永子の窓

趣味の世界

枕草子を読んできて(136)その4

2020年03月23日 | 枕草子を読んできて
124 正月寺に籠りたるは  (136)その4 2020.3.23

 日のうち暮るるに、詣づるは、籠る人なンめり。ばらの、もたぐべくもあらぬ屏風などの高き、いとよく進退し、畳などほうと立て置くと見れば、ただ局に出でて、犬伏せぎに簾をさらさらとかくるさまぞ、いみじくしつけたるや。たはやすげなる。そよそよとあまたおりて、大人だちたる人の,いやしからずしのびやかなるけはひにて、帰る人にやあらむ、「その中あやふし。火の事制せよ」など言ふもあり。七八ばかりなるをのこ子の、愛敬づきおごりたる声にて、侍人呼びつけ、物など言ひたるけはひも、いとをかし。また三ばかりなるちごの寝おびれて、うちしはぶきたるけはひうつくし。乳母の名、母などうち出でたるも、たれならむと、いと知らまほし。
◆◆日が暮れ始めるころに詣でるのは、これからお籠りする人のようだ。たちが、持ち上げられそうにもない屏風などの、丈の高いのを、よく前後ろに動いて運び、畳などはポンと立てて置くと見れば、すぐにお籠りするする人の部屋に現れ出て、犬伏せぎにさらさらと簾をかけて部屋作りをする手順は、非常によくし慣れていることよ。たやすく仕事をしている。ざわざわと人が下りてきて、そのうちの年配の老女らしい人が、上品にあたりをはばかって、きっと帰る人なのか、「その部屋の中があぶない、火の用心をしなさいよ」などと言うのもある。七、八歳くらいになる男の子が愛嬌のあるえらそうな声で、家来の男たちを呼びつけ、何か言っている様子もおもしろい。また三つほどの幼児が寝ぼけて怖がって、咳をしているその物音も可愛らしい。乳母の名や「お母さま」などと口にしているのも、その母親はだれなのだろうと、たいへん知りたく思われる。◆◆



 夜一夜いみじうののしり行なひ明かす。寝も入らざりつるを、後夜など果てて、すこしうちやすみ寝ぬる耳に、その寺の仏教を、いと荒々しう、高くうち出でてよみたるに、わざとたふとしともあらず、修行者だちたる法師の読むなンめりと、ふとうちおどろかされて、あはれに聞こゆ。
◆◆一晩中お坊さんが大声で勤行をして明かす。眠れないでいたのを、後夜の勤行などが終わって、すこしうとうと寝てしまった耳に、その寺(初瀬寺なら観音堂)のご本尊にゆかりのある経文を、たいへん荒々しい声で、高く唱える声が入ってくるのが、それは特に尊いということでもなく、修行者めいたお坊さんがよむらしいと、ふと目が覚めて、しみじみとした感じに聞かれるのであった。◆◆

■後夜(ごや)=初夜(そや)に対する。今の午前一時半~四時ごろまで
■おどろかれる=この場合は「目が覚めて


 また夜など顔知らで、人々しき人の行ひたるが、青鈍の指貫の綿入りたる、白き衣どもあまた着て、子どもなンめりと見ゆる若きをのこの、をかしううち装束きたる、童などして、侍の者どもあまたかしこまり、いねうしたるもをかし。かりそめに屏風立てて、額などすこしつくめり。
◆◆また、夜などは暗く顔を知らない人で、相当身分ののあるらしい人の勤行しているのが、青鈍(あおにび)の指貫の綿の入っているのに、白い着物を何枚も重ねて着て、その子息だろうと見える若い男の、美しく着飾っているのや、少年などをつれて、家来の者たちがたくさんかしこまって、周りを取り囲んでいるのもおもしろい。間に合わせに屏風を立てて、ちょっと礼拝するようだ。◆◆

■顔知らで=暗いのでよく見えない。
■いねうし=周りを囲んでかしこまって?


