須恵器(すえき)は、5世紀頃に朝鮮半島を経由して、我が国へ伝わった新たな焼き物です。
5世紀中頃から生産され、主に古墳時代~平安時代に使用されていました。
5~7世紀の須恵器は葬送の為に使用され、主に古墳から出土しますが、時代が下るに従い
一般庶民の日用雑器として定着して行きます。
須恵器の語源は、古来「陶器」を「須恵毛能(すえもの)」と呼んだ事に由来するとの事です。
1) 須恵器の起源
青灰色硬質の焼き物は、紀元前2,000年の中国の山東省の、龍山文化の灰陶(かいとう)に
行きつきます。 灰陶は叩きによる成形技法と、還元焔の焼成方法で制作されていました。
尚、中国の轆轤もこの文化の時代に使われていた様です。
2) 我が国での須恵器の生産は、焼き物史上、衝撃的で革命的な出来事です。
それまでの焼き物の概念を一変させる程でした。更に、その技術は現在の陶磁器に受け継が
れています。
① 須恵器の生産が革命的であった理由は、大きく分けて次の二点です。
) 技術的な面として。
a) 焼成用の窯(窖窯)を使い、1,000℃以上の高温で焼く事で、土器とは違い今迄に無い
硬質の焼き物を、作れる様になります。
b) 轆轤(ろくろ)が伝わり、機械で器を作る技法が取り入れられた結果、専門的な焼き物の
技術集団が発生し、大量の焼き物が作れる様になります。
但し、当時の轆轤の技法は現在の水挽きとは、異なる技法であった様です。
詳細は後日お話します。
) 専門職人により、集中的に多量に作られた焼き物は、制品の流通を通して、生産者と
使用者を明確に分離します。自給自足的な村落共同体で細々と作られていた焼き物は、
地方の豪族や国などの権力者の下で、職業として独立した職人達によって制作される様に
成ります。畿内で作られた焼き物は関東一円にも運ばれ、遠く仙台などの東日本までにも
及びます。やがて、6世紀末~7世紀前半には、摂津、尾張、伊勢、遠江(とおとおみ)、出雲、
能登などの地方の窯でも、須恵器が焼かれる様になります。
) 最も古い須恵器は、大阪府堺市と和泉市周辺の、陶邑古窯址(すえむらこようし)から出土
します。この地は仁徳天皇稜を始め応神天皇稜古墳など、巨大な前方後円墳や円墳など
5世紀を代表する古墳群が多く存在する地域でも有ります。
3) 須恵器とはどの様な焼き物まのか?
① 青味かかった灰色も色調を持つ硬質な焼き物です。
この色調は、窖窯(あながま)で還元焼成された証です。尚、土師器までの焼き物は殆どが
酸化焼成で行っています。但し初期の須恵器には酸化又は中性焔で焼成した物も有りました
② 高温で焼成されている為、土器に比べて格段に堅牢に出来ています。
1100℃以上で焼成されたと思われる須恵器も出土しています。
③ 轆轤を使っている為、薄くて均整の取れた形の作品が多いです。
④ 須恵器が制作されたのは、約700年間とされています。
その間に、種類と形態も様々に変化しています。種類については後日お話します。
4) 須恵器を作る環境。
以下次回に続きます。
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