無意識日記
宇多田光 word:i_
 



『桜流し』をどうやって中心に据えるかといえば、その楽団編成である。ピアノ、ストリングス、エレキギター、そしてベース&ドラムスだ。

かつての宇多田サウンドは、曲作りのプロセスもあって打ち込み主体だったが、『Single Collection Vol.2』以降は生楽器(エレキギター&ベースを生楽器と言うべきかは微妙だが、ここでは人間がリアルタイムで演奏している(録音の再生ではない)ことを指す)を中心にした編成に変化した。

この変化の理由だが、ヒカルが生楽器の魅力に気付いたとか楽器をよく演奏するようになったとかが第一義ではない気がしている。曲作りは今でも未だに打ち込み主体のままで、しかし、生楽器のサンプル音源のクォリティーが格段に上がったのが理由なのではないかと。つまり、打ち込みで作ってもピコピコチャカポコにならずピアノとストリングスとドラムキットが嘶くサウンドになってしまっているのではないかと。

例えば、『花束を君に』は特徴的なドラムプレイが耳を引くが、リズムキープの色の無さからするともしかしたら元々は打ち込みで、そこに生演奏を加えたのではないか、などと想像が捗る。実際のところはクレジットとインタビューが出るまでわからない。

寧ろ面白いのが『真夏の通り雨』の方で、どう聴いても打ち込みで済むリズム隊が、実は人力なのだそうだ。河野圭さんの呟きによれば。したがって、完成バージョンが生演奏だからといって、そこに至るまでのプロセスが総て生演奏である必要はない。そのバランスと分配は、プロデューサーであるヒカルのセンスに依拠しているだろう。

そして、その器楽演奏にヒカルの歌声が加わる。唯一無二。

『桜流し』は、器楽演奏と歌唱が、ともにふんだんに盛り込まれた楽曲だった。Instrumentalを聴けば、歌がなしでも楽曲として成立するほど分厚い演奏である。一方歌唱の方も、アカペラでも大丈夫というか、伴奏はチェロかピアノが一本あればいい、という程に単独ど成立している。それらをそこから合体させた『桜流し』。満足感は相当なものだ。そういう意味において、もし『桜流し』が次のアルバムに収録されるならば、『ULTRTA BLUE』における『COLORS』のように、アルバムにおける中心的役割を担う事が予想される訳である。


では、そこから(やっと)『花束を君に』と『真夏の通り雨』がどういう位置付けになるか、少し見ていく事に致しましょうぞ。

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今から振り返ると、『桜流し』は『ULTRA BLUE』でいえば『COLORS』と同じ立ち位置の曲なのだなと、そう思った。

『COLORS』に関してヒカルは、これで日本とは暫しの間お別れになるから(実際には『ヒカルの5』と『誰かの願いが叶うころ』が生まれたが)と、「これ一曲でアルバムのような満足感を」という意図と気概で作曲した旨語っていた。果たして、確かにこの曲は非常にバランスのよい、これ一曲で満足できるような楽曲になっていた。

これ一曲で満足、というのは例えば献立でいえば丼モノみたいなヤツだ。トンカツだけ出されても人は物足りないと思う。キャベツの千切りに味噌汁、白飯にお新香がついて漸くひとつの献立、「トンカツ定食」が出来上がる。普通、アルバムというのはそうやって作るものだ。速い曲遅い曲、静かな曲激しい曲、楽しい曲悲しい曲、色々と取り揃えて味わって、アルバム全体でひとつの献立として満足させられるように仕上げる。

『COLORS』はカツ丼だった。一品で満足できる一品だ。具体的には、スロウで棚引くような主旋律と、切迫感溢れるリズム隊の組み合わせ。抑えた低音から伸びのある高音まで聴かせるダイナミックな歌メロ。その歌のエモーショナルなアプローチと、水墨画のような主旋律を同時に鳴らして成立させるというヒカルにしか出来ない神業っぷり(この手法はThis Is Love、テイク5等を経て、Goodbye Happinessで頂点を迎える)。様々な対比が大きな振り幅と共に一曲の中に封じ込まれていた。

そんな『COLORS』だから、余程ヒカルの中で重要な曲だったのだろう、『Single Collection Vol.1 -思春期-』に一旦収録されたにも関わらず、リリースから3年半後のアルバム『ULTRA BLUE』にも収録され、その上、アルバムの中心部分に置かれた。昔解説した通り、同作はA面が『夜から朝へ』、B面が『朝から夜へ』の楽曲で構成されているアルバムである。それを反転させるのが、昼に夜をもたらす『Eclipse』と、もう一曲が『COLORS』なのだ。同曲は同作に欠かせない存在なのである。踏み込んで言えば、『ULTRA BLUE』という多彩な楽曲を収録したカラフルなアルバムのカラーをそのまま(歌詞においても、タイトルにおいても)体現した楽曲なのだ。


私は今、『桜流し』にその『COLORS』と同じ匂いを感じている。3年半前の曲。そして、これ一曲でアルバム一作分に匹敵する満足感を与えられるダイナミズム。更には、これが今回の本題なのだが、『花束を君に』と『真夏の通り雨』の2曲の位置付けが、『桜流し』を『ULTRA BLUE』における『COLORS』のように中心に据える事によってよくよく見えてくるような気がしてきたのだ。次回はそこら辺の話をしますね。

