永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(77)

2015年10月29日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (77)2015.10.29

「かくあるほどに、心ちはいささか人ごこちすれど、二十よ日のほどに、『御嶽に』とていそぎ立つ。をさなき人も『御供に』とてものすれば、とかく出だし立ててぞ、その日の暮れにぞ、我ももとの所など修理しはてつれば渡る。供なるべき人など、さし置きてければ、さてわたりぬ。」
◆◆こうしているうちに、気分は少しよくなってはきましたが、二十日すぎのころ、あの人は「御嶽詣でに」といって急いで出かけることになりました。道綱も「お供せよ」ということで同行するので、あれこれ支度をして送り出して、その日の暮れに私も、もとの家の修理も終わったので、そちらへ移りました。あの人がお供に連れて行くはずの人もこちらへ残してくれたので、それを使って引っ越しました。◆◆


「それより、さばかりうしろめきたる人をさへ添へてしかば、いかにいかにと念じつつ、七月一日の日のあか月に来て、『ただ今なん帰りたまへる』など語る。ここは、ほどいと遠くなりにたれば、しばしはありきなども難かりなんかしなど思ふに、昼つ方、なへぐなへぐも見えたりしは、なにとにかありけむ。」
◆◆それからは、まだまだ気がかりな子どもを一緒に行かせたので、始終どうしているかと、無事を祈っていると、七月一日の夜明け前に帰ってきて、「お父上は、たった今お帰りになりました」などと私に言いました。この家はあちら(兼家のお邸)から大分遠くなってしまったので、今までのように度々訪れることは難しいだろうと思っていますと、昼ごろ、ふらふらした疲れた足取りで訪ねてきたのは、一体どうした風の吹き回しだったのだろうか。◆◆


■もとの所=作者の旧邸。一条西洞院。兼家の新邸に結局入れたのは時姫で、作者は外面的にも敗者となった。そのため兼家は気を使っている。今までの作者の患いは正妻の座への絶望か。


■御嶽(みたけ)=奈良県吉野郡の金峰山。入山する前、長期間の精進をする。ここでも十日ほど日数をかけている。

蜻蛉日記を読んできて(76)の2

2015年10月26日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (76)の2 2015.10.26

「また、奥に、
<宿みれば蓬の門もさしながらあるべき物と思ひけんやぞ>
と書きて、うちおきたるを、前なる人見つけて、『いみじうあはれなることかな。これをかの北の方に見せたてまつらばや』など言ひなりて、『げに、そこよりと言はばこそ、かたくなはしく、みぐるしからめ』とて、紙屋紙に書かせて、立文にて、削り木につけたり。」
◆◆また、奥の方に、
(道綱母の歌)「西の宮の御邸は、蓬の生い茂る門も閉ざされたままです。このようにすっかり荒れてしまうとは、まったく思いもよりませんでした」
と書いて、何気なく置いておいたのを侍女が見つけて、「たいへんお心のこもったお歌ですこと。これを、あちらの奥方さまにお見せしたいものですね」などと言うことになって、「ええ、そうしましょう。どこどこからとはっきり言って贈るのでは、気が利かないうえ、みっともないし」と言って、紙屋紙に書かせて、立文にし削り木につけました。◆◆


「『いづこより』とあらば、『多武の峯よりと言へ』と教ふるは、この御はらからの入道の君の御もとよりと言はせよとてなりけり。人とりて入りぬるほどに、使はかへりにけり。かしこに、いかやうにか定めおぼしけむは知らず。」
◆◆「どちらさまから」と聞かれたならば、「多武の峯からと答えるように」と教えたのは、奥方さまの御兄弟の入道の君、少将孝光さまの御元からといわせようと思ってのことでした。使いに持たせてやると、あちらでは侍女が受け取って奥に入って行った間に、使いは帰って来てしまい、奥方さまの方では、どのようにご判断されたのか、その後のことは分りません。◆◆


■紙屋紙(かみやがみ)=京都市北野を流れる紙屋川のほとりに紙屋院(図書寮の別院)があって、ここで漉き返した紙をいう。薄墨色の場合が多く、時には漉く前の字が多少残っている場合もある。厚手で丈夫。宣旨を書くのに使われたところから宣旨紙ともよばれた。

