永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(127) その2

2016年05月31日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (127)その2 2016.5.31

「かかるに夜やうやう半ばばかりになりぬるに、『方は何方かふたがる』と言ふに、数ふればむべもなくこなたふたがりたりけり。『いかにせん、いとからきわざかな。いざもろともに近き所へ』などあれば、いらへもせで、あな物くるほし、いとたとしへなきさまにもあべかなるかなと、思い臥してさらに動くまじければ、『さふりはへこそはすべかなれ。方あきなばこそは、まゐり来べかなれと思ふに、例の六日の物忌みになりぬべかりけり』など、なやましげに言ひつつ出でぬ。」
◆◆こうしているうちに、夜もだんだん更けて夜半ごろになったころ、あの人が、「方角はどちらが塞がっているのか」と言うので、日を数えてみると、案の定本邸からこちら方面が塞がっていたのでした。「どうぢたものかな。これは全く困ったことだ。さあ一緒に方違えに近いところへ…」などと意っていますが、私は返事もせずに、なんと非常識な、全く例の無いとんでも無いことだと思って、横になったまま動こうともしないので、『方違えはきちんとしなければならないものだ。物忌みが終わったら伺ったほうが良かろうと思うが、例の六日間の物忌みになってしまうから』などと、辛そうに言いながら出ていきました。◆◆



「つとめて文あり。『夜ふけにければ心ちいとなやましくてなん。いかにぞ、はや落忌をこそしたまゐてめ。この大夫の。さもふつつかに見ゆるかな』などぞあめる。何かは、かばかりぞかしと思ひ離るる物から、物忌みはてん日、いぶかしき心ちぞ添ひておぼゆるに、六日をすごして七月三日になりにたり。」
◆◆翌朝お手紙がありました。「昨夜は夜中だったので、気分がとても悪かった。あなたはどうか。早く精進落しをなさい。この道綱の大層やつれて見えるから」などと書いてあったようだ。何の、こんな優しい気遣いは手紙の上だけのものだわと気に掛けないでいようと思いながら、物忌みが終わったので、もしかしてと待っていたものの、六日を過ぎて七月三日になってしまったのでした。◆◆


■さふりはへこそはすべかなれ=自分の方違えは自分できちんとしなければならない、の意か。

■六日の物忌み=天一神(なかがみ)は東西南北は五日間、東北・西北・東南・西南は六日間の滞在で運行する。それの物忌みをいう。

■落忌(としみ)=精進落し。参籠中は精進料理なので、早く魚肉を食べるようすすめた。


蜻蛉日記を読んできて(127)その1

2016年05月28日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (127)その1 2016.5.28

「心ちも苦しければ、几帳へだててうち臥す所に、ここにある人ひやうと寄りきて言ふ。『撫子の種とらんとしはべりしかど、根もなくなりにけり。呉竹も一すぢ倒れてはべりし、つくろはせしかど』など言ふ。ただ今言はでもありぬべきことかなと思へば、いらへもせであるに、眠るかと思ひし人いとよく聞きつけて、この一つ車にて物しつる人の障子をへだててあるに、『聞い給ふや、ここにことあり。この世をそむきて家を出でて菩提を求むる人に、只今ここなる人々が言ふを聞けば、<撫子は撫で生したりや、呉竹は立てたりや>とは言ふ物か』と語れば、聞く人いみじう笑ふ。あさましうをかしけれど、露ばかり笑ふけしきも見せず。」

◆◆気分も苦しいので、あの人との間には几帳を隔てて横になっているところへ、留守居をしていた侍女がひょいと近寄ってきて言うには、「撫子の種を取ろうといたしましたけれど、枯れて根もなくなってしまいました。呉竹も一本倒れてしまいました。手入れをさせましたけれど」などと言います。何も今すぐ言わなくてもよさそうなことだと思ったので、返事もしないでいますと、眠っているのかと思ったあの人が、耳さとく聞きつけて、この同じ車で帰ってきた妹が襖をへだてて寝ているのに向って、「お聞きになりましたか。ここに重大なことがありますよ。この世を捨てて、家を出て、菩提を求める人に、ただ今、当家の人たちが言うのを聞くと、撫子はなでて大事に育てたとか、呉竹は立てたとか、言っているではありませんか」と話しかけると、聞く妹も大笑いする。私も噴出しそうに可笑しかったけれど、少しも笑う様子をみせませんでした。◆◆

