永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(160)

2016年12月30日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (160) 2016.12.30

「かくて、つれづれと六月になしつ。東面の朝日の気、いと苦しければ、南の廂に出でたるに、つつましき人の気ぢかくおぼゆれば、やをらかたはら臥して聞けば、蝉の声いと繁うなりにたるを、おぼつかなうてまだ耳を養はぬ翁ありけり、庭はくとて箒をもちて木の下に立てるほどに、にはかにいとはやう鳴きたれば、おどろきてふりあふぎて言ふやう、『よいぞよいぞといふなは蝉来にけるは。虫だに時節を知りたるよ』とひとりごつにあはせて、しかしかと鳴き満ちたるに、をかしうもあはれにもありけん心ちぞあぢきなかりける。」

◆◆こんなふうに、することもなく退屈な日をすごすうちに、六月になってしまったのでした。東の部屋は朝日が射して寝苦しいので、南の廂に出ていると、人の気配がしてはばかれるので、そっと横になって聞いていると、蝉の声がもう大分鳴いているのに、耳が遠くてまだ蝉の声を聞いていない老人がして、庭を掃こうと箒を手に持って木の下に立っているときに、急に蝉が激しく鳴きはじめたので、はっと気がついて、上を見上げて言うには、「よいぞ、よいぞと鳴くなわ蝉が来よったわい、虫すら時節を知っているよ」と独り言を言うのに合わせて、蝉が「しか、しか、そうじゃ、そうじゃ」とあたり一面に鳴き満ちたので、可笑しくもあり、胸打たれもしたのでしたが、思えばどうしようもない索漠とした思いでした。◆◆

■なは蝉=諸説あるが、不明。

■しかしか=蝉の鳴き声の擬音。それが、然か然か(そうだ、そうだ)と肯定しているように聞こえる。

■あぢきなかりける=思うようにならず、手のつけようもない意。それに対して愛想を尽かし、もはや何事も無用だ、にがにがしいとながめている気持ち。


●次回は2017年1月20日頃から。どうぞよろしく。●


蜻蛉日記を読んできて(159)

2016年12月25日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (159) 2016.12.25

「十日になりぬ。今日ぞ大夫につけて文ある。『なやましきことのみありつつ、おぼつかなきほどにけるを、いかに』などぞある。

◆◆十日になりました。やっとあの人から大夫にことづけて手紙がありました。「気分がすぐれない日が続き、すっかりご無沙汰してしまったけれど、いかがお過ごしか」なとどあります。



「返りごと、又の日ものするにぞ付くる。『昨日はたちかへりきこゆべき思ひたまへしを、このたよりならではきこえんにも、便なき心ちになりにければなん。<いかに>とのたまはせたるは、何か、よろづことわりに思ひたまふる。月ごろ見えねば、なかなかいと心やすくなんなりにたる。<風だに寒く>ときこえさすれば、ゆゆしや』と書きけり。日暮れて、『かもていつみにおはしつれば、御かへりもきこえで帰りぬ』と言ふ。『めでたのことや』とぞ、心にもあらでうち言はれける。」

◆◆返事は、翌日大夫が伺うのにことづけました。「昨日はすぐにお返事を申し上げたいと思いましたが、大夫が伺うついででなければ具合が悪いような気持ちになってしまいましたので、「変わりはないか」とのことですが、なんの心配後無用でございます。幾月もお目にかからないので、かえって気楽に思うようになりました。「風だに寒く」の古歌どおりと申しますと、あなたを「見え来ぬ人」にしては大変でございますね、と書きました。日が暮れてから道綱が帰って来て、「賀茂の泉にお出ましでしたので、お返事も差し上げずに帰ってきました」といいます。「まあ、結構なことですこと」と思わず知らず口から漏れてしまいました。◆◆