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ふと気がついてみると、もうヒカルのニュースがない。テレビのオンエアが始まって、配信販売が開始になって、『真夏の通り雨』のミュージックビデオが公開されて。あとは『花束を君に』のミュージックビデオがフルサイズでいつ現れるかだけ、か。EVAの時みたいに「それっきり」になりゃしないだろうな。

となると、これから暫くは「とと姉ちゃん」ブログになるかもしれませんな。毎日放送だから話題には事欠かないし。なんかスタッフツイートの写真をみると、『花束を君に』と「とと姉ちゃん」を一体になって盛り上げていこうという雰囲気。だからってつまらないものを無理に盛り上げようとは思いませんが、今のところ継続視聴がダルくなるようなクォリティーではないので安心して観ていられてます。

とはいえ熊本を中心とした九州あたりでの地震の影響で、週末からこっちのとと姉ちゃんを見逃した方々が多数居ると思われる。連続ドラマなだけあって、一話二話見逃すと急に心が離れてしまって次第に観なくなっていく、というのはよくある事。自分の知らないうちに話を進めやがって、というヤツね。なので今週から更に脱落者が出て視聴率が下がるという事態も十分に考えられる。なんともアンラッキー。

しかし、そこは朝ドラ。案外少しくらい観なくても大丈夫だよ。どうしてもというのなら日曜日の朝11時から総合テレビで一週間分のダイジェストが放送されるからそれで済ましてしまってもいいし、土曜日曜の夕方に更に短い5分で一週間をまとめたソードマスターヤマトみたいなダイジェストもある。私も一度「あさが来た」を一週間分視聴を溜めた事があったのでその5分で済ました。話の繋がり上何の問題もなかったですよ。そこからまた観ていけばいい。ただ、5分枠の場合主題歌は一瞬とかしか流れないので私達にとっては本末転倒かもわかりません。20分の方は45秒かな、流れるのでご安心を。

もうフルで買って聴いてるんだからわざわざ短いのをテレビで観なくても、という人も居るだろうけれど取り敢えず今はバックに流れる切り絵アニメーションの細かな設定に目を通しておくといい。これから発表になる今のところ最後(?)のイベント「『花束を君に』のミュージックビデオフル解禁」に向けて、予習と準備を進めておくという意味で。

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2曲を聴いて、ヒカルはまだ母の死から立ち直っていないんだな、と解釈するのは自然だ。止まない雨に癒えない渇きとまで歌われているのだから。しかし、それが今も尚真実だとするのは早計かもしれない。

というのも、ヒカルはこの歌を書いて歌っているからだ。

「立ち直る」とは、そもそも何なのか。個人の心情に踏み込むのは難しい。ごくドライに、社会的な意味でいえば、立ち直っていない状態とは、勉強も部活も家事も仕事も手につかず、日々の営みに支障が出るような状態を言うのではないか。そういった日々の諸々を通常通りにこなせているのならば、顔色が優れなかろうと、本人が「まだまだ全然忘れられないんだよ。」と力説しようが、社会的には、立ち直っている状態だ。

ヒカルの職は音楽家である。今回ヒカルは、新曲を作り録音し発売した。タイアップでの起用も間に合わせた。社会的には、きっちり仕事が出来ている状態だ。その意味では、とても健全である。

音楽家に言わせれば、楽曲制作の過程はセラピーの効果があるという。自分の感謝と向かい合い、取り組み、子細に眺め、再構築し、そして吐露する。表現活動の本質であり、動機である。ヒカルも、この2曲を書き始める前までは、全く立ち直れていなかったのかもしれない。或いは、書き始めたのが2013年である論理的可能性もある。そうであっても、そこから歌詞を起こし、コードを決め、メロディーを練り、音韻を確認しながらスタジオの予約をとり、ミュージシャンたちに連絡を入れ、楽譜を書くかファイルを作るかし、人々とコミュニケーションをとりながら、少しずつ楽曲を完成させていった。魔法はない。一音々々、生んでいくしかない。その過程で、イヤでも自分自身の感情と向き合わねばならなかった。そして楽曲を完成させた。

制作や創作がセラピーであると言うのなら、ヒカルは、楽曲の完成をもって完治を迎えたのかもしれない。『ずっと止まない止まない』『ずっと癒えない癒えない』というエンドレスループをフェイドアウトさせる事で、自らの感情のエンドレスループもフェイドアウトできたのかもしれない。今はもう、ヒカルの感情はそこに無いのかもしれない。

あるのかも、しれない。どちらかは、わからない。

だから、今のヒカルを心配する必要は無い。社会的には、立ち直っているのだから。楽曲を通して、我々はヒカルの感情の歴史を追体験する。既にそれは、過去の事だ。

そこらへんがどうなのかは、やがて現れるフル・アルバムの全貌がどうなっているかで、判断されるべきだろう。止まない止まない癒えない癒えないままで更に曲が作られたのか、そこから一歩踏み出しているのか、或いは逆に、この2曲に辿り着くまでな過程が描かれているのか。それら次第だ。


いずれにせよ、このスケール感の前では、いちファンとして売上とか視聴率で一喜一憂しづらい。その大きさの話で感情を動かしていては、まだ出てくるヒカルの歌々の齎す感情で心が引きちぎられてしまうだろう。できるだけ心を平静に保って、聴き手として正気で居られるように、まずはこの『花束を君に』と『真夏の通り雨』の生み出す感情に"慣れる"事が必要だ。でないと、もう総てが手と胸から溢れて溢れてしまうかもしれないのだから。

