永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(55)(56)

2015年07月30日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (55)(56) 2015.7.26

「九月になりて、『世の中をかしからん。ものへ詣でせばや。かうものはかなき身のうへも申さん』などさだめて、いとしのびある所にものしたり。一挟みの御幣にかう書きつけたりけり。
まづ下の御社に、
<いちしるき山口ならばここながら神のけしきを見せよとぞおもふ>
中のに、
<稲荷山おほくの年ぞ越えにける祈るしるしの杉をたのみて>
はてのに、
<神がみと上り下りはわぶれどもまださかゆかぬここちこそすれ>
◆◆九月になって、世の中の景色はさぞかし素晴らしいことでしょう、物詣ででもしたいもの。このような心細い身の上を神に申し上げよう」と決めて、ごく内密にして稲荷山に参詣しました。一串の幣帛(へいはく)に、このように書いて結び付けました。まず下の社に、
(道綱母の歌)「霊験あらたかな山の入口であるならば、この下社でさっそく霊験を示して頂きたいと思います」
中の社に、
(道綱母の歌)「長年、稲荷山の、しるしの杉に、頼みをかけて祈ってきたのです」
そして、最後の上の社に、
(道綱母の歌)「上中下の神々に、次々お参りするために、上り下りの坂道はつらく感じられましたが、まだ霊験を頂いた気がいたしません」◆◆


「また、おなじつごもりに、ある所に、おなじやうにて詣でけり。二挟みづつ、下のに、
<神やせくしもにやみくづつもるらん思ふこころのゆかぬ御手洗>
また、
<榊葉のときはかきはにゆふしでや片苦しなるめな見せそ神>
また、上のに、
<いつしかもいつしかもとぞ待ちわたる森の木間より光みむまを>
また、
<木綿だすきむすぼほれつつ嘆くこと絶えなば神のしるしとおもはん>
などなん、神の聞かぬところに、聞こえごちける。秋はてて、冬はついたちつごもりとて、あしきもよきもさわぐめるものなれば、ひとり寝のやうにて過ぐしつ。」
◆◆また、同じ九月の月末に、ある所に前と同じように参詣しました。二串づつ、下の御社に、
(道綱母の歌)「御手洗川(みたらしがわ)の流れが滞るように、私の願いが叶わぬのは、神様が遮っているのでしょうか。それとも私の心が拙いからでしょうか」
また、
(道綱母の歌)「常緑の榊葉に木綿しでを固く結んで、一生懸命お祈り申し上げます。どうか私だけには辛い思いをさせないでください」
また上の社に、
(道綱母の歌)「森の木の間から、神さまの御光の出現を、早く早くと待ち続けております」
また、
(道綱母の歌)「心が結ぼれ、うつうつと嘆く私の物思いがなくなりましたら、神様にお祈りした験があったと思いましょう」
などと、神さまのお耳に入らぬ所で申し上げました。
秋が過ぎ、冬の上旬、下旬だと言って、貴賎上下の別なく、だれもかれも忙しがっているようなので、あの人も来ず、私は一人寝のような有様で過ごしたのでした。◆◆


■ある所=稲荷神社をさす。京都市伏見区。福徳を授け給う神として世人の信仰が厚い。もと稲荷三箇峯といって、上中下の峰にそれぞれ三柱の神が祭られてあった。

■一挟みの御幣(ひとはさみのみてぐら)=串にさして神前に供える幣の意に用いることが多い。
古くは、神に奉る物の総称。絹布、木綿(ゆう)、麻が多いが、後には紙、布で作り、串にさした。

■しるしの杉=稲荷社の杉を引いて自邸に植え、その栄枯で吉凶を占う風習。

■木綿(ゆう)=楮(こうぞ)のあま皮の繊維をよった糸で幣にして垂らしたもの。

作者は兼家の愛情を得たい、子宝に恵まれるようにと常に願っていた。


蜻蛉日記を読んできて(57)