 顔知らぬは、たれならむと、いとゆかし。知りたるは、「さなンめり」と見るもをかし。若き人どもは、とかく局どもなどのわたりにさまよひて、仏の御方に目見やりたてまつらず、別当など呼びて、うちささめけば、呼びていぬる、えせ者とも見えずかし。
◆◆顔を知らない人の場合は、誰だろうと知りたいものだ。知っている人の場合は、「ああ、あの人のようだ」と見るのもおもしろい。若い男の人などは、とかく女たちの部屋などのあたりをうろついて、仏様の方に視線を向け申し上げないで、寺の長官を呼んでは、小声で話すと、呼んで話したまま立ち去っていく。その様子はいい加減な者とも思えない。◆資格

■別当=寺の長官


枕草子を読んできて(136)その3

2020年03月18日 | 枕草子を読んできて
124 正月寺に籠りたるは  (136)その3

 誦経の鐘の音、「わがなンなり」と聞くは、たのもしく聞こゆ。かたはらによろしき男の、いとのびやかに額づく。立ち居のほども心あらむと聞こえたるが、いたく思ひ入りたるけしきにて、寝も寝ずおこなふこそ、いとあはれなれ。うちやすむほどは、経高くは聞こえぬほどによみたるも、たふとげなり。高くうち出でさせまほしきに、まして鼻などを、けざやかに聞きにくくはあらで、すこしのびてかみたるは、何事を思ふらむ、かれをかなへばやとこそおぼゆれ。
◆◆誦経の鐘の音を、「あれは私のためのものだ」と聞くのは、頼もしく聞こえる。隣の部屋でかなりの身分の男が、たいへんひっそりと額をつけて拝んでいる。立ったり座ったりする様子もたしなみがあるように聞こえる、その人が、ひどく思い悩んでいる様子で、寝もしないで勤行に励んでいるのこそは、しみじみと感じられる。礼拝をやめて休む間は、お経を声高には聞こえぬほどに読んでいるのも、尊い感じがする。高い声を出してお経を唱えてほしいと思っているときに、まして鼻などを、音高くはあってもそう不愉快なようではなく、すこし遠慮がちにかんでいるのは、何を思っているのだろう、その願い事をかなえさせたいと感じられる。◆◆

■誦経の鐘の音=僧に誦経させるときにつく鐘。


 日ごろ籠りたるに、昼はすこしのどかにぞ、はやうはありし。法師の坊に、をのこども、童べなど行きて、つれづれなるに、ただかたはらに、貝をいと高く、にはかに咲き出でたるこそおどろかるれ。清げなる立て文持たせたる男の、誦経の物うち置きて、堂童子など呼ぶ声は、山ひびき合ひて、きらきらしう聞こゆ。
◆◆何日も続けて籠っていると、日中はすこしのんびりと、以前はしていた。下にあるお坊さんの宿坊に、供の男たちや、子供たちなどが行って、わたしはお堂の部屋で一人で所在ない気持ちでいると、すぐそばで、午の時の法螺貝をたいそう高く、急に吹き出したのにはびっくりしたものだった。きれいな立文を供の者に持たせた男が、誦経のお布施の物をそこに置いて、堂童子などを呼ぶ声は、山がこだまし合って、きらきら輝かしいまでに聞こえる。◆◆

■貝をいと高く=時刻の合図に法螺貝を吹く
■立て文=願文を包んだ立文。書状の正式な包み方。
■誦経の物=誦経の布施。装束・布など。



 鐘の声ひびきまさりて、いづこならむと聞くほどに、やむごとなき所の名うち言ひて、御産たひらかに教化などする、所いかならむと、おぼつかなく念ぜまほしく。これはただなるをりの事なンめり。正月などには、ただ物さわがしく、物のぞみなどする人の、ひまなく詣づる見るほどに、行なひもしやられず。
◆◆誦経の鐘の音が一段と高く響いて、この誦経はどこの御方があげるのだろうと思って聞くうちに、お坊さんが高貴な所の名を言って、お産が平らかであるように祈祷するのは、(お産の安否の心配が不安で祈るのだろう)。こうした昼の騒がしさは、普通のことであるらしい。正月などには、ただもう物騒がしく、何かの望み事の立願などする人が、絶え間なく参詣する人を見ているので、勤行も十分することができない。◆◆