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『真夏の通り雨』の歌詞は異常だ。それだけでキャッチコピーになるような、「頭を捻り尽くした挙げ句のフレーズ」が幾つも刻まれている。もうこれだけで文学として成立しているような、ちょっと考えられないレベルの作品だ。作詞でノーベル文学賞をとるとすればまずボブ・ディランだと言われてきたが、これならヒカルにも可能性がある。『真夏の通り雨』はまだそこまでは行っていないと思うが、「この詞を書いた人が将来ノーベル賞をとるか」と訊かれたらイエスと答えたい。

ただ、密度が濃い、というには空間が雄大だ。普通、ここまで個人的な感情を吐露すれば独り善がりの自己満足に陥るものだし、弾き語りなんてそれでいいと思うが、この歌もまた『花束を君に』同様、包み込まれて飲み込まれる感覚がある。外を歩いている時にこの歌が始まると急に世界の見え方が変わる。まるでピンク・フロイドを聴いているかのようだ。だから、雑踏の騒音ですらこの歌の前では効果音に過ぎない。少しくらい邪魔してくれた方がいいくらいに、飲み込まれる。帰ってこれない。すぐさま『花束を君に』を聴いて、修正する。まぁ、また違う空間に飲み込まれるだけだけど。

サウンド・メイキングの変化も大きいが、この包容感の増強はヒカルが望んだ方向性なのだろう。そういうサウンドになるよう指示を出したとみていい、かな。


『真夏の通り雨』はフェイド・アウトで終わる。私はあまりフェイド・アウトが好きではない。それなら何故フェイド・インしてこないのかと思ってしまう。終われないのに始まれるって逃げてるだけじゃないのと。

しかし、『真夏の通り雨』のフェイド・アウトは不可欠だ。『ずっと止まない止まない雨に ずっと癒えない癒えない渇き』。このフレーズが淡々といつまでも繰り返される事で『ずっと』を表現しなければならないからだ。

『降り止まぬ真夏の通り雨』は、アニメファンなら涼宮ハルヒのエンドレスエイトとか魔法少女まどか☆マギカとかシュタインズ・ゲートなどのタイムリープものを思い出せばわかるかもしれない。SFの仕掛けとして多用されるタイムリープによる無限ループは、いつまでもある過去にこだわり続ける人間の心の弱さを戯曲化して表現したものだ。故に普遍的なのだが、ヒカルの齎す実感のリアルさは図抜けている。本当にこのエンディングは、救いが無い。もうその前段からして徹底している。

『夢の途中で目を覚まし 瞼閉じても戻れない さっきまであなたがいた未来 たずねて明日へ』

歌の冒頭と同じ歌い出しに戻ってくる。前向きな歌なら、それまで1番2番3番と続いてきた歌詞における苦悩なり葛藤なりを糧として『だけど』と続けて明日をめざすものだが、この歌では夢に見たあなたのいる明日をたずねると言う。全く吹っ切れない。徹底している。この、冒頭と最後の前段が同じ歌詞である事で、「前に進まずまた戻る」感覚を作ってからの『ずっと止まない~』のループ&フェイドアウトだから、いや本当に救いが無い。そして、なぜかそれが胸を打って仕方がない。悲しみというのとは違うような。ただ絶望に打ち拉がれているのではない、何かこう、新しい感覚をこの歌は生んでいる。それが何かは、まだ私もわからない。アルバムの中で聴いて漸く何かが見えてくる気がしている。それまでは、『花束を君に』に助けられながら、この異様な名曲に親しんでおく事にします。

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『花束を君に』も勿論格別に素晴らしかったが(なんだか、「太陽って東からのぼるよね」と言ってる気分だ)、フルサイズで聴いた『真夏の通り雨』の存在感がありすぎて、もう何が何やら。今週何度落ち着こう、冷静に、と書いてきたかわからん。落ち着け俺。

ここまで歌詞に全振りした曲も今までなかったのではないか。勿論細かなアレンジのセンスは突出しているが、基本的にはピアノ一本マイク一本で成立するくらいにシンプルにメッセージを綴る曲で、サウンド面はおろかメロディー自体もそこまで押し出しは強くない。

となると、日本語を解さない世界中のファンが『真夏の通り雨』を聴いてどう思ったのか、大変興味がある。冴えないメロディーに東洋の念仏が載っている、みたいな印象なのだろうか。アジア各国でも配信で1位や2位やをとっているらしいが、どうやら各国のJ-popチャートでの話で総合チャートではないようだ。総合でも1位かもわからんが。

世界契約を結んでおきながら復帰第1弾が過去最も国内向けの楽曲なのは納得いかない、という感想が出てきても不思議ではない。それを見越してメロディアス&シンフォニック(いやどちらかというと室内楽か?)な『花束を君に』を同時配信したのなら、ぐっちょぶと言わざるを得ないが。


それにしても、「熊本で震度6弱の地震」てフレーズは音声学的にはヒカルの大好物コンボの筈なんだが、現実はかけ離れている。言葉を音で表現する宿命か。

被災地の方々には、心よりお見舞い申し上げる。ヒカルの新曲を待ち望んでいたところを揺れに襲われてまだ新曲を聴けていない方がいらっしゃるかもわからない。なんとも、悔しい事態。

これをもし読めていたのなら、パソコンかスマートフォンかがあるのだろうから(書いてるのはガラケーストレートだけどなっ)、もう配信は手に入れられているかな。或いは、ミュージックビデオをご覧になったかもしれない。どうか少しでも、この歌が何かの力になりますように。でも、ずっと止まない揺れって信じられないくらい怖いだろうな。どうか、どうか。