「このごろ雲のたたづまひしづごころなくて、ともするば田子の裳裾思ひやらるる。ほととぎすの声もきかず。ものおもはしき人は寝こそ寝られざなれ、あやしう心よう寝らるるけなるべし。これもかれも『一夜聞きき』、『このあか月にも鳴きつる』と言ふを、人しもこそあれ、我しもまだしと言はんも、いとはづかしければ、物言はで心のうちにおぼゆるやう、
<我ぞげにとけて寝らめやほととぎすもの思ひまさる声となるらん>
どぞ、しのびて言はれける。」

◆◆この頃の天候は、雨雲の行き来があわただしくて、ややもすると、田植えをする農婦たちの裳の裾が泥にまみれるだろうと思いやられることです。ほととぎすの声も耳にしない。物思いのある人は眠れないというけれど、私は妙に快く眠れるせいかなのだろう。だれもかれも「せんだっての夜、聞きました」とか、「今日の夜明け前にも鳴いていましたよ」などと話すのを聞くと、人もあろうに、この私がまだ耳にしていないというのも、とても恥ずかしいので、黙ったまま、心の中に思い浮かべるには、
(道綱母の歌)「物思う私がぐっすり眠るわけがない。苦悩のまさる私の嘆きが、ほととぎすの悲痛な叫びとなっているのだろう」
と、そっとつぶやかれるのでした。◆◆


■月ごろ見えねば=兼家は三月二十七日の昼間以来訪れていない。

■風だに寒く=古歌「待つ宵の風だも寒く吹かざらば見え来ぬ人をうらみましやは」

■かもていつみ=未詳。「賀茂の泉」に改訂案あり。下賀茂神社の東にある出雲井於神社(いずもいのうえのじんじゃ)の清泉という。

■めでたのことや=兼家が「気分が悪くて」といいながら、作者の邸に来ず、そんなところへ外出するなんて結構なことね、と皮肉った。


蜻蛉日記を読んできて(158)

2016年12月20日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (158) 2016.12.20

「六日のつとめてより雨はじまりて、三四日ふる。川水まさりて人流るといふ。それもよろづをながめ思ふに、いと言ふかぎりにもあらねど、今は面馴れにたることなどはいかにもいかにも思はぬに、この石山にあひたりし法師のもとより、『御祈りをなんする』と言ひたる返りごとに、『今はかぎりに思ひはてにたる身をば、仏もいかがし給はん。ただいまは、この大夫を人人しくてあらせ給へなどばかりを申し給へ』と書くにぞ、なにとにかあらん、かきくらして涙こぼるる。」

◆◆六日の朝から雨が降り始めて、三日四日の間降り続きました。川が増水して、人が流されたということです。それにつけても、さまざまな思いにふけってぼんやり考え込んでいますと、なんとも言いようのない切なさではあっても、今は夫との薄い生活にもすっかり慣れてしまって、どうとも思わなくなっているときに、あの石山で出会った法師のもとから、「奥方さまのために御祈りをいたしております」と言ってきた返事に、「もう今は、これ以上どうにもならないわが身のことは、御仏さまでもお手のほどこしようもないと存じます。これからは、わが息子道綱を一人前にしてくださいますようにとだけ、お祈りしてください」とだけ書いていますと、どうしたことか、目の前が暗くなる思いで涙がはらはらと零れるのでした。◆◆


蜻蛉日記を読んできて(157)

2016年12月17日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (157) 2016.12.17

「五月になりぬ。『菖蒲の根長き』など、ここなる若き人さわげば、つれづれなるに取りよせて、つらぬきなどす。『これ、かしこに同じほどなる人にたてまつれ』など言ひて、
<隠れ沼に生ひそめにけりあやめ草しる人なしに深き下根を>
と書きて、中にむすびつけて、大夫のまゐるにつけてものす。
かへり事、
<あやめぐさねにあらはるる今日こそはいつかと待ちしかひもありけれ>

