永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(83)(84)

2015年11月30日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (83) 2015.11.30

「かくて経るほどに、その月のつごもりに、『小野宮の大臣かくれ給ひぬ』とて、世はさわぐ。ありありて、『世の中いとさわがしかなれば、つつしむとて、え物せぬなり。服になりぬるを、これら疾くして』とはある物か。いとあさましければ、『このごろ、物するものども、里にてなん』とて、返しぬ。これにまして心やましきさまにて、たえて言づてもなし。さながら六月になりぬ。」
◆◆こうして過ぎていってその月末ごろに、「小野宮(兼家の父師輔の兄、摂政太政大臣実頼)の大臣様がお亡くなりにあった」といって、大層世間が大騒ぎしています。あの人は無沙汰続きのあげくに、「世間がたいへん騒がしいようだから、慎んでいて、しかたなく訪ねられないのだ。喪中になったので、これら喪服を急いで仕立てて」と言ってきたけれど、どういうことか。まったくあきれたことなので、「このところ裁縫をする者が里下がりをしていて、居りませんので」と言って返してやりました。これでますます機嫌をそこねたようで、まったく言伝てさえもなくなりました。そんなふうに過ごしながら六月になりました。◆◆


■小野宮=(兼家の父師輔の兄、摂政太政大臣実頼)のあったところ。その邸の名。死去は五月十八日であった。



蜻蛉日記  中卷  (84)

「かくて数ふれば、夜見ることは三十よ日、昼見ることは四十よ日なかりけり。いとにはかに、あやしと言へばおろかなり。心もゆかぬ世とはいひながら、まだいとかかる目は見ざりつれば、見る人々もあやしうめづらかなりと思ひたり。物しおぼえねば、ながめのみぞせらるる。人目もいとはづかしうおぼえて、落つる泪おしかへしつつ臥して聞けば、鶯ぞをりはへて鳴くにつけて、おぼゆるやう、
<鶯も期もなきものや思ふらんみな月はてぬ音をぞ鳴くなる>」
◆◆こうしたことで、指折り数えてみると、夜逢ってから三十日あまり、昼逢ってからは四十日の日が過ぎたことになるのでした。急な変わりようで、おかしいと言う位では言い足りないこと。
不満足な夫婦仲とはいいながら、まだこれほどの目に合ったことは無かったので、周りの人々も変だ、今までに無いことだと思っています。あまりの事に私は呆然としてただただ物思いに沈んでしまうばかりです。家の者達の目にもきまりが悪く、落ちる泪をひた隠しながら臥せっていると、鶯が時節はずれに鳴くのが聞こえてきて、こんなふうに思ったのでした。
(道綱母の歌)「私と同じように、終りのない物思いをしているのでしょうか。六月になっても尽きぬ悲しみの声で鳴いているのが聞こえる」◆◆



蜻蛉日記を読んできて(82)

2015年11月25日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (82) 2015.11.25


「かくて四月になりぬ。十日よりしも、また五月十日ばかりまで、『いとあやしくなやましき心地になんある』とて、例のやうにもあらで、七八日のほどにて、『念じてなん、おぼつかなさに』などいひて、『夜のほどにてもあれば。かくくるしうてなん、内裏へもまゐらねば、かくありきけりと見えんも、便なかるべし』とて帰りなどせし人、おこたりてと聞くに、待つほど過ぐる心地す。あやしと、人知れずこよひをこころみんと思ふほどに、はては消息だになくて久しくなりぬ。」
◆◆こうして四月になりました。その十日ごろから、またまた五月十日ごろまで、あの人は「どうも妙に気分がすぐれない」といって、例のような間隔での訪れがなく、七・八日ばかりして、
「苦しいのを我慢して来たのだよ。気がかりなので」と言って、「夜の間だから来てみたんだよ。こう苦しくてはたまらない。宮中にも参内していないのに、出歩いていているのを人に見られては具合が悪いし」といって帰って行ったのですが、その後病が治ったと聞きましたが、来るはずの日に来ないのでどうしたのかと思って、ひそかに今夜こそはと様子を見ようと思っているうちに、何の消息も手紙すらなくて、そのまま日が過ぎていきました。◆◆


