのは兼家である。血で血を洗う二人の仲であるから、兼家が兼通にこの歌句を漏らすことはあり得ない。すると兼通はどうしてこの歌句を知り得たか。この歌句を知っている今一人は右馬頭遠度である。しかも彼はそれをそっと破り取って持ち帰っていたことは前に延べた通りである。
 
 遠度は作者邸に出入りしている間に、兼家の訪れのないこと、彼の顧みの薄いことを知った。しかあし作者の性格やプライドの高いこと、また兼家の北の方である点等から、遠度にとっては高嶺の花で、遠度はひきさがって他人の妻をぬすんだのであろう。遠度は兼通に会ったとき、作者のことを話したのであろうか(兼通の機嫌をとるためか、どうかはわからないが、昇任の頼みで訪れたとき、話のついでに、作者の近況やこの歌の事を漏らしたと思われる)。
 
 兼通は陰険で一筋なわで行かぬ男である。兼家の鼻を明かしてやろうと、この才媛に懸想文を贈ったと憶測するのである。
 作者は途方にくれたであろうが、昔気質の律儀な父倫寧(ともやす)が恐縮して返歌を勧めるので、柳に風と当たり障りのない辞退の歌を贈ってすませた。



蜻蛉日記を読んできて(205)

2017年07月15日 | Weblog
205蜻蛉日記 下巻 (205) 2017.7.15

「かくて神無月になりぬ。廿日あまりのほどに忌違ふとて渡りたるところにて聞けば、かの忌のところに子うみたなり、と人いふ。なほあらんよりは、あな憎とも聞き思ふべけれど、つれなうてある宵のほど、火ともし、台などものしたるほどに、せうととおぼしき人近うはひ寄りて、ふところより陸奥紙にてひき結びたる文の、枯れたる薄にさしたるを取り出でたり。」

◆◆こうして神無月(十月)になってしまいました。その二十日すぎに忌を違うためいに行った先で聞いたところによると、あの鬼門にあたるところ(近江の女)では、子供を産んだそうだ、などと人たちが話しています。おとなしくしているよりは、ああ、憎らしいと思うのが当たり前なのだけれど、私は知らん顔をして過ごしていた宵の時分に、燈火をともし、食事などをしているときに、兄弟にあたる人が近寄ってきて、ふところより陸奥紙に書いて結び文にした手紙で、枯れた薄にさしてあるのを取り出しました。◆◆




「『あやし、誰がぞ』と言へば、『なほ御覧ぜよ』と言ふ。開けて灯影に見れば、心づきなき人の手の筋にいとよう似たり。書いたることは、『かの〈いかなるこまか〉とありけむはいかが。
〈霜枯れの草のゆかりぞあはれなるこまがへりてもなつけてしがな〉
あな心ぐるし』とぞある。」

◆◆私が「おや、どなたの」と聞くと、「まあ、ご覧ください」という。開いて燈火の光で見てみると、癪に障るあの人(兼家)の筆跡によく似て(兄弟なので)います。書いてあることは、「あの『いかなる駒か』とあったのはどんな具合ですか。
(兼通の歌)「兼家が通わなくなったあなたに、兄弟として同情します。わたしが若返って仲良くしたいものだ」ああ、やるせない。と書いてあります。◆◆



「わが人に言ひやりてくやしと思ひしことの七文字なれば、いとあやし。『こは誰がぞ』と、『堀川殿の御ことにや』と問へば、『太政大臣の御文なり。御隋身にあるそれがしなん、殿にもて来たりけるを、〈おはせず〉と言ひけれど〈なほたしかに〉とてなんおきてける』と言ふ。いかにして聞き給ひけることにかあらんと、思へども思へどもいとあやし。
また人ごとに言ひあはせなどすれば、ふるめかしき人聞きつけて『いとかたじけなし。はや御かへりして、かの持て来たりけん御隋身に取らすべきものなり』とかしこまれば、書く。おろかには思はざりけめど、いとなほざりになりや。」

◆◆私が兼家に送った歌で、右馬頭に知られて後悔した七文字「いかなるこまか」なので、ほんとに不思議で、「これはどういうこと?」そしてまた、「堀川の大殿のお手紙ではありませんか」と問うと、「太政大臣さまのお手紙です。御隋身をしている某(なにがし)がお邸(作者邸)に持参しましたので、『ご不在です』と言いましたが『やはり、しかとお渡しください』と言って置いて行ったのです」と言う。どうしてあの歌の事をお耳にされたのであろうかと、どう考えても不思議でならない。
また、いろいろな人に相談などしていると、古風な父が聞きつけて、「まことに恐れおおいこと!早速お返事を書いて、その持参した御隋身に渡さなければいけない」と恐れ入って言います。そこで、そのお手紙を粗略に思っていたわけではありませんでしたが、いい加減にお返事したのでした。◆◆