2015年07月29日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (57) 2015.7.29

康保四年(967年)
兼家:三十九歳
作者:三十一歳
道綱:十三歳

「三月つごもりがたに、かりの卵の見ゆるを、『これ十づつ重ぬるわざを、いかでせん』とて、手まさぐりに、生絹の糸を長う結びて、一つ結びては結ひ、一つ結びては結ひしてひき立てたれば、いとよう重なりたり。」
◆◆三月の末ごろのこと、かりの卵を見つけたので、「これを十ずつ重ねることを何とか工夫したい」と、手なぐさみに、生絹の糸を長く結んでは卵を一つ結びつけ、また次の一個を結びつけて、十個結びつけて立ててみると良い具合につながりました。◆◆



「『なほあるよりは』とて、九条殿の女御殿の御方にたてまつる。卯の花にぞつけたる。なにごともなく、ただ例の御文にて、はしに、『この十重なりたるは、かうても侍りぬべかりけり』とのみきこえたる御かへり、
<数しらずおもふ心にくらぶれば十かさぬるもものとやは見る>
とあれば、御かへり、
<思ふほど知らではかひやあらざらんかへすがへすも数をこそ見め>
それより五の宮になんたてまつれ給ふと聞く。」
◆◆「そのまま手元に置いておくよりは」と、九条殿の御方(兼家の御妹)に差し上げます。卯の花を添えて、歌は詠まず、御文の端に、「この十個積み重ねた卵は、このようにでもいられるのでした。(あなたが思ってくださらなくても、私はあなたを思っております。諧謔的な巧みな表現)」とだけ申し上げますと、そのお返事に、
(怤子の歌)「あなたを思う私の心に比べれば、十重ねくらい、ものの数ではありませんよ」
とありました。そこで私からは、
(道綱母の歌)「女御さまが、どのくらい私を思ってくださるのか、是非あなたの思いの数を知りたいものです」
その後、その卵を五の宮さまに差し上げなさったとのことでした。◆◆


■かりの卵(かりのこ)=雁、鴨、軽鴨などの卵など諸説あり不明。十ずつ重ねるのは至難の業で、きわめて難しい比喩であるが、ここではそれを試みようとする。

■生絹の糸(すずしのいと)=生糸で織ったままで、練っていない絹布、ここではその生糸のこと。

■九条殿の女御殿の御方=藤原師輔女(むすめ)怤子(ふし)、冷泉帝の女御となる。兼家の異母妹。

■五の宮=村上天皇の第五皇子、後の円融天皇。


蜻蛉日記を読んできて(54)

2015年07月23日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (54) 2015.7.23

「心のどかに暮らす日は、はかなきこと言ひ言ひの果てに、われも人も悪う言ひなりて、うち怨じて出づるになりぬ。端の方にあゆみ出でて、をさなき人をよび出でて、『われは今は来じとす』など言ひおきて出でにけるすなはち、はひ入りて、おどろおどろしう泣く。」
◆◆のんびりと暮していたある日、ちょっとした口論のはてに、私もあの人も険悪な言いあいになって、あの人は嫌味を言って出て行く羽目になってしまったのでした。縁側の方に行って、幼い道綱を呼び寄せて、「私はもう来ないよ」などと言い置いて出て行った途端に、幼い子はこちらに戻ってきて、ひどく泣きじゃくるのでした◆◆


「『こはなぞ、こはなぞ』と言へど、いらへもせで、論なうさやうにぞあらんとおしはからるれど、人の聞かむもうたてものぐるほしければ、問ひさして、とかうこしらへてあるに、五六にちばかりになりぬるに、音もせず。」
◆◆「いったいどうしたの、どうしたの」と聞いても答えず、きっとそんなことだろうと察しはしたものの、侍女たちに聞かれるのも嫌なので、それ以上問いただすのはやめて、道綱を慰めていましたが、五日六日と日が経っても訪れがありません。◆◆


