永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(49)の1

2015年06月29日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (49)の1 2015.6.29

「三月ばかり、ここに渡りたるほどにしも苦しがりそめて、いとわりなう苦しと思ひまどふを、いといみじと見る。言ふことは、『ここにぞ、いとあらまほしきを、何ごともせんにいと便なかるべければ、かしこへものしなん。つらしとなおぼしそ。にはかにも、いくばくもあらぬ心地なんするなん、いとわりなき。あはれ、死ぬともおぼし出づべきことのなきなん、いとかなしかりける』とて泣くを見るに、ものおぼえずなりて、又、いみじう泣くかるれば、」
◆◆三月ごろのこと、あの人がこちらに来ていたときに、ひどく苦しがりはじめて、又一層油汗をかいて苦しみ出しましたので、大変なことになったとおろおろしながらいますと、言い出されたことは、「ここにこのまま居たいとはおもうけれど、何につけても不便なことなので、自邸に戻ろうと思う。薄情だと思わないでほしい。急に、あといくらも生きられないような気がするのがとても辛い。ああ、私が死んでも、あなたが私を思い出してくれないだろうことが、ひどく悲しいのだ」と言って泣かれるのを見るにつけ、わたしは気も転倒してしまい泣くばかりなので、◆◆


「『な泣き給ひそ。苦しさまさる。よにいみじかるべきわざは、心はからぬほどに、かかる別れせんなんありける。いかにし給はんずらむ。ひとりは世におはせじな。さりとも、おのが忌みのうちにし給ふな。もし死なずはありとも、限りと思ふなり。ありともこちはえまゐるまじ。おのがさかしからん時こそいかでもいかでもものし給はめとおもへば、かくて死なばこれこそは見たてまつるべき限りなめれ』など、臥しながらいみじう語らひて泣く。」
◆◆あの人は、「そんなに泣かないで。いよいよ苦しさが増してくる。何よりも辛く感じるのは思いがけず、急な死に方で別れることだ。そうなったらあなたはどうなさるのだろう。よもや再婚せずに過ごされることはないだろうが、そうだとしても、私の死後一周忌の間はなさるな。たとえ死なずに命があっても、この体ではもうこちらへは来られまい。自分がまだこうしているうちは、何としてでも私の側から離れないでいただきたい。それで、もしも死んだならば、それこそ見納めというものだから」などと、横たわったまま苦しそうに話されては泣かれるのでした。◆◆


「これかれある人々呼びよせつつ、『ここにはいかに思ひきこえたりとか見る。かくて死なば、又対面せでや止みなんと思ふこそいみじけれ』と言へば、みな泣きぬ。みづからは、ましてものだに言はれず、ただ泣きにのみ泣く。」
◆◆居合わせた侍女たちを呼び寄せては、「わたしがあなた達をどんなに大切に思ってきたかお分かりか。こうして死んでしまったならば、もう二度と会うこともないと思うとたまらない」とおっしゃると皆泣いてしまいました。ご自分ではもう何も言えず、ただただ泣かれるばかりでした。◆◆
  

■心はからぬほどに=「思いがけず」と、通常は訳するが、この言葉に誤脱ありか。


蜻蛉日記を読んできて(48)

2015年06月26日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (48) 2015.6.26

「さてきのふけふは関山ばかりにぞものすらんかしと思ひやりて、月のいとあはれなるにながめやりてゐたれば、あなたにもまだ起きて琴ひきなどして、かく言ひたり。
<ひきとむるものとはなしに逢坂の関のくちめの音にぞそぼつる>
これもおなじ思ふべき人なればなりけり。
<思ひやる逢坂山の関の音はきくにも袖ぞ朽ち目つきぬる>
など思ひやるに、年もかへりぬ。」

◆◆さて、昨日今日は、関所のある山あたりに差し掛かっているかしらと思いながら、月の美しい空を眺めていますと、あちらの叔母もまだ寝ずに起きておいでのようで、琴を弾いていてこのように言って寄こされました。
(叔母の歌)「琴を弾いても行く人を引き止めることも出来ず、今頃は逢坂の関の入り口あたりかと、琴の音に袖が濡れます」
叔母も姉の身を親身になって案ずる筈の人だからでしょう。
(道綱母の歌)「逢坂の関の姉に思いを馳せてお弾きになる琴の音は、聞いていると涙で袖が濡れ、朽ち目がついてしましました」
などと、お互いに思いあっているうちに、年も改まっていきました。◆◆

