永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(平安時代 中期)

2008年06月06日 | Weblog
平安中期

ー紫式部の生きた時代ー

 時平の死後、弟の藤原忠平が太政官首班となった。忠平は律令回帰路線に否定的であり、土地課税路線を推進していった。忠平執政期ごろに、有力百姓層(富豪層)へ土地経営と納税を請け負わせる名体制もしくは負名体制が開始しており、この時期が律令国家体制から新たな国家体制、すなわち王朝国家体制へ移行する転換期だったと考えられている。

 忠平期を摂関政治の成立期とするのが通説である。それ以前の藤原良房の時から藤原北家が摂政・関白に就いて執政してきたが、発展段階の摂関政治だったとして初期摂関政治と区別されている。忠平以降は朝政の中心としての摂関が官職として確立し、忠平の子孫のみが摂関に就任するという摂関政治の枠組みが確定した。ただし、摂関政治においても摂関が全ての決定権を握っていたのではなく、議政官が衆議する陣定の場でほとんどの政治決定が行われていた。

 ところで、9世紀ごろから関東地方を中心として、富豪層による運京途中の税の強奪など、群盗行為が横行し始めていた。群盗の活動は9世紀を通じて活発化していき、朝廷は群盗鎮圧のために東国などへ軍事を得意とする貴族層を国司として派遣するとともに、従前の軍団制に代えて国衙に軍事力の運用権限を担わせる政策をとっていった。この政策が結実したのが9世紀末~10世紀初頭の寛平・延喜期であり、この時期の勲功者が武士の初期原型となった。彼らは自らもまた名田経営を請け負う富豪として、また富豪相互あるいは富豪と受領の確執の調停者として地方に勢力を扶植していったが、彼ら同士の対立や受領に対する不平が叛乱へ発展したのが、忠平執政期の940年前後に発生した承平天慶の乱である。朝廷の側に立ち、反乱側に立った自らと同じ原初の武士達を倒して同乱の鎮圧に勲功のあった者の家系は、承平天慶勲功者、すなわち正当なる武芸の家系と認識された。当時、成立した国衙軍制において、「武芸の家系」は国衙軍制を編成する軍事力として国衙に認識され、このように国衙によって公認された者が武士へと成長していった。
忠平の死後、10世紀中葉に村上天皇が親政を行った。これを天暦の治といい、延喜の治と並んで聖代視された。

 10世紀中葉から後期にかけて、ある官職に伴う権限義務を特定の家系へ請け負わせる官司請負制が中央政界でも地方政治でも著しく進展していった。この体制を担う貴族や官人の家組織の中では、子弟や外部から能力を見込んだ弟子に対し、幼少期から家業たる専門業務の英才教育をほどこして家業を担う人材を育成した。先述の武士の登場も、武芸の家系に軍事警察力を請け負わせる官司請負制の一形態とみなせる。

 朝廷の財政は、地方からの収入によっていたが、特に地方政治においては、国司へ大幅な行政権を委任する代わりに一定以上の租税進納を義務づける政治形態が進んだ。このとき、行政権が委任されたのは現地赴任した国司の筆頭者であり、受領と呼ばれた。受領は、大きな権限を背景として富豪層からの徴税によって巨富を蓄え、また恣意的な地方政治を展開したとされ、その現れが10世紀後期~11世紀中期に頻発した国司苛政上訴だったと考えられてきたが、一方で受領は解由制や受領考過定など監査制度の制約も受けていた。いずれにせよ、受領は名田請負契約などを通じて富豪層を育成する存在であるとともに、富豪から規定の税を徴収しなければならない存在でもあり、また富豪層は受領との名田請負契約に基づいて巨富を築くと同時に中央官界とも直接結びついて受領を牽制するなど、受領の統制を超えて権益拡大を図る存在でもあった。

 また、荘園が拡大し始めたのもこの時期である。10世紀前期に従来の租税収取体系が変質したことに伴い、権門層(有力貴族・寺社)は各地に私領(私営田)を形成した。このように荘園が次第に発達していった。権門層は、荘園を国衙に収公されないよう太政官、民部省や国衙の免許を獲得し、前者を官省符荘といい後者を国免荘という。こうした動きに対し、10世紀後期に登場した花山天皇は権門抑制を目的として荘園整理令などの諸政策を発布した。この花山新制はかなり大規模な改革を志向していたが、反発した摂関家によって数年のうちに花山は退位に追い込まれた。とはいえ、その後の摂関政治は権門優遇策をとった訳ではない。摂関政治で最大の栄華を誇った藤原道長の施策にはむしろ抑制的な面も見られる。摂関政治の最大の課題は、負名体制と受領行政との矛盾、そして権門の荘園整理にどう取り組むかという点にあった。