■教化などする……=不詳
■物のぞみ=一説に、正月の県召除目(あがためしじもく)に任官を望む人。



枕草子を読んできて(136)その2

2020年02月12日 | 枕草子を読んできて
124 正月寺に籠りたるは  (136)その2  2020.2.12

 御あかし、常灯にはあらで、うちにまた人の奉りたる、おそろしきまで燃えたるに、仏のきらきらと見えたまへる、いみじくたふときに、手ごとに文をささげて、礼盤に向ひてろきちかふも、さばかりゆすり満ちて、これは、とり放ちて聞きわくべくもあらぬに、せめてしぼり出だしたる声々の、さすがにまたまぎれず、「千灯の御こころざしは、なにがしの御ため」と、はつかに聞こゆ。帯うちかけて拝みたてまつるに、「ここにかう候ふ」と言ひて、樒の枝を折りて持て来るなどのたふときも、なほをかし。
◆◆仏前のご灯明の、常灯明ではなくて、内陣にまた参詣の人がお供え申し上げてあるのが、恐ろしいまでに燃え盛っているのに、本尊の仏さまがきらきらと金色に光ったお見えになるのが、たいへん尊いのに、お坊さんが手に手に参詣人の願文をささげ持って、礼拝の座に向かって(?)を誓う声も、あれほどまでに、堂内が大勢の張り上げる祈願の声でいっぱい揺れ動くので、これは誰の願文と、一つ一つ取り離して聞き分けることもできないが、それでもお坊さんたちが、無理に絞り出している声々が、さすがに他の声にまぎれないで、「千灯のお志は、だれそれの御ため」、と、ちらっときこえる。私が掛帯を肩に打ち掛けてご本尊を拝み申し上げていると、「御用承りの者です」と言って、樒(しきみ)の枝を折って持ってきているのなどの尊い様子も、やはりおもしろい。◆◆


■礼盤(らいばん)=仏前にある高座で、仏を礼拝し読経などするときに導師が座る。
■ろき=不審。
■せめて=「せめて」は副詞。「迫む」(下二段自動詞)から出た語。できることのぎりぎりの線まで近づいてが原義。
■帯うちかけて=儀礼用の掛け帯。寺社参詣、読経の折などに、肩に掛ける。
■樒(しきみ)の枝=枝を仏前に供え、葉や樹皮から抹香(まっこう)をつくる。


枕草子を読んできて(136)その1

2020年02月09日 | 枕草子を読んできて
124 正月寺に籠りたるは  (136)その1  2020.2.9
 
正月寺に籠りたるは、いみじく寒く、雪がちに氷りたるこそをかしけれ。雨などの降りぬべきけしきなるは、いとわろし。
◆◆正月に寺に籠っているときには、ひどく寒く、雪も積もりがちに冷え込んでいるのこそおもしろい。雨が降りそうな空模様は、とても良くない。◆◆


初瀬などに詣でて、局などするほどは、くれ階のもとに、車引き寄せて立てるに、おびばかりしたる若き法師ばらの、足駄といふ物をはきて、いささかつつみもなくおりのぼるとて、何ともなき経の端をよみ、倶舎頌をすこし言ひつづけありくこそ、所につけてはをかしけれ。わがのぼるはいとあやふく、かたはらに寄りて、高欄おさへて行くものを、ただ板敷きなどのやうに思ひたるもをかし。「局したり」など言ひて、沓ども持て来ておろす。
◆◆初瀬などに参詣して、尾籠のお部屋の準備などをしている間は、くれ階のそばに車を引き寄せて立っていると、ちょっと帯くらいをした若いお坊さんたちが、足駄というものを履いて、少しも恐れる様子もなく上り下りしながら、これといった決まっていないお経の片端を口にしたり、倶舎頌をすこし唱えて歩いているのこそ、場所が場所だけにおもしろい。自分が上るのは、ひどく危なっかしくて、片側によって高蘭を抑えながら行くのに、あのお坊さんたちは、まるで板敷きを歩くように思っているのもおもしろい。坊さんが「お部屋の準備ができました」などと言って、いくつもの履物を持ってきて、私どもを車から降ろす。◆◆