■兼家  38歳。 作者30歳くらい。 道綱12歳。

■逢坂の関=(あふさかのせき)山城国と近江国の国境となっていた関所。相坂関や合坂関、会坂関などとも書く。

東海道と東山道(後の中山道)の2本が逢坂関を越えるため、交通の要となる重要な関であった。その重要性は、平安時代中期(810年)以後には、三関の一つとなっていた事からも見てとれる。なお、残り二関は不破関と鈴鹿関であり、平安前期までは逢坂関ではなく愛発関が三関の一つであった。
近世に道が掘り下げられた事などから、関のあった場所は現在では定かでない。しかし、逢坂2丁目の長安寺付近にあった関寺と逢坂関を関連付ける記述が更級日記や石山寺縁起に見られる事などから同寺の付近にあったと見られる。なお、これとは別の滋賀県大津市大谷町の国道1号線沿いの逢坂山検問所(京阪京津線大谷駅の東)脇には「逢坂山関址」という碑が建てられている。

■朽ち目=(くちめ)は和琴の名器「朽目」、それに「関の口」をひびかせる。


蜻蛉日記を読んできて(46)(47)

2015年06月23日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (46) 2015.6.23

「忌日などはてて例のつれづれなるに、弾くとはなけれど琴おしのごひてかきならしなどするに、忌みなきほどにもなりにけるを、あはれにはかなくてもなど思ふほどに、あなたより、
<今はとて弾きいづる琴のねをきけばうちかへしてもなほぞかなしき>
とあるに、ことなることにもあらねど、これを思へば、いとど泣きまさりて、
<亡き人はおとづれもせで琴の緒を絶ちし月日ぞかへりきにける>
◆◆一周忌のことなどもやり終えて、例のようにつれづれとなったときに、琴を弾くというほどもなく、喪中に積もった塵を払いなどして爪弾いていますと、もう喪もあけてしまったのだと、それもなんと虚しく月日のたつものだと、しみじみ悲しく思っていたときに、あちらの叔母から
(叔母の歌)「喪があけて久しぶりに取り出されたのでしょう。弾いている琴の音を聞いていると、またも亡くなった貴女の母上のことを思い出して悲しくなります」
とありました。格別取り立ててのことではないけれど、その気持ちを思うと、またまた涙にくれて、
(道綱母の歌)「琴を弾いても、亡き母は戻ってくることはないのに、琴の弦を断ったその命日が再び巡ってきました」◆◆


蜻蛉日記  上巻 (47) 2015.6.23

「かくて、あまたある中にも、たのもしきものに思ふ人、この夏より遠くものしぬべきことのあるを、『服はてて』とありつれば、このごろ出で立ちなんとす。これを思ふに、心ぼそしと思ふにもおろかなり。今はとて出で立つ日、渡りて見る。」
◆◆こうしているうちに、大勢の兄弟姉妹の中でもっとも頼りに思っている姉が、本当ならばこの夏から遠くに行く(夫の任地)べきことがあったのですが、「一周忌が終わってから」ということで、いよいよ出発することになりました。姉との別れを思うと、心細いなどというありきたりの言葉では言い表せないことです。いよいよ出発という日に、私はそちらへ出向きました。◆◆


「装束一領ばかり、はかなき物など硯箱一よろひに入れて、いみじうさわがしうののしりみちたれど、我もゆく人も目見合わせずただ向かひゐて涙をせきかねつつ、みな人は、『など』、『念ぜさせ給へ』、『いみじう忌むなり』などぞ言ふ。」
◆◆装束一組とちょっとした物を硯箱一つに入れて持っていきますと、そちらでは忙しく騒ぎ立てていているところでした。私も姉も視線を合わせることもできず、ただ向かい合って涙をこらえていますと、人々は、「どうしてそれほどお泣きになるのですか」とか、「ご辛抱くださいませ」とか、「そのような(別れの涙は)不吉でございますよ」などと言うのでした。◆◆