「例ならぬほどになりぬれば、あなものぐるほし、たはぶれ言とこそ我は思ひしか、はかなき仲なればかくて止むやうもありなんかしと思へば、心ぼそうてながむるほどに、出でし日つかひし泔坏の水は、さながらありけり。うへに塵ゐてあり。かくまでとあさましう、
<絶えぬるか影だにあらば問ふべきをかたみの水は水草ゐにけり>
など思ひし日しも、見えたり。例のごとにてやみにけり。かやうに胸つぶらはあしき折のみあるが、世に心ゆるびなきなん、わびしかりける。」
◆◆いつもなら三日ほどの間隔で見えるのに、このような長い音沙汰無しになってしまい、まあなんてひどいこと、戯れのことと思っていたのに、なにぶんはかない二人の仲なので、このまま終わりになってしまうこともあるかしら、と思うと、心細くて物思いに沈んでいるとき、あの出て行かれた日に使った泔坏(ゆするつき)の水がそのままになってあって、塵などが浮いたままありました。まあこんなになるまで音沙汰がないとはと、あきれ果てて、
(道綱母の歌)「あの人(兼家)との仲は絶えてしまったのだろうか。せめてあの人の影だけでも水に映るものなら尋ねてみたいものなのに、泔坏の水には水草がはびこって影も見えない」
と思い沈んでいるそんな頃にあの人が見えたのでした。いつもの調子でなにごともうやむやにするのもいつものことで、このような不安で少しも心の休まるときがない日々は、とてもやりきれない。◆◆


■泔坏(ゆするつき)=「ゆする」とは洗髪または頭髪を梳くときに使う水で、強飯を蒸したあとの粘り気のある汁。または米のとぎ汁を使ったともいう。「坏」は(ゆする)を入れておく器。


蜻蛉日記を読んできて(53)

2015年07月20日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (53)2015.7.20

「かくて人にくからぬさまにて、十といひて一つ二つの年は余りにけり。されど、あけくれ世の中の、人のやうならぬを嘆きつつ、つきせず過ぐすなりけり。それもことわり、身のあるやうは、夜とても人の見えおこたる時は、人すくなに心ぼそう、今はひとりをたのむたのもし人は、この十よ年のほど県ありきにのみあり、たまさかに京なるほども四五条のほどなりければ、われは左近の馬場を片岸にしたれば、いとはるかなり。」
◆◆このように、人目には夫婦仲のよさそうに見えるのかも知れない状態で、十一、二年経ちました。けれども私自身は、人並みではない不仕合せな境遇を嘆きつつ、尽きぬ物思いを続けながら暮しておりました。それもそのはずで、私の身のありようといったら、夜にあの人が来ない時は、身辺に男どもも少なくて心細く、母が亡くなってたった一人の父親を頼みにと思っても、この十年あまりというものは、受領として地方を回ってばかりで、たまたま京に居るときも、四条五条あたりに住んでいて、私のところは左近の馬場の横側にありましたので、随分離れていました◆◆


「かかる所も、もとよりつくろひかかはる人もなければ、いと悪しくのみなりゆく。これをつれなく出で入りするは、ことに心ぼそう思ふらんなど、深う思ひよらぬなめりなど、千種に思ひみだる。事しげしといふはなにか、この荒れたる宿の蓬よりも繁げなりと思ひながむるに、八月ばかりになりにけり。」
◆◆そういうわけで、ここの女世帯の家を修理してくれる人もなく、どんどん荒れ果てていくばかりです。そんな所にあの人が平気で出入りしていながら、私がどんなに心細く思っているだろうなどと、心配も思いやりもないことに、私の心は千々に乱れるのでした。あの人が「公務多忙で」などと言っているけれど、なにさ、この荒れた我が家に繁っている蓬の数より(多い)多忙とでも言うの、などと思っているうちに八月ごろになったのでした。◆◆