「めづらかにあやしと思へど、つれなしをつくりわたるに、夜は世界の車の声に胸うちつぶれつつ、ときどきは寝入りて、明けにけるはと思ふにぞ、ましてあさましき。
◆◆これは変だ、どうも腑に落ちないことだと思いながらも、私は平静を装ってはいるものの、夜になって、世間では車の音がして、もしかしたらわが家にと、心をどきどきさせ、時にはうとうとと寝込んでしまったりして、そのまま夜が明けてしまったと思うにつけ、いまいましい気分になるのでした。◆◆


「をさなき人かよひつつ聞けど、さるはなでふこともなかりけり。いかにぞとだに問ひふれざりき。ましてこれよりは、なにせんにかはあやしともものせんと思ひつつ暮らし明かして、格子など上ぐるに、見出したれば、夜、雨の降りけるけしきにて、木ども露かかりたり。みるままにおぼゆるやう。
<夜のうちは松にも露はかかりけり明くれば消ゆるものをこそ思へ>
◆◆わが子道綱が本邸に通う度にあの人の様子などを聞いて見ますが、特に変わったこともないようでした。その上私の様子を聞いてみるということもないようでした。まして、こちらから、
「何か様子がおかしいですね」などと訊ねられましょう。こんなふうに日々を過ごしているときに、格子戸を上げてみると、夜のうちに雨が降ったと見えて、木々に露がかかっていました。見たまま思い浮かんだのは、
(道綱母の歌)「夜の間は夫を待つことで露ほどの私の命をつないできましたが、訪れのないまま夜が明ければ、その命も消えそうに私は辛い」◆◆


蜻蛉日記を読んできて(81)の4

2015年11月22日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (81)の4 2015.11.22

「持になりにければ、まづ陵王舞ひけり。それもおなじほどの童にて、わが甥なり。馴らしつるほど、ここにて見、かしこにて見など、かたみにしつ。されば、次に舞ひて、おぼえによりてや、御衣賜りたり。」
◆◆引き分けになったので、両方で舞うことになり、始めに前方の舞として、陵王を舞いました。その子もわが子と同じ年頃の子で、私の甥でした。練習していた頃、ここでも見たり、あちらで見たりお互いにし合っていました。そうして次にわが子が舞って、好評だったからでしょうか、御衣を賜りました。◆◆


「内よりは、やがて車の後に陵王も乗せて、まかでられたり。ありつるやう語り、『わが面を起こしつること。上達部どもの皆泣きらうたがりつること』など、かへすかへすも泣く泣く語らる。」◆◆あの人は内裏から陵王を舞った甥も一緒に乗せて帰ってこられました。事の次第を語り、『あの子の首尾で私の面目を大いに立ててくれたこと、上達部(かんだちめ)どもが皆涙をながして、愛おしそうにしていたよ』などと、くり返しくり返し涙にむせびながらお話をされたのでした。◆◆


「弓の師よびにやる。さてまたここにてなにくれとて物かづくれば、憂き身かともおぼえず、うれしきことぞものに似ね。その夜も、後の二三日まで、知りと知りたる人、法師にいたるまで、『若君の御よろこびきこえば、々』と、おこせ言ふを聞くにも、あやしきまでうれし。」
◆◆そして弓の師匠を呼びにやり、彼が来るとまた何やかやとご祝儀を与えるので、私は辛い身の上だなどと思うこともすっかり忘れて、うれしく思うことは何にも比べようがない。その夜もその後の二、三日まで、ありとあらゆる人が、法師に至るまで「若君のお喜びを伺いまして」などと、使者を寄こしたり、直接見えたりするのを聞くに付けても、この上ないうれしさであった。◆◆


■持になりにければ、まづ陵王舞ひけり=引き分けになったときの決まりで、両者とも舞う。

■道綱は納蘇利(なそり)を舞った。写真


蜻蛉日記を読んできて(81)の3

2015年11月19日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (81)の3 2015.11.19