「されば車に乗りはてんを見むはいみじからんと思ふに、家より、『とく渡りね。ここにものしたり』とあれば、車寄せさせて乗るほどに、行く人は二藍の小袿なり、とまるはただ薄物の赤朽葉をきたるを、脱ぎかへてわかれぬ。九月十よ日のほどなり。家に来ても、『などかく、まがまがしく』と、咎むるまでいみじう泣かる」
◆◆こんな風では、車に乗ってしまうのを見るのはどんなにか辛いことだろうと思っているときに、自宅から「早くお帰り、こちらに来ているよ」と使いが来たので、車を寄せさせて乗るときに、出立する姉の衣装は二藍の小袿で、留まる私は薄い絹織物の赤朽葉色のを、お互いに脱ぎ替えて別れたのでした。丁度それは九月十日過ぎの頃でした。家に帰ってきてからも、あの人が、「どうしてそんなに泣くのか。不吉なくらいに」と文句を言うほど、ひどく泣けてくるのでした。◆◆
■装束一領(そうずくひとくだり)=衣装一そろい

■二藍の小袿=(ふたあゐのこうちぎ)藍と紅藍で染めた色の小袿。重ね着の一番上に着る。
 小袿は、高貴な女性の准正装。姉なる人は藤原為雅の妻であるらしい。
 ちなみに十二単姿は、女房の装いを意味し、女房装束とも呼ばれた。小袿姿は高貴な女性用。
十二単は従者用。

■薄物の赤朽葉=(うすもののあかくちば)夏は袿の代わりに薄物という絹織物の衣装を着ることがある。赤朽葉の色は赤味を帯びた落葉色。

■イラストは小袿


蜻蛉日記を読んできて(45)

2015年06月20日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (45) 2015.6.20

「ひとつ所には、せうとひとり、をばとおぼしき人ぞ住む。それを親のごと思ひてあれど、なほむかしを恋ひつつ泣き明かしてあるに、年かへりて春夏も過ぎぬれば、いまは果てのことするとて、こたびばかりはかのありし山寺にてぞする。ありしことども思ひ出づるに、いとどいみじうあはれに悲し」
◆◆同じ邸内には、弟が一人と叔母にあたる人が住んでいます。その叔母を母親のように頼ってはいますが、それでもやはり母上のいらした頃を恋い慕っては泣き明かしているうちに、年も改まって春も夏も過ぎて、いよいよ一周忌の法要を営むために、この度はあの亡くなった山寺ですることにしました。一年前のことなどを思い出しては、しみじみと悲しくてなりません。◆◆


「導師の、はじめにて、『うつたへに秋の山辺を尋ね給ふにはあらざりけり。眼とぢ給ひしところにて、経の心説かせ給はんとにこそありけれ』とばかり言ふを聞くに、ものおぼえずなりて、のちの事どもはおぼえずなりぬ。
◆◆導師が、開口一番「ご参集の皆様方は、決して秋の野山を鑑賞するためにいらしたのではありません。故人が亡くなられた所で教義を会得なさろうとしてでございます。」と言い出されるのを聞いただけで、胸いっぱいになって、ぼおっとして物事もはっきり覚えていない有様になってしまったのでした。◆◆


「あるべき事どもをはりてかへる。やがて服ぬぐに、鈍色のものども、扇まで、祓へなどするに、
<藤衣ながすなみだの川水はきしにもまさるものにぞ有りける>
とおぼえていみじう泣かるれば、人にも言はでやみぬ。」
◆◆法事の全てを終えて帰りました。すぐに喪服を脱ぎ、鈍色のものの調度品から小物の扇にいたるまで、川原に行って祓をしましたときに、
(道綱母の歌)「藤衣(喪服)を祓へ流すときの私の涙は、それを着ていたときの涙よりももっともっと多いことです」
と思うと、一層涙があふれてくるので、誰にも言わずにそのままになったのでした。◆◆