■ひやうと=ひょいと

■撫子は撫でおほしたりや…=撫子も呉竹も、子を愛し、めでたい植物である。両方とも俗世界を捨て菩提を求める人には縁のないものなのに、いかにも大事件のように侍女が報告したので、兼家がからかったのである。作者が不在の間面倒をみるように命じていたことが分ってしまった。

蜻蛉日記を読んできて(126)の2

2016年05月25日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (126)その2 2016.5.25

「『このこと、かくすれば、出でたまゐぬべきにこそはあめれ。仏のことのよし申したまへ。例の作法なる』とて、天下の猿楽言をいひののしらるめれど、ゆめに物も言はれず、涙のみ浮けれど、念じかへしてあるに、車よせていと久しくなりぬ。」
◆◆あの人は、「この取り片付けを、この通り済ませたので、お出掛けなさらねばならぬようだな。ご本尊には退去の挨拶を申し上げなさい。きまった作法だから」と言って、ひたすら冗談を飛ばされるけれど、私は何も言葉にならず、涙ばかりが浮かんできますが、それをじっとこらえているうちに、車を寄せてから随分時間が経ちました。◆◆



「申の時ばかりにものせしを、火ともす程になりにけり。つれなくて動かねば、『よしよし、我は出でなん。きんじにまかす』とて立ち出でぬれば、『とくとく』と手を取りて泣きぬばかりに言へば、いふかひもなさに出づる心ちぞ、さらに我にもあらぬ。」
◆◆申の時ほどに訪れて来たのでしたが、今はもう灯ともしごろになってしまいました。私がそ知らぬ顔をして動こうともしないので、あの人は「よいよい、私は出かけよう。あとはお前にまかそう」と言って出て行ってしまうと、道綱は「さあ早く、早く」と私の手を取って泣き出さんばかりに言うので、仕方がなく出て行く気持ちといったら、まったく自分のような気がしません。◆◆



「大門ひき出づれば乗り加ははりて、道すがらうちも笑ひぬべきことどもをふさにあれど、夢路か物ぞ言はれぬ。このもろともなりつる人も『暗ければあへなん』とて、おなじ車にあれば、それぞときどきいらへなどする。はるばると至るほどに、亥の時になりにたり。京には、昼さるよし言ひたりつる人々心づかひし、塵かい払ひ、門もあけたりければ、我にもあらずながら下りぬ。」
◆◆大門を車が出ると、あの人も乗り込んできて、道々、噴出してしまいそうな冗談を次々と飛ばしてきますが、私は夢路を辿る心もちで何も言えません。この一緒だった妹も、「暗いから構わないだろう」とて、同じ車に乗っていましたので、妹が時折返事などしています。はるばると遠い道を帰ってくると、亥の時刻になってしまっていました。京の家では昼の間に、あの人の出迎えのことを知らせてくれた人たちが気を配って、掃除をし、門も開けてあったので、そのまま中に入り、無我夢中で車を降りました。◆◆


■天下の猿楽言(さるがうごと)をいひののしらるめれど=ひたすら冗談ばかりを言い放つけれど。

■申(さる)の時=午後三時~五時ごろ

■亥(ゐ)の時=午後九時~十一時ごろ


蜻蛉日記を読んできて(126)その1

2016年05月21日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (126)その1

「釣りする海人のうけばかり思ひみだるるに、ののしりて者来ぬ。さなめりと思ふに、心地まどひたちぬ。こたみはつつむことなくさし歩みて、ただ入りに入れば、わびて几帳ばかりを引き寄せてはた隠るれど、何のかひなし。香盛りすゑ数珠ひきさげ経うち置きなどしたるを見て、『あな恐ろし、いとかくは思はずこそありつれ。いみじく気疎くてもおはしけるかな。もし出で給ひぬべくやと思ひてまうで来つれど、かへりては罪得べかめり。いかに大夫、かくてのみあるをばいかが思ふ』と問へば、『いと苦しうはべれど、いかがは』と、うちうつぶしてゐたれば、『あはれ』とうち言ひて、『さらばともかくもきんぢが心、出で給ひぬべくは車よせさせよ』と言ひもはてぬに、たち走りて、散りかひたるものどもただ取りにつつみ、袋に入るべきは入れて、車どもにみな入れさせ、引きたる軟障なども放ち、立てたるものどもみしみしと取り払ふに、心地はあきれて我か人かにてあれば、人は目をくはせつついとよく笑みてまぼりゐたるべし」