■県ありき=(あがたありき)父倫寧は、陸奥、伊予、河内、上総、常陸、丹波を歴任した。

■左近の馬場=(さこんのむばば)一条西洞院のこと。片岸とは片側を接しているという状態。

■平安京は794年に桓武天皇によって遷都決定され、葛野の地に、東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画造営された都城です。作者の住まいの一条通りから父親の邸の五条、六条通りあたりまでは、直線にしても2.5キロから3キロほどになる。女性が簡単には行けない距離。一条から三条通りくらいまでは内裏に近く、有力な貴族の邸宅があった。作者の邸も申し分のない場所にあった。


蜻蛉日記を読んできて(52)

2015年07月17日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (52) 2015.7.17

「『今年は節きこしめすべし』とて、いみじうさわぐ。いかで見むとおもふに、ところぞなき。『見むとおもはば』とあるを聞きはさめて、『双六うたん』と言へば、『よかなり。物見つくのひに』とて、女うちぬ。よろこびてさるべきさまのことどもしつつ、よひの間しづまりたるに、硯引き寄せて、手習ひに、
<あやめぐさ生ひにし数をかぞへつつ引くや五月のせちに待たるる>
とて、さしやりたれば、」
◆◆「今年は端午の節会(五月五日)を帝が催しあそばす」とのことで、世間中が大騒ぎしています。私も見物したいと思うものの座席がありません。あの人が「見たいと思うなら」と言うのを私が小耳にしたので、その後「双六を打とう」と言われたときに、「ええ、やりましょう。見物席を賭けて」と言って、良い目を打ち出して私が勝ちました。うれしくてそのときの見物の用意など細々としながら、宵の間の人が寝静まった時分に、硯を引き寄せて、手すさびに、
(道綱母の歌)「五日に引く菖蒲の数を数えては、五月の節会の日が切に待たれることです」
と書いて、差し出しますと、◆◆



「うち笑ひて、
<隠沼に生ふる数をば誰か知るあやめしらずも待たるなるかな>
と言ひて、見せんの心ありければ、宮の御桟敷のひとつづきにて、二間ありけるを分けて、めでたうしつらひ見せつ。」
◆◆あの人は、にっこりとして、
(兼家の歌)「隠沼(かくれぬ)のように、人目にふれぬ沼に生えている菖蒲の数など、誰が知っているでしょうか。それと同じように見物席があるかどうか分らないのに、むやみにあなたは待っているのですね」
と言って、祭りを見せようとの気があったので、宮様の御見物席と一続きで二間あった席を仕切って、立派に調えさせて見物させてくれました。◆◆


■端午の節会=(たんごのせちえ)
「端」は物のはし、つまり「始り」という意味で、元々「端午」は月の始めの午の日のことだった。後に、「午」は「五」に通じることから毎月五日となり、その中でも数字が重なる五月五日を「端午の節句」と呼ぶようになった。
日本には、男性が戸外に出払い、女性だけが家の中に閉じこもって、田植えの前に穢れを祓い身を清める儀式を行う五月忌み(さつきいみ)という風習があり、これが中国から伝わった端午と結び付けられた。すなわち、端午は元々女性の節句だった。しかし、「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであることから、鎌倉時代ごろから男の子の節句とされ、甲胄・刀・武者人形(五月人形)などを飾り、庭前に鯉幟(こいのぼり)を立てて、男の子の成長を祝うようになった。
「菖蒲の節句」とも言い、古くから邪気を除くために菖蒲を軒にさしたり、ちまき、柏餅を食べる習わしがある。男児のいる家では鯉のぼりを立て、五月人形を飾って出世を祝います。鯉のぼりは江戸中期に町屋で行なわれ、「黄河の急流の竜門を登った鯉は竜となる」といわれる鯉に立身出世を願って大空を泳ぐようになった。
大宝律令制定の701年には朝廷により競馬(くらべうま)がおこなわれ、律令は端午節に節会を行うことを定め、平安時代には五節会の一つにかぞえられた。江戸時代には幕府が五節供の一つに定めた端午節は、一般にも広く祝われて、次第に男子の節供となった。
かしわ餅は、平安時代の「椿餅」が元の形、椿の葉を二枚餅の両面につけたものだった。 柏の葉は大きいので1枚で包むようになり、流行したのは江戸中期ごろとされている。かしわの葉は若い葉が出ないと古葉が落ちないことから跡継ぎが絶えないという縁起に習ったものである。
ちまきは、古代中国の忠臣屈原(くつげん)の命日が五月五日で供養のために米を入れた竹筒を供えたのが始まりと言われている。