■うつたへに=否定と呼応して「必ずしも…ではない」の意を示す副詞。

■服ぬぐに=服(ぶく)ぬぐに、喪服を脱ぐ。

■鈍色のものども、扇まで、祓へなどするに=服喪中は几帳などの調度品、扇までもすべて鈍色(にびいろ=薄墨いろ)にし、父母の喪は一年。

■祓へ=はらえ。川原(賀茂川)で祓への儀式をして服喪中の品々を流す。


蜻蛉日記を読んできて

2015年06月17日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (43) 2015.6.17

「さて寺へものせし時、とかうとりみだし物ども、つれづれなるままにしたたむれば、明け暮れ取りつかひし物の具なども、又、書き置きたる文などみるに、絶え入る心地ぞする。弱くなり給ひし時、戒むること受け給ひし日、ある大徳の袈裟をひきかけたりしままに、やがて穢らひにしかば、ものの中より今ぞ見つけたる。」
◆◆さて、寺に行ったとき、あれこれ取り散らした物を所在無さにまかせて片付けていますと、母上が朝に夕に使われていたお道具や、書き物の文などが出てきて、それを見るにつけ、またもや気も絶え入るような心地がします。だんだん衰弱なさってきたとき、戒を受けられた日に、居合わせたお坊様の袈裟を引き掛けてくださったのが、そのまま亡くなりましたので、そのまま袈裟が穢れに触れてしまったのを、いろいろな物の中からやっと見つけ出しました。◆◆


「これ遣りてむとまだしきに起きて、『この袈裟を』と書きはじむるより、涙にくらされて、『これゆゑに、
<蓮葉の玉となるらん結ぶにも袖ぬれまさるけさの露かな>
と書きてやりつ。」
◆◆これをお返ししようと、朝まだ暗いうちから起きて、お手紙に「この袈裟を」と書き始めるとたちまち涙にかきくれて、「この御袈裟のおかげで…
(道綱母の歌)「亡き母は極楽の蓮葉の露となっていることでしょう。お返しする袈裟の紐を結ぶにつけても、今朝は涙で袖がいっそう濡れることです」
と書いて持たせてやりました。◆◆

■戒むること受け給ひし日=母上が受戒して出家したこと。

■袈裟をひきかけ=急な出家の場合、衣や袈裟を僧のもので代用する。引き続いて母が亡くなったので、袈裟が死穢に触れたので、返さずに母の遺品と一緒にしていた。



蜻蛉日記  上巻 (44) 2015.6.17

「又、この袈裟のこのかみも法師にてあれば、祈りなどもつけてたのもしかりつるを、にはかに亡くなりぬと聞くにも、このはらからの心地いかならん、我もくちをし、たのみつる人のかうのみ、など思ひみだるれば、しばしばとぶらふ。さるべきやうありて、雲林院に候ひし人なり。四十九日などはてて、かくいひやる。
<思ひきや雲の林をうち捨てて空の煙にたたむものとは>
などなん、おのが心地のわびしきままに、野にも山にもかかりける。はかなながら秋冬もすごしつ。」
◆◆また、この袈裟をお返しした僧侶の兄上さまも僧侶であった方で、加持祈祷など大変お世話になった方が、急にもお亡くなりになったと聞き、この坊様のお気持ちはいかがでしょう。私も残念でならず、このように頼みにしている人に限って亡くなられるのか、と心が収まらないので、度々お見舞いをしました。この兄君と言う方はわけがあって、雲林院にお仕えしていた方でした。四十九日が過ぎたころにこのような歌を差し上げました。
(道綱母の歌)「思いもしませんでした。兄上が雲林院を捨てて、空の煙となってあの世に立ちのぼられてしまったとは」
こんなふうに、私自身わびしい気持ちでいましたので、野にも山にもさまよい出てしまいたいのでした。こうしてむなしい気持ちのままで、その秋も冬も過ごしたのでした。◆◆


■雲林院(うりんいん)=京都市北区紫野、今の大徳寺一帯に位置した寺。


蜻蛉日記を読んできて(42)

2015年06月14日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (42) 2015.6.14

「里にもいそがねど、心にしまかせなば、今日、みな出でたつ日になりぬ。来しときは、膝に臥し給へりし人を、いかで安らかにと思ひつつ、わが身は汗になりつつ、さりともと思ふこころ添ひてたのもしかりき。こたみは、いと安らかにてあさましきまでくつろかに乗られたるにも、道すがらいみじう悲し。下りて見るにも、さらに物おぼえず悲し。」
◆◆京のわが家に急いで帰る気はしないけれど、思い通りにはできないので、今日皆で出立日としました。山寺へ来たときは、私の膝に臥していられた母上を、なんとか楽なようにと思って、自分は汗びっしょりになりながら、きっとこのままではないという希望もあったのでした。でもこの度は、ゆったりと楽に車に乗れたけれども、道中はひどく悲しい。家についてあたりをみるにつけ、さらにさらに寂しく悲しいのでした。◆◆


