永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(112)の1

2016年03月29日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (112)の1  2016.3.29

「暑ければ、しばし戸おしあけて見わたせば、堂いと高くて立てり。山めぐりて、ふところのやうなるに、木立ちいと繁くおもしろけれど、闇のほどなれば、ただ今暗がりてぞある。初夜行ふとて法師ばらそそけば、戸おしあけて念誦するほどに、時は山寺わざの螺四つ吹くほどになりにたり。」
◆◆暑いので、しばらく戸を開けて辺りを見わたすと、この御堂はたいそう高いところに立っています。山が回りを取り囲んでいて、その懐のようになっているところで、木立がこんもりと繁っていて風情のあるところですが、何分闇夜のころなので、今は丁度暗くなっていてよく見えません。初夜の勤行を行うということで、法師たちが忙しく立ち働いているので、私も戸を押し開けて念誦しているうちに、時刻は山寺にしきたりの法螺貝を四つ吹く(午後十時)時分になっていまったのでした。◆◆



「大門の方に、『おはします おはします』といひつつののしる音すれば、上げたる簾どもうちおろして見やれば、木間より火二ともし三ともし見えたり。をさなき人経営して出でたれば、車ながら立ちてある、『御迎へになんまゐり来つるを、今日までこの穢らひあればえ下りぬを、いづくにか車は寄すべき』と言ふに、いと物くほしき心ちす。」
◆◆大門の方で、「お越しです お越しです」と言いながらやかましく騒ぐ声がするので、上げてあった御簾を下ろして見ると、木の間から松明の火が二つ三つ見えています。幼い人(道綱)が取次ぎの労を引き継いで急いで出て行くと、(兼家は)車に乗ったまま、境内に入らないで動かずに、「お迎えに参ったのだが、今日までこの穢れがあって、車から降りるわけにはいかないのだ。いったいどこに車を寄せたらいいのか」と言うので、(物忌み中の外出とはなんと非常識なことかと)随分常軌を逸した振る舞いだと感じたのでした。◆◆



「返りことに、『いかやうにおぼしてか、かくあやしき御ありきはありつらん。こよひばかりと思ふことはべりてなん上りはべりつれば、不浄のこともおはしますなれば、いとわりなかるべきことになん。夜ふけはべりぬらん、とくとく帰らせ給へ』と言ふをはじめて、ゆきかへることたびたびになりぬ。」
◆◆返事に「どうお考えになってこのようなとっぴなご外出をなさったのでしょうか。今夜だけのつもりで上って参りましたし、あなたは穢れのこともおありのようでございますから、とんでもないことでございます。夜も更けてまいりました。急いでお帰りくださいませ」と言ってやったのを始めとして、取り次ぐ子どもが、母と兼家との間の往来が度重なったのでした。◆◆


■経営(けいめい)して=精を出しておこなう。転じてここは急ぐ意


蜻蛉日記を読んできて(110)と(111)から解説

2016年03月26日 | Weblog
【解説】 (110)と(111)上村悦子著より。 2016.3.26

「いよいよ般若寺目指して行く途中、昔(応和二年七月)兼家と同行した山寺行きのことを回想して感慨にふける。寺に着くとまず外の景色に目をとどめて自然を丹念に描写している。唐埼、石山行きでつちかわれた作家的な眼である。身を浄めて御堂にと思っているところへ鳴滝参籠決行に驚いた兼家が急遽使いを作者の自宅によこした。そのため留守の侍女から作者にその詳細な報告があり、おっつけかならず山寺へも連絡があるだろうからその心づもりをするようにと言って来た。それを見ると作者は逆に湯を急がせてお堂にあがってしまう。多分兼家か、その意を受けた家司などが来ると予想して意地悪い(自分の参籠への意思の強さを示す心持もすこしはあるが、何よりも兼家が作者を捨ておかないで、あわてふためいて鳴滝にも何か連絡があるだろうと聞くと、ほっとして心に余裕ができて、逆にしらすような)態度に出たのである。追いかけられると、いやでもないのにもうすこしじらしてやろうと逃げるあの真理でもある。とにかく兼家の愛情を確認し得て作者も気が落着いたのであろう。」


蜻蛉日記を読んできて(111)