■立文にて(たてぶみ)=書状の形式の一つで正式な場合に使う。包み紙で縦に包み、余った上下をひねる。

■削り木=神事に用いる白木のこと。

■多武の峰(とうのみね)=奈良県桜井市にある山。山中に談山神社がある。藤原氏ゆかりの山。少将藤原高光が籠った山。

■入道の君=藤原師輔の子息で愛宮の同母兄、応和元年(961年)冬、出家して横川に入り、二年多武の峯に登り修行する。多武峯少将と呼ばれ、『多武峯少将物語』の主人公。

蜻蛉日記を読んできて(76)の1

2015年10月22日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (76)の1  2015.10.22

「かくて、なほおなじやうなれば、祭り、祓へなどいふわざ、ことごとしうはあらで、やうやうなどしつつ、六月のつごもりがちに、いささか物おぼゆる心地などするほどに聞けば、帥殿の北の方、尼になり給ひにけりと聞くにも、いとあはれに思うたてまつる。」
◆◆こんな風で、体の具合も同じような状態なので、病気平癒のための祭りや祓いなどといったことを大げさにではなく徐々におこなって、六月の下旬ごろに少し気分が良くなってきたころ聞きますと、帥殿(源高明)の奥方が尼におなりになったと耳にするにつけても、まことにお気の毒なこととお察し申し上げます。◆◆