「もろともに出でゐつつつくろはせし草なども、わづらひしよりはじめてうち捨てたりければ、生ひこりていろいろに咲き乱れたり。わざとのことなども、みなおのがとりどりすれば、我はただつれづれとながめをのみして、『ひとむらのすすき虫の音の』とのみぞ言はるる。」
<手触れねど花は盛りになりにけりとどめおきける露にかかりて>
などぞおぼゆる。」
◆◆生前、端近かに母と一緒に出て、庭の手入れをさせた花々も、病気になって以来ずうっと打ち捨ててあったので、生い茂って色とりどりに咲き乱れていました。母のための供養もみながそれぞれ思い思いにしているので、私はただぼんやりと所在無くばかりで、「ひとむらのすすき虫の音」という古歌ばかりを口ずさんでいるのでした。
(道綱母の歌)「手入れもしない花が盛りと咲いています。母上が生前丹精をこめておられたおかげで」
などと、感じられたのでした。◆◆


「これかれぞ、殿上などもせねば、穢らひも一つにしなしためれば、おのがじじひきつぼねなどしつつあめるなかに、我のみぞまぎるることなくて、夜は念仏の声ききはじむるよりやがて泣きのみ明かさる。」
◆◆私の兄弟など近親の男達は、殿上に出仕する者もいませんので、めいめいが部屋を几帳や屏風などめぐらして喪に服しているらしい中で、私だけは悲しみの紛れることがなく、夜は念仏の声がはじまるときから、一晩中泣き明かしてしまうのでした。◆◆


「四十九日のこと、たれも欠くことなくて家にてぞする。わがしる人、おほかたのことを行ひためれば、人々おほくさしあひたり。わが心ざしには、仏をぞ描かせたる。その日過ぎぬれば、皆おのがじし行きあかれね。ましてわが心ちは心ぼそうなりまさりて、いとどやるかたなく、人は、かう心ぼそげなるを思ひて、ありしよりは繁うかよふ。」
◆◆四十九日の法要は、だれも欠けることなくわが家で行いました。私の夫が諸事万端を取りはかってくれたようで、大勢の人が参会しました。わたしは供養の志を表すため仏像を描かせました。その日が過ぎてしまうと、みなめいめい引き上げて行ってしまい、わたしはますます心細い気持ちが増してどうしようもなく、あの人は私の心細い様子を察して、以前よりは足しげく通って来てくれました。◆◆

■新たに 上村悦子著 蜻蛉日記全訳注 を参考にさせていただいています。

蜻蛉日記を読んできて

2015年06月11日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (41) 2015.6.11

「かくて、とかう物するなど、いたづく人おほくて、みなし果てつ。今はいとあはれなる山寺につどひて、つれづれとあり。夜、目もあはぬままになげき明かしつつ、山づらを見れば、霧はげに麓をこめたり。京も、げに誰がものへかは出でんとすらん、いで、なほこころながら死なんと思へど、生くる人ぞいとつらきや。」
◆◆こうして、あれこれ母親の葬儀万端をとりはかってくれる人が大勢いて、すべて滞りなく済ませました。今はたいそう悲しい思いのする山寺にみな一緒に喪に服しながら、それぞれが過ごしていました。夜、眠れぬままに一晩中嘆きあかして、明け方に山の方を眺めると、霧が麓まで立ち込めていました。京に帰るとして、いったい誰のところへ身を寄せるというのであろう、いっそこのままここで死んでしまいたいと思うけれど、生きさせようとする人々がいるので、まことに辛いことなのでした。◆◆

「かくて十よ日になりぬ。僧ども念仏のひまに物語するを聞けば、『この亡くなりぬる人の、あらはに見ゆる所なんある。さて近くよれば、消え失せぬなり。遠うては見ゆるなり』、『いづれの国とかや』『みみらくの島となむ言ふなる』など、口々語るを聞くに、いと知らまほしう悲しうおぼえて、かくぞ言はるる。」
◆◆こうして十日あまりにもなりました。僧侶たちがお勤めの合い間に話しているのを聞くと、「この亡くなった方の姿が、はっきりと見える所があるそうだ。だが近づくと、消え失せてしまうという。遠くからならば見えるということだ」「それはどこにある国かね」「みみらくの島という所らしい」などと、口々に言うのを聞くと、そこを知りたくて、又悲しくなって、わたしはこんな歌を口ずさんだのでした。◆◆