2016年03月24日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (111) 2016.3.24

「山路なでふことなけれど、あはれに、いにしへもろともにのみときどきは物せし物を、また病むことありしに、三四日も、このころのほぞかし、宮仕へも絶え、こもりてもろともにありしは、など思ふに、はるかなる道すがら涙もこぼれゆく。供人三人ばかり添ひて行く。」
◆◆山寺への道は、特別どうという風情のあるわけではないけれど、しみじみとした感じで、昔、あの人と一緒に時々この道を通っていったものだったが、そうそう私が病気だったときに、三、
四日も、あの時もこんな季節だったわ、あの人は公務を休み、ここに籠って一緒に過ごしたのは、などと思い出しては、このはるかな道のりを涙ぐみながら行きます。供人が三人ほど付き添って行きます。◆◆



「まづ僧坊に下りゐて見出だしたれば、前に籬ゆひわたして、またなにとも知らぬ草ども繁きなかに、牡丹草ども、いとなさけなげにて花散りはてて立てるを見るにも、散るかつはとよ、といふことをかへしおぼえつつ、いとかなし。」
◆◆寺に着いてまず庫裏に落ち着いて、あたりを見ると、庭先に籬垣(ませがき)を結いわたしていて、また名を知らぬ草の繁っている中に牡丹が情けない姿で、花びらは散り果ててしまって立っているのを見るにつけても、「花も一時」という古歌をくり返し、くり返し思い出してはひどく悲しかった。◆◆



「湯などものして御堂にと思ふほどに、里より心あわただしげにて人走り来たり。とまれる人の文あり。見れば、『ただいま殿より御文もて、某なんまゐりたりつる。<ささしてまゐり給ふことあなり。かつがつまゐりてとどめきこえよ。ただ今渡らせ給ふ>と言ひつれば、ありのままに<はや出でさせ給ひぬ。これかれも追ひてなんまゐりぬる>と言ひつれば、<いかやうにおぼしてにかあらんとぞ、御けしきありつるを、いかがさはきこえむ>とありつれば、月ごろの御ありさま、精進のよしなどをなん物しつれば、うち泣きて、<とまれかくまれ、まづ疾くをきこえむ>とて、いそぎ帰りぬる。されば論なうそこに御消息ありなん。さる用意せよ』などぞ言ひたるを見て、うたて心をさなくおどろおどろしげにもやしないつらん、いと物しくもあるかな。穢れなどせば、あすあさてなども出でなむとする物をと思ひつつ、湯のこといそがして堂にのぼりぬ。」
◆◆湯屋で沐浴をして御堂に上ろうというときに、自邸から大急ぎの様子で使いの者が走ってきました。留守番役の侍女からの手紙です。見ると、「ただ今、御本邸の殿より御手紙を持って、なにがしという者が参りました。『これこれしかじかで、山寺へお出掛けなさるということだ。とりあえずお前が参上しておとどめ申し上げよ、とのこと。いますぐ殿もお出でになります』と言いましたので、ありのままに、『(道綱母は)すでにお出掛けなさいました。侍女たちも後を追って参りました』と言いますと、『どういうつもりで山寺などへ行かれるのだろうと仰せがありましたのに、どうしてそんなこと(もうお出掛けになりましたなどと殿様に)を、申しあげられましょうか』と言いますから、これまでのご様子、ご精進の趣などを言って聞かせましたところ、そのなにがしは泣いて、『とにかく、早速殿にこのことを申し上げましょう』と言って、急いで帰ったのでした。ですからきっとそちらにご沙汰がありましょう。そのお心づもりでいらしてください」と書いてあるのを見て、まあ厭なこと。よく考えずに大げさにしゃべったのであろう、まったく困った事だ。月の障りにでもなったなら、明日明後日にも寺を出るつもりなのに、と思いながら、湯の支度を急がせて、身を浄めて、御堂に上りました。◆◆


■僧坊(そうぼう)=僧たちの起居する坊舎。庫裏。

■籬(ませ)=(まがき)とも。竹や木で荒く作られた低い垣根。

■散るかつはとよ=未詳。

■穢れなど=月の障り、月経。その間は寺社の参詣は慎む。


蜻蛉日記を読んできて(109)(110)