◆◆「釣りする海人のうけ」のように、あれこれ思い乱れていると、がやがやとやかましく屋って来る者がいます。あの人の一行かと思うと心が落着かない。今回は何憚ることなく歩み寄って、つかつかと部屋に入ってきますので、私は困って几帳をちょっと引き寄せて隠れましたが、何の役にも立ちません。香を盛って置き、数珠を手にさげ、お経を置いたりしてしるのを見て、あの人は、「ああ、何と恐ろしい。まさかこれほどまでとは思わなかった。何とも近寄りにくいごようすですね。もしかして下山なさるかと思ってやって来たけれど、かえって仏の罰を被りそうだなあ。どうだ、大夫、こんな暮らしを続けているのをどう思うかね」と問うと、「まことに辛うございますが、致し方ございません」と、答えてうつむいているので、「可哀想に」と言い、「それではどちらにしろ、お前の気持ち次第だ。下山なさるようなら、車を寄せさせなさい」と言いも終わらぬうちに、道綱は立ち上がるやいなや走り回り、散らばっている身の周りの物などを、どしどし取って、包みや袋に入れるべきものは入れて、車にみな運びこませ、引きめぐらしてある軟障なども外して、立ててある調度などを、みしみしと取りのけるので、私はあきれ果てて、ただ呆然としていますと、あの人は私の方にちらちら目配せしながら、にこにこと相好をくずして、取り片付けの様子を見守っていたようでした。◆◆

■「釣りする海人のうけ」=古今集「伊勢の海に釣りする海人のうけなれや心ひとつを定めかねつる」波間に揺れる様な不安定な心の比喩。

■軟障(ぜざう)=隔てにするための幕


蜻蛉日記を読んできて(125)

2016年05月18日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (125) 2016.5.18

「さてありふるほどに、京のこれかれのもとより文どもあり。見れば、『今日、殿おはしますべきやうになん聞く。こたみさへ下りずは、いとつべたましきさまになん、世人も思はん。また、はたよに物したまはじ。さらん後に物したらんは、いかが人笑へならん』と、人々おなじことどもを物したるに、いとあやしきことにもあるかな、いかにせん、こたみはよに渋らすべくもものせじと、思ひさわぐほどに、我がたのむ人、ものよりただ今のぼりけるままに来て、天下のこと語らひて、『げにかくてもしばし行はれよと思ひつるを、この君いと口惜しうなりたまひにけり。はや、なほ物しね。今日も日ならばもろともに物しね。今日も明日も迎へにまゐらん』など、うたがひもなく言はるるに、いと力なく思ひわづらひぬ。『さらば、なほ明日』とて、物せられぬ。」
◆◆こんな風に過ごしているうちに、京のだれかれのところから手紙がきました。見ると、「今日、殿がそちらへおいでになるご予定と聞いております。今度も下山なさらないならば、非常に強情っぱりだと、世間でも思うでしょう。殿にしてももう二度とお出でになりますまい。そうなってから下山なさるのはどうしたものでしょう。世間の物笑いの種となるでしょうよ」と、どの人も同じことを書いて寄こすので、とても妙なことがあるものだ、どうしたらよいかしら、今回は私をぐずぐずさせては置かないだろうと、落着かないでいますと、私の頼みとしている父が、任地からたった今京に戻ったその足で訪ねてきて、いろいろと語らいて、「先日の手紙で書いたように、しばらくは勤行なさるのも良いと思っていましたが、この道綱のおやつれになった様子を拝見すると困ったことと思います。早くやはり山を下りなさい。今日でも日柄がよければ、私と一緒に下山しなさい。あなたの都合の良い日にお迎えに参りましょう」と、いかにも決まったように言いますので、私はすっかりがっかりして途方に暮れたのでした。父上は、「それでは、やはり明日に」と言ってお帰りになったのでした。◆◆


■『蜻蛉日記』上村悦子著の解説から。
「ついに丹波から父が急遽上京し、作者のもとに直行する。作者も父のことを「あしともよしともあらむを、いなむまじき人」と言っているが、その父が、ことをわけて諄々と帰宅を勧め、特に疲労憔悴している道綱の身を案じて言われると作者も動揺せずにはいられない。見舞いに来る人も来尽くしたし、参籠も二十日間近くになり、いつまでもこうしていられない。いつ下山しようか、どうしようかと心がしきりに騒ぐ。父倫寧はおそらく兼家とあらかじめ打ち合わせた上、鳴滝にきたのであろう」