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歌詞が格別に強烈だ。真夏の通り雨。

花束を君にのフルサイズは、テレビバージョンを通して全体像への期待は線型で、果たして実際期待通りの感動的な楽曲に仕上がっていた。月曜日に放送されるやや長いバージョンのお陰でもあるが。今まで、テレビサイズだけを聴いて綴ってきた感想は、そんなに的外れでもなかったろう。

しかし、真夏の通り雨に関しては、既述の通り、「これはフルサイズで聴かないとわからない」と感じていた為、どうにも私の書き方は歯切れが悪かった。タイトルと、聞こえている場面だけで判断したものかと。

繰り返しになるが、『真夏の通り雨』というタイトルを見た時、ヒカルがメッセで触れていた「雨のいいところは、いつか必ずやむってことさ。そのうちね。」というイーヨウの言葉を私は思い出していた。通り雨というからには、やむのを待っていて、やんだあとの事が歌われているのかと。

そうではなかった。

『降り止まぬ 真夏の通り雨』

そういうことか。劇的。

私は、この歌に関しては、何かたった一言で劇的な価値転換があるかもしれない、「真夏の通り雨」に、何か違った意味が付加されるかもしれない、と怯えていた。躊躇していた。なるほど、前に一言付け加えるのか。たった一言、このたった五文字で景色が激変する。降り止まぬ。通り雨"なのに"止まない、とは。嗚呼、言葉を失う。

それがあってからのエンディング、『ずっと止まない止まない雨に ずっと癒えない癒えない渇き』なのだから心動かされるなという方が無理だ。嗚呼、嗚呼。



語りたい事が山ほどありすぎて整理がつかないや。

もう、なんだろうね、この圧倒的なスケール感。この星ごと包み込むような包容力。せっかく5年間人間活動に勤しんできたのにますます人間離れして化け物じみてくるという本末転倒な凄まじい歌に対する才能。天才を超えた天才。「16歳なのに凄い」と17年前は言っていたが、今や「ただの人間なのに凄い」と言いたい。神か悪魔か。いや、神と悪魔ってヒカルが生んだんじゃないの。何を言ってるんだ俺。


歌唱力が更に上がっている事実に愕然・呆然とする。今『嵐の女神』を聴いてみたら、歌い方が雑に感じた。それくらいに歌の精度が上がり、トーンのコントロールが巧みになっているのだ。過去最高のパフォーマンスを見せた『桜流し』が“普通”に聞こえる。有り得ない。

宇多田ヒカルの歌唱といえば、かの“ちりめんビブラート”が必殺技だった。あの細かく小刻みに震える歌声が哀愁と切なさを桁外れに増幅させ、ヒカルにしか歌えない歌を成していた。

それが今やどうだ。自分でも自分の感覚が信じられないのだが、全く衰えていないにもかかわらず、ちりめんビブラートを繰り出すと”安全策“、“安易な逃げの一手”とすら思えてしまう。それだけ周りの声のトーン・コントロールの精度が上がった。大胆に踏み込んで言えば、ちりめんビブラートを一切使わなくなった時点でヒカルの歌唱は前人未到の領域に到達できるのかもしれない。いや、使うべき場面では使っていいんだが、他のアプローチも恐ろしく豊かになった今、数ある手法のうちのひとつでしかなくなっていくのではないかと。


話がとっちらかった。来週はもっと冷静に書こう。

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アルバムが怖い。

だってこれが10曲とか12曲続くんだぜ? おいら死ぬ自信あるわ。新しい死因の開拓。圧死、溺死、窒息死、焼死とかに加えてアルバム死。聴き終わった時に果たして生きていられるのやら。

宇多田ヒカルの新曲2曲がフル解禁された。両曲とも「死」と真摯に向き合った傑作だ。死を茶化すなんてもってのほかである。

さて、何から話したものか。『溢れて 溢れて』。それだけで、いいような。


iTunes Store総合チャートでは『花束を君に』が1位で、『真夏の通り雨』が2位。ならば、皆『花束を君に』を先に聴いて、次に『真夏の通り雨』を聴いてるのか。逆順をオススメしておく。『真夏の通り雨』から『花束を君に』の流れは、絶品だ。

ちょうど8年前の今日。ヒカルはチューリップを『私のママが一番好きな花』と言っていた。チューリップの花束もまたポピュラーだろうか。飾るには、いい季節だ。


語るべき話は沢山あるが、どれから話せばいいのかわからない。相変わらず、冷静になろう、冷静になろうと自分に言い聞かせている。

スケールが大きい。月並みな表現を借りれば、そう言うしかないだろうか。そして異質。この曲がこれからヒットチャートの中で紹介されるかと思うとゾクゾクする。本物の歌。何を真似たものでもない、心からの歌。それを…


考える。この歌々を、作って歌ったという事実を。皆さんが普段やっているのと同じように、歌を届けるにも実務があるのだ。スタジオの予約の電話やメールを入れるとか、ミュージシャンのブッキングをするとか、ケイタリングの要不要とか。連絡や相談、買い出しに着替え、音色の選定、楽譜起こし。ひとつひとつは地味で、慣れた作業だろう。それを繰り返して、これらが出来た筈なのだ。それが信じられないというか、何だろう、できるんだ、と。