◆◆五月になりました。「菖蒲の根の長いのを」などと、当家の娘が騒ぐので、私もつれづれに過ごしていた折から、取り寄せて糸を通して薬玉を作ったりする。「これを、あちら(本宅・時姫腹の詮子)の同じ年ごろの方に、差し上げなさい」などと言って、
(道綱母の歌)「私の養女は隠れ沼に生えていたこの菖蒲の根同様、世間に知られずに育った者です。ご披露申し上げます」
と書いて、薬玉の中に結びつけて、大夫(道綱)が参上するに事つけて贈りました。
その返事に、
(時姫方の歌)「菖蒲が根から姿を現す五月五日、姫君をご披露いただき、いつかしらとお待ちしていた甲斐がありました」◆◆



「大夫、いま一つとかくして、かのところに、
<わが袖は引くと濡らしつあやめ草人の袂にかけてかわかせ>
御かへりごと、
<引きつらん袂はしらずあやめ草あやなき袖にかけずもあらなん>
と言ひたなり。

◆◆道綱は、もう一つの薬玉を用意して、あちらのところに、
(道綱の歌)「菖蒲を引いて袖を濡らしてしまいました。あなたの袂に重ねて乾かしてください」
その返歌には、
(大和の歌)「菖蒲を引いたというあなたの袂がどうであろうとも私には何の関係もありません。私に思いを寄せるなどと、とんでもないことをおっしゃらないでくださいませ」
と言ってきたようでした。◆◆

■薬玉(くすだま)=五月五日にいろいろな香料を袋に入れ、あやめ、よもぎなどの葉を五色の絹糸で貫いて薬玉を作る。


蜻蛉日記を読んできて(156)

2016年12月14日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (156) 2016.12.14

「さる心ちなからん人にひかれて、又、知足院のわたりにものする日、大夫もひき続けてあるに、車ども帰るほどに、よろしきさまにみえける女車のしりに続きそめにければ、おくれず追ひ来ければ、家を見せじとにやあらん、とく紛れ行きにけるを、追ひてたづねはじめて、又の日かく言ひやるめり。
<思ひそめ物をこそおもへ今日よりはあふひはるかになりやしぬらん>

◆◆(私のような)そんな物思いなどなさそうな人に誘われて、また、知足院のあたりに出かけた日、大夫(道綱)も車で後についてきていましたが、私たちの車が帰るとき、相当な身分の者と見えた女車の後に付いて行き始め、遅れないようにその車を追って行ったところ、家を知らせまいとするのでしょうか、あっという間に行方をくらましてしまったのを、追いかけて、間もなく家を尋ねあて、次の日にこのように言ってやったようでした。
(道綱の歌)「あなたのことを思い始めて悩んでおります。逢う日の名を持った葵祭の終わった今日から来年の賀茂の祭りまで逢えないのでしょうか。早く逢いたい」◆◆



「とてやりたるに、『さらにおぼえず』など言ひかんかし。されど又、
<わりなくもすきたちにけるこころかな三輪の山もとたづねはじめて>
と言ひやりけり。大和だつ人なるべし。かへし、
<三輪の山まちみることのゆゆしさに杉立てりともえこそ知らせぬ>
となん。
かくてつごもりになりぬれど、人は卯の花のかげにも見えず、音だになくてはてぬ。
二十八日にぞ、例の、ひもろきのたよりに、『なやましきことありて』などあべき。」

◆◆と言ってやったところ、「全く心当たりがありません」などと言ってきたようでした。しかしまた、
(道綱の歌)「三輪山のふもとのあなたの家を尋ねはじめて、恋心が無性に募ったことです。古歌に恋しければ三輪山麓の杉の立った門を目当てに訪ねていらっしゃいとあるではありませんか」と言ってやった。大和に縁のある人なのでしょう。返事に、
(大和に縁のある女の歌)「誰との分らないあなたの訪れを待つのは気味が悪いので、目印の杉(私の家)を教えることは出来ません」のようでした。
こうして月末になったけれど、あの人は卯の花の陰に隠れるほととぎす同様、姿を見せず、音沙汰さえもなくて、この月も終わってしましたました。
二十八日に、例のように、あの人から、神社に参拝した折に、「気分がすぐれなくて」などとあったようでした。◆◆