■くれ階(くれはし)=階段のついた屋根のある長廊下。
 ■倶舎頌(くしゃのじゅ)=「具舎」は『阿毘達磨具舎論』の略。「頌」は字句を一定して誦しやすくするもの。



 衣うへさまに引き返しなどしたるもあり。裳、唐衣などこはごはしく装束きたるもあり。深沓、半靴などはきて、廊のほどなど沓すり入るは、内わたりめきて、またをかし。
◆◆着物を上の方に裾をはしょって着ている者もある。裳や唐衣などゴワゴワしているのを四角張ってきている者もある。深沓、半靴などをはいて、廊のあたりなどを、摺り足でお堂に入って行くのなどは、宮中めいていて、これもまたおもしろい。◆◆

■深沓(ふかぐつ)=下部を革でつくり、上部は薔薇錦をつけ細い革緒で締めた沓をいう。
■半靴(はうくわ)=木を浅く掘り、黒漆で塗った沓。深沓の頸を短くした形のもの。

 内外などのゆるされたる若き男ども、家ノ子など、また立ちつづきて、「そこもとは落ちたる所に侍るめり。あがりたる」など教へ行く。何者にかあらむ、いと近くさし歩み、さいだつ者などを、「しばし、人のおはしますに、かくはまじらぬわざなり」など言ふを、「げに」とてすこし立ちおくるるもあり、また聞きも入れず、「われまづとく仏の御前に」と、行くもあり。局に行くほども、人のゐ並みたる前を通り行けば、いとうたてあるに、犬防ぎの中を見入れたる心地、いみじくたふとく、「などて月ごろも詣でず過ぐしつらむ」とて、まづ心もおこさる。
◆◆表向き、外向きなど両方の出入りを許されている若い男たちや、その縁の子弟などが、またずうっと、「そこのところは低くなっているところでございます。そこのところは高くなって…」など女主人に教えながら行く。何者だろうか、女主人にひどく近寄ったり追い越して行く物を、「しばらく待て、高貴な方がいらっしゃるのに、こんなに近寄ってはならないことだ」などと言うのを、「なるほど」と言って、少し下がって歩く者もいるし、また耳にも止めないで、「自分がまず先に仏の御まえに」と行く者もある。
お籠りの部屋に行く間も、人が並んで座っている前を通って行くので、ひどく疎ましく思っているのに、それでも、ぎの内側の内陣を覗いた気分は、たいそう尊く「どうして、この何か月も間お参りしないで
来てしまったのだろう」と思われて、なによりも先に信心の気持ちを自然におこすようになる。◆◆


■また=「あまた」の間違いか。
■犬防ぎ(いぬふせぎ)=仏堂の内陣と外陣とを仕切る作り付けの格子。内陣には本尊が安置されている。


枕草子を読んできて(135)その2

2020年02月02日 | 枕草子を読んできて
123  あはれなるもの  (135)その2  2020.2.2

 九月つごもり、十月ついたち、ただあるかなきかに聞きわけたるきりぎりすの声。鶏の子抱きて伏したる。秋深き庭の浅茅に、露の色々玉のやうにて光たる。河竹の風に吹かれたる夕暮。暁に目さましたる。夜なども、すべて。思ひかはしたる若き人の中に、せく方ありて、心にもまかせぬ。山里の雪。男も女も清げなるが、黒き衣着たる。二十六七日ばかりの暁に、物語してゐ明かして見れば、あるかなきかに心ぼそげなる月の、山の端近く見えたる。秋の野。年うち過ぐしたる僧たちの行なひしたる。荒れたる家に葎這ひかかり、蓬など高く生ひたる家に、月の隈なく明かき。いと荒うはあらぬ風の吹きたる。
◆◆九月の末、十月のはじめ、かすかに聞き分けられるようなこおろぎの声、鶏がひなを抱いて伏してるの。秋が深まった庭の茅萱に露の色々が玉のように光っているの。河竹が風に吹かれている夕暮。明け方に目をさましているの。夜なども万事につけて。愛し合っている若い人の中に、邪魔をする人がいて、心にもまかせて逢えないの。山里に降る雪。男も女も美しい人が黒い衣を着ているの。二十六、七日ほどの明け方に、話をして座ったままで夜を明かして、外を見れば、あるかないかの心細げな月が、山の端近くに見えるの。秋の野。年取った僧が勤行しているの。荒れた家に葎が這いかかり、蓬などが高く生い茂った家に、月が隈なく明るく照り渡しているの。あまり強くない風が吹いてるの。◆◆