「その日になりて、まだしきに物して、舞の装束のことなど、人いとおほくあつまりて、しさわぎ、出だし立てて、また弓のことを念ずるに、かねてより言ふやう、『後へはさしても負け物ぞ、射手いとあやしう取りたり』など言ふに、舞をかひなくやなしてなん、いかならんいかならんと思ふに、夜に入りぬ。」
◆◆当日になって、まだ夜が明けないうちにあの人が来て、舞の装束やなにやかやと、大勢の人が集まって支度をし終え、送り出してから、私はまた弓の運を祈りながら、前評判では、「後手組はまったく勝ち目はないぞ、射手の選び方がまずかったからな」などということなので、せっかく練習した舞も無駄になってしまうのかしら。どうかしら。大丈夫かしら。と案じているうちに夜になったのでした。◆◆



「月いと明ければ、格子なども下ろさで、念じ思ふほどに、これかれはしり来つつ、まづこの物語りをす。『いくつなむ射つる』『敵には右近源中将なむある。おほなおほな射伏せられぬ』とて、ささとの心に、うれしうかなしきこと、ものに似ず。『負け物とさだめし方の、この矢どもにかかりてなん、持になりぬる』と、また告げおこする人もあり。」
◆◆この夜は月が明るく照らしているので、格子戸なども降ろさないで、案じ案じしていると、家の召使が走ってきては、真っ先に、この競射の話をします。「何番まで進みました」「若君(道綱)のお相手になるのは右近源中将でいらっしゃいます。」「懸命になって若君が打ち負かしておしまいになりました」ということで、私はあれほど案じていたことなのでほっとして、うれしいこと、よくやったと思うことは何にたとえようもないことでした。「負けがほぼ決まったようだった後手組が、若君(道綱)の矢のおかげで、引き分けになりました」とまた言って来た者がいました。◆◆


■持になりぬる(じになりぬる)=引き分けになる。

■写真は、陵王の舞い 

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2015年11月16日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (81)の2 2015.11.16

「十日の日になりぬ。今日ぞここにて試楽のやうなることする。舞の師、多好茂、女方よりあまたの物かづく。男方もありとあるかぎり脱ぐ。『殿は御物忌みなり』とて、男どもはさながら来たり。こと果て方になる夕ぐれに、好茂、胡蝶楽舞ひて出で来たるに、黄なる単衣ぬぎてかづけたる人あり。折りにあひたるここちす。」
◆◆十日になりました。この日はわが家で予行練習のようなことをします。舞の師匠、多好茂(おおのよしもち)が、侍女たちから沢山の被け物を受けましたし、男の連中もこぞって衣服を脱いで与えます。「殿(兼家)は御物忌みでいらっしゃいます」とのことで、あの人は来ず、召使たちがこぞってやってきました。練習も終わりに近い夕暮れ、好茂が胡蝶楽を舞って出てきたので、それに黄色の単衣(山吹の色に合わせた色の)を脱いで被けた人がいました。まったくその場にふさわしい感じでした。◆◆



「また十二日、『後への方人さながらあつまりて舞はすべし。ここには弓場なくてあしかりぬべし』とて、かしこにののしる。『殿上人、数をおほくつくしてあつまりて、好茂、埋もれてなむ』と聞く。我はいかにいかにとうしろめたく思ふに、夜ふけて、送り人あまたなどして物したり。」
◆◆その次の十二日、「後手組みの人が全員集まって、舞をさせる予定です。こちらでは弓場がなくて具合が悪いだろうから」とのことで、あちらでお騒ぎしています。「殿上人が大勢集まって、好茂が被け物に埋まってしまった」と聞きました。私は、道綱はどうだったのかしら、うまくやれたのかしらと気になっていると、夜が更けてから、大勢の人に送られて帰ってきたのでした。◆◆