■知足院(ちそくいん)=今は所在不明。雲林院(うりんいん)と並ぶ紫野の寺。賀茂祭の斎王還御の行列見物の適地。

■ひもろき=神に備えるもの

蜻蛉日記を読んできて(155)

2016年12月11日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (155) 2016.12.11

「ここにも物忌みしげくて、四月は十よ日になりにたれば、世には祭りとてののしるなり。人、『しのびて』と誘へば、禊よりはじめて見る。『わたくしの御幣たてまつらん』とて詣でたれば、一条の太政大臣詣であひ給へり。いといかめしうののしるなどいへばさらなり。さしあゆみなどしたまへるさま、いたう似給へるかなとおもふに、大方の儀式もこれに劣ることあらじかし。これを『あなめでた、いかなる人』など、おもふ人もきく人も言ふを聞くぞ、いとどものはおぼえけんかし。」

◆◆私の方でも物忌みが続いて、四月は十日すぎになったので、世間では祭だと騒いでいるようだ。ある人が、「そっと出かけましょう」と誘うので、斎院の禊からはじめていろいろと見る。「私自身の幣帛を奉ろう」と賀茂神社に詣でたところ、ちょうど一条の太政大臣が参拝に詣でておられたのに出会いました。大層ご立派で堂々としていらっしゃることといったら申し分ない。悠然と歩を進めていらっしゃるご様子は、なんとまあ、あの人(兼家)に似ていることと思うと、大方の晴れ姿全般についてもあの人は、この太政大臣伊尹に劣ることはないと思うのでした。これを「まあ、なんと立派な。なんとすばらしい方」などと、感嘆する人も、それを聞いてうなずく人も、ほめそやしているのを聞くにつけても、私の心は深く物思いに沈んだことだった。◆◆

■祭=賀茂祭

■禊(みそぎ)=斎院の禊、この年四月十七日午(うま)の日に行われた。

■一条の太政大臣(いちじょうのおおきおとど)=藤原伊尹(これまさ)兼家の同母兄。一条の南、大宮の東に住んだので、一条……と呼ばれる。


蜻蛉日記を読んできて(154)

2016年12月08日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (154) 2016.12.8

「廿日はさて暮れぬ。
一日の日より四日、例の物忌みと聞く。ここに集ひたりし人々は南ふたがる年なれば、しばしもあらじかし、廿日、県ありきのところへみな渡られにたり。心もとなきことはあらじかしと思ふに、わが心憂きぞまづおぼえけんかし。かくのみ憂くおぼゆる身なれば、この命をゆめばかり惜しからずおぼゆるに、この物忌みどもは柱に押し付けてなど見ゆるこそ、ことしも惜しからん身のやうなりけれ。」

◆◆二十日は、あの人の訪れもないまま日が暮れてしまった。二十一日の日から四日間、例の物忌みということです。ここに集まっていた人々は、南の方角が塞がっている年なので、しばらくも留まることができないのか、二十日に、地方官歴任の父のところに、みな移ってしまわれた。あちらなら不安なことはないであろうと思うにつけ、私の所では充分な世話ができないと思うと、情けなさが一番に感じられたことだった。このように全く情けない身の上だから、命など少しも惜しいとは思わないけれど、このもの忌みの札を何枚も柱に押し付けているのなどが目に止まると、まるで、命を惜しがっているみたいであった。◆◆




「その廿五六日に物忌みなり。果つる夜しも門の音すれば、『かうてなん、固う鎖したる』とものすれば、倒るるかたにたち帰る音す。」

◆◆その二十五日と二十六日が(私のほうの)物忌みでした。ちょうど物忌みが終わる最後の夜に門をたたく音がするので、「このとおり物忌みで、門を固く閉めております」と言うと、仕方なさそうに帰って行く音が聞こえました。◆◆