「<ありとだによそにても見む名にし負はば我に聞かせよみみらくの山>
と言ふを、せうとなる人聞きて、それも泣く泣く、
<いづことか音にのみ聞くみみらくの島隠れにし人を尋ねん>
かくてあるほどに立ちながらものして、日々に訪ふめれど、ただいまは何心もなきに、穢らひの心もとなきこと、おぼつかなきことなど、むつかしきまで書きつづけてあれど、物おぼえざりしほどのことなればにや、おぼえず。」
◆◆(道綱母の歌)「母の姿をせめて遠くからでも見たい。耳を楽しませるとその名のとおりなら、母上がいるということを私に聞かせておくれ、耳楽の山よ」
と。すると弟なる人が耳にして、泣く泣く、
(道綱母の弟の歌)「噂に聞くだけの、みみらくの島の在り処を、どこなのかと探して、亡き母上をお探し申したらよいのだろう」
こうしている間にもあの人は訪れては立ったまま、毎日見舞ってくれるようでしたが、こちらはただもうぼおっとしていて、穢れの間のことや、はっきりしないことなどが書き綴られているけれども、そのあたりのことは悲しみに沈んでいた時期だったので、まったく覚えていないのでした。◆◆


■みみらくの島=五島列島の福江島の三井楽(北端)で、遣唐使一行の船はかならずそこで飲料水や食料を詰め込み、外国へ向うのが常であった。夜になると死んだ人があらわれて、父子相見るといわれていた。

■せうとなる人=兄弟で、ここでは、道綱母の同母弟の「長能」だろうといわれる。歌人であった。

蜻蛉日記を読んできて(40の1)(40の2)

2015年06月08日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (40)の1  2015.6.8

「さいふいふも、女親といふ人ある限りはありけるを、久しうわずらひて、秋のはじめの頃ほひむなしくなりぬ。さらにせん方なくわびしき事の、世のつねの人にはまさりたり。」
◆◆そうは言いながらも、母親が生きている間はなんとか過ごしていましたが、その母が長らく患って、この秋ごろ亡くなってしまったのでした。どうしようもなく寂しく悲しいという思いは世間普通の人以上でした。◆◆


「あまたある中に、これはおくれじ、おくれじとまどはるるもしるく、いかなるにかあらん、足手などただすくみにすくみて、絶え入るやうにす。さいふいふ、物を語らひ置きなどすべき人は京にありければ、山寺にてかかる目は見れば、をさなき子を引き寄せてわづかに言ふやうは、『我はかなくて死ぬるなめり。かしこにきこえんやうは、【おのが上をば、いかにもいかにもな知りたまひそ。この御のちのことを、人々のものせられん上にも、とぶらひものし給へ】ときこえよ』とて、『いかにせん』とばかり言ひて、物も言はれずなりぬ。」
◆◆大勢の姉妹兄弟の中で、わたしは母に死に遅れまい、一緒にあの世に行きたいと気も動転するばかりでしたが、ところがまったくそのとおりになって、どうしたことか、足も手もこわばって息も絶えそうになってしまったのでした。事後のことなど言い置いておかねばならぬあの人は、京に居て、私は山寺でこのようになってしまったので、幼き子(道綱)を傍に引き寄せて、苦しい息の下でやっと言いましたのは、「わたしはこのままはかなく死んでしまうでしょう。あなたのお父様に申し上げてほしいことは、『わたしのことは、決してけっしておかまいなさいませんように。亡きおばあ様の追善供養を、他の人がなさる以上の充分なお弔いをなさってください』と申し上げてね」と言って、「ああ、どうしよう」と言ったきり、口も利けなくなってしまったのでした。◆◆


■女親(めおや)といふ人=作者の母は夫と別居していた。夫は他所に別の妻と暮していた。
             「女親といふ人」が道綱母の実の母親で、この母親と暮していた。            