どんな顔してレコーディングすればいいんだろう。この歌詞を送信した時、何をどう歌いたいって誰に伝えたんだろう。そして普段、どこの何に対して歌っているんだろう。

宇多田ヒカルもトイレに行くし、朝寝坊もするし授乳もする。バラエティー番組をみて大笑いしたり、友達と飲み歩いたり、乳飲み子の泣き声で起こされて不機嫌になったり夫婦喧嘩したり…その中で、この2曲が出来上がる、その事実。まだ受け止めきれないが、焦らずじっくり行きますよ。2曲とも、毎日テレビから流れてきてるんだからね。

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新曲が、出るぞー。2曲、出るぞー。

船出っぽく。

まぁ、売れないわな。そういう曲じゃあ、ないだろう。とと姉ちゃんとNEWS ZEROを観た人が、少しずつ買っていってくれてロングセラー、というのが実際か。しかし、塵も積もれば山となる。累算だと結構な数字に、なるのではないかな。半年かけてゴールドとかプラチナとか、悪くない。

ドラマの方も、今週に入って評価が失速しているようで、視聴率も少しずつ落ちていく兆しがある。2週もすれば「とと姉ちゃん視聴率低迷 一体どうしたもんじゃろのう」という見出しが週刊誌だか何だかに掲載され、いつしか話題にされなくなり…なんていう事も、想像してしまう。嗚呼、梶さんが読んだら悲しむような事を書いてしまった。

でも、あんまり売れない曲とそれなりの視聴率のドラマの組み合わせなら、いいのではないか。視聴率は凄いのに主題歌の売上はサッパリ、とか逆に視聴率はふるわないけど主題歌は絶好調、とか何となく居心地が悪い。一蓮托生が美しい。

でも、私は毎日楽しくドラマを観ている。「あさが来た」が好きだった人には、確かに厳しいだろうが、なんだろう、様々な芽吹きというか、萌芽が感じられる。ひとつは、カメラワーク、ひとつは、素に近い演技。私を擽るものがなんとなくそこかしこに散らばっている。多分、半年間楽しく観れるだろう。歌が呼んでいる。


それはそうと、『真夏の通り雨』と『花束を君に』は、時にテーマや歌詞やメロディーが逆なんじゃないかと思う事がある。芽吹いたり巡ったりはなんとなく花束っぽいし、通り雨が流すのは桜の花びらのような、という風に、何故か無駄に混じり合っているのだ、私の中で。だから、フルコーラスで聴いた時に、この2曲がどういう関係性なのかを、知りたい。全く無関係なら、あんな対になるようなジャケットにはしない。ビートルズの赤盤青盤みたいだもんね。Use Your Illusion 1&2とか…ガンズ復活しましたねそういえば。

配信形態な。1曲ずつ別々のシングルかな。カラオケは、つくのだろうか。だとしたら2トラックずつ。両A面シングルの体裁をとるなら、4曲入りになるか。で、ミニアルバム扱い一括で買えば900円とか。ありがち。

超サプライズなら、いきなりアルバムの中の2曲として先行配信する、という方法論もある。購入したら1800円くらいにアルバムの値段が値引きされるヤツ。先行予約者限定ダウンロードのデジタル・ブックレットとかあったらいいな。流石に気が早いが、ちゃんとアルバム一枚買える位の金額はチャージしておこうっと。

あとは、ミュージック・ビデオな。配信で買えれば400円とかだっけ。Youtubeでの公開方法は。一部かフルか。

そういえば、まだオフィシャルで「サンプル音源」て公開されてないよね。テレビで流れてるのしか存在しない。0時から始まる邦楽番組何かあったっけ。あたしゃNHKでオダイジュンコの後になるな。まぁそれはいいか。

楽しみが一杯だが、それまでに寝てしまわないかだけが心配。まぁ寝ちゃったらその分早く起きるんで朝にゆっくり聴くだけですか。


…新曲が、出るんだね。ヒカルの新曲が。はぁぁ。そう考えると、何か凄いな。モーツァルトやビートルズがリアルタイムでなくても悔しくない最大の理由を、また今夜再確認できるのだ。うはははは、目一杯、楽しむぞ私ゃ。

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『だとさ』にこもった感情について1エントリー書いてやろうかと思ったが明日には、ことによると今夜にはもう新曲たちの全貌が明らかになる。あんまり悠長な事も言っていられない。

んだが、書くか。ちょびっとだけ。『早くフルで聞いてほしい』というからには、今よりもっと感動させる自信があるか、或いは“誤解”が蔓延しているからそろそろそこらへんを押し止めたいという感情があるか。『ラジオとか全部』ってのがどこまでを睨んだものなのか。配信にラジオ、有線、ミュージックチャンネル、YouTube、GyaO、えぇっと、後はなんだろう、歌詞も解禁だから各サイトにフルサイズで掲載されるのかな。

幸いな事に、『花束を君に』も『真夏の通り雨』も、テレビバージョンには歌詞がついており、あの部分に関しては間違った歌詞は流布していないのだろう。歌詞に誤読はつきもので、それはフル解禁になっても変わらない。

『だとさ』の他人事感。まるで自分が決めた訳じゃないですよという感じすらある。ファンの1人として待ち切れない思いを膨れっ面で表現したともいえる。ツンデレですね。

或いは何らかの含み、サプライズの暗示ともとれるが、毎度期待を盛りすぎて右肩を覗かせる(本来の“肩透かし”はそういう意味―左肩でもいいけどな)事もしばしばなので、そっちを深読みしておくのはやめておこう。