「〈笹分けばあれこそまさめ草枯れの駒なつくべき森の下かは〉
とぞきこえける。ある人のいふやう、『〈これが返し、いまひとたびせん〉とて、半らまではあそばしたなるを、〈末なんまだしき〉とのたまふなる』と利きて、久しうなりぬるなんをかしかりける。」

◆◆(道綱母の歌)「笹を踏み分け近寄れば草は荒れ、馬(あなた)が言い寄られると私はますます離れていくでしょう。今はもうあなたも愛想をつかす森の下草(私)です。私には人を惹きつける魅力など残っておりません。」と申し上げました。そばにいた侍女が言うには、「この歌の返歌を、いま一度しようということで、半分まではお詠みあそばしたそうでございますが、『下の句がまだできない』とおっしゃっているそうでございます」と聞いてから、随分時がたったのに、そのままになってしまったのは、可笑しかった。◆◆


■忌のところに子をうみたなり=私が忌み嫌っているところ、近江のところで子供が生まれた。女子だった。この子は兼家の女(むすめ)綏子(やすこ)で、後、三条天皇が東宮のとき御息所(みやすどころ)となった。綏子の母は藤原国章女(むすめ)なので、近江は藤原国章の女(むすめ)ということになる。

■陸奥紙(みちのくがみ)=壇(まゆみ)の皮から作った白くて、表面にこまかいしぼのある厚手の紙で、包装、文書等に使われ、檀紙ともいう。陸奥から多く産するので陸奥紙という。

■堀川殿=兼家の同母の4歳上の兄、兼通。堀川に屋敷があった。伊尹の没後、太政大臣。兄弟仲悪く、このころ陰に陽に兼家を圧迫していた。



蜻蛉日記を読んできて(204)

2017年07月11日 | Weblog
蜻蛉日記 下巻 (204) 2017.7.11

「助ありきし始むる日、道に、かの文やりしところ、行きあひたりけるを、いかがしけん、車の筒かかりてわづらひけりとて、あくる日、『よべはさらになん知らざりける。さても、
〈年月のめぐりくるまの輪になりて思へばかかる折もありけり〉
と言ひたりけるを、取り入れて見て、その文の端になほなほしき手して、『あらずここには、あらずここには』と重点がちにてかへしたりけんこそなほあれ。」

◆◆道綱が病後はじめて外出した日、道でいつか文をやった人(大和だつ人)と行き会って、どうしたことか、車の車輪の真ん中がひっかかって難儀をしたということで、あくる日、助が「昨夜は全然存じませんでした。それにしても、
(道綱の歌)「長い間あなたを思っていると、昨夜のような出会いもあるものですね」といって送ったのを、あちらではでは取り入れて見て、その手紙の端に、上手ではない筆跡で、「ちがいます。私では。違います私ではありません」と、飾り字だらけで書いてよこしたのは、まったく平凡で見栄えのしないものでした。◆◆


蜻蛉日記を読んできて(203)

2017年07月07日 | Weblog
蜻蛉日記 下巻 (203) 2017.7.7

「二十日あまりにいとめづらしき文にて、『助はいかにぞ。ここなる人はみなおこたりにたるに、いかなれば見えざらんとおぼつかなさになん。いとにくくしたまふめれば、疎むとはなうて、いどみなん過ぎにける。忘れぬことはありながら』とこまやかなるをあやしとぞおもふ。返りごと、問ひたる人のうへばかり書きて、はしに『まこと、忘るるは、さもや侍らん』と書きてものしつ」

◆◆20日すぎに珍しところから(兼家)手紙がきて、「助はどんな具合か。こちらでは皆快癒したのに、どういうわけで助が顔を見せないのか、気がかりでならない。(あなたが)私を大層嫌っているようなので、疎んじているわけではないけれど、意地を張り合って過ごしてしまった。忘れがたくおもいながら」などと、情のあるような内容なのを、何とも不思議なことだと思いました。返事には聞いてきたあの子の事だけを書いて、文面の端に、「それはそうと、忘れるとかおっしゃたことは、まったくその通りでございましょうね」と書いて送りました。◆◆


