永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(5)

2015年03月31日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻  (5)

「まめ文かよひかよひて、いかなる朝にかありけむ、
<ゆふぐれのながれくるまを待つほどに涙おほゐの川とこそなれ>
かへし、
<思ふことおほゐの川のゆふぐれは心にもあらずなかれこそすれ>」
――真面目な文のやりとりがあって、どのような朝のことだったでしょうか、
(兼家歌)「あなたにお逢いする夕暮れを待ち焦がれているわたしは、とめどもなく涙をながしているのです」
お返事(道綱母の歌)「もの思いの多い夕暮れは、心ならずも泣けてまいります」――


「また三日ばかりの朝に、
<しののめにおきける空はおもほえであやしく露ときえかへりつる>
かへし、
<さだめなくきえかへりつる露よりもそらだのめする我はなになり>
――そして、三日ほど(結婚成立)の朝(あした)に、
(兼家歌)「夜明け前に起きて帰るときは悲しくて、人心地もなく、露ならぬ身が不思議にも消え入りそうでした」
お返事
(道綱母歌)「露よりもはかなく消え入りそうで、あなたを頼みとする私はいったいなんなのでしょう」――


■いかなる朝(あした)=結婚の翌朝を暗示している。兼家との婚儀に至った。

■三日ばかりの朝(あした)に=平安時代は婿取り婚でした。
夜になると、婿なる人は供人を連れて妻となる家に行きます。娘の両親は婿の沓(くつ)を抱いて寝ます。婿は三日間通います。
女の家に通い始めて三日目、新婦側の親族に紹介されます。結婚披露の宴となり、その際、新郎新婦に供されるのが“三日夜の餅”。この餅を婿は、噛み切らずに食します。
ここでは、三日の夜を無事にすませた翌朝。
餅(もちゐ)には、それ自体に霊力があるとされたのか。結婚が成立したことを示している。


蜻蛉日記を読んできて(4)

2015年03月29日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (4) 2015.3.28

「秋つかたになりにけり。添へたる文に、『さかしらついたるやうに見えつる憂さになん、念じつれど、いかなるにかあらん、<鹿の音もきこえぬ里に住みながらあやしくあはぬ目をもみるかな>』とある返りごと。
――そして秋になりました。兼家からの文に添えて「あなたの強情さには困っているが、どうしたものだろう。(兼家歌)「鹿の声も聞こえぬ都にいながら、不思議に目が合わない(眠れない)いや、あなたに合えない目にあうことだ」とありましたのに、返事として――


「『<高砂のをのへのわたり住まふともしかさめねべき目とはきかぬを>げにあやしのことや』とばかりなん。」
――「(道綱母の歌)『高砂の山に住んでも、そのように目が覚めるとは聞いていませんが』本当に不思議ですね」とだけ書いてやりました。――


「又、ほどへて、<逢坂の関やなになり近けれど越えわびぬれば嘆きてぞふる>
かへし、
<越えわぶる逢坂よりも音にきく勿来をかたき関としらなん> などいふ。」
――またしばらくして、(兼家歌)「逢坂の関なんて何でしょう。近いのに関を越えて逢えぬとは、私は嘆き暮しています」とあって、返事は(道綱母の歌)「あなたが越えられぬ逢坂の関よりも噂に高い勿来の関の方が守りが堅いとか。私をそのようにお考えください」などと書きました。――


■(歌)鹿の音も…=(古今集「)山里は秋こそことにわびしけれ鹿の鳴く音に目を覚ましつつ」を下敷きに。

■「高砂」=播磨の枕詞で鹿の名所

■この日記の作者は子供の名前、道綱により「道綱母」と表記されます。

■日記とはいえ、始めの方は歌物語のような展開になっています。作者は歌の方でも優れていたそうで、兼家もそこに惹かれたのではないでしょうか。

■当時の求婚は、人を介して歌のやりとりからはじまります。女性はすぐに靡くそぶりをみせず、始めは断りからいくのが奥ゆかしいとされていました。

蜻蛉日記を読んできて(3)

2015年03月25日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (3)  2015.3.24

「これをはじめにてまたまたもおこすれど、返りごともせざりければ、
又、<おぼつかな音なき滝の水なれやゆくへもしらぬ瀬をぞたづねる>
これを、『いま、これより』と言ひたれば、しれたるやうなりや、かくぞある。
<ひとしれずいまやいまやと待つほどにかへりこぬこそわびしかりけれ>
とありければ、例の人、『かしこし。をさをさしきやうにも聞こえんこそよからめ』とて、さるべき人して、あるべきに書かせてやりつ。それをしもまめやかにうちよろこびて、繁うかよはす。」
――これを始めとして、たびたび手紙を寄こすけれど、お返事もせずにおりますと、
また、(兼家歌)「どういうことか、音無しの滝でもあるまいに、お返事をくださらないとは」
これに「いずれ、こちらから改めて」と申しますと、あきれたことに、このようなことでした。(兼家歌)「人知れず返事が今か今かと待っているのに来ないとは全くつらいことだ」とありましたので、母が、「恐れ多いこと、きちんとお返事をなさい」と言って、さる侍女にもっともらしく書かせて贈ったのでした。そんな代筆の手紙をあの人は喜んで、それからもまたせっせと書いて寄こすのでした――