「西の宮は、流されたまひて三日といふに、かき払ひ焼けにしかば、北の方、我が御殿の桃園なるにわたりて、いみじげにながめ給ふと聞くにも、いみじう悲しく、我がここちのさはやかにもならねば、つくづくと臥して思ひ集むることぞ、あいなきまでおほかるを、書き出だしたれば、いと見苦しけれど、
<あはれいまは かくいふかひも なけれども おもひしことは 春の末 花なん散ると さわぎしを あはれあはれと ききしまに 西の宮まの うぐいすは かぎりの声を ふりたてて 君がむかしの あたごやま さしていりぬと ききしかど 人ごとしげく ありしかば 道なきことと なげきわび 谷隠れなる 山水の つひに流ると さわぐまに よをう月にも なりしかば 山ほととぎす たちかはり 君をしのぶの 声たえず いづれの里か なかざりし ましてながめの さみだれは うきよの中に ふるかぎり 誰がたもとか ただならん たえずぞうるふ さ月さへ 重ねたりつる ころもでは 上下わかず 朽たしてき ましてこひじに おりたてる あまたの田子は おのがよよ いかばかりかは そぼちけむ 四つに別るる 群鳥の おのがちりじり 巣離れて わづかにとまる 巣守りにも 何かはかひの あるべきと 砕けてものを おもふらん いへばさらなり 九重の うちをのみこそ ならしけめ おなじ数とや 九国の 島二つをば ながむらん かつは夢かと いひながら 逢ふべき期なく なりぬとや 君のなげきを こり積みて 塩焼くあまと なりぬらん 舟を流して いかばかり うらさびしかる 世の中を ながめかるらん ゆきかへる かりの別れに あらばこそ 君がとこよも 荒れざらめ 塵のみおくは むなしくて 枕のゆくへも しらじかし いまは涙も みな月の 木陰にわぶる 空蝉も 胸裂けてこそ なげくらめ ましてや秋の 風吹けば まがきの荻の なかなかに そよとこたへん 折りごとに いとど目さへや 合はざらば 夢にも君が 君を見で 長き夜すがら なく虫の おなじ声にや たへざらん とおもふこころは 大荒木の 森の下なる 草のみも おなじく濡ると 知るらめや露>
◆◆西の宮のお邸は、帥殿がお流されになって三日目という時に、すっかり消失してしまったので、奥方さまはご自分の桃園のお邸にお移りになって、大変悲嘆にくれていらっしゃるとお聞きするにつけても、私もとても悲しく、わたしの気分もすぐれないので、床に横たわったまま、しみじみとあれやこれや思い合わせることの多いのを書き表してみますと、まことに見苦しいけれど。
(道綱母の長歌)「 ああ、今となっては、こう言ってみても何の甲斐も無いことではございますが、思い起こすと、春の末に、花が散るようにお殿さまがお流されになるとの世の騒ぎを、お気の毒なことよ、おいたわしいことよと聞いていましたうちに、深山のうぐいすが声を限りに泣きたてて飛んでいくように、西の宮のお殿さまは悲痛な嘆きをあそばしながら、どんな前世の因縁ゆえか、愛宕山をさしておはいりになったと聞きましたが、それもすぐさま人の口の端にのぼり、道なき深山で非道なことよと悲嘆にくれていられましたのに、見あらわされ、とうとう流されておしまいになったと騒ぎたてておりますうちに、このうとましい世の中が四月になりますと、うぐいすの代わりに山から出てきたほととぎすが鳴くように、お殿さまをしのんで泣く声がどこの里でも絶えることはございませんでした。それにもまして、物思いがちな五月雨のころには、この憂き世の中に生きている人すべて、だれひとりとして、たもとを濡らさぬ者とてございませんでした。そのうえ、雨ばかりの五月まで閏で重なり、乾くひまのない袖は、身分の上下を問わず、すっかり涙で濡れとおってしまいました。ましてや、お父君を恋い慕っていられる大勢のお子様方は、それぞれ、どんなに泣き沈まれたことでございましょう。四散されたお子様方は巣を離れて飛び立つ群鳥のように、ちりぢりばらばらに別れて行かれ、わずかに幼いお方が残られても、これではなんの生きがいがあろうかと、心も千々に乱れて物思いにくれていられることと、お察しいたします。今さら口にいたすまでもございませんが、お殿様は九重の宮中にばかり住みなれていられましたが、同じ数とは言いながら、遠い九州の地で、島二つをば物思いにふけりつつながめておいででございましょう。奥方様におかれても夢かしらと言いながら、もう再会の折もなくなってしまったと、嘆きに嘆きを積み重ねて、とうとう尼とおなりになったのかと存じます。海人が大事な舟を流して途方にくれるように、また、長海布(ながめ)を刈る辛い日々のように、お殿さまを遠く放たれ、また今は御身も尼となられて、どんなにかお心さびしく物思いにふけって明け暮れておいでのことでございましょう。去ってもまた帰ってくる雁のようにかりそめのお別れでございましたら、奥方さまの夜の臥床も荒れ果てることはございますまいが、長の別れともなれば、床にはむなしくちりが積もるばかりで、枕は涙に流されて行方もわからぬほどでございましょう。今はその涙もみな尽き果て、六月の木陰には、裂けた殻から抜け出て蝉が鳴きたてるように奥方様も胸がはり裂ける思いで日々お嘆きと存じます。まして、秋の風が吹きはじめるころになると、まがきの荻が、なまじ、『そうよ、そうよ』とご傷心に答えているように風にそよぐのが聞こえる度ごとに、いっそう目が冴えておやすみになれず、夢の中でもお殿様にお目もじもかなわず、長い秋の夜通し、鳴きとおす虫に声を合わせて、堪えかねて、忍び音をお漏らしのこととお察しいたしまして、大荒木の森の下草の実同様、私もまたご同情の涙を催しているとご存知でございましょうか、多少なりとも。」



■帥殿の北の方=高明室愛宮。藤原帥輔の五女。兼家の異母妹。

■わが御殿の桃園=愛宮が父帥輔(もろすけ)から伝領の桃園にある邸であろう。桃園は一条の北、大宮の西の地で桃の木が多く王朝貴族の別荘地であった。現在桃薗小学校に名が残る。

■手紙の訳は、全文、「蜻蛉日記・中巻」上村悦子著による。

蜻蛉日記を読んできて(75)の2

2015年10月20日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (75)の2  2015.10.20