今のところHikaru本人もスタッフも照實さんも英語でのツイートは、ないな。ジャケット違いが発表されないと世界同時配信はないよね、と思っていたが案外日本以外の国の人たちからしたら写植漢字もデザインのひとつとして受け入れられるのかもしれない。「クールだ!」とか言ってそう(20年位前の外国人観)。それならそれで。『だとさ』にはそういう悪戯っ気が含まれて…いやだから深読みし過ぎんなってば。

2010年にEMIと契約したワールドワイドディールがどうなっているか、今となってはよくわからない。しかし、海外在住の日本人ファンも含め、地球中のニーズに、応えられるなら応えるべきだろう。NHKの事だからNHKオンデマンドの配信は国内限定、とかやってそうだし。いや海外チャンネルでも放送しているので別にいいんですが。

リラックスしてきた。これで多分配信開始を落ち着いて迎えられる。あ~楽しみだ。

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日記執筆の技術的な話。

元々、この日記の曲名とアルバム名の表記方法は愛読誌(だった)BURRN!誌に倣ったものだった。曲名はダブル・クォーテーション("")で括って小文字表記、アルバム名は鈎括弧(「」)で括って大文字表記、という風に。従って、《IRON MAIDENの1stアルバムからそのラストの曲をどうぞ》は《IRON MAIDENの「IRON MAIDEN」から"Iron Maiden"を》という風に書く。この表記法のメリットは、アルバムとか曲とか断らなくても、《「」》なのか《""》なのかをみれば直ちにどちらの話をしているかがわかる点にあった。

しかし、ヒカルの話を書くにあたってはこの表記法は混乱の元になる。おわかりだろう、セカンドアルバムとそのタイトルトラックの話をしようとすると、表記が逆になってしまうのだ。アルバム名は「Distance」と小文字表記、曲名は"DISTANCE"と大文字表記で、先程の書き分け基準と真逆になってしまう。困っていた。

で、その表記の混乱を解決しましたよという報告を本来ならするべきタイミングの流れだが、全くそうではなく。最近の自分の気分でどう書いているか、一言だけ付け加えておきたくて。みうらじゅん流に言えば表記法のマイブームについての話。

最近の私は、曲名やアルバム名に限らず、歌詞や発言総てにおいて、実際にヒカルから発せられた言葉は総て二重鈎括弧(『』)で表記するようにしている。理由は単純で、何がヒカルのアイデアで何が私や他の人のアイデアなのかを区別する為だ。この日記の性質上、どうしても「ヒカルはこう思っているのではないか」という推察の話が多くなる。そんな話を続けていると時々、「そうだ、そうに違いない」と確信を持って推察してしまう事がある。これが非常に危ない。どれだけ確からしかろうが、推察は推察、想像は想像、妄想は妄想なのだ。事実とは程遠い。それをどこまでも自覚する為に、ヒカルが実際に発した言葉をその他の有象無象から区別したい、というのがマイトレンド、今の私の欲求である。

お陰で、割を食って、時々アルバム名か曲名かよくわからない書き方になる事が出てきた。ただ『First Love』や『HEART STATION』と書いただけでは、どちらの話をしているかわからない。『Distance』と『DISTANCE』なら、すぐに区別が出来るんだけどねぇ。お陰でやや不便を被っているが、申し訳ない、私は自分が大切にしたいものを大切にする。

僅かだがメリットもあった。例えば『桜流し』の話、と書けばヒカルの曲の話で、「桜流し」の話、と書けばそれは桜を散らせる雨や水或いはその景色の話である。『死』と書けば歌詞に出てくる単語の話で、「死」と書けば一般的な死という単語の話に、なるだろう。いやホント僅かなメリットだな…。

まぁいいさ、これは、マイブームと言う位だから一時的な気分の問題である。明日になったら気が変わっているかもしれないし、向こう10年ずっとこうしているかもしれない。確信や覚悟をもってやっている訳でもないのだ。手探りの中で、どうにかよい文を書きたいと思っているだけである。試行錯誤の1つと、思っておいてうただきたい。


…もう新曲2曲の配信開始まで30時間を切っているというのに、またつまらない話でエントリーをひとつ消費してしまったなぁ…。

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BABY METALのセカンドアルバムが全英チャート15位に続き全米チャートでも39位と非常な好順位につけてきた。グループの性質上ここからチャートを駆け上がる事は無いが、掛け値無しの快挙だ。おめでとう。

ここから半年続くワールドツアーもイギリスのウェンブリーアリーナ(詳しくは知らないが1万人以上入る会場だと)を皮きりにラストは日本で東京ドーム。勿論両方でヘッドライン公演を行う日本人は過去に例が無い。

全米39位は衝撃的だ。上には14位の坂本九しか居ない。Dir en greyもUtadaもLOUDNESSも抜き去ってしまった。ここまでのツアーの動員数や海外記事の数からしても全く意外でも何でもないが、実際に数字として出るとやはり驚く。

彼女たちの成功は、世界各地のメタル・コミュニティーに受け入れられた事が大きい。日本とそこは変わらなくて、主要なメタルフェスでどれだけ注目されるか。そこを突破出来たのは、国や地域や時代や年代にとらわれず幅広くモダンなメタルを研究し尽くしてきた制作陣の力によるところが大きい。曲を作らないお嬢ちゃん3人がメンバーだが、KISSが白塗りメイクで客を引き寄せたように、女の子3人が客を引き寄せる。しかし、客寄せパンダにしてはパフォーマンスに気合いが入っている。YouTubeに幾らでも映像があるから見て貰えればわかる。日本のあの世代のアイドル女子においてはトップクラスの歌唱力だ。