 摂関政治による諸課題への取り組みに成果が見られ始めたのが、11世紀前期~中期にかけての時期である。この期間、国内税率を一律固定化する公田官物率法が導入されたり、小規模な名田に並行して広く領域的な別名が公認されるようになったり、大規模事業の財源として一国単位で一律に課税する一国平均役が成立するなど、社会構造に変革を及ぼすような政策がとられた。このため、10世紀前期に始まった王朝国家体制はより中世的な形態へ移行し、11世紀中期を画期として以前を前期王朝国家、以後を後期王朝国家と区分する。

 11世紀前期には、女真族が北部九州に来襲する事変が発生した(1019年、刀伊の入寇)。

◆写真は平等院鳳凰堂
   藤原道長の別荘を、その子頼道によって寺院に改められ、創建されました。
   紫式部も別荘を訪れたでしょうか。

 出典:フリー百科事典

源氏物語を読んできて(平安時代 前期)

2008年06月06日 | Weblog
平安前期
ー紫式部の時代以前ー

 奈良末期の宝亀元年(770年)の称徳天皇が崩御し、天智天皇系の光仁天皇が60前後という高齢ながらに即位した。天武天皇以来の皇統は、以前より盛んだった天武系皇族間での相次ぐ政争によって継承順で繰り上がった天智天皇系の白壁王(光仁天皇)が継承した。未だ天武系の皇族の影響があるなか、光仁天皇崩御後に桓武天皇が即位した。

 桓武天皇は歴代天皇の中でも遷都を二回も行うほどの強権を誇ったが、光仁天皇即位まではあまり恵まれた境遇ではなかった。天武系でなければ即位すら出来なかった時代に天智系の光仁天皇(当時は白壁王)の第一皇子として生まれ、立太子は行われず(通常、継承順位が高ければ生まれると同時に行われた)、日々の暮らしに困憊するほどであった。以後、時の権力者となった桓武天皇の影響により、現在まで天武系の皇族は皇位に即いていない。奈良時代は天武系の、平安時代は桓武天皇に続く天智系の時代であったといえる。

 桓武天皇は新王朝の創始を強く意識し、自らの主導による諸改革を進めていった。桓武の改革は律令制の再編成を企図したものであり、その一環として桓武は平城京から長岡京、さらには平安京への遷都(794年)を断行した。平安遷都は、前時代の旧弊を一掃し、天皇の権威を高める目的があったと考えられている。また、その様式には強く唐風の物があり、奈良とは異なった。

 桓武(781年~806年)以下数代においては、天皇が直接に政治を行う天皇親政の時代だった。政治を司る太政官の筆頭官も親王らが占めていた。この時期は、律令制の再建へ積極的な取り組みがなされ、形骸化した律令官職に代わって令外官などが置かれた。また、桓武は王威の発揚のため、当時日本の支配外にあった東北地方の蝦夷征服に傾注し、坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷征服に活躍した。

 称徳天皇で断絶した天武皇統の教訓を踏まえ、桓武は多数の皇子をもうけた。桓武の死後、皇子らは順番に皇位につくこととし、桓武の次代の平城天皇は桓武に劣らぬ積極的な改革を遂行した。平城は弟の嵯峨天皇に譲位した後も執政権を掌握し続けようとしたが、それを嫌った嵯峨との間に対立が深まり、最終的には軍事衝突により嵯峨側が勝利した(810年、平城上皇の変)。この事件以降、12世紀中葉の平治の乱まで中央の政治抗争は武力を伴わず、死刑も執行されない非武力的な政治の時代が永らく続くこととなった。

 嵯峨治世初期は、太政官筆頭だった藤原園人の主導のもと、百姓撫民(貧民救済)そして権門(有力貴族・寺社)抑制の政策がとられた。これは、律令の背景思想だった儒教に基づく政策であったが、園人の後に政権を握った藤原冬嗣は一変して墾田開発の促進を政策方針とした。律令制の根幹は人別課税だったが、冬嗣は土地課税を重視し、かつ権門有利を志向したのである。820年代から多数設定され始めた勅旨田や同時期に大宰府管内で施行された公営田も、冬嗣路線に則ったものとされている。冬嗣は嵯峨天皇の蔵人頭として活躍し、それを足掛かりとして台頭した。また、嵯峨治世期には、各種法令の集大成である弘仁格式が編纂・施行された。

 冬嗣の子、藤原良房も冬嗣の路線を継承し、開墾奨励政策をとった。当時、課税の対象だった百姓らの逃亡・浮浪が著しく、租税収入に危機が迫っていた。冬嗣・良房は墾田開発を促進し、土地課税にシフトすることで状況に対応しようとしたのである。良房は、政治権力の集中化も進めていき、そうした中で応天門の変(866年)が発生した。この事件は、藤原氏による他氏排斥と理解されることが多い。良房執政期を中心とした時期は、政治も安定し、開発奨励政策や貞観格式編纂などの成果により、貞観の治と呼ばれている。