「はべらざらん世にさへ、うとうとしくもてなし給ふ人あらば、つらくなんおぼゆべき。としごろ御覧じ果つまじくおぼえながら、かはりも果てざりける御心を見たまふれば、それ、いとよくかへりみさせ給へ。ゆづり置きてなど思ひたまへるもしるく、かくなりぬべかめれば、いと長くなん思ひきこゆる。」
◆◆私がこの世に居なくなってまで、わが子道綱を粗略にお扱いになるようでしたら、私は本当に辛く思うでしょう。ここ数年来、私共を最後までずっとお世話してはくださらないと感じながら、でも結局、お見捨てにならなかった御心を拝見しておりますので、どうぞこの子をお世話くださるように。子どものことをお任せ申しておりまして、かねがねご存知のように、いよいよ今わの際になってしまったようでございますから、なにとぞ末長くよろしくお願い申し上げます。◆◆


「人にも言はぬことの、をかしなどきこえつるも、忘れずやあらんとすらん。折しもあれ、対面にきこゆべきほどにもあらざりきれば、
<露しげき道とかいとど死出の山かつがつ濡るる袖いかにせん>
と書きて、はしに、『あとには、とひなども、塵のことをなむ誤たざなるさへよくならへとなん、きこえおきたる、とのたまはせよ』と書きて、封じて、上に、『忌みなど果てなんに、御覧ぜさすべし』と書きて、かたはらなる唐櫃に、ゐざりよりて入れつ。見る人あやしと思ふべけれど、久しくしならば、かくだにものせざらんことの、いと胸いたかるべければなむ。」
◆◆誰にも漏らさず、睦言にあなたに申し上げた秘密のあのことも、いつまでも忘れないでいてくださるでしょうか。折り悪くお目にかかって申し上げられる時でもありませんので、
(道綱母の歌)「死出の山道は一段と露の多い道と聞いていますが、早くも涙に濡れるわが袖をどういたしましょう」
と書いて、はしに、「私の亡きあとに、『わずかなことも間違えないように、学才を充分身につけなさい、と母が言い残しておいた』とあの子に仰せくださいますように」としたためて、封をして、その上に、「四十九日がが終わってから、殿に御覧に入れるように」と書いて、傍の唐櫃に、にじり寄って入れました。見ている人は妙なことをすると思うかも知れませんが、病が長引けば、こうして手紙を書いておくことすらしなかったとしたら、きっと胸をいためることになるに違いないので。◆◆

蜻蛉日記を読んできて(75)の1

2015年10月15日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (75)の1 2015.10.15

「なほあやしく、例の心地にたがひておぼゆるけしきも見ゆべければ、やむごとなき僧などよびおこせなどしつつ、こころみるに、さらにいかにもいかにもいらねば、かうしつつ死にこそあなれ、かくて果てなば、いと口惜しかるべし、あるほどにだにあらば、思ひあらむにしたがひても語らひつべきを、と思ひて、脇息におしかかりて、書きけることは、
◆◆その後も相変わらず気分がすぐれず、それが表に表れるらしく、あの人が立派な僧侶などを呼んでよこしてくれたり、祈祷なども試みてはもらうが、一向に効き目が現れないので、こうしているうちに死んでしまうだろう、そうして突然死に直面したら思っていることも言えないであろうと思って、脇息に寄りかかりながら、書いたことは、◆◆


<命ながらふべしとのみのたまへば、見果てたてまつりてむとのみ思ひつつありつるを、限りにもやなりぬらん、あやしく心ぼそき心地のすればなん。つねにきこゆるやうに、世に久しきことのいと思はずなれば、塵ばかり惜しきにはあらで、ただこのをさなき人の上なん、いみじくおぼえ侍るものはありける。たはぶれにも御けしきをば、いとわびしと思ひてはんべめるを、いとおほきなるこなくて侍らんには、御けしきなど見せ給ふな。いと罪ふかき身にはべるは、
≪風だにも思はぬかたに寄せざらばこの世のことはかの世にも見む≫……
◆◆(道綱母の遺言)「まだまだ寿命が長いだろうと、いつもおっしゃってくださいますので、私もあなたと末長く添い遂げ申そうと思い続けておりましたが、どうやら私の命も限りになったのでございましょうか、ひどく心細い気持ちがいたしますので、こうして認めているのです。いつも申し上げていますように、長生きなどまったく考えてもおりませんゆえ、ちりほども命がおしいわけではございません。ただ、この幼い子の身の上ばかりが、この上なく気がかりにおもわれるのでございます。あなたの冗談で機嫌の悪いふりをなさるのさえも、あの子は辛そうでございますから、格別大事でないならば、不機嫌なご様子はお見せくださいませんように。私はまことに罪深い身でございますので。
(歌)あなた兼家が他の女に心を移すことさえなければ、あの世でも道綱を見守ることがぢきましょうが、(どうか私を安心して死ねるようお志をいただきたく)」……◆◆

