Gomaler's~神社仏閣巡り~癒しを求めて

主に関西の神社仏閣巡りと御朱印集めが趣味です。

方広寺(2011年5月6日参拝)

2011-05-29 | 仏閣
方広寺は豊国神社の横にあるのでセットで参拝が基本ですね。

天台宗山門派の寺で豊臣秀吉により建立、大日如来、大黒天を祀る。


方広寺といえば何といっても国家安康の鐘。



重要文化財に指定されており、
大きさは高さ4.2m、外形2.8m、厚さ0.27m、重さは82.7トン。

東大寺の大鐘に匹敵する大きさでしょうか。
思っていたより大きな鐘です。

それもそのはず、
東大寺と知恩院のものと合わせ日本三大名鐘の一つとされる。




これが有名な「国家安康」と「君臣豊楽」の銘文。
わざわざ場所が分かり易いように印がついています。

鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘文(京都南禅寺の禅僧文英清韓の作)が
徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒瀆するものと
徳川家康がこの2文に難癖をつけ大阪夏の陣を起こし豊臣家を滅亡させた。

これだから徳川家康は関西では嫌われてるんですよね。




また鐘楼には天井画が描かれている。


【本堂】


拝観料200円を支払い中へ。
ここの良いところはちゃんと若い僧侶が説明してくれるところです。


【大黒天像】




本堂の右側の部屋に入ってみると大黒天や不動明王が祀られている。

御手前の大きな大黒天像の頭上にある小さな大黒天を秀吉は
常に持っていたとされる。


【眉間籠り仏】


左の部屋に入ると眉間籠り仏がある。

この仏様は焼失した大仏の眉間に埋め込まれていたものを救いだしたそうです。


【大仏】




江戸時代の天保年間、焼失した旧大仏を模した1/10の木造半身像が寄進されたが、
昭和48年(1973年)に失火による火災により焼失した。
大仏は台座の一部などが現存する。

台座は触ってもいいということで歴史を刻んだ貴重なモノに触らせていただきました。

方広寺の大仏は不幸といいますか、
1595年に秀吉が建立した大仏は東大寺の大仏を凌ぐ大きさで、
大仏殿の高さは50メートルにも至ったようである。

だが、翌年に襲った大地震で大仏は崩壊し崩壊した大仏を見て、
「京の町を守るのを忘れ、真っ先に倒れるとは慌て者が」と怒ったそうです。

秀吉の死後、1602年に豊臣家の財力を削ろうと徳川家康は秀頼に
再び大仏の再建に着手させるが火災で焼失。

その後、2回ずつ崩壊と再建したが、
昭和48年の失火以後再建されていない。


もし秀吉や秀頼が建立した大仏が今でも存在したいたら、と思うと
本当に残念でならない。


【遺物】








大仏殿の隣の部屋には大仏の遺物や秀吉公の掛け軸などがありました。

こちらでも詳しく説明していただき大変勉強になりました。


【大仏殿跡】


今や寂しく公園になっていました。


【正面通】
豊国神社や方広寺の前には「正面通」という名の通りがある。

当時、大仏殿を正面に見るこの通りを江戸時代の京の人々がそう呼んだのが始まり。

唯一残った秀吉の遺構の大仏殿を「正面」と呼ぶことで、
密かに秀吉を偲んでいた証です。


【童歌】
「京の大仏つぁんは 天火で焼けてな 三十三間堂が焼け残った 
 アラどんどんどん コラどんどんどん 後ろの正面どなた」

大仏が落雷により焼失した時に流行った童歌ですが、
「後ろの正面どなた」とは正面の後ろに葬られた秀吉のことだと思うが、
何故この歌詞なんでしょうね。


【御朱印】