狙いを定めたのがメタル・コミュニティーだった事も大きい。Dir en greyも日本語の歌を歌うのを躊躇しないが、世界のメタル・ファンは何語で歌われようと気にとめない。これがブラック・ミュージックのコミュニティーだったらブレイクは不可能だっただろう。イスラエルにチュニジアにアルメニアにとデビューするメタルバンドの国籍は様々だ。メタリカが開拓したメタルのコミュニティーは文字通り世界中に広がっている。ユニットの性質上長続きはしないかもしれないが、前例をひとつ作った功績はとてつもなく大きい。花束を贈りたい気分とはこういうのを言うのか。


Utadaのセカンドアルバムも69位だったが、iTunesStoreチャートでは18位だった。あのまま活動を続けていれば、と思わなくもないが、それは世界が気付くまで待てばいい。どうせならずっと放っておいてくれてもいいですよと少し言いたい気分が無いでもない。アデルがあれだけ売れているんだからともチラッと思ったがあれはハリウッドみたいなものなので、結局は異質である。Hikaruとは違うのだ。今のところ、それこそジェフ・バックリーみたいに「同業者の評価は高いんだけれど」でとどまりそうだ。そうなる必要が出ればそうなるだろう。どちらになってもさほど気にしない。コンサートのチケットがとりにくくなるなら寧ろ迷惑ですらある。ドーム公演なんて音が悪いだけ。…嗚呼、今言っても負け惜しみに聞こえるだけだわな。兎に角のんびりいきましょうかな。

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朝ドラは悲喜交々喜怒哀楽毀誉褒貶甚だしいのが特徴だ。願わくば、主題歌も出来るだけオールマイティーであって欲しい。主要人物が亡くなって悲しい場面に素っ頓狂な音楽が流れてきては興醒めである。その点において『花束を君に』は完璧以上だ。

ドラマの質、及び期間の長さによるのだ。例えば「ラスト・フレンズ」であれば、1クール12回、更に、全体のムードがダーク&デンジャラスに統一されていたから、切実極まりない『Prisoner Of Love』が常にハマっていた。裏を返せば、PoLのような曲は大河ドラマや朝ドラのような長丁場には合わないかもしれない。出来るだけ短い時間に感情を凝縮したような内容が、合っていた。

翻って。ヒカルが、では、そのような、どんな場面に対しても適用できるような、ナチュラルでニュートラルでフラットな曲をとなった場合、今までなら『日曜の朝』とか『HEART STATION』のような、淡々とした、どちらかといえば地味な、抑揚の少ない楽曲を作っていた。『お祝いだ お葬式だ ゆっくり過ごす日曜の朝だ』だなんて、まさに全方位型である。いうなれば、今までは一歩引いて距離を置く事で『喜び5gも悲しみ5gも同じ5g』を体現していた。一言で言えば醒めていた。


しかし、『花束を君に』はどうだろう。この上無くエモーショナルではないか。ダイナミックとまではいかなくとも抑揚の大きなメロディーと、際立った声のトーンの使い分け。普通、ここまで感情を込めると悲しみか喜びか、何らかの特定の色の方向に楽曲が振り切る筈なのだ。ところが、『花束を君に』は全方位に広がってまるごと包み込むような強さを見せる。その辺りが「今までの宇多田ヒカルにない」「母性を感じさせる」「優しく暖かい」といった感想を生んでいるように思う。

これを可能にしたのは、3年前より更に表現力を増した歌唱力だ。切実さを湛えなくとも十分にエモーションを乗せられる絶妙のトーン・コントロール。最初聴いた時、そのレベルの高さに思わずジェフ・バックリーを思い出した。先月彼の新譜(だいたいカバー曲だけども)がリリースされた影響もあるのだろうが。それ位に歌唱力が上がっている。

そして、ここら辺はシンガー・ソングライターにとって鶏と卵なのだが、ここにきて、そういった、かつては基本的に歌詞の工夫で表現してきた、相反する2つの見方を1つの歌で同時に表現する「横顔を2つ持つ歌」を、作編曲を通じて表現できるようになってきた、つまり、『日曜の朝』のように、お祝いやお葬式から等しい距離を置く事でニュートラルな位置を確保していたのを、自らの領域を広げて、両方を一度に飲み込んでしまうような、そういう曲が書けるようになってきた、そのせいで、ここまでのレベルの歌唱力が必要になったから身につけたのか、或いは、こういう歌唱力がついたからこのテの表現方法を思いついたのか、どちらなのかはわからない。しかし、そこがシンガーソングライターの強みであって、どちらが先であろうとも最終的には両方必要なのだから実現させてさえしまえばそれでよし、結果オーライである。守りと受けのニュートラルから、積極的なニュートラルへ。2016年は自ら相手に踏み込んで、そこから多くを受け容れていくという“孤高の横綱相
撲”の域に達したといえる。もう一度言うが、日本語の歌い手には最早比較対象が存在しない。椎名林檎ですら、もう目がハート状態で“手がつけられない”のではないか。それこそ、彼女やaikoや浜崎あゆみ、更には松任谷由実や中島みゆきがヒカルの今の歌を聴いてどう感じているか、誰かインタビュー取ってきてくれませんか。是非実現を。

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『真夏の通り雨』に関しては、フルコーラスで聴くまで何もわからない、というのが正直なところだ。今聴いている部分だけでは判断に乏しい。とはいえ、その乏しい中からやがて印象が覆される様を記録しておくのも悪くない。今回は話半分、3分の1、4分の1で聴いておいて欲しい。