「又の日は例の方ふたがると知る知る、昼間に見えて、『御さいまつ』といふほどにぞ帰る。それより例の障り繁くきこえつつ、日へぬ。」

◆◆次の日は、例のように方角が塞がっていると知りながら、あの人は昼間に見えて、
「松明を灯す」というころに帰っていきました。それ以降、さまざまな差し障りがあると耳にしながら、日が経ってしまいました。◆◆


■わが心憂きぞ=兼家が夫として十分な経済面での面倒をみてくれないので、避難者に対して、種々世話がしてやれないわが身の情けなさ。

■ことしも=こと・し・も=強調。全く、本当に。


蜻蛉日記を読んできて(物忌みと方違え)

2016年12月05日 | Weblog
物忌みと方違へ   2016.12.5

■物忌み
 公事、神事などにあたって、一定期間飲食や行動を慎み、不浄を避けることをいう。潔斎、斎戒。平安時代には陰陽道(おんみょうどう)により物忌みが多く行われ、貴族などは物忌み中はだいじな用務があっても外出することを控えた。物忌み中の人は家門を閉ざして、訪客がきても会わず、行事にも出席しない。家にあっても冠や髪に「物忌」の札をつけていた。夢見なども陰陽師がよくないというと物忌みをした。当時における公家(くげ)などの物忌み日数は1年間に1か月ぐらいに及んだ。また物忌みのため自家に忌み籠(こも)りするだけでなく、他の特定の場所に出かけることもあった。
 具体的には、肉食や匂いの強い野菜の摂取を避け、他の者と火を共有しないなどの禁止事項がある。日常的な行為をひかえることには、自らの穢れを抑える面と、来訪神 (まれびと)などの神聖な存在に穢れを移さないためという面がある。
しるしとして柳の木札や忍ぶ草などに「物忌」と書いて冠や簾 (すだれ) などに掛けたもの。平安時代に盛行した。物忌みの札。

■方違え(方忌み)
「方角」がダメなので行きたいところに行けません
ちなみに物忌みと方忌みが重なった場合は物忌みが優先となります
外出または帰宅の際、目的地に特定の方位神がいる場合に、いったん別の方角へ行って一夜を明かし、翌日違う方角から目的地へ向かって禁忌の方角を避けた。

 例えば、仕事先から西の方にある自宅へ帰ろうとしたら、西の方角に方違えの対象となる天一神が在していたとする。この場合、真っ直に家へ帰ると天一神のいる方角を犯すことになる。そこで、いったん他の方角、例えば南西の方角にある知人の家で一夜を明かして翌朝家に帰ることにすれば、移動は南西方向と北西方向になって、西への移動を避けることができる。
 
 また、造作を行う際、その工事場所が家の中心から見て禁忌の方角に当たる場合に、いったん他所で宿泊して忌を移してから工事を行った。しかし、天一神のように数日で移動する方位神ならば良いが、同じ方角に1年間在する金神などが工事をしたい方角にいる場合もある。その場合には、その年の立春にいったん方違えになる方角に移動して一晩明かし、翌日自宅に戻れば当分は方違えしなくても良いとされた。
 
 方違えの対象となる方位神は、以下の5つである。
• 天一神(てんいちじん、てんいつじん、なかがみ):同じ方角に5日留まる
• 太白(たいはく):毎日方角が変わる
• 大将軍(だいしょうぐん):3年間同じ方角に留まるが、5日単位で遊行する
• 金神(こんじん):1年間同じ方角に留まる
• 王相:王も相も1か月半同じ方角に留まる。続けて来るので3か月間ひとつの方角が塞がることになる。