■双六(すごろく)=双六は現在にもみられるが、現在の双六とは異なる。双六盤の区画の上に黒白各十五個の駒を置き、二人が交互にサイコロを振ってその目数によって駒を進める。サイコロは現在と同じく各面に一個から六個の点を打つ。白河法皇が自分の意にならないいわゆる「三不如意」に、賀茂川の水・山法師とともにサイの目をあげたのはあまりにも有名。

■写真は双六をしているところ。

蜻蛉日記を読んできて(51)

2015年07月15日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (51) 2015.7.15

「このごろは四月。祭り見に出でたれば、かの所にも出でたりけり。さなめりと見て、むかひに立ちぬ。待つほどのさうざうしければ、橘の実などあるに、葵をかけて、
<葵とかきけどもよそに橘の>
と言ひやる。やや久しうありて、
<君がつらさを今日こそは見れ>
とぞある。『にくかるべきものにては年経ぬるを、など「今日」とのみ言ひたらん』と言ふ人もあり。帰りて『さありし』など語れば、『「食ひつぶしつべき心地こそすれ」とや言はざりし』とて、いとをかしと思ひけり。」
◆◆そのころは四月。賀茂の祭り見物に出かけますと、あの人(時姫)も来ていました。そうらしいと見定めて車を向いに停めました。祭りの車が通るまで手持ち無沙汰だったので、枝付きの橘の実に葵を絡ませて、
(道綱母の歌)「今日は葵(あふひ=逢う日)の祭りですのに、あなたは知らん顔でお立ちですね。(「橘」に「立ち」をひびかす)」
と、書いて持たせますと、ややあって、
(時姫の歌)「今日こそ、あなたの薄情さを知りましたよ」
とありました。「道綱母を長年憎む相手として過ごしてきましたのに、どうして『今日はじめて』などとおっしゃるのでしょう」と言う侍女もいました。帰宅してからあの人に「今日、こんなことがありました」などと話しますと、「『食いつぶしてやりたい気持ちですこと』とでも言わなかったのかい」などと言って、大いに面白がってしました。◆◆


■作者は兼家の病気以来、兼家との親密さに自信を持ち、時姫(正室)に正面から立ち向かっている。歌にも自信、自負があり、先手を取って文を遣わした。

■このあたりの文章が後の「源氏物語」の葵祭りの車争いのヒントになっている、との説あり。

■兼家は、この頃にあたっては、(康保4年(967年)、冷泉天皇の即位に伴い、同母兄兼通に代わって蔵人頭となり、左近衛中将を兼ねた。翌安和元年(968年)には兼通を超えて従三位に叙される。安和2年(969年)には参議を経ずに中納言となる。)宮中では兄の兼通を越えて昇進中であり、順風の時期。そしてかなりの策略家。
ここでは、時姫と作者を両手の花として、男としての自信が見える。