蜻蛉日記を読んできて (74)

2015年10月12日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (74) 2015.10.12

「つごもりより、何心地にかあらん、そこはかとなくいと苦しけれど、さはれとのみ思ふ。命惜しむと人に見えずもありにしがなとのみ念ずれど、見聞く人ただならで、芥子焼きのやうなるわざすれど、なほしるしなくてほどふるに、人は、かくきよまはるほどとて、例のやうにも通はず、あたらしき所つくるとて通ふたよりにぞ、立ちながらなどものして、『いかにぞ』などもある。」
◆◆月末ごろから、どんな病気なのかどことなくひどく苦しいけれど、どうにでもなれとばかり思っています。命を惜しんでいると人には見られたくないと、苦しいのをじっと我慢していますが、周りのひとたちは心配して、芥子などを焼く修法をするけれども、一向に良くなる気配もなく日が経っていくのに、あの人は私が潔斎中だからというのだろうか、いつものようには来てくれず、また新邸を造営のために行き来するついでに、立ったまま見舞って「どんな具合か」などと言ってくれる◆◆

「心地よわくおぼゆるに、惜しからでかなしくおぼゆる夕ぐれに、例の所より帰るとて、蓮の実一本を、人して入れたり。『暗くなりぬれば、まゐらぬなり。これ、かしこのなり。見給へ』となん言ふ。返りごとには、ただ、『生きて生けらぬ、ときこえよ』と言はせて、思ひ臥したれば、あはれ、げにいとをかしかなる所を、命もしらず、人の心もしらねば、『いつか見せん』とありしも、さもあらばれ、止みなんかしと思うふもあはれなり。」
◆◆気が弱くなってきたように感じられて、「惜しいからで…」という古歌を思い出して心細く思う夕暮れに、例の新邸からの帰りだといって、あの人が蓮の実を一本、使いに持たして寄こしました。「日が暮れたのでそちらへは行けぬ。これはあそこのだよ。ご覧」とあったので、返事にはただ、「生きてはいますが、死んだも同然です、と申し上げなさい」と侍女に言わせて、またくよくよと思いながら横になっている。あの新邸はすばらしい邸宅だというけれども、私の命のほども分らず、あの人の本当の心も知らないので、「すぐにでもあなたを住まわせよう」などと言っていたことなど、どうなろうとかまわないけれど、あの人との間もこれっきりになってしまうだろうと思うと、しみじみ悲しくなってしまう。◆◆


「<花にさき実になりかはる世をすててうきはの露と我ぞ消ぬべき>
など思ふまで、日をへておなじやうなれば、心ぼそし。よからずはとのみ思ふ身なれば、つゆばかり惜しとにはあらぬを、ただ、この一人ある人いかにせんとばかり思ひつづくるにぞ、涙せきあへぬ。」
◆◆(道綱母の歌)「花咲き実を結ぶ兼家の栄達に背を向けて、私は蓮の浮き葉の上の露のように、はかなくこの世から消えるのであろうか」
などと思うばかりで、一向日が経っても同じような状態なので、本当に心細い。あの人との仲が思うように行かない私の身ならば、命など少しも惜しくはないけれど、ただたった一人の息子道綱の今後のことばかりが案じられて、涙がこみ上げてくるのでした。◆◆