「さて、とばかりありて、人々あやしと思ふに、はひ入りて、『これがいとらうたく舞ひつること語りになむものしつる。みな人の泣きあはれがりつること。あすあさて物忌み、いかにおぼつかなからん。五日の日、まだしきにわたりて、事どもはすべし』など言ひて帰られぬれば、常はゆかぬ心地も、あはれにうれしうおぼゆること限りなし。」
◆◆それから少したったころ、あの人が、人々が変に思うのもかまわず、私の張の中に入ってきて、「道綱が実に可愛らしく舞ったことを話しにきたよ。みんなが涙を流して感動してた。わたしは明日明後日は物忌み。心配でならないが、十五日には早朝から来て、いろいろと世話をしよう」などと言って帰られたので、私は普段不満足ではありましたが、今日は限りなく身にしみてうれしく思われたことでした。◆◆


■多好茂(おほのよしもち)=多氏は舞楽相伝の家柄で現代まで続く。代々雅楽寮に務む。好茂はこの時三十七歳。

■脱ぐ=着衣を脱いで被け物にする。褒美または御礼に。

■胡蝶楽(こちょうらく)=蝶の羽を模した衣装で山吹の花を持って舞う。

■五日の日=中の五日で、十五日のこと。
 
■写真は胡蝶楽

蜻蛉日記を読んできて(81)の1

2015年11月13日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (81)の1  2015.11.13

天禄元年(970年)
道綱母  34歳くらい
兼家   42歳くらい 
道綱   16歳くらい

「人は、めでたく造りかかやかしつる所に、あすなむ、こよひなむ、とののしるなれど、我は思ひしもしるく、かくてもあれかしになりにたるなめり。されば、げに懲りにしかばなど、思ひのべてあるほどに、三月十日のほどに、内裏の賭弓のことありて、いみじくいとなむなり。をさなき人、後への方にとられて出でにたり。『方勝つ物ならば、その方の舞ひもすべし』とあれば、このごろはよろづ忘れて、このことをいそぐ。舞ひ馴らすとて、日々に楽をしののしる。出居につきて、賭け物とりてまかでたり。いとゆゆしとぞうち見る。」
◆◆あの人は、輝くばかり立派に竣工した新邸に、明日引越しだ、いや今夜だと、たいそう大騒ぎしているけれど、私の方は思っていたとおり、現在の住いに居ることでいいのではないかということになったようでした。だから、あの人も、あの一件(時姫方との下衆同士のいさかい)で懲り懲りなさったからなのだと、今は気持ちを納めているうちに、三月十日ごろに内裏の賭弓(のりゆみ)の催しがあって、その準備が盛大にされているとのことでした。道綱も後手組の射手に選ばれて出場することになりました。「味方が勝った場合、その組の舞もしなければならない」というので、最近はすべてを忘れて、その準備に精を出しています。舞の練習をするといって、毎日毎日音楽を奏して励んでいます。弓の練習場に行って、賞品をもらって退出してきました。大層すばらしいことと、わが子の姿をまぶしく眺めたことでした。◆◆


■賭弓(のりゆみ)=宮中で弓射の試合をして、天皇の御覧に供する行事。恒例としては毎年正月十八日に行われるが、ここは臨時か。賭け物をかけておこなう。射手を前後に分け、道綱は
後手組の選手として出る。

■ゆゆし=ものごとのはなはだしいことを言うが、ここでは眩しいほど素晴らしいと喜ぶ気持ち。


蜻蛉日記を読んできて(80)

2015年11月10日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (80) 2015.11.10

「かうなどしゐたるほどに、秋は暮れ、冬になりぬれば、なにごとにあらねど、ことさわがしき心ちしてありふるうちに、十一月に、雪いと深くつもりて、いかなるにかありけん、わりなく、身こころうく、人つらく、かなしくおぼゆる日あり。つくづくとながむるに、思ふやう、
<ふる雪につもる年をばよそへつつ消えむ期もなき身をぞうらむる>
など思ふほどに、つごもりの日、春のなかばにもなりにけり。」
◆◆こんなことをしているうちに、秋は暮れ、冬になったので、何となく忙しい気持ちで過ごしているうちに、11月に雪が深く積もって、どうしたわけでしょうか、無性にわが身が情けなく、あの人が恨めしく、悲しく思われる日がありました。しんみりとした物思いの中で思ったことは、
(道綱母の歌)「降り積む雪に自分の歳を比べながら、雪は消えるが、いつ消えるか分らないわが身がつくづく恨めしく思われます」
こんなふうに過ごし、大晦日を過ごし、春の半ばになったのでした。◆◆