■一夫多妻だった当事は、子どもは生みの母と暮すことが普通であった。


蜻蛉日記  上巻 (40)の2 2015.6.8

「日ごろ月ごろわづらひてかくなりぬる人をば、今はいふかひなきものになして、これにぞみな人はかかりて、まして『いかにせん。などかくは』と、泣くがうへに又泣きまどふ人おほかり。物は言はねどまだこころはあり目は見ゆるほどに、いたはしと思ふべき人より来て、『親は一人やはある。などかくはあるぞ』とて、湯をせめているれば、飲みなどして、身などなほりもてゆく。」
◆◆長い月日患って亡くなった人(道綱母の母親)のことは、今はもうどうしようもないとあきらめて、私のことに人々はかかりっきりで、以前より一層「まあ、どうしましょう。どうしてこんなことに」と泣く人が居る上に、さらに泣く人が多かったのでした。わたしは口は利けないけれど、まだ意識がはっきりしていましたし、目も見えていました。わたしを心配してくれる父親が側に来て「親は母親だけではないぞ。どうしてこうなってしまったのか」と言って、無理やりにも薬湯を飲ませなどするうちに、体もだんだんと回復していったのでした。◆◆


「さて、なほ思ふにも生きたるまじき心地するは、この過ぎぬる人、わづらひつる日ごろ、物なども言はず、ただ言ふ事とては、かくものはかなくてありふるを夜昼なげきにしかば、『あはれ、いかにし給はんずらん』と、しばしば息の下にもものせられしを思ひ出づるに、かうまでもあるなりけり。」
◆◆さて、どう考えても生きていられるような気がしないのは、先日亡くなった母親が、病床に患っていた日頃、他の事は何も言わず、ただただ口にすることと言えば、私がいつも頼りなげに日々を送っては嘆いていたので、「ああ、あなたはこの先どうなさるのかしら」と、度々苦しい息の下から言われたのを思い出すと、こんな状態にまでなったのでした。◆◆


「人聞きつけてものしたり。われは物もおぼえねば、知りも知られず、人ぞあひて『しかじかなんものし給ひづる』と語れば、うち泣きて、穢らひも忌むまじきさまにありければ、『いと便なかるべし』などものして、立ちながらなん。そのほどの有様はしも、いとあはれに心ざしあるやうに見えけり。」
◆◆あの人が聞きつけて訪ねてきました。わたしは意識がはっきりしないので、何も分らない状態なので、侍女が取り次いで、「これこれのご様子でございました」と申し上げますと、あの人は涙を流して、穢れもいとわず近づこうとされるので、『(兼家が死の穢れに触れては)とんでも無いことです』と引き止め申しますと、立ったままで見舞ったとのことです。あの頃のあの人の様子は、まことに愛情がこもっているように見えたのでした。◆◆


■穢れに触れるのは着座した場合で、立ったままの訪問はけがれないとされた。



蜻蛉日記を読んできて(38)(39)

2015年06月03日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (38)2015.6.3

「春うちすぎて夏ごろ、宿直がちになるここちするに、つとめて、一日ありて暮るればまゐりなどするをあやしうと思ふに、ひぐらしの初声きこえたり。いとあはれとおどろかれて、
<あやしくも夜のゆくへをしらぬかな今日ひぐらしの声は聞けども>
と言ふに、出でがたかりけんかし。」
◆◆春が過ぎて夏になるころ、宮中での宿直が多すぎるように思えるある日、宿直から帰って一日居て日が暮れるころ、これから又参内するとかでおかしいなあと思っていると、蜩の初鳴きが聞こえました。はっとさせられて、
(道綱母の歌)「夜になっていったいどこへ出かけるのでしょう。今日は夕方まで(日暮らし)わが家で声を聞いていたけれども」
と、言いますと、さすがに出かけにくかったようで、そのまま留まったのでした。◆◆


蜻蛉日記  上巻 (39) 2015.6.3

「かくてなでうことなければ、人のこころをなほたゆみなくこころみたり。月夜のころよからぬ物語して、あはれなるさまのことども語らひてもありしころ、思ひ出でられて、ものしければ、かく言はる。
<こもりよの月とわが身のゆくすゑのおぼつかなさはいづれまされり>
◆◆こうして、特にこれということもなく日が過ぎてゆくので、私はあの人の心を信じて頼みにしていたのでした。月夜のころ、月光をあびながら語り合うなど不吉なことをするにつけても、あの人がしみじみと誠意のこもった話をしてくれた昔が思い出されて、寂しくなって、こう口ずさむと、
(道綱母の歌)「今夜の曇り空の月と私の将来のはっきりしないことの、おぼつかないと言う点ではどちらが上かしら」◆◆