一言でいえば『桜流し』の続編、だろう。『立ち尽くす見送りびとの影』。そのシルエットは『見ていた木立の遣る瀬無きかな』そのものだ。『木々が芽吹く』と植物が出てきているし、そもそも桜流し自体が咲いた桜を打ち流す雨をはじめとした水の流れである。桜流しがSAKURAドロップスから受け継いだものを更に押し進めた印象だ。

そこまではいい。しかし、となると『自由になる自由がある』に強烈な違和感が生まれる。『SAKURAドロップス』で『どうして同じようなパンチ何度もくらっちゃうんだ それでもまた戦うんだろう それが生命の不思議』と歌っているように、生きる生まれるとはどうしようもない事である。Passionの時の言葉を借りれば『止まれないんだよ』か。そんな中で歌われる『自由』とは「死」でしか有り得ない。

つまり、そういう事なのだろうか、『自由になる自由』とは。自ら命を絶つ事。そこまで直接的に母の事を歌うか。或いは、そこまで歌えるほどに距離を取れるようになったという見方もできる。やっと歌えるようになった、と。

『嵐の女神』も『桜流し』も、2013年8月、あの真夏より前の歌だ。自然、その事が歌われるとしたら初めてとなる。それが1曲目2曲目だとすると随分と向き合ったものだとな。そうしなければ前に進めなかった、ともいえる。

前に指摘した通り、今は「あしたのジョー」でいえば力石徹死後、劇場版「あしたのジョー2」にあたる。亡くなった面影を追い求め苦悩し現実から逃げ向き合い何とかして生きる道を見つける。違うのはヒカルが女だったという事だ。こどもを生み、育てる。安直だとわかりきっているが、真っ白な灰にならなくて済む。

『真夏の通り雨』は、ならば、それだけの歌なのかという事になる。現状報告、或いはセラピー、か。ここでもタイアップが気にかかる。何をわざわざ報道番組、ニュースショウのエンディングに。プライベートな歌詞を、テレビでももっともパブリックな帯にもってきた。オファーがあったのか売り込んだのかも定かではないが、ヒカルがOKを出したのは間違いない。それは覚悟なのか、それとも…。

ことタイアップの部分に関しては、放送されている部分だけで解釈しても構わない、されるべき筈だ。ならば、どうメッセージを受け取るべきか。その話題からまた次回、という事になるかなぁ。

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今日は月曜日か。「とと姉ちゃん」のOPは90秒バージョンになっている筈だな。今週の金曜日にはもうフルで聴けるのだから有り難みも今日までかもしれないが、いやさ、なかなかいいものだよ。

その『花束を君に』の、ヒカルの曲(ライブラリ)の中での位置付けはどうなるかというと一言、「過渡期」だと思われる。例えば『COLORS』のようなスッキリしたPop Songとは異なる、少し(いや、物凄く、かな)工夫を凝らしたメロディーラインは、これ自体に価値がある事はいうまでもないが、ここから更に新しいメロディーを呼び込んでくる呼び水のような、鉱脈のような存在感がある。普通はそんな曲を朝ドラに提供したりなんかしないのだが、して、今既に喝采を浴びている。こちらが花束を贈って祝福したい程に。

「過渡期」というと例えば『Be My Last』『Passion』『Keep Tryin'』3部作のような作品を指す。これらを経て『This Is Love』や『Making Love』のような「文句無しのPop Song」が生まれる。他にも、『ぼくはくま』からの『Flavor Of Life』もまた、ワンクッション置いてPop Songの雛型が生まれた例だろう。勿論、過渡期の方が好きな人は『Passion』や『ぼくはくま』こそ至高、と思っていて、そのうちの1人がヒカル本人だったりする。これはもう個々の趣味の問題だろう。

稀に「過渡期かつ文句無しのPop Song」が出来る事があって、その代表例が『DISTANCE』だ。セカンドアルバム屈指のメロディーラインを持ちながら同時に「FINAL DISTANCE」の誕生の契機となりサードアルバムへの流れを決定づけた。具体的な指摘は出来ないが、『BLUE』にも同じ匂いを感じる。まぁ、タイトル・トラックにするならこういう曲かなと。

では、仮に考えてみよう。『花束を君に』は次のアルバムのタイトルトラックになるや否や。「否」と答えておこう。理由はここまでの考察でだいたい明らかだが、もっと単純な理由がある。『First Love』『Distance』『DEEP RIVER』『ULTRA BLUE』『HEART STATION』いずれも、タイトルトラックは“後から出てきた曲”なのだ。唯一、『HEART STATION』だけはアルバムリリース前に先行カットされているが、同アルバムの曲は2006年11月の『ぼくはくま』の曲なのだから、やっぱりなんだかんだでかなり後発の曲な訳だ。まぁ、『BLUE』をタイトルトラックと言っていいかは微妙だが。

つまり、まだ現時点では桜流しから数えても3曲しか発表されていないので、この『桜流し』『花束を君に』『真夏の通り雨』はいずれも次のアルバムのタイトルトラックにはならないのではないかという推測が立つ。ヒカルにとって、アルバムタイトルというのは曲が揃ってきてからつけるものなのだろう。そして、今のところの3曲からまだ“先”があるのは明白だ。ここまで3曲があまりPop Song然としていなかった事にガッカリしているファン(ひょっとしたらもう離れてしまっているかもしれないけれど)も、まだ望みは捨てなくても大丈夫、と伝えておきたい。どちらの芸風も好物な私は勿論ひたすらウハウハで、どうもすいませんですよ。

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