■ことさわがしき=安和二年秋から冬にかけては、作者の近辺も含めてさまざまなことが起っていた。冷泉天皇の譲位、円融天皇践祚、兼家東宮太夫をやめ、昇殿、道綱童殿上、兼家正三位、
天皇即位式、登子尚侍に任ぜらる。藤原師尹薨去(八月賀の祝い。十月死去)など。


■『蜻蛉日記』中巻 著者村上悦子の解説から引用。
「わりなく、身心憂く、人辛く、悲しくおぼゆる日あり」と暗いせつないことばを書き連ねた箇所は、『蜻蛉日記』の中ではここのみであり、そのあとに、生きるすべを失ったような絶望に瀕した「降る雪の……」の歌が書かれている。彼女は円融天皇のご即位や兼家の栄達、道綱の童殿上など明るい晴れやかな話にはまったく触れずにただ自己の鬱積した暗澹とした心情のみを垣綴っているのはどうしたことだろう。……。東三条邸がだんだん竣工し、この頃になるといったい誰が新邸入りするかが人々の話題にのぼり、時姫母子は確実に新邸の住人になろうが、道綱母子は恐らく迎えいれられないであろうという噂がひろがり、兼家も今はそれを否定せず、噂どおりに事が着々と進捗しつつあったからではなかろうか。作者の何よりの宿望は生涯兼家の夫人として世人から一目置かれることと、道綱が兼家息として栄達し大臣の座にも就くことで、そのため是非本邸に迎えられたかったのであろう。本邸入りにより時姫は正室的存在となり、作者は一介の妻として兼家の気が向くときだけ通う。場合によっては、いつ捨てられるかも知れない。道綱の将来も案じられる。作者にとっては号泣すべき、きわめて
大きな出来事であったのである。作者は時姫を羨望し兼家を怨恨し、生きる張り合いをまったく喪失し、だれにも怒りのぶちまけようのない絶望の淵に落ち込んだのだが、やはり書くに堪えなかったのであろう。しかもプライドも許さなかったのであろう。そこではっきりと理由を表面に出さず、独詠でもって絶望感を表したのではあるまいか。


蜻蛉日記を読んできて(79)の2

2015年11月07日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (79)の2 2015.11.7

「ゐ中の家のまへの浜づらに松原あり。鶴群れてあそぶ。『二つ歌あるべし』とあり。
<浪かけの見やりに立てる小松原こころをよすることぞあるらし>
<松のかげ真砂のなかとたづぬるはなにの飽かぬぞ鶴の群鳥>

網代のかたあるあるところあり。
<網代木に心をよせて日をふればあまたのよこそ旅寝してけれ>

浜辺に、漁火ともし、釣舟などあるところあり。
<いさり火も海人の小舟ものどけかれ生けるかひある浦にきにけり>

女くるま、もみぢ見けるついでに、また、もみぢおほかりける人の家にきたり。
<よろづよをのべのあたりにすむ人はめぐるめぐるや秋を待つらん>

など、あぢきなくあまたにさへ強ひなされて、これらが中に、漁火と群鳥とはとまりにけりと聞くに、ものし。」
◆◆田舎家の前の浜辺に松原があり、鶴がたくさん集まって遊んでいる。その絵には「二首歌を詠んでください」とあります。
(道綱母の歌)「あの波打ち際に生えている小松原は、千代の友として群舞する鶴に心を寄せているようです。」
(道綱母の歌)「鶴の群れたちよ、あちらの松の陰、こちらの砂の中をまだあさりまわっているのは、この上何の不測があってのことでしょう」