2016年03月20日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (109)2016.3.20

「六月のついたちの日、『御物忌みなれど、御門の下よりも』とて文あり。あやしくめづらかなりと思ひて見れば、『忌みは今はも過ぎぬらんを、いつまであるべきにか。住み所いと便なかめりしかば、え物せず。物詣は穢らひいできて、とどまりぬ』などぞある」
◆◆六月一日、あの人の使いから、「殿は御物忌み中ですが、ご門の下からそっと」といって文がきました。どうしたものかと不思議に思って見ると、「あなたの物忌みはとうに終わっているだろうに、いったいいつまでいるつもりなのか。(道綱母が物忌みのため、忌み違えに移った父の邸)その家は伺うのにどうも都合が悪いようだったので、伺わないでいるのだ。物詣は穢れができたので取りやめにした」などと書いてある。◆◆



「ここにと、今まで聞かぬやうもあらじと思ふに、心うさもまさりぬれど、念じて返りごと書く。『いとめづらしきはおぼめくまでなむ。ここには久しくなりぬるを、げにいかでかはおぼし寄らん。さても見給ひしあたりとはおぼしかけぬ御ありきの、たびたびになん。すべて今まで世にはべる身の怠りなれば、さらに聞こえず』と物しつ。」
◆◆私がもうここ(自邸)に戻っていると、今まで聞かぬ筈はないと思うのに、憂鬱さは増すけれども、我慢して返事を書きます。「まあ、なんと珍しいお手紙でしょう。いったいどちら様からと見当もつかぬほどでした。こちらに戻って久しくなりますのに、(私をお見限りのあなたが)気づいてくださらないのはもっともですね。それにしてもわが家をかつて通っておられたところとはお思いにもならぬような素通りが度々でしたこと。今までこの世に暮しております私の不徳のいたすところでございますから、今さら何も申し上げません」と書いて送ってやりました。◆◆


蜻蛉日記  中卷  (110)2016.3.20

「さて思ふに、かくだに思ひ出づるもむつかしく、さきのやうにくやしきこともこそあれ、なほしばし身を去りなんと思ひたちて、西山に例のものする寺あり、そち物しなん、かの物忌み果てぬさきにとて、四日、出でたつ。」
◆◆さて、こうして考えてみますに、兼家のことを思い出すだけでも不愉快で、この前のように後悔せずにはいられないことがあっても厭なので、それならしばらく身を引こうと思い立って、西山にいつも参籠する寺があるので、そちらへ行くことにしよう、あの人の物忌みが終わらぬうちにと、四日に出発します。◆◆



「物忌みも今日ぞ明くらんと思ふ日なれば、心あわただしく思ひつつ、物取りしたためなどするに、表筵の下につとめて食ふ薬といふ物、畳紙の中にさしれてありしは、ここに行き帰るまでありけり、これかれ見出でて『これ何ならん』と言ふを取りて、やがて畳紙の中にかく書きけり。
≪狭筵のしたまつことも絶えぬれば置かむかただになきぞかなしき≫
とて、文には『「身をしかへねば」とぞいふめれど、前渡りせさせ給はぬ世界もやあるとて、今日なん。これもあやしき問はず語りにこそなりにけれ』とて、をさなき人の『ひたやごもりならん消息きこえに』とてものするに付けたり。『もし問はるるやうもあらば、【これは書き置きて、はやく物しぬ。追ひてなんまかるべき】とをものせよ』とぞ言ひ持たせたる。」
◆◆あの人の物忌みが今日で終わるだろうと思う日なので、気ぜわしく感じながら、物を片付けたりたりしていると、上筵(うわむしろ)の下に、あの人が朝に服用する薬が、畳紙の中に挟んであったのが、父の家に行って帰ってくるまでここにそのままになっていました。侍女たちが見つけて「これは何でしょう」というのを手にとってそのまま畳紙の中に挟み、こんな歌を書きました。
(道綱母の歌)「あなたの訪れを心待ちにすることもなくなったので、(薬だけでなく)わが身の置き所さえもなくて悲しい」
と書き、手紙には、「<身をしかへねば>という歌もあるようですけど、それでもあなたが私の門前を素通りなさらない所でもありはしないかと思って、今日出かけます。これも妙な問わず語り(聞かれもしないのに)になってしまいました」と書いて、子どもが、「これからお寺に籠りきりになるのでしょう。ご無沙汰のあいさつを申し上げに」と言って出かけるのに言付けました。「ひょっとして、お尋ねになるようなことがあったなら、『母君はこの手紙を書き残して、早くに出立いたしました。私も後を追ってゆくことになっております』とおっしゃいよ」と、言い含めて持たせました。◆◆