【解説】 蜻蛉日記 下巻 上村悦子著から

 天延2年の皰瘡(もがさ)の流行蔓延はこの年の大事件で前述のように『日本紀略』『扶桑略記』その他の文献にも記載され、ことに太政大臣令息の二人の少将挙賢(これかた)・義孝(よしたか)の皰瘡による死去は『栄花物語』や『百錬抄』などにも記され、当時の話題をさらった事件であった。それだけに道綱が罹病して一時はどうなるかと案じとおした作者の心痛と治癒した時の喜びは察するに余りがある。
 
 それにしても、多妻下の折から、わが愛児が大病にかかって生死の境をさまよっても、心配を分け合い共に看病してくれるはずの夫が傍らに常住してくれない悲しさ、心細さはどんなであったろう。(中略)
 
 作者はここでも本邸に住んでいないわが身のつらさをいやというほどかみしめたであろう。兼家の「忘れぬことはありながら」と書いた手紙の返事にも「まこと忘るるは、さもや侍らむ」と書かずにいられなかったのも無理がないが、兼家が「いと憎くし給ふめれば、疎むとはなうて、いどみなむ過ぎにける」と、心こまやかに言ってきているので、もう少し他に手紙の書き方もありそうに思われる。作者の方が意地を張り過ぎて不幸を自ら招いているような感がする。

蜻蛉日記を読んできて(202)

2017年07月04日 | Weblog
蜻蛉日記 下巻 (202) 2017.7.4

「九月ついたちにおこたりぬ。
八月二十余日より降りそめにし雨、この月もやまず、降り暗がりて、この中川も大川もひとつにゆきあひぬべく見ゆれば、今や流るるとさへおぼゆ。世の中いとあはれなり。門の早稲田もいまだ刈り集めず。たまさかなる雨間には焼米ばかりぞわづかにしたる。」

◆◆九月の上旬に助の病気は治りました。
八月二十日過ぎから降り始めた雨が、九月になっても降りやまず、あたり一帯が薄暗く、家の前の中川も、大川も一つに合流してしまいそうな様子なので、私の家も流されるのではないかと思われました。世の中はこんな風でなんとも暗いのでした。門の前の早稲田もまだ刈り集めていないし、たまの晴れ間に稲を刈り、焼米ぐらい作るのがやっとでした。◆◆

「皰瘡、世界にも盛りにて、この一条の太政の大殿の少将二人ながら、その月の十六日に亡くなりぬと言ひさわぐ。思ひやるもいみじきことかぎりなし。これを聞くも、おこたりにたる人ぞゆゆしき。かくてあれど、ことなることなければ、まだありきもせず。」

◆◆天然痘が、世界中に広がって、この一条の太政大臣の御子息の二人そろって、九月十六日に亡くなったと大騒ぎです。お察しするだけでもお気の毒でなりません。それらを聞くにつけても快癒した助はなんと不思議なほど幸運でした。こうして回復しましたが、これといって用事もないので、まだ外出もしていません。◆◆


■大川=賀茂川

■早稲田(わさだ)=早稲を植えている田。

■焼米(やいごめ)=新米を炒って食べる。

■一条の太政の大殿の少将二人ながら=一条の太政大臣(兼家の兄・伊尹)の息子たちで、左少将挙賢(たかかた)はあしたに失せ、右少将義孝(よしたか)は夕べに隠れたりと。

蜻蛉日記を読んできて(201)

2017年07月01日 | Weblog
蜻蛉日記 下巻 (201) 2017.7.1

「八月になりぬ。この世の中は皰瘡おこりてののしる。二十日のほどにこのわたりにも来にたり。助いふかたなく重くわづらふ。いかがはせんとて、こと絶えたるひとにも告ぐばかりあるに、わが心ちはまいてせんかたしらず。さいひてやはとて、文して告げたれば、返りごといとあららかにてあり。さては言葉にてぞ『いかに』と言はせたる。さるまじき人だにぞ来とぶらふめると見る心ちぞ添ひて、ただならざりける。右馬頭もおもなくしばしばとひ給ふ。」

◆◆八月になりました。世間では天然痘の流行で大騒ぎです。二十日のころにこの辺にも広がってきました。助が言いようもないほど重く罹ってしまいました。どうしたものかと思ったが音信の絶えた人(兼家)に知らせねばならぬと思うほどで、私はどうしてよいか途方にくれてしまったのでした。そうも言っておられぬと手紙で知らせますと、返事はひどくそっけない。そのほかにただ口上で、「どんな容態か」と使いに言わせただけ。それほど懇意でない人でさえも見舞いに来てくれているのに、と思う心も手伝ってなんともやりきれない気持ちです。右馬頭も合わせる顔がないと思うのに、たびたび見舞ってくださる。◆◆

■皰瘡(もがさ)=天然痘