蜻蛉日記を読んできて(124)その2

2016年05月15日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (124)その2 2016.5.15

「さて、『御声などかはらせたまふなるは、いとことはりにはあれど、さらにかくおぼさじ。よにかくてやみ給ふやうはあらじ』など、ひがざまに思ひなしてにやあらん、言ふ。『<かくまゐらば、よくきこえあはめよ>などのたまひつる』と言へば、『などか、人のさのたまはずとも、今にもなん』など言へば、『さらばおなじくは今日出でさせたまへ。やがて御供つかうまつらん。まづはこの大夫のまれまれ京に物しては、日だに傾ぶけば山寺へと急ぐを見給ふるに、いとなんゆゆしき心地しはべる』など言へば、けしきもなければ、しばしやすらひて帰りぬ。」
◆◆しばらくして、「お声などお変わりなさいましたご様子、まことにごもっともでございますが、決してそのように悲観なさってはなりません。まさかこのままで終わってしまうようなことはございますまい」などと、私の気持ちを勘違い(兼家との仲を悲観して涙声になった)したのでしょうか、そんなことを述べています。さらに、「父上は『山寺に参上したら、十分苦情を申し上げるように』などと仰いました」と言うので、「どうしてそんなことを仰るのでしょう、あちらからそのような仰せがなくても、そのうち下山いたしますのに」と言いますと、「それならば同じこと、今日下山なさいませ。早速お供いたしましょう。何はさておき、この大夫(道綱)がたまに京へ出かけて来ても、お日様が西に傾くや、山寺へと急ぐのを見ますと、ほんとうに大変なことだとお察しいたします」などと言っておりましたが、私がそれに応じる気色も見せないので、しばらくの間滞在して帰りました。◆◆



「かくのみ出でわづらひつつ、人もとぶらひ尽きぬれば、又は訪ふべき人もなしとぞ心のうちにおぼゆる。」
◆◆こんな風に出るに出られず思案に暮れていると、尋ねてくる人は大方来てくれたので、もう他には尋ねてくれる人もいないと、心の中では寂しく思っていました。◆◆


蜻蛉日記を読んできて(124)の1

2016年05月12日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (124)その1  2016.5.12

「かくなんと見つつ経るほどに、ある日の昼つかた、大門の方に馬のいななく声して、人のあまたあるけはひしたり。木の間より見とほしやりたれば、ここかしこ直人あまた見えて、歩み来めるは兵衛佐なめりと思へば、大夫よび出だして、『今まできこえさせざりつるかしこまりとり重ねて、とてなんまゐり来る』と言ひ入れて、木蔭に立ちやすらふさま、京おぼえていとをかしかめり。このころは『のちに』と言ひし人ものぼりてあれば、それになほしもああらぬやうにあれば、いたくけしきばみ立てり。」
◆◆こんなことがあったなどと日を経ているうちに、ある日の昼ごろ、大門の方で、馬のいななく声がして、大勢の人がやってくる気配がしました。木の間から見通すと、ここかしこにありふれた身分の者が大勢見えて、寺のほうに歩いてくるようです。どうも兵衛佐(道隆)のようであるとおもっていると、大夫(道綱)を呼び出して、『今までお見舞い申し上げませんでしたお詫びに、参上いたしました』と来意を告げて、木陰に佇んでいる姿は、いかにも京人を思わせて、すっきりと見栄えが良い。この頃は、『また後で来ます』と言っていた妹も来ていましので、その妹にどうやら気があるようなので、ひどく気取って立っています。◆◆



「返りごとは、『いとうれしき御名なるを、はやくこなたに入りたまへ。さきざきの御不浄は、いかでことなかるべく祈りきこえん』と物したれば、歩み出でて高欄におしかかりて、まづ手水など物して入りたり。よろづのことども言ひもてゆくに、『むかし、ここは見給ひしは覚えさせたまふや』と問へば、『いかがは。いとたしかにおぼえて。今こそかく疎くてもさぶらへ』など言ふを、思ひまはせば、物も言ひさして声かはる心地すれば、しばしためらへば、人もいみじと思ひて、とみに物も言はず。」
◆◆返事には、「ほんとうによくお訪ねくださいました。さあどうぞ早くお入りください。これまでの罪障がどうぞ無事に消滅いたしますよう、み仏さまにお祈り申しましょう」と言いますと、木陰から歩み出て、高欄に寄りかかって、まず手水などを済ませてから入ってきました。いろいろな話をお互いにしていくうちに、「昔、私にお会いくださったことは、覚えていらっしゃいますか」と尋ねたところ、「どうして忘れたりするでしょうか、はっきり覚えておりますとも。今でこそ、このようにお目にかかる折もなくおりますけれど」など言うので、あれこれとさまざまのことを思いめぐらすと、言葉もつかえて、涙声になりそうなので、しばらく気を静めて黙っていますと、相手もしんみりとして、すぐには何も言わないのでした。◆◆