「文うち見て心あわただしげに思はれたりけむ、返りごとには『よろづいとことわりにはあれど、まづ、行くらんはなにしにぞ、このごろは行ひも便なからんを、こたみばかり言ふこときくと思ひてとまれ。言ひ合はすべきこともあれば、ただいま渡る』とて、
≪あさましやのどかに頼むとこのうらをうちかへしける波の心よ いとつらくなん≫
とあるを見れば、まいて急ぎまさりてものしぬ。」
◆◆あの人は、わたしの手紙を見て、何か差し迫ったことが起こったと思われたのでしょう。返事には「万事何事もたしかに無理もないことではあるけれど、何はさておき出かけるというのは何なのだ。(六月初旬)このごろの時候は、参籠するにも具合が悪かろうから、今度だけは私の言うことを聞く気になって、思い留まりなさい。いろいろ話し合わねばならぬこともあるから、すぐそちらへ行く」とあって、
(兼家の歌)「あきれたことだ。末長く頼りにしていた寝床をひっくり返して、薬を送り返してきたあなたの心ときたら。ほんとうにひどいことだ」と書いてあったので、なおさら急いで出かけたのでした。◆◆

■西山=鳴滝の般若寺か。

■をものせよ=と(兼家に)答えよ。「を」は間投助詞。

■身をしかへねば=古歌「いづくへも身をしかへねば雲かかる山ぶしみてぞ(山ぶみしても)とはれざりける」

■【鳴滝】
歌枕。(1)京都市右京区鳴滝にある鳴滝川(御室川)に沿う地域。平安京の禊の場所であった。双ヶ丘(ならびがおか)の北にあたる。川は岩石の多い急流で,鳴滝の名のもとになる。中世,寺が多かったがおおむね廃絶。近衛家所伝の典籍記録を蔵する陽明文庫がここにある。《蜻蛉日記》の藤原道綱母は鳴滝に参籠(般若寺のことか。現在廃絶)して,〈身ひとつのかくなる滝を尋ぬればさらにかへらぬ水もすみけり〉と詠んでいる。

■般若寺
般若寺は五台山といい平安時代の中期に栄えた寺である。延喜年間(901~923)大江玉淵が観賢僧正を請じて創建した真言宗の名刹である。般若寺の規模は明らかではないが、金堂の西南方に僧坊が新築され殿上人が集まり、詩会が催された。往時は文化サロンとしても利用されたらしい。「蜻蛉日記」の筆者、右大将道綱の母が夫である兼家との愛情問題に悩み、幼い我が子を伴って、参篭した「西山のさる山寺」とはこの般若寺のことである。明治以降に衰退し、今は般若寺稲荷と称する小さな祠があるに過ぎない。

■写真 =般若寺址


蜻蛉日記を読んできて(108)

2016年03月14日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (108) 2016.3.14

「かくて忌みはてぬれば、例の所に渡りて、ましていとつれづれにてあり。長雨になりたれば草ども生ひ凝りてあるを、行ひのひまに掘り領たせなどす。あさましき人、わが門より例のきらきらしう追ひ散らして渡る日あり。行ひしゐたるほどに、『おはします おはします』とののしれば、例のごとぞあらんと思ふに、胸つぶつぶとはしるに、引き過ぎぬれば、みな人、面をまぼりかはしてゐたり。」
◆◆こうして物忌みが終わったので、我が家に帰り、以前にも増して何をするすべもなく過ごしています。長雨の季節になったので、庭の草が生い茂っているのを、勤行の合い間に掘って株分けさせたりしています。あのあきれた人が、わが家の門前をば、いつものように、きらびやかに先払いをして行く日がありました。私が勤行をしているときに、「お越しです お越しです」と大騒ぎして言うので、この前のように素通りするのだろうとは思いながらも、胸をどきどきさせていますと、さっと通り過ぎて行ったので、家人みな顔を見合わせていました。◆◆