■芥子焼きのやうなるわざ=真言宗で病気平癒を祈り、護摩木・芥子を火中に入れて加持祈祷を行うこと。

■きよまはる=兼家、作者の潔斎にもとれるが、この場合作者の潔斎

■立ちながらなどものして=病気は穢れなので逢わないのだが、立ってならば良いとされている。

■惜しからで=「惜しからで悲しきものは身なりけり人の心のゆくへ知らねば」西本願寺本「貫之集」

■蜻蛉日記 (中)上村悦子著 から
 「病は気から」というが、作者の病気の原因は、東三条邸の造営にかかわりがあるのではあるまいか。落成後はたして自分が道綱といっしょに迎えいれられるだろうか。それがはっきりしないのが苦しい。以前には兼家が東三条邸でいっしょに生活する夢をよく作者に語ってくれたが、最近は全然その話に触れない。兼家にすれば、先ほどの、時姫・作者両方の下衆のいさかいで手をやいた苦い経験から今では思い直し、時姫やその子女のみを本邸へ迎えいれることを中心にほぼ決めたが、それが何となく作者の耳にも入ったのであろし、その答えを聞くのも恐かったのであろう。この精神的苦悩が内攻して病臥したのであろう。…。

蜻蛉日記を読んできて(73)

2015年10月08日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (73) 2015.10.8

「その前の五月雨の廿よ日のほど、物忌みもあり、長き精進も始めたる人、山寺にこもれり。雨いたく降りて、ながむるに、『いとあやしく心ぼそき所になん』などもあるべし。返りごとに、
<時しもあれかくさみだれの水まさり遠方人の日をもこそふれ>
とものしたるかへし、
<ましみづのましてほどふる物ならばおなじ濡れにて下りもたちなむ>
といふほどに、うるふ五月にもなりぬ。
◆◆その初めの五月、五月雨の二十日ほどのころ、物忌みもあり、長い精進をはじめたあの人は山寺に籠っていました。雨がひどく降って、わたしはぼんやりと眺めていたときに、「なんと、妙に心細い感じのするところで」などと手紙があったようだった。その返事に、
(道綱母の歌)「よりによって参籠中に五月雨で増水し、川向こうのあなたが帰京できないのではないかと心配です」
と言ってやりますと、返事に、
(兼家の歌)「川の増水で、これ以上足止めされるようなら、この雨に濡れて山を下りよう」
などと、文を交わしているうちに、閏五月になったのでした。◆◆ 


■その前の五月雨=この年、五月が二つあり、前の五月のこと。

蜻蛉日記を読んできて(安和の変)

2015年10月04日 | Weblog
■安和の変 2015.10.4


冷泉帝の即位
967年(康保4年)5月25日、村上天皇が崩御し、東宮(皇太子)・憲平親王(冷泉天皇)が即位する。関白太政大臣に藤原実頼、左大臣に源高明、右大臣には藤原師尹が就任した。
冷泉天皇にはまだ皇子がなく、また病弱でもあったため早急に東宮を定めることになった。候補は村上天皇と皇后安子の間の皇子で、冷泉天皇の同母弟にあたる為平親王と守平親王だった。年長の為平親王が東宮となることが当然のこととして期待されていたが、実際に東宮になったのは守平親王だった。その背景には左大臣源高明の権力伸張を恐れた藤原氏があった。高明は為平親王の妃の父なので、もし為平親王が東宮となり将来皇位に即くことになれば源高明は外戚となるのである。高明といえば、かつては村上天皇の信任篤く、また皇后安子の妹を妻として右大臣藤原師輔を岳父にもつ姻戚関係もあったが、この時点では両人とも既に亡く、高明は宮中で孤立しつつあった。


謀反の密告
969年(安和2年)3月25日、左馬助源満仲と前武蔵介藤原善時が中務少輔橘繁延と左兵衛大尉源連の謀反を密告した。密告の内容がどのようなもので、源高明がどう関わっていたのかは不明である。後代に成立した『源平盛衰記』には、高明が為平親王を東国に迎えて乱を起こし、帝に即けようとしていたと記されているが、史料としての価値は認められていない。右大臣師尹以下の公卿は直ちに参内して諸門を閉じて会議に入り、密告文を関白実頼に送るとともに、検非違使に命じて橘繁延と僧・蓮茂を捕らえて訊問させた。さらに検非違使源満季(満仲の弟)が前相模介藤原千晴(藤原秀郷の子)とその子久頼を一味として捕らえて禁獄した。