「また添へたる文みれば、
<浜千鳥あともなぎさにふみ見ぬはわれを越す波うちや消つらん>
このたびも例のまめやかなる返りごとする人あれば、まぎらはしつ。又もあり。『まめやかなるやうにてあるも、いと思ふやうなれど、このたびさへなうは、いとつらうもあるべきかな』など、まめ文の端に書きて添へたり。」
――また添えてある文に
(兼家歌)「返事がないのは、私より親しい人がいて、私を無視するからなのか」とありましたが、今回もまた儀礼的にきちんと返事を書く代筆者がいるので、それにまかせておりました。そうしていますとまた文が来ます。「いかにも真面目に考えてくれていると思うものの、この度は返事がないのは本当に辛いことだ」などと、真面目な文の端のほうに書き添えてありました。――


「<いづれともわかぬ心は添へたれどこたびはさきに見ぬ人のがり>
とあれど、例のまぎらはしつ。かかれば、まめなることにて月日はすぐしつ。」
――(兼家歌)「本人か代筆者かは分らないが、返事はありがたい。でも今回は前に筆跡をみていない人の方(道綱母)へ」とありましたが、今度も適当に紛らわしていました。こんな風に
度々の文が続いたのでした。――





蜻蛉日記を読んできて( 作者・藤原道綱母)

2015年03月22日 | Weblog
藤原道綱母
ふじわらのみちつなのはは
(?―995)
平安中期の歌人。父は正四位下藤原倫寧(ともやす)、母は『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』などに刑部大輔(ぎょうぶのだいぶ)源認(みとむ)の女(むすめ)とするが、通説は主殿頭(とのものかみ)春通女。実名は不明なので、父の名から倫寧女(ともやすのむすめ)、またはその生んだ子の名によって、道綱母、傅大納言母(ふのだいなごんのはは)、傅殿母(ふのとののはは)などとよばれている。異母弟に歌人として知られた長能(ながよし)があり、また『更級(さらしな)日記』の作者はその姪(めい)である。
 道綱母は、早くから歌人として著名であり、『拾遺(しゅうい)集』以下の勅撰(ちょくせん)集に38首が入集(にっしゅう)し、その家集に『傅大納言殿母上集』(『道綱母集』とも)がある。またその結婚生活を晩年に回想した『蜻蛉(かげろう)日記』は、平安時代の女流文学の代表的作品の一つとされている。当時の他の女流作家が、いずれも宮中などに仕えた女房であったのに対して、ただ1人家庭にあった作家としても特色をもつ。
 道綱母の40歳ごろまでの生活は『蜻蛉日記』に詳しい。それによると、20歳ごろの954年(天暦8)に、当時第一の権勢家の右大臣藤原師輔(もろすけ)三男の兼家(かねいえ)と結婚し、翌年道綱を生んだ。『百人一首』にもとられて有名な「嘆きつつひとり寝(ぬ)る夜の明くる間(ま)はいかに久しきものとかは知る」は、結婚生活2年目に、兼家が他の妻に夢中になって訪れなかったときに詠んだものである。『蜻蛉日記』のなかでは、夫の足が絶えがちなのを嘆き続け、「三十日三十夜(みそかみそよ)はわがもとに」と願った話はよく知られる。兼家の早くからの妻の藤原時姫(ときひめ)とその北の方の地位を争ったが、多くの子女に恵まれた時姫を超えることはできなかった。そのため初瀬や石山等に物詣(ものもうで)を重ね、出産を祈ったがかなわず、40歳ごろに、通うこともまれになった夫から身を退(ひ)いて、晩年鴨河(かもがわ)近くの中河の屋敷で過ごした。その後、986年(寛和2)の内裏歌合(だいりうたあわせ)に道綱の代作を出詠するなど、歌人として活躍していたが、995年(長徳1)5月初めごろ60歳余で没した。

蜻蛉日記を読んできて

2015年03月20日 | 蜻蛉日記を読んできて
蜻蛉日記  上巻 
(その2 ) 2015.3.20

「さて、あはつけかりしすぎごとどものそれはそれとして、柏木の木高きわたりより、かくいはせんと思ふことありけり。例の人は、案内するたより、もしはなま女などして言はすることこそあれ、これは親とおぼしき人にたはぶれにもまめやかにもほのめかししに、『便なきこと』と言ひつるをも知らず顔に、馬にはひ乗りたる人してうちたたかす。」