■兼家の五男に「藤原道長」がいる。母は時姫。


蜻蛉日記を読んできて(50)の3

2015年07月11日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (50)の3 2015.7.11

「少し引き出でて牛かくるほどに見通せば、ありつる所にかへりて、見おこせて、つくづくとあるを見つつ引き出づれば、心にもあらでかへりみのみぞせらるるかし。さて、昼つかた、文あり。なにくれと書きて、
<限りかとおもひつつ来しほどよりもなかなかなるはわびしかりけり>
◆◆乗車のために建物につけた車を、中門の外に引き出して、轅(ながえ)を牛に付けている間、その中門越しに遠く見ていますと、あの人は元のところに帰って、こちらをご覧になってしょんぼりなさっている様子です。その様子を見ながら車を引き出して進めていきますと、無意識のうちに自然とあの人のいる邸の方ばかり振り返っているのでした。さて、昼のころ、手紙を寄こされて、そこに何やかやと書かれていましたが、
(兼家の歌)「最後かと思ってわが家に戻ってきたときよりも、なまじ昨日逢って今日別れることの方が余程辛いことだ」◆◆



「返りごと、『なほいと苦しげにおぼしたりつれば、今もいとおぼつかなくなん。なかなかは、
<われもさぞのどけきとこのうらならでかへる波路はあやしかりけり>』
さてなほ苦しげなれど、念じて、二三日のほどに見えたり。やうやう例のやうになりもてゆけば、例のほどにかよふ。」
◆◆お返事に、「まだたいへん苦しそうでいらっしゃったので、今も心配でなりません。なまじ昨日逢って今日別れることの方が余程辛いのは、
(道綱母の歌)「私も同じで、そちらでゆっくり出来ずに帰る道すがら、不思議なほど切ない思いがいたしました」
そうしているうちに、まだ病後が辛そうながら、我慢して、二、三日して見えました。段々にいつものようになって、こちらに訪れる日も例のような間隔で来られるのでした。◆◆


■例のほどにかよふ=いつものような間隔を置いて。三日に一度位か。作者は「三十日三十夜はわがもとに」と願っていた。美貌と歌才に優れた作者は勝気で気位が高く、兼家を独占したかったが、好色で浮気な夫を終生、引き寄せることが出来なかった。一つには子供が一人だけで、子沢山の時姫に及ばなかった。


蜻蛉日記を読んできて(50)の2 

2015年07月08日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (50)の2 2015.7.8

「『まだ魚なども食はず。今宵なんおはせばもろともに、とてある。いづら』など言ひて、物まゐらせたり。少し食ひなどして、禅師たちありければ、夜うちふけて、『護身に』とてものしたれば、『今はうちやすみ給へ。日ごろよりは少しやすまりたり』と言へば、大徳、『しかおはしますなり』とて、立ちぬ。」
◆◆あの人が、「まだ精進落としの魚なども食べていない。今夜には一緒にと思って用意してあるのだ。さあ、こちらへ」などと言ってお膳を調へさせました。少し食べたりして、僧たちが居ましたので、夜が更けたころに、「護身に」といって部屋に来ましたが、「今日はお休みください。いつもより少し楽になりましたから」とあの人が言いますと、大徳が「そのようにお見受けしました」といって、立ち去りました。◆◆


「さて夜は明けぬるを、『人など召せ』と言へば、『なにか。まだいと暗からん。しばし』とてあるほどに明かうなれば、男ども呼びて、蔀あげさせて見つ。『見給へ。草どもはいかが植ゑたる』とて見出したるに、『いとかたはなるほどになりぬ』など急げば、『何か。いま粥などまゐりて』とあるほどに、昼になりぬ。」
◆◆夜が明けてしまったので、「だれか呼んでください」といいますと、「なあに、まだ真っ暗だよ。もう少し」などと言っているうちに明るくなったので、男どもを呼び寄せて、蔀を上げさせ、外を見ました。「見てごらん、庭の草花はどんな風かな」と言って眺めていますが、私は「夜が明け切ってしまって体裁の悪い時刻になりましたわ」と帰りを急ぎますが、「なあに、良いではないか。さて粥など召し上がって」などと言っているうちに昼になってしましました。◆◆