■直人(なほびと)=身分の低い者、供人

■兵衛佐(ひょうえのすけ)=兼家の長子、道隆。時姫腹。



蜻蛉日記を読んできて(123)

2016年05月07日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (123) 2016.5.7

「また、尚侍の殿よりとひ給へる御かへりに、心ぼそく書き書きて上文に『西山より』と書いたるを、いかがおぼしけん、又ある御かへりに、『とはの大里より』とあるを、いとをかしと思ひけんも、いかなる心心にてさるにかありけん。」
◆◆また、尚侍貞観殿登子さまからお見舞い下さったご返事に、心細い思いを書き連ねて上書きに、「西山より」と書きましたのを、どうお思いになったのか、また届いたお返事に、「東の大里より」と書いてあるので、私はとても面白く思ったことでしたが、それぞれどんな思いであったのかしら。◆◆


「かくしつつ日ごろになり、ながめまさるに、ある修行者、御嶽より熊野へ大峰通りに越えけるがことなるべし、
<外山だにかかりけるをと白雲のふかき心は知るも知らぬも>
とて、落としたりけり。」
◆◆こんなふうにして日が経っていき、以前よりさらに物思いに沈んでいるときに、この山寺の修行者が御嶽(みたけ)より熊野へ、大峰越えをして行った者のしわざであったろうか。
(修行者の歌)「京に近い西山でさえこれほど寂しいとは知らなかったが、あなたの深い求道心は誰でも存じておりますよ」
とて、戸の様な歌を落し文にしてありました。◆◆


■西山より=この山寺の鳴滝は平安京の西

■修行者=鳴滝の山寺に籠っている修験者(山伏)

■大峰通り=金峰山(御嶽)以南、熊野へ至る山々の総称

■落としたり=落し文に=名を隠してそれとなく相手に届ける手紙。



蜻蛉日記を読んできて(122)

2016年05月04日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (122)

「その暮れて又の日、なま親族だつ人とぶらひにものしたり。破籠などあまたあり。まづ、『いかでかくは。何と、などせさせ給ふにかあらん。ことなることあらでは、いと便なきわざなり』と言ふに、心に思ふやう、身のあることをかきくづし言うふにぞ、『いとことわり』と言ひなりて、いといたく泣く。」
◆◆その日が暮れて次の日、遠い親戚の人が尋ねてこられました。破籠などたくさん持参してくれました。真っ先に「どうしてこのようなところにいらっしゃるのでしょう。いったいどのようなおつもりで山籠りなさっていらっしゃるのですか。このようなことは良くありませんのに」などと言いますので、私が心におもっていることや、身の上のことなどを少しずつ言いますと、「なるほど、ごもっともですこと」と言ってはひどく泣くのでした。◆◆