――さて、これまでちょっとした恋の駆け引きなどもありましたが、それはそれとして、摂関家の御曹司、兵衛府の衛門府官人の藤原兼家殿から求婚のご意向を伝えてくるということがありました。普通このような場合は、仲立ちの労をとるべく縁故や、取次ぎをする者をとおすものですが、これは父親に冗談とも真面目ともつかぬような申し方で言ってきましたので、私の方では「とんでもございません」と言っておりましたのに、そのようなことにはお構い無しに、馬に乗った使者に門を叩かせてよこしたのでした――

「『誰』など言はするにはおぼつかなからずさわいだれば、もてわづらひ取り入れて持てさわぐ。見れば紙なども例のやうにもあらず、いたらぬところなしと聞きふるしたる手も、あらじとおぼゆるまで悪しければ、いとあやしき。」

――「どなた様」と尋ねさせるまでもなく、あまりにわめき散らしますので、仕方無しにお手紙を奥に取り次いでの結果、そこで一騒動になったのでした。見てみますと手紙の料紙なども、懸想文のように凝ったものではなく、また隅々まで非のないように書くものだということを聞いていました筆跡なども、ぞんざいな書きっぷりで、何とも府に落ちないものでした――

「ありけることは、
<音にのみ聞けばかなしなほととぎすことかたらはんとおもふこころあり>とばかりぞある。『いかに。返りごとはすべくやある』などさだむるほどに、古体なる人ありて、『なほ』と、かしこまりて書かすれば、<かたらはん人なきさとにほととぎすかひなかるべき声なふるしそ>」

――そこには、(歌)「あなたのことを噂に聞くだけでは悲しい、お目にかかった是非お話をしたいです」とだけありました。「どうしましょう、お返事はやはりしないわけにはいかないでしょうか」などと相談していますと、古風な母が、「もちろんお返事は差し上げねばなりません」と恐縮して私に書かせましたので、(歌)「親しくなるような者もいないこの家に、何度も声をかけても無駄でございます」と。――

■柏木の木高きわたり=家門の高いことを「柏木」の縁で「木高き」といった。
 藤原兼家(かねいえ)は、右大臣藤原師輔(もろすけ)の三男、当時右兵衛佐であった。
■親とおぼしき人=作者の父、藤原倫寧(ともやす)。…とおぼしき=身内を卑下する婉曲表現。
■古体な母=古風な人。作者の母

蜻蛉日記を読んできて

2015年03月17日 | Weblog
紫式部の「源氏物語」より前に書かれた仮名日記で、筆者は藤原道綱母と言われています。954年から約20年間の身辺を書いていて、それまでの物語とは違う真実の心を書き留めたとされています。
20年前に原文と訳文を一度は読んだものの、今回もう一度じっくり味わいたくて、読んでみることにしました。

蜻蛉日記  上巻  
  
天暦8年(954年)
その1  (2015.3.17)  

「かくありし時すぎて、世中にいとものはかなく、とにもかくにもつかで世にふる人ありけり。かたちとても人にも似ず、こころだましひもあるにはあらで、かうものの要にもあらであるもことわりと思ひつつ、ただ臥し起きあかしくらすままに世中におほかる古物語のはしなどを見れば、世におほかるそらごとにあり、人にもあらぬ身のうへまで書き日記してめづらしきさまにもありなん、天下の人の品たかきやと問はんためしにもせよかし、とおぼゆるも、過ぎにし年月ごろのこともおぼつかなかりければ、されもありぬべきことなんおほかりける。」

――こんな風に明け暮れしたときを経て、世の中にはかなく、これという人の役にもたたず、しっかりしたこともないまま漂っている一人の女がおりました。容貌とて人並みとはいえず、思慮分別がとりわけあるわけでもありません。ですからこのように所在無い暮らしをしているのは当然とも思いますが、ただこんな有様で毎日を暮していますときに、世の中に出ている古物語を見るにつけ、どれもこれも絵空事のように思うのです。ですから人並みでない私の身の上ではありますが、それをありのままに書きましたなら、さぞかし珍しいものになりましょう。現実に高貴な人の妻になった者のくらしがどのようなものか、そのような疑問が出たときにはどうぞ参考になさってください、と思うものの、かなりの年月が経っていてよく覚えていないこともあって、まあこんなことまで日記にかかなくてもよいような曖昧なこともあります――


■参考書:今西祐一郎校注「蜻蛉日記」  犬養 廉「現代語訳・蜻蛉日記/更科日記」