「さて、『いざ、もろともに帰りなん。またはものしかるべし』などあれば、『かくまゐり来たるをだに、人いかにと思ふに、御迎へなりけりと見ば、いとうたてものしからん』といへば、『さらば、男ども、車よせよ』とて、よせたれば、乗るところにもかつがつとあゆみ出でたれば、いとあはれと見る見る、『いつか、御ありきは』など言ふほどに、涙うきにけり。『いと心もとなければ、明日あさてのほどばかりにはまゐりなん』とて、いとさうざうしげなる気色なり。」
◆◆それから、あの人が「さあ、一緒にあなたの家に帰ろう。またこちらへ来るのは嫌だろうから」と言いますが、「このように参りましたのさえ、人は何と思うことでしょう。それなのにお迎えに参ったなどと思われましては、とても嫌でございますから」と言いますと、「それならば仕方がない。男ども、車を寄せよ」と車を寄せさせ、私の乗る所までやっとのことで歩いてこられました。とても切ない気持ちで「いつになりましょうか。わが家にお出でになれるのは」などと申し上げながら、もう涙が浮かんできてしまいます。あの人は「たいそう気がかりなので、明日か明後日には伺おう」と、とても寂しそうにしていらっしゃる。◆◆

■禅師=(ぜんじ)宮中の内道場に奉仕する僧を言うが、転じて一般に僧侶をいう。
■護身=陀羅尼経(だらにきょう・真言)を唱え、身心を守る密教の行法。

■大徳=(だいとこ)元来は高徳の僧をいうが、転じて僧を尊んでいう称。
■蔀=(しとみ)日本建築で上から吊(つ)り下げた格子戸。蔀戸(しとみど)ともいう。外に突き上げ、あるいは内に引き上げて開け、軒または天井から下げた金具に引っかけて留める。蔀には構造上多少異なるものがあり、表裏両面に格子を組み、その間に板を挟み込むのが正式で、表のみ格子で裏に板を張るものや、横桟または縦桟だけで板を留めたものもある。蔀は敷居と鴨居(かもい)の間を1枚で吊ると重いので、上下2枚に分け、上蔀を吊り下げ、下蔀を柱間(はしらま)に建て込むのが通例である。このような分けた蔀を半蔀(はじとみ)または小蔀(こじとみ)という。
 
 蔀は奈良末期~平安時代(8世紀後半)に現れた建具で、内裏(だいり)の殿舎や貴族の邸宅で用いられたが、中世以降になると一般化され、社寺でも使用した。ガラス戸のない時代、閉めると室内は真っ暗になる。

■粥=(かゆ)米を煮たものをいう。今日の「めし」にあたる。
    対して、「飯(いい)」は米を蒸したもの。

■イラストは蔀(しとみ)


蜻蛉日記を読んできて(50)の1

2015年07月05日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (50)の1  2015.7.5

「読経修法などして、いささかおこたりたるやうなれば、ゆふのこと、みづから返りごとす。『いとあやしう、おこたるともなくて日を経るに、いと惑はれしことはなければにやあらん、おぼつかなきこと』など、人間にこまごまと書きてあり。」
◆◆経を読み、加持祈祷などして、どうにか病状が良くなられたようで、なんとかご自身からのお返事がありました。「こんなにひどく、重い病気になったこともなく来て、このような前後不覚に陥ったことはなかったせいか、とにかくあなたのことが心配で」などと、人目を避けて細々と書かれていました。◆◆


「『物おぼえにたれば、あらはになどもあるべうもあらぬを、夜の間に渡れ。かくてのみ日を経れば』などあるを、人はいかがは思ふべきなど思へど、われもまたいとおぼつかなきに、たちかへりおなじことのみあるを、いかがはせんとて、『車を給へ』と言ひたれば、さしはなれたる廊の方に、いとよう取りなし、しつらひて、端に待ち臥したりけり。」
◆◆あの人の文には、「大分気分も良くなったので、おおっぴらと言うわけにはいかないが、夜分にこちらにおいで。こんなにも会わずにいたのだから」とあったので、気に入らない人は何と思うかしらなどと思うものの、私もまた居ても立ってもいられないので、また折り返し何度も同じ事を言ってこられるので、それではと、「ではお迎えの車をおよこしください」と申しました。出かけて行きますと、寝殿から離れた渡廊の方にたいそう綺麗なお部屋を設えて、端近なところで横たわっていらっしゃいました。◆◆