■きりぎりす=今の「こおろぎ」
■浅茅(あさぢ)=背丈の低い茅萱


枕草子を読んできて(135)その1

2020年01月26日 | 枕草子を読んできて
123  あはれなるもの  (135)その1

 あはれなるもの 考ある人の子。鹿の音。よき男の若き、御嶽精進したる。いでゐたらむ暁の額など、あはれなり。むつましき人の、目さまして聞くらむ、思ひやる。詣づるほどのありさま、いかならむとつつしみたるに、たひらかに詣で着きたるこそいとめでたけれ。烏帽子のさまなどぞ、なほ人わろき。なほいみじき人と聞こゆれど、こよなくやつれて詣づとこそは知りたるに、右衛門佐宣孝は、「あじきなき事なり。ただ清き衣を着て詣でむに、なでふ事かあらむ。かならずよも『あしくて詣でよ』と御嶽のたまはじ」とて、三月つごもりに、紫のいと濃き指貫、白き襖、山吹のいみじくおどろおどろしきなどにて、隆光が主殿亮なるには、青色の襖、紅の衣、摺りもどろかしたる水干袴にて、うちつづき詣でたりけるに、帰る人も詣づる人も、めづらしくあやしき事に、「すべてこの山道にかかる姿の人見えざりつ」と、あさましがりしを、四月つごもりに帰りて、六月十よ日のほどに、筑前の守失せにしかはりになりにしこそ、「げに言ひけむにたがはずも」と聞こえしか。これはあはれなる事にはあらねども、御嶽のついでなり。
◆◆心にしみじみと感じられるもの 親の喪に服している子。鹿の鳴く声。身分が高く若い男が、御嶽精進しているの。部屋から出て明け方に礼拝しているのなど、しみじみとした感じがする。親しい人が、目を覚ましてそれを聞いているであろうのを、想像することだ。さていよいよ参詣する折のありさまは、どうであろうかと身を慎んでいたのに無事に御嶽に着いたのは、たいへん素晴らしいことだ。ただし、烏帽子の様子などはやはりよくない。やはり身分の高い方と申し上げる場合でも、格別粗末な身なりで参詣するのこそ私は承知しているのに、右衛門佐宣孝は、「つまらないことだ。ただ清浄な着物を着て参詣しようのに、何の悪いことがあろうか。きっとまさか『身なりを悪くして参詣せよ』と御嶽の蔵王権現はおっしゃるまい」ということで、三月の末に、紫のとても濃い指貫に白い狩衣、山吹色の大げさな派手な色の袿などを着て、息子の隆光の主殿の亮であるのには、青色の狩衣、紅の袿、乱れ模様を摺りだしてある水干袴を着せて、連れ立って参詣していたので、御嶽から帰る人も、これから参詣する人も、珍しく奇妙なこととして、「全く、この山道にこんな装束の人は見たことがなかった」とあきれ返ったのを、四月の末に帰って、六月十日余りのころに、筑前の守が亡くなってしまった代わりにちゃんと任官したのこそ、「なるほど、言ったという言葉にまちがいはなかった」と評判だった。これは「しみじみとしたこと」ではないけれども、御嶽の話のついでである。◆◆

■御嶽精進したる=吉野の金峯山に詣でるための精進。修験道の霊地で、ここにはいるものは役の行者の千日参篭にならってあらかじめ長期の精進を行った。

■右衛門佐宣孝(えもんのすけのぶたか)=藤原宣孝。紫式部の夫。正暦元年(990)筑前守、長徳四年(998)右衛門権佐兼山城守、

■隆光=宣孝の長男。母は下総守藤原顕みち女(紫式部が母ではない)。主殿亮(とのもりのすけ)は主殿寮の次官。

■水干袴(すいかんばかま)=「水干」は糊を用いず水だけで張った絹の意がもとで、狩衣に似てやや簡単な服。水干袴は水干を着るときにはく長袴。


枕草子を読んできて(130)(131)(132)(133)(134)

2020年01月21日 | 枕草子を読んできて
118  常よりことに聞ゆるもの  (130) 2020.1.21
 
常よりことに聞ゆるもの 元三の車の音、また、鳥の声。暁のしはぶき。物の音はさらなり。
◆◆普段より特別な感じに聞こえるもの 元日の車の音、また、元日の鶏の鳴き声。暁に聞こえる咳ばらい。暁に聞こえる音楽(楽器)はことさらだ。◆◆