網代の絵のあるところがあります。
(道綱母の歌)「氷魚を寄せてとる網代を愛でて日を送ったので、幾夜も旅寝を重ねてしましました。」

浜辺で漁火をともし、釣舟などのあるところの絵があります。
(道綱母の歌)「漁火も海人の小舟も、のどかであってほしいと願われます。生きた貝もあり、まことに生きがいのある美しいこの景色のこの浦にやってきたのですから。」

女車が、紅葉見物をしたついでに、また紅葉のたくさんある家に立ち寄っている絵には、
(道綱母の歌)「末長くこの野辺近くに住む人は、毎年毎年紅葉の美しい秋の訪れを待ち望んでいることでしょう。」

など、気が進まないのに、幾首も幾首も無理やり詠まされさえもして、これらの中で「漁火」と「むら鳥」の歌とが採用になったと聞くに付け、何となくおもしろくない気持ちであった。◆◆


蜻蛉日記を読んできて(79)の1

2015年11月04日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (79)の1 2015.11.4

「八月になりぬ。そのころ、小一条の左大臣の御とて、世にののしる。左衛門督の、御屏風のことせらるるとて、え避るまじきたよりをはからひて、責めらるることあり。絵のところどころ書き出だしたるなり。いとしらじらしきこととて、あまたたび返すを、せめてわりなくあれば、よひのほど、月見るあひだなどに、一つ二つなど思ひてものしけり。

人の家に賀したるところあり。
<おほぞらをめぐる月日のいくかへり今日ゆくすゑにあはんとすらん>」
◆◆八月になりました。そのころ、小一条の左大臣(兼家の叔父で藤原師尹)さまの長寿の御祝いということで、世間では大騒ぎです。左衛門督(さえもんのかみ)さまが差し上げなさる賀の御屏風をお作りになるとのことで、引き受けざるを得ないつてを通して、屏風歌を是非にと望まれることがありました。あちらこちらの風景を描きだした屏風絵です。ばかばかしいことだと何度も何度もお断りしたのですが、是非にと無理無理言ってくるので、宵のうちや月をながめている間などに、一首二首など作ってみました。

ある家に、賀宴を催しているところの絵があります。
(道綱母の歌)「大空を月や日が回りつづけるように、この人たちは、これからも何度、今日と同じめでたいお祝いにめぐり合うことでしょう」◆◆


「旅ゆく人の、浜づらに馬とめて、千鳥のこゑ聞く所あり。
<一声にやがて千鳥とききつれば世世をつっくさん数もしられず>

粟田山より駒ひく。そのわたりなる人の家に、引き入れて見るところあり。
<あまた年こゆる山べに家ゐして綱ひく駒も尾も慣れにけり>」
◆◆旅行く人が、浜辺に馬を停めて、千鳥の声を聞いているところの絵があります。
(道綱母の歌)「たった一声聞いただけで千鳥の声だと分ったのですから、その千鳥の「千」のように、千代も万代も限りなく栄えていくでしょう」
粟田山を通って馬を引いて行くが、その近辺の人家に馬を引き入れて見ている所の絵があります。
(道綱母の歌)「長年駒ひきの馬が越える粟田山に住んでいるので、東国の荒れ馬もなついてしまいました」◆◆


「人の家のまへちかき泉に、八月十五夜、月のかげ映りたるを、女ども見るほどに、垣の外より大路に笛ふきてゆく人あり。
<雲ゐよりこちくの声を聞くなへにさしくむばかあありみゆる月かげ>
◆◆人家のそば近くの泉水に、八月十五夜の月影が映っているのを、女たちが眺めているとき、垣根の外を通って大路で笛を吹いて行く人の絵があります。
(道綱母の歌)「はるか彼方の空から響いてくる胡竹の笛の音を聞くと、泉水に映る月も一段とくっきり手に取るように見えます。」◆◆


■いとしらじらしきこと=当時の屏風歌は、地下歌人や女房歌人の読むものであったので、気乗りがしない。馬鹿にされたような。

■駒ひき=東国の御牧の馬を逢坂の関を越えて貢進する。

■こちく=胡竹と「此方(こち)来(く)」をかける。

蜻蛉日記を読んできて(78)