「火ともしたるに、火消させて下りたれば、いと暗うて入らん方もしらねば、『あやし、ここにぞある』とて、手を取りてみちびく。『などかう久しうはありつる』とて、日ごろありつるやうくづし語らひて、とばかりあるに、『火ともしつけよ。いと暗し。さらにうしろめたくはなおぼしそ』とて、屏風のうしろにほのかにともしたり。」
◆◆灯していた火を消させて車から下りたものの、真っ暗で入り口も分らないでいますと、「どうしたの、こちらだよ」と言って、手をとって案内してくれました。「どうしてこんなに隙取ったの?」などと先日来のことを少しずつ話ししてから、しばらくして、「灯を灯しなさい。大分暗くなった。人に見られる恐れはないから心配しなさんな」と言って、屏風の後ろにほんのりと灯をともしたのでした。◆◆

■読経修法=(どきょうずほう)=読経は本を見ながら経を読み、修法は加持祈祷をすること。

■ゆふのこと=くずし字が不明のため、とりあえず「案の定」と訳されている。

■人間に=(ひとまに)人目を避けて。



蜻蛉日記を読んできて(49)の2

2015年07月03日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (49)の2 2015.7.3

「かかるほどに心地いと重くなりまさりて、車さし寄せて乗らんとして、かき起こされて人にかかりてものす。うち見おこせて、つくづくうちまもりて、いといみじと思ひたり。とまるはさらにいはず。このせうとなる人なん、『何か、かくまがまがしう。さらになでふことかおはしまさん。はやたてまつりなん』とてやがて乗りて、かかへてものしぬ。」
◆◆このような日を過ごしているうちに、容態が重くなる一方でしたので、車を寄せて乗ろうと、抱き起こされてなんとか乗り込みました。こちらを振り返り私をじっと見つめていますのも、ひどく苦しそうでした。ここに残る私は言うまでもありません。弟なる人が「どうしてまあ、涙など流して縁起でもございません。まったく何ほどのことでございましょう。さあ、お車に早くお乗りなさいませ」と言って自分も乗り込んで、あの人を抱えながら行ってしまいました。◆◆


「思ひやる心地、いふかたなし。日に二たび三たび文やる。人にくしと思ふ人もあらんとおもへど、いかがはせん。返りごとはかしこなるおとなしき人して書かせてあり。『「みづからきこえぬがわりなきこと」とのみなん聞こえ給ふ』などぞある。ありしよりもいたうわづらひまさると聞けば、言ひしごとみづから見るべうもあらず、『いかにせん』など思ひなげきて、十よ日にもなりぬ。」
◆◆あの人の容態を思う心は言うまでもありません。一日に二度三度とお見舞いのお手紙をさしあげます。私を憎いと思う人もおいででしょうが、どうしようもないことでした。お返事はあちらの年配の侍女と思う人が代筆で、「ご自分でお返事できず、申し訳ない。とだけ申されています」などとありました。こちらにいる時よりも一層病状が悪化していると聞くにつけ、あの人が言っていたとおり、「もし死ななくても、これまでのようには来られまい」との言葉のように重い状態でも、私の方で看病して差し上げることもできず、「どうしたらよいのか」と思い嘆いていて十日あまりになったのでした。◆◆

■人にくしと思ふ人=私を憎いと思う人。時姫と周りの人たちのことか。

■兼家は、自邸ではどの妻とも同居してはいなかった。おとなしき人は兼家の乳母か。