■元三(げんさん)=元日。年のはじ(元)め、月のはじめ、日のはじめであるから「元三」という。


119  絵にかきておとるもの  (131)  2020.1.21
 
絵にかきておとるもの なでしこ。桜。山吹。物語にめでたしといひたる男女のかたち。
◆◆絵画として表現すると劣ってしまうもの なでしこ。桜。山吹。物語ですばらしいといわれる男女の容貌。◆◆

■絵にかきておとるもの=絵画として表現すると劣ってしまうもの。


120 かきまさりするもの  (132)  2020.1.21

 かきまさりするもの 松の木。秋の野。山里。山路。鶴。鹿。
◆◆描いて実物より勝ってみえるもの 松の木。山里。山路。鶴。鹿。◆◆


121  冬は  (133)  2020.1.21

 冬は、いみじく寒き。
◆◆冬は、ひどく寒いのが良い。◆◆


122  夏は  (134) 2020.1.21

 夏は、世に知らず暑き。
◆◆夏は、世にたぐいなき迄暑いのが良い。◆◆

枕草子を読んできて(129)

2020年01月09日 | 枕草子を読んできて
116 卯月のつごもりに、長谷寺に (129) 2020.1.9
 
卯月のつごもりに、長谷寺に詣で、淀の渡りといふものをせしかば、舟に車をかきすゑて行くに、菖蒲、菰などの末短く見えしを、取らせたれば、いと長かりけり。菰積みたる舟のある岸こそ、いみじうをかしかりしか。「高瀬の淀に」は、これをよみけるなンめりと見えし。三日といふに帰るに、雨のいみじう降りしかば、菖蒲刈るとて、笠の小さきを着て、脛いと高きをのこ、童などのあるを、屏風の絵に、いとよく似たり。
◆◆四月の末ごろに、奈良の長谷寺に詣でて、話にきいていた京の淀の舟渡りというものをしたところ、舟に車をかついで乗せて行くのに、菖蒲や菰の先が短く見えたのを取らせてみると、たいそう長かった。菰を積んだ舟のある岸がとても面白かった。「高瀬の淀に」という歌は、これを詠んだのだったとみえた。三日という日に帰るのに雨がひどく降ったので、菖蒲を刈るというので、笠の小さいのをかぶって、脛を長々と出している男や子供がいるのも、屏風に描かれててある絵に、とても良く似ている。◆◆

「上巻」終わり。


枕草子を読んできて(127)(128)

2019年12月19日 | 枕草子を読んできて
114  関は (127)
 関は 逢坂の関。 須磨の関。白河の関。衣の関。くきたの関。はばかりの関。ただこえの関。鈴鹿の関。よこはしの関。花の関ばかりにたとしへなしや。清見が関。見るめが関。よしよしの関こそ、いかに思ひ返したるならむと知らまほしけれ。それおなこその関とはいふにやあらむ。逢坂のなどを、さて思ひ返したらば、わびしからむかし。足柄の関。
◆◆関は 逢坂の関(山城の国と近江の国の境)。
須磨の関(神戸市須磨区)。
白河の関(福島県白河市旗宿)。
衣の関(岩手県西磐井郡平泉町)。
くきたの関(三重県一志郡白山町)。
はばかりの関(不明)。
ただこえの関(不明)。
鈴鹿の関(三重県鈴鹿郡)。
よこはしの関(不明)。花の関くらいに比べることができないほど違っているよ。
清見が関(静岡県清水市)。
見るめが関(不明)。
よしよしの関(不明)よしよし―ままよ―の関こそは、どう考えなおしているのだろうと知りたいものだ。越えるのを考え直すのを「な来そ」の関とはいうのだろうか。男女が逢う「逢坂」の関などを、そんなふうにして考え直したら、わびしいことであろうよ。
足柄の関(神奈川県足柄上郡)。

 

115  森は (128)