 良房の養子、藤原基経もまた、良房路線を継承し土地課税重視の政策をとった。基経執政期で特徴的なのが、元慶官田の設置である。それまで中央行政の経費は地方からの調・庸によっていたが、畿内に設定した官田の収益を行政経費に充てることとしたものである。

 887年に即位した宇多天皇は、その数年後に基経が死去すると天皇主導の政治を展開するようになる。冬嗣から基経まで、権門に有利な政策が実施されてきたが、宇多は権門抑制策そして小農民保護策を進めていった。宇多のもとでは藤原時平と菅原道真の両者が太政官筆頭に立ち、協力しながら宇多を補佐していた。この宇多治世は寛平の治という。宇多が醍醐天皇に譲位するとにわかに時平・道真の対立が深まり、道真が失脚することとなった(901年昌泰の変)。

 実権を握った時平は宇多路線を引継ぎ、権門抑制と小農民保護を遂行していった。宇多以来の路線は律令制への回帰を志向したものであり、時平執政期の902年に発布された班田励行令は、まさに律令回帰を顕著にあらわしているが、これが史上最後の班田実施となった。また、律令回帰を目指す法令群である延喜格式が編纂されたのもこの時期であり、これら諸施策は後代、理想的な政治とされ、延喜の治と呼ばれた。

◆フリー百科事典

源氏物語を読んできて(69)

2008年06月06日 | Weblog
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【花散里(はなちるさと)】の巻 (1)

 源氏 25歳5月の頃 

 源氏は、故桐壺院のご崩御後の味気ない情勢と、ご自分から求めての秘密ごとに、物思いの多いこの頃でございます。
 故桐壺院の女御でいらした麗景殿(れいけいでん)とおっしゃる方は、院との間に御子もいらっしゃらず、院が崩御されて後は心許なくおられたのを、源氏のご好意で庇護されて暮らしておいででした。その御妹の三の君と、かつて内裏で、ほんのかりそめにお逢いになって後は、源氏はいつものご性分で、忘れているわけではないものの、特に重く扱われることもなく、女の方では気を揉むことが多いようでした。

 物思いの一つとして、この女君を思い出されると我慢ができなくなって、五月雨の続いていて、ある晴れた雲間を見計らってお出かけになります。

 供びとも少なく、目立たぬ装束で、中川(京極川)のあたりをお通りになりますと、
「よく鳴る琴を、あづまに調べて掻き合わせ、にぎははしく弾きなすなり」
――よく鳴る琴を、東琴(六弦の和琴)に合わせて賑わしく弾くようすです――

 そう言えば、この辺りの女に通ったこともあったと思い出されて、行きすぎたのを引き返し、惟光にうたを託します
「をちかえりえぞ忍ばれぬほととぎすほのかたらひし宿の垣根に」
――ほととぎすが昔ほのかに鳴いた宿の垣根にまた来るように、私もかつてお訪ねしたこの家に来ては、昔に立ち返ってなつかしさに堪えられません――

 女主人の返歌は、「お便りの主は、その方と思いますが、この五月雨のようにおぼつかないことです(恨みのこころ)」

 源氏は「さもつつむべきことぞかし、道理にもあれば、さすがなり。かやうの際は、筑紫の五節が、らうたげなりしはや、と、まず思し出ず」
――それほど用心深くする理由があるのだろう(決まって通ってくる男ができたこと)、それももっともだと思えば、責められることではない。しかし、こういう身分の女では筑紫の五節が、可愛かったなあ、と、思い出されます――

 どういう女ということなく、御こころの安まることがなく苦しそうです。一度愛した女のことはお忘れにならないことが、かえって多くの人の悩みともなるようです。

 「かの本意の所は、思しやりつるもしるく、人目なく静かにて……」
――目ざす花散里(御妹の三の宮)のお住いは想像していたより、人の気配もまばらで寂しげでございます――

 まず、御姉君の麗景殿の方と昔のことなど話し合われて、二十日ほどの月が昇ってまいります頃は、木々の影も小暗く、近くの橘が程よく薫っておりますうちに、夜も更けようとしてまいりました。

ではまた。


源氏物語を読んできて(和琴)

2008年06月06日 | Weblog
六弦の和琴

 日本古来の琴。倭琴(やまとこと)とも言う。古くは楽曲にも用いられたことがあるが、現在では、神楽、東歌(あずまうた)久米歌、大歌などに用いられる。

◆写真は古い形式の鴟尾琴(とびのおのこと)
  風俗博物館より