源高明の左遷
事件はこれに留まらず、左大臣源高明が謀反に加担していたと結論され、太宰員外権帥に左遷することが決定した。高明は長男・忠賢とともに出家して京に留まれるよう願うが許されず、26日、邸を検非違使に包囲されて捕らえられ、九州へ流された。
密告の功績により源満仲と藤原善時はそれぞれ位を進められた。また左大臣には師尹が替わり、右大臣には大納言藤原在衡が昇任した。一方、橘繁延は土佐国、蓮茂は佐渡国、藤原千晴は隠岐国にそれぞれ流され、さらに源連と平貞節の追討が諸国へ命じられた。
また京で源満仲と武士の勢力を競っていた藤原千晴もこの事件で流罪となり、藤原秀郷の系統は中央政治から姿を消した。


蜻蛉日記を読んできて(72)

2015年10月02日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (72) 2015.10.2

「廿五六日のほどに、西の宮の左大臣、流されたまふ。見たてまつらんとて、天の下ゆすりて、西の宮へ人走りまどふ。いといみじきことかなと聞くほどに、人にも見え給はで、逃げ出でたまひにけり。」
◆◆二十五、六日のころに西の宮の左大臣さまがお流されになりました。ご様子を拝見しようということで、京中が大騒ぎして、西の宮に人々が慌てふためいて走っていきます。これは大変なことが起ったと思って聞くうちに、左大臣さま(源高明)は、だれにもお姿をお見せにならず、逃げ出してしまわれました。◆◆


「『愛宕になん』『清水に』などゆすりて、つひに尋ね出でて、流したてまつると聞くに、あいなしと思ふまでいみじうかなしく、心もとなき身だにかく思ひ知りたる人は、袖をぬらさぬといふたぐひなし。あまたの御子どもも、あやしき国々の空になりつつ行へも知らず散りぢり別れたまふ。あるは御髪おろしなど、すべて、言へばおろかにいみじ。大臣も法師になりたまひにけれど、しひて帥になしたてまつりて追ひ下したてまつる。そのころほひ、ただこの事にてすぎぬ。」
◆◆「愛宕だろうか」「清水か」などと大騒ぎして、とうとう見つけ出して、流罪になさってしまわれたと聞きますに、どうにもならぬと思っても悲しくて、私のように格別深く存知上げない者でさえ、こんなに切なくご同情申し上げていますのに、事情をわきまえている人々はどんなにか、袖を涙で濡らさぬ人はいないでしょう。たくさんのお子様たちも、辺鄙な地方に流される身になって、行き方も分らず、散り散りに離れ離れになられたという。また出家なさるなど、何もかも言葉では言い表せぬお気の毒なことでした。左大臣さまもご出家されたにも関わらず、無理に太宰権帥(だざいごんのそち)に貶めて、九州へご追放申し上げました。その当時は、ただただこの事件で持ちきりで、日が過ぎていったのでした。◆◆


「身の上をのみする日記には入るまじきことなれども、悲しと思ひ入りしも誰ならねば、しるし置くなり。」
◆◆自分の身の上だけを書き記す日記には、このような世情のことは入れるべきではないとは思うものの、しみじみ悲しい事件だったと思ったのもほかならぬ私なので、ここに書き記しておきます。◆◆


■西の宮の左大臣(にしのみやのひがしのおとど)=源高明で、醍醐天皇の皇子。当時左大臣左大将で、五六歳。西の宮は四条の北、朱雀の西にあった高明の邸。

■あまたの御子ども=忠賢(出家した上で左遷)、致賢(出家後不詳)、惟賢、俊賢。事件後に経房生れる。

■帥(そち)になしたてまつり=菅原道真の場合と同じ左遷で、もともと役職の無い部署。
 
■ 作者は高明の北の方が兼家の妹二人(三の君はすでに没しその後、五の君愛宮)であったので、かねて親しくしていただけに、非常なショックを受け、心から高明一家の突然の受難に同情をおしまなかったのである。(上村悦子著の解説より)