「我はまして二時三時まで物も言はれず。人は『あなまづらか。いかなる御心ならん』とて泣くもあり。わづかにためらひて、『いみじうくやしう人に言ひ妨げられて、今までかかる里住みをして、またかかる目を見つるかな』とばかり言ひて、胸のこがるることは、いふかぎりにもあらず」
◆◆私はまして、二時も三時も物も言えません。侍女たちが「まあ、今までになかったことですね。どういうおつもりなのでしょう」と言って泣き出す者もいます。私はなんとか気をとりなおして、「ほんとうに悔しいこと。あなたたちに山寺参籠を引きとめられて、自邸の町住いをしているばっかりに、またしてもこんな辛い目に会ってしまったことよ」とだけ言ったけれど、胸の焼け付くような辛さは言葉では言い尽くせないことでした。◆◆

■例の所=道綱母邸

■面をまぼりかはして=顔を見合わせて

■二時三時(ふたときみとき)=一時は二時間。


蜻蛉日記を読んできて(107)

2016年03月11日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (107) 2016.3.11

「五月にもなりぬ。我家にとまれる人の本より、『おはしまさずとも、菖蒲ふかではゆゆしからんを、いかがせんずる』と言ひたり。いで、なにかゆゆしからん、
≪世の中にある我身かは侘びぬればさらにあやめも知らざりけり≫
とぞ言ひやらまほしけれど、さるべき人しなければ、心に思ひ暮らさる。」
◆◆五月になってしまいました。自宅に残っている侍女から、「ご主人様がいらっしゃらなくても菖蒲を葺かなくては縁起がわるいでしょう。どういたしましょうか」と言ってきました。いや、いや、今さら何の縁起が悪かろう。
(道綱母の歌)「この世に居ないも同然のわたしです。さびしく辛い身の上に菖蒲も何もあったものではない」
とでも言ってやりたいけれど、こんな私の気持ちを分ってくれる人は全くいないので、心の中だけで思い続けて日を送っています。◆◆



■端午
端午(たんご)は五節句の一。端午の節句、菖蒲の節句とも呼ばれる。日本では端午の節句に男子の健やかな成長を祈願し各種の行事を行う風習があり、現在ではグレゴリオ暦(新暦)の5月5日に行われ、国民の祝日「こどもの日」になっている。少ないながら旧暦や月遅れの6月5日に行う地域もある。尚、中国語圏では現在も旧暦5月5日に行うことが一般的である。


■端午の意味
旧暦では午の月は5月にあたり(十二支を参照のこと)、この午の月の最初の午の日を節句として祝っていたものが、のちに5が重なるこの月の5日が端午の節句の日になったという。「端」は物のはし、つまり「始り」という意味で、元々「端午」は月の始めの午の日のことだった。後に、「午」は「五」に通じることから毎月5日となり、その中でも数字が重なる5月5日を「端午の節句」と呼ぶようになったともいう。同じように、奇数の月番号と日番号が重なる3月3日、7月7日、9月9日も節句になっている(節句の項目を参照のこと)
風習とその由来


■こいのぼり
江戸時代の節句の様子。左からこいのぼり、紋をあしらった幟(七宝と丁字)、鍾馗を描いた旗、吹流し。『日本の礼儀と習慣のスケッチ』より、1867年出版


■五月人形の段飾り(昭和初期)

兜の飾りもの
この日を端午とする風習は、紀元前3世紀の中国、楚で始まったとされる。楚の国王の側近であった屈原は人望を集めた政治家であったが失脚し失意のうちに汨羅江に身を投げることとなる。それを知った楚の国民たちはちまきを川に投げ込み魚達が屈原の遺体を食べるのを制したのが始まりと言われている。しかし後漢末の応劭による『風俗通義』では端午と夏至にちまき(古代には角黍と称した)を食べる習慣が記録されているが屈原との関係には一切言及されておらず、また南朝梁の宗懍(そうりん)による『荊楚歳時記[1]』には荊楚地方では夏至にちまきを食べるという記録が残されるのみであり、ちまきと屈原の故事は端午とは元来無関係であったと考えられる。
この他に夏殷周代の暦法で夏至であったという説、呉越民族の竜トーテム崇拝に由来するという説、5月を「悪月」、5日を「悪日」とし、夏季の疾病予防に菖蒲を用いたという説も存在する。