「日暮らし語らひて、夕暮れのほど、例のいみじげなることども言ひて、鐘の声どもしはつるほどにぞ帰る。心深くもの思ひ知る人にもあれば、まことにあはれとも思ひ行くらんと思ふに、またの日、旅に久しくもありぬべきさまの物どもあまたある。身には言ひ尽くすべくもあらず、かなしうあはれなり。『帰りし空なかりしことの、はるかに木高き道をわけ入りけんと見しままに、いといといみじうなん』など、よろづ書きて、
『<世の中の世の中ならば夏草の繁き山べもたづねざらまし>
物を、かくておはしますを見給へおきてまかり帰ることと思う給へしには、目もみな眩れ惑ひてなん。あが君、ふかくものおぼし乱るべかめるかな。
<世の中は思ひのほかになるたきの深き山路を誰知らせけん>
など、すべてさい向かひたらんやうに、こまやかに書きたり。」
◆◆一日中語り合って、夕暮れのころになって、お互いに言いあわせたように別れの寂しさを言いながら、入相の鐘が鳴る頃にみな帰っていきました。情愛の深い人なので、きっとこちらのことをあわれと思いながら帰られたと思っていると、次の日、山寺に長期間籠ることができるような必要品をたくさん送ってきてくれました。私にとっては言葉に尽くせないほどで、悲しいながら気持ちがいっぱいになる。その人の手紙には、「あまりの悲しさに心もうわの空で帰って来ました。はるばる樹木の高くそびえているこの山路を分け入って来られたと思うにつけて、いよいよ胸がいっぱいになりました」などといろいろ書いてあって、
(遠縁の者の歌)「殿との仲が尋常にいっておいででしたら、あのような夏草の繁った山のあたりまでお出向きにはならなかったでしょう」ものを、こうして山に籠っていられるあなたさまを後にして下山することよと思いますと、涙があふれ、目もよく見えないほどでございました。
ああ、あなたさま! あまりにも深刻に思い乱れておいでのご様子でございますね。
(遠縁の者の歌)「夫婦仲というものは意外なことになるもの、結構でいらっしゃったあなたさまに奥深い鳴滝の山寺への道を誰がお教えしたのでしょう」などと、まるで向かい合って話しかけるように心こまやかに書かれていました。◆◆



「鳴滝といふぞ、この前より行水なりける。返りごとも思ひいたるかぎりものして、『たづねたまへりしも、げにいかでと思う給へしかど、
<物おもひの深さ較べに来てみれば夏の繁りもものならなくに>
まかでんことはいつともなけれど、かくの給ふ事なん思う給へわづらひぬべけれど、
<身ひとつのかくなるたきを尋ぬればさらにかへらぬ水もすみけり>
と見れば、ためしある心ちしてなん』などものしつ。
◆◆


■なま親族(しぞく)だつ人=親族といえば言えるような人。遠い親戚。


蜻蛉日記を読んできて(121)

2016年05月01日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (121) 2016.5.1

「太夫、『一日の御かへり、いかでたまはらん。また勘当ありなんを、持てまゐらん』と言へば、『なにかは』とて書く。『すなはちきこえさすべく思う給へしを、いかなるにかあらん、かうでがたくのみ思ひてはべるめるたよりになん。まかでんことはいつとも思う給へわかれねば、きこえさせんかたなく』など書きて、何ごとにかありけん、『御端書は、いかなることにかありけんと思う給へ出でんに、ものしかむべければ、さらにきこえさせず。あなかしこ』など書きて、出だしたてたれば、例の時しもあれ、雨いたく降り神いといたく鳴るを、胸ふたがりて嘆く。」
◆◆太夫(道綱)が、「先日の父上からのお手紙のお返事をいただきとうございます。また父上のお叱りを受けるでしょうから持って参ります」と言うので、「そうですね」といいうことで書きました。「早くにお返事を申し上げねばと思っておりましたが、どういう訳でしょうか、この子がそちらへ参上しづらく思っています次第で、遅くなってしまいました。下山のことはいつとも見当がつきかねますので、何とも申し上げようもございません」などと書いて、何のことでしたか、「御端書はどんなことでしたかと思い出しましても、私は不愉快ですので、もう何も申し上げません。かしこ」などと書いて、道綱を送り出したところ、また先日のように、折悪しく雨が降り雷もひどく鳴って、私は胸が塞がる思いで心配でたまりませんでした。◆◆



「すこししづまりて暗くなるほどにぞ帰りたる。『もののいと恐ろしかりつる、御陵のわたり』など言ふにぞ、いとぞいみじき。返りごとを見れば、『一夜の心ばへよりは、心弱げに見ゆるは、行ひ弱りにけるかと思ふにも、あはれになん』などぞある。」
◆◆やがて少し収まって暗くなる頃にやっと道綱が帰ってきました。「とても恐ろしゅうございました。御陵のあたりが」などと言うのを、ほんとうに大変だったろうと胸がいっぱいになりmした。兼家からの返事を見ますと、「先夜の意気軒昂よりは、大分弱気に見えるのは、勤行のせいで、衰弱したのかと思うと、なんと気の毒なことよ」などと書いてありました。


■端書(はしがき)=特に手紙の最初のところに返って、一段と細かな字で書き足したもの。この日記には書いていない。

■ものしかむべければ=ものしかるべければ。

■御陵(みささぎ)=仁和寺の西方にある光孝天皇の陵という説に従う。