2015年11月01日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (78) 2015.11.1

「さて、そのころ、帥殿の北の方、いかでにかありけん、ささの所よりなりけりと聞きたまひて、この六月所とおぼしけるを、使ひ、持てたがへて、いま一所へ持ていたりけえり。取り入れて、はたあやしともや思はずありけん、返りごとなどきこえてけり、と伝へ聞きて、かの返りごとを聞きて、所たがへてけり、いふかひなきことを、またおなじことをもものしたらば、伝へても聞くらむに、いとねじけたるべし、いかにこころもなく思ふらんとなんさわがるる、と聞くがをかしければ、かくては止まじと思ひて、前の手して、
<山彦のこたへありとは聞きながらあとなき空を尋ねわびぬる>
と浅縹なる紙に書きて、いと葉繁う付きたる枝に、立文にしてつけたり。」
◆◆さて、そのころ、帥殿(源高明)の奥方(愛宮)さまは、どうしてお分かりになったのでしょうか、これこれのところからであったと、お聞きになって、私が六月まで住んでいた邸へとお思いになったのに、使いの者が間違えて、もう一人のお方(時姫ももとへ)のところへ届けてしまったのでした。そちら(時姫方)では受け取って別に変だとも思わなかったのでしょうか、お返事を差し上げたと人づてに私の耳にも入りましたが、奥方(愛宮)さまの方では、お返事を聞いて、届け先を間違えてしまった、とるに足りない歌なのに、また同じ歌を(作者の方に)贈ったならば、前の歌を人づてにでも耳にしてしているだろうに、とても具合が悪いであろう、二番煎じを贈った場合、なんとたしなみのないことだと思うだろうと、途方にくれていらっしゃるとのこと、私もこのままではお気の毒と思って、前回と同じ筆跡で、
(道綱母の歌)「お返事を頂きましたと耳にいたしましたが、どちらへまいりましたのやら、山彦のように虚しく空に消えてしまいましたので、探しあぐねております」
と、薄藍色の紙に書いて、とても葉のいっぱいついた枝に、立文にして結びつけました。◆◆


「また、さし置きて消え失せにければ、前のやうにやあらんとて、つつみ給ふにやありけん、なほおぼつかなし。あやしくのみもあるに、など思ふ。ほどへて、たしかなるべき便りをたづねて、かくのたまへる。
<吹く風につけて物おもふあまたのたく塩の煙はたづねいでずや>
とて、いとになき手して、うす鈍の紙にて、松の枝につけたまへり。
御かへりには、
<あるる浦に塩の煙は立ちけれどこなたにかへす風ぞなかりし>
とて、胡桃色の紙に書きて、色かはりたる松につけたり。」
◆◆今度もまた、使いの者が手紙を置くなり姿を消してしまったので、今度はそうようなことになってはと、慎重にしていられるのであろうか、やはり音沙汰がなく、こちらが変なことばかりするのでなどと思っていると、しばらくして、間違いなく届くようなつてを捜し当てて、こんな歌をくださったのでした。
(愛宮の歌)「あなたからのお便りに、嘆き悲しんでいる尼の私は早速お返事をいたしましたが、それをまだ捜し出していただけないのでしょうか。海人の炊く塩の煙のようなとりとめもないその歌を」
と、素晴らしい筆跡で、薄鈍色の紙に書いて、松の枝につけてよこされました。
お返事には、
(道綱母の歌)「あなたの悲しいご心情を託された歌をくださったと伺いましたが、お邸からたった煙を私のもとに届ける風がなかったとみえて、あいにく私のもとには届きませんでした。」
という歌を、胡桃色の紙に書いて、赤茶けた松につけて差し上げたのでした。◆◆


■ささの所より=これこれのところ。先の長歌が作者からであること。

■手紙の行き違い=兼家には北の方が二人いると世間では思われていた? 使いは時姫方に届けたので、こんな行き違いが起った。ただあのような長歌を歌えるのは道綱母だと、愛宮には
分ったのである。