 森は 大あらきの森。しのびの森。ここひの森。木枯の森。信太の森。生田の森。木幡の森。うつ木の森。
きく田の森。岩瀬ノ森。立ち聞きの森。常盤の森。くつろぎの森。神南備の森。うたたねの森。うきたの森。
うへつきの森。いはたの森。たれその森。かそたての森。かうたての森といふが耳にとまるこそ、まづあやしけれ。森などいふべくもあらず、ただ一木あるを、何ごとにつけたるぞ。

◆◆森は 大あらきの森(京都市伏見区か)。
しのびの森(福島県信夫の訛か)。
ここひの森(静岡県熱海市伊豆山付近か)。
木枯の森)(静岡市羽鳥。
信太(しのだ)の森(大阪府泉北郡)。
生田の森(神戸市生田区)。
木幡の森(宇治市)。
うつ木の森(不明)。
きく田の森(不明)。
岩瀬ノ森(奈良県生駒郡か)。
立ち聞きの森(不明)。
常盤の森(京都市右京区か)。
くつろぎの森(不明)。
神南備(かんなび)の森(大阪府三島郡か)。
うたたねの森(福島県か)。
うきたの森京都(京都府)。
うへつきの森(不明)。
いはたの森(京都市伏見区)。
たれその森(三重県か)。
かそたての森(不明)。
かうたての森(不明)というのが耳にとまるのこそ、何はともあれ、妙なものだ。森などと言えるはずもなく、ただ木が一本だけあるのを、どうしてまた森というのだろうか。◆◆


枕草子を読んできて(126)その2

2019年12月09日 | 枕草子を読んできて
113 方弘は、いみじく(126)その2  2019.12.9

 女院なやませたまふとて、御使ひにまゐりて来たる、「院の殿上人はたれたれかありつる」と人の問へば、「それかれ」など四五人ばかり言ふに、「または」と問へば、「さてはぬる人どもぞありつる」と言ふをまた笑ふも、またあやしき事にこそはあらめ。
◆◆女院がご病気になられたというので、方弘がお見舞いの勅使として参上して、きたので、「院の殿上人は誰誰がいたのか」と人が尋ねると,四、五人ほど言うので、「他には」と問うと、「それから寝る人たちがいた」というのを又笑うのも、また奇妙なことであろう。【寝る人=宿直の人?】◆◆

■女院=東三条女院詮子(せんし)。一条天皇の正母。藤原兼家二女。

 人間に寄り来て、「わが君こそ。まづ物聞こえむ。まづまづ人ののたまへる事ぞ」と言へば、「何事にか」とて、几帳のもとに寄りたれば、「『むくろごめに寄りたまへ』と言ふを、『五体ごめに』となむ言ひつる」と言ひて、また笑ふ。除目の中の夜さし油するに、灯台の打敷を踏みてつるに、あたらしきゆたなれば、強うたらへられにけり。さし歩みて帰れば、やがて灯台は倒れぬ。襪は打敷につきて行くに、まことに道こそ震動したりしか。
◆◆人のいない間に寄ってきて、「あなたさま。何はさておいてお話申し上げましょう。何はさておき、何はさておき、お人がおっしゃっておいでのことですぞ」と言うので、「何事ですか」と言って、几帳の傍に寄ったところ「『身体ごとお寄りください』というのを『五体ごと』と言った」といってまた笑う。除目の二日目の夜、灯火にさし油をするときに、灯台の下の敷物を踏んで立っていると、新しい油単なので、足袋が強くくっついてつかまえられてしまったのだった。しずしずと歩いてもどるので、そのまま灯台は倒れてしまった。足袋は敷物にくっついていくので、ほんとうに方弘の歩く道は震動していた。◆◆

■むくろごめ=身体ぐるみ。だが「むくろごめ」も中古文献に聞きなれぬ語。
■襪(したうづ)=下沓。足袋の類。指は分かれぬ。


 頭着きたまはぬほどは、殿上の台盤に人も着かず。それに方弘は、豆人盛を取りて、小障子のうしろにて、やをら食ひければ、ひきあらはして笑はるる事ぞ限りなしや。
◆◆蔵人の頭がご着席にならないうちは、殿上の間の台盤にはだれも着席しない。それなのに方弘は、豆一盛りを台盤から取って、小障子の後ろで、こっそり食べたので、小障子を引きのけて丸見えにして笑われることとといったら限りもないことよ。◆◆