中国での端午の記録は晋の周処による『風土記』に記録される「仲夏端午 烹鶩角麦黍」である、また『荊楚歳時記』には「五月五日… 四民並蹋百草之戯 採艾以為人 懸門戸上 以禳毒気 …是日競渡採雑薬 以五彩絲係臂 名曰辟兵 令人不病瘟 又有条達等組織雑物以相贈遺 取鴝鵒教之語」と記録があり、端午当日は野に出て薬草を摘み、色鮮やかな絹糸を肩に巻き病を避け、邪気を払う作用があると考えられた蓬で作った人形を飾り、また菖蒲を門に掛け邪気を追い払うと同時に竜船の競争などが行われていた。これは現代日本においても菖蒲や蓬を軒に吊るし、菖蒲湯(菖蒲の束を浮かべた風呂)に入る風習が残っている。


日本においては、男性が戸外に出払い、女性だけが家の中に閉じこもって、田植えの前に穢れを祓い身を清める儀式を行う五月忌み(さつきいみ)という風習があり、これが中国から伝わった端午と結び付けられた。すなわち、端午は元々女性の節句だった。また、5月4日の夜から5月5日にかけてを「女天下」と称し、家の畳の半畳分ずつあるいは家全体を女性が取り仕切る日とする慣習を持つ地域があり、そこから5月5日を女の家(おんなのいえ)と称する風習が中部地方や四国地方の一部にみられる[2]。


宮中では菖蒲を髪飾りにした人々が武徳殿に集い天皇から薬玉(くすだま:薬草を丸く固めて飾りを付けたもの)を賜った。かつての貴族社会では薬玉を作りお互いに贈りあう習慣もあった。宮中の行事については奈良時代に既にその記述が見られる。


鎌倉時代ごろから「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであること、また菖蒲の葉の形が剣を連想させることなどから、端午は男の子の節句とされ、男の子の成長を祝い健康を祈るようになった。鎧、兜、刀、武者人形や金太郎・武蔵坊弁慶を模した五月人形などを室内の飾り段に飾り、庭前にこいのぼりを立てるのが、典型的な祝い方である(ただし「こいのぼり」が一般に広まったのは江戸時代になってからで、関東の風習として一般的となったが京都を含む上方では当時は見られない風習であった)。鎧兜には男子の身体を守るという意味合いが込められている。こいのぼりをたてる風習は中国の故事にちなんでおり、男子の立身出世を祈願している(こいのぼりの項)。典型的なこいのぼりは、5色の吹き流しと3匹(あるいはそれ以上の)こいのぼりからなる。吹き流しの5色は五行説に由来する。


端午の日にはちまきや柏餅(かしわもち)を食べる風習もある。ちまきを食べるのは、中国戦国時代の楚の詩人屈原の命日である5月5日に彼を慕う人々が彼が身を投げた汨羅江(べきらこう)にちまきを投げ入れて供養したこと、また、屈原の亡骸を魚が食らわないよう魚のえさとしたものがちまきの由来とされる。

柏餅を食べる風習は日本独自のもので、柏は新芽が出るまで古い葉が落ちないことから「家系が絶えない」縁起物として広まっていった。中国語圏では、現在も屈原を助けるために船を出した故事にちなみ、龍船節として手漕舟(龍船あるいはドラゴンボート)の競漕が行われる。ヨモギ(蓬、中国語: 艾(アイ)または艾蒿(アイハオ))の束を魔よけとして戸口に飾る風習も、広く行なわれている。


なお、男の赤ん坊をもつ家庭にとっては初節句となるため、親族総出で祝われることも多い。5月5日が祝日であり、さらに前後に祝日を伴う大型連休期間中にあるため、雛祭り以上に親族総出で祝われる。


蜻蛉日記を読んできて(106)