「返りごと、たはぶれのやうに、
<おしはかる月は西へぞ行先はわれのみこそは知るべかりけれ>
など、たのもしげに見ゆれど、わが家とおぼしき所は異になんあんめれば、いと思はずにのみぞ世はありける。さいはひある人のためには、年月みし人もあまたの子など持たらぬを、かくものはかなくて、思ふことのみしげし。」
◆◆あの人の返事は、冗談にまぎらわせて、
(兼家の歌)「曇りの夜で見えなくても、月は西へ向うと決まっている。同じように、あなたの将来を世話するのは、私の他にいないでしょう」
などと、いかにも頼もしげにみえるけれど、あの人が結局自分の居場所とするのは、ここではなく時姫方の所のようであってみれば、思ってもみなかった結果になってしまったことだったのでした。幸運にめぐまれたあの人に連れ添ったものの、わたしは大勢の子どもに恵まれず、こうしたことを思うにつけ、寂しく思い悩むことばかり多いのでした。◆◆

■作者は、時姫と正妻の座を争ったが、大勢の子を持った時姫に結局は敗れた。時姫の出自は身分的には作者より下だった。作者の気位の高さから、この敗北は相当なものだったと思われる。




蜻蛉日記を読んできて(37)

2015年06月02日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (37) 2015.6.2


「その頃ほひすぎてぞ、例の宮にわたり給へるに、まゐりたれば、去年も見しに花おもしろかりき、すすきむらむらしげりて、いと細やかに見えければ、『これ堀り分かたせ給はば、すこし給はらむ』ときこえ置きたしを、ほどへて川原へものするに、もろともなれば、『これぞ、かの宮かし』など言ひて、人を入る。」
◆◆その時期が過ぎたころ、宮様があの邸においでになっていて、参上したとき、昨年も拝見して見事だった薄がむらがり繁っていて、それがほっそりと品よく見えましたので、「これを株分けなさいますなら、すこしいただきたいのですが」と申し上げておりましたのを、しばらく経って賀茂の川原へ出かけた折に、あの人と一緒だったのですが、「ここがあの宮様のお邸ですね」などと言ったのでした。あの人は従者を宮邸に入れて。◆◆


「『【参らんとするに折りなき。類のあればなん。一日とり申しすすききこえて】と、さぶらはん人に言へ』とて、ひき過ぎぬ。はかなき祓へなればほどなう帰りたるに、『宮よりすすき』と言へば、見れば長櫃といふものにうるはしう掘り立てて、青き色紙をむすびつけたり。見れば、かくぞ。
<穂に出でば道ゆく人も招くべき宿のすすきを掘るがわりなさ>
いとおかしうも。この御かへりはいかが。忘るるほど思ひやれば、かくてもありなん。されどさきざきもいかがとぞおぼえたり。」
◆◆「『お伺い申し上げたく存じますが、機会がございませんでした。ただいまも連れ(道綱母のこと)がありますので。先日お願い申しました薄のことをどうぞよろしく』と申し上げるように」と使いの者に言わせて通りすぎたのでした。ちょっとした祓へでしたのですぐに帰ってくると、「宮様から薄が届いています」と言うので見ますと、長櫃にきちんと掘り分けた株を立て揃えて、青い色紙に歌が書かれたのが結びつけられております。拝見しますとこうです。
(兵部卿章明親王の歌)「穂が出ると我が家の前を通る人をも招き寄せるはずの薄をご所望とは、掘って差し上げますが、困ったことです。」とは、何とおもしろい歌ですこと。この返歌にあの人の歌はどうだったのでしょうか。忘れてしまう程度のものだったようで、ここに書かなくてよいでしょう。これまでの歌や書き物でもどうかしらと思うものがあったと思いますが。◆◆

■長櫃=ながびつ=物を入れて運搬に用いる長い櫃。ふたのある箱。