■実際の方違え
 天一神については、5日間同じ方角が塞がるので、その方向が職場と自宅間などに該当していると不便である。そこで、実際には天一神がその方角へ遊行する最初の日に方違えをすれば、その方角にいる5日間は問題ないとされた。
 同一方角に長期間在する神(大将軍・金神・王相)については、遊行の最初の日に1回方違えしただけでは有効とは言えないとして、その期間中、

以下のような規則で何度も方違えをする必要があった。
• 自宅から、または自宅への移動、および自宅での造作の場合
o 遊行の最初の日に一度方違えを行う
o その後数日間は毎日方違えを行う
o 一定期間経ったら再び方違えを行う
• 自宅以外の場所から自宅以外の場所への移動の場合
o 遊行の最初の日に一度方違えを行う
o 一定期間(大将軍は45日、王相は15日)経ったら再び方違えを行う

 出先から出先への移動よりも、自宅が絡む場合はより念入りに方違えをする必要があった。そこで、これを利用した便法が考え出される。つまり、自宅より出先の方が軽くて済むのであれば、本来の自宅以外の場所を「自宅」ということにすれば良いという考えである。各神の遊行する日の前日の夕方に、自宅以外の方角的に問題のない場所へ移動してそこで一晩過ごし、そこが「自宅」であると方位神に対して宣言するのである。こうすることで、方違えを45日または15日に1回行うだけで済むようにした。
 「自宅」と宣言するために一夜を明かすのに貴族が使ったのは、一般に寺院が多かった。そのため、平安時代の後期にこの方式の方違えが流行するようになると、京都のお寺はどんどん立派になっていった。大将軍・金神・王相が遊行を行うのは春分の日であった。そのため、春分とそこから15日単位の日(すなわち二十四節気)には京都のあちこちで貴族の大移動が見られた。


蜻蛉日記を読んできて(153)その2

2016年12月02日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (153) その2  2016.12.2

「人見て、『おはします』と言ふにぞ、すこし心落ちゐておぼゆる。さて『ここにありつる男どもの来て告げつるになん、おどろきつる。あさましう来ざりけるがいとほしきこと』などあるほどに、とばかりになりぬれば、鶏も鳴きぬと聞く聞く寝にければ、ことしも心ちよげならんやうに朝寝になりにけり。今もふと人あまたののしれば、せてふにてものしたり。『さわがしうぞなりまさらん』とていそがれぬ。」

◆◆召使が出て行ってみて、「おいでになりました」と言うので、すこし心が落ち着いたように思えました。さて、あの人が「こちらにいる召使どもが知らせに来たのでびっくりした。なんとも遅くなってしまって気の毒であった」などと話しているうちに時刻が経って、鶏も鳴いたが、それを聞き聞き床についたので、まるで気持ちよく寝たかのように朝寝をしてしまいました。一夜明けた今も、見舞いに来る人が多く、騒いでいるので、気持ちが落ち着かないでいました。あの人は、「もっと騒がしくなるだろう」と言って帰っていかれました。◆◆



「しばしありて男のきるべきものどもなど、かずあまたあり。『とりあへたるにしたがひてなん。かみにまづ』とぞありける。『かく集まりたる人にものせよ』とていそぎけるは、いとにはかに檜皮の濃き色にてしたり。いとあやしければ見ざりき。もの問ひなどすれば、『三人ばかりやまひごと、口舌』など言ひたり。」

◆◆しばらくして、あの人から、男の着物などたくさん届けてくれました。「ありあわせの物ばかりですが、長官にまず」とのことでした。「こうして集まっている人にあげなさい」ということで用意したものは、まことに急ごしらえで、濃い檜皮色に染め上げてあります。とても粗末なものだったので見ませんでした。焼け出された人たちの様子を問うと、「三人ほどが病気で、ぶつぶつ文句を言っている」などと言う。◆◆


■せてふにてものしたり=未詳。「せんかたなくものしたり」「ともかくものしたり」などの改定案あり。

■口舌(くぜち)=口の災い。非難中傷。

■檜皮(ひわだ)=蘇芳に黒味を帯びた色。