2016年03月08日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (106) 2016.3.8

「廿日ばかりに行ひたる夢に、わが頭をとりおろして額を分く、と見る。あしよしもえ知らず。
七八日ばかりありて、我腹のうちなる蛇ありきて肝を食む、これを治せむやうは、面に水なむいるべき、と見る。これもあいよしも知らねど、かくしるし置くやうは、かかる身の果てを見聞かん人、夢をも仏をも用ゐるべしや用ゐるまじやと、定めよとなり。」
◆◆二十日ばかり勤行をしたときの夢に、私の髪を切り落とし、額髪を分けて尼姿になる、富みました。この夢の吉凶は私には判断しかねます。それから七、八日たって、私の腹の中の蛇が歩き回って内臓を食べる、これを直す方法は、顔に水を注ぎかけるのが良い、という夢をみました。この夢も良い夢なのか悪い夢なのか分らないけれど、このようにありのままを記しておくわけは、こんなわが身の行く末を見たり聞いたりする人に、夢や仏は信じてよいのか、それとも信じられないかを判断して欲しいからなのです。◆◆


■頭をとりおろして=頭髪を肩のあたりで切り下ろす。尼姿になる。


■「解説」・蜻蛉日記中巻 上村悦子著から
 【ここに二つの夢が出てくる。一つは尼姿になる夢であり、一つはかなりグロテスクな夢である。作者は夢に対して冷静で懐疑的である。そして両方の夢がいったい自分にとって吉夢か、凶夢なのかまったくわからないと言っている。(略)あんな時あんな夢を見たが、なるほど夢をいうものは当るものだ、夢は信じるべきものだと考えるか、いやいやまったく夢などよいかげんなもので信じるに足りないと考えるか、その材料にしてほしいためである。というのである。科学的というか、理知的、近代的な考え方である。
 なおこの夢については、(尼の夢は罪障観念から去勢恐怖の昇華、蛇の夢は性の苦悩の表出という)精神分析学に、あるいは密教の灌頂と結びつけて解する見解もある。】
 

蜻蛉日記を読んできて(105)

2016年03月05日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (105) 2016.3.5

「ついたちの日、をさなき人をよびて『ながき精進をなんはじむる。≪もろともにせよ≫とあり』とて、はじめつ。我はた、はじめよりもことごとしうはあらず、ただ土器に香うち盛りて脇息のうへに置きて、やがておしかかりて仏を念じたてまつる。」
◆◆一日の日(四月一日か)、道綱を呼んで、「長精進を始めます。(僧侶が)一緒にせよ、とのことですよ」ということで、始めました。わたしはまあ、はじめから大げさではなく、ただ土器(かわらけ)に香を盛って脇息の上に置き、そのまま寄りかかって仏様に祈りを捧げます。◆◆



「その心ばへ、『ただきはめてさいはいなかりける身なり。年ごろをだによに心ゆるびなく憂しと思ひつるを、ましてかくあさましくなりぬ。疾くしなさせたなひて、菩提かなへたまへ』とぞ行ふままに、涙ぞほろほろとこぼるる。」
◆◆仏様に祈った内容というのは、「ただ誠に不幸な身の上でございます。今までの長い年月でさえ、心の休まる折とてなく、辛く苦しいと思っていましたが、最近はさらにとんでもない夫婦仲となってしましました。早く出家させてくださって、悟りを開かせてくださいませ。」と言うふうに勤行しながら、涙がぽろぽろとこぼれます。◆◆



「あはれ、今様は女も数珠ひきさげ、経ひきさげぬなしと聞きしとき、『あな、まさり顔な、さるものぞやもめにはなるてふ』などもどきし心は、いづちか行きけん。夜の明け暮るるも心もとなく、いとまなきまで、そこはかともなけれど、行ふとそそくままに、あはれ、さ言ひしを聞く人いかにをかしと思ひ見るらん、はかなかりける世を、などてさ言ひけん、と思ふ思ふ行へば、片時涙うかばぬ時なし。人目ぞいとまさり顔なくはづかしければ、おしかへしつつ明かし暮らす。」
◆◆ああ、当節は女も数珠を手にし、経を持たない者はいないと聞いたとき、「なんとまあ、意気地のないこと、そういう女に限って寡(やもめ)になるというのに」などと非難していたあの心はいったいどこへ行ってしまったのだろう。夜が明け日が暮れるのももどかしく、そうかといって為すこともないけれど、勤行に精をだしながら、ああ、あんなふうに言ったことを聞いた人は、どんなにおかしいと思ってみることだろうか。自分がいつ夫に捨てられるとも知れぬ身の上だったのに、と思い思い勤行をしていると、片時も涙を押しとどめることができません。人の目には意気地なしに映るだろうと恥ずかしいので、涙をこらえながら日をすごしています。◆◆


■土器(かはらけ)=薫物を置く器、土器でできているもの。

■香をうち盛り=香の煙は仏を迎えたてまつる使い。

■疾くしなさせ=疾く為成させ。その(出家)ように。

■まさり顔な=「まさり顔なし」の語幹。人に自慢できる顔つきもない。意気地が無い。

■もどきし心=非難する。

■そそくままに=「そそく」は忙しくする様。


蜻蛉日記を読んできて(104)

2016年03月02日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (104) 2016.3.2

「今は三月つごもりになりにけり。いとつれづれなるを、忌みも違へがてらしばしほかにと思ひて、県ありきの所にわたる。思ひ障りしことも平らかになりにしかば、長き精進はじめんと思ひたちて、物などとりしたためなどするほどに、『勘事はなほや重からん。許されあらば、暮れにいかが』とあり。」
◆◆今はもう三月の末になってしまいました。とても所在無いので、忌み違えかたがた、しばらく他所へと思って、地方官歴任の父倫寧の家(留守宅か)に出かけました。案じていた(妹の)お産も無事に済んだので、いよいよ長い精進をはじめようと思い立って、身の回りのものなどを整理しているときに、あの人から『ご勘当はまだやはり解けませんか。お許しいただければ、今夜伺いますが、ご都合はいかがでしょうか』と言って来ました。◆◆


「これかれ見ききて『かくのみあくがらし果つるは、いと悪しきわざなり。なほこたみだに御かへり、やむごとなきにも』とさわげば、ただ『月も見なくに、あやしく』とばかり物しつ。よにあらじと思へば、急ぎ渡りぬ。つれなさは、そこに夜うちふけて見えたり。例の沸きたぎることもおほかれど、ほど狭く人さわがしき所にて、息もえせず胸に手をおきたらんやうにて明かしつ。」
◆◆侍女たちの誰彼が見聞きしては「このようにいつまでも遠ざけていらっしゃるのは良くないことです。ぜひとも今度だけでもご返事を。ほおっておくことはできないことですから」と、やかましく言いますので、ただ一言「月も、いえ幾月もお出でにならないのに、どうしたことか」とだけ返事をしました。まさか本当に来るとは思えないので、急いでそのまま父の家に行きました。なんと無頓着なあの人は、忌み違えの為に行った父の家に来たのでした。いつものように胸の煮え返ることも多いけれど、家が狭く人がひしめき合っているところなので、息もできず、胸に手を置いたようなくるしい態で一晩を過ごしたのでした。◆◆



「つとめて、『そのことかのこと、物すべかりければ』とていそぎぬ。なほしもあるべき心を、また今日や今日やと思ふに、音なくて四月になりぬ。
□もいと近きところなるを、『御門にて車立てり。こちやおはしまさむずらん』などやすくもあらず言ふ人さへあるぞ、いと苦しき。ありしよりもまして心を切り砕く心地す。返ごとをも『なほせよ、なほせよ』と言ひし人さへ、憂くつらし」
◆◆翌朝、あの人は「あれやこれや用事を片付けねばならないから」と言って急いで出て行きました。そんなことを気にしないでいればいいものを、また今夜か今夜かと心待ちにしていましたが、結局音沙汰無く四月になったのでした。□(兼家邸か)もごく近いところなので、「御門前に車がとまっております。こちらへお越しでしょうか」などと、気になるようなことをいう者がいるのは、まったく辛い。今まで以上に心を砕くような気がする。返事をやはり「お出しください。おだしください」と勧めた人まで、恨めしくいとわしくなってしまった。◆◆


■勘事(かうじ)=咎め。勘当。

■□=文字の空白。兼家邸のことか。

■あくがらし果つる=いつまでも遠ざけるのは