わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

焼き物の着物(色彩)45 中世の瀬戸焼 2

2014-03-31 21:24:40 | 陶磁器と色彩
2) 古瀬戸の製陶技法。

 ① 古瀬戸が施釉陶器として、中世の一時期脚光を浴びる最も大きな理由は、耐火度の高い

  良質の土が間近で入手出来た為と言われています。即ち、瀬戸周辺の東山地区より東側に移動

  するに従い、白色の良質な粘土が豊富に存在し、水簸(すいひ)せずに単味で用いていました。

  肌理(きめ)の細かい土は小物用に、目の粗い土で大型の作品を作っています。

 ② 東山の西方では、鉄分を含む粘土を産出し、茶入や茶壷などの茶道具を作っています。

 ③ 成形技法は、主に水挽轆轤成形か紐土巻上成形です。

  ) 高さが10cm程度の器であれば、水挽轆轤成形で行います。

  ) 四耳壷や瓶子(へいし)などは、一部水挽制法ですが、ほとんどは紐土巻上による方法

    です。但し、南北朝から室町時代になると、再び水挽方法になります。

    尚、本家中国(宋)では、一貫として轆轤水挽制法を取っています。

 ④ 古瀬戸の装飾方法。中国陶器の模倣から始まりますが、やがて古瀬戸特有の文様が描かれる

   様になります。その方法とは、印花文、劃花(かっか)文、貼付文、櫛描き文の四方法です。

   これらは、時代と伴に変化して行きます。

  ) 最初に出現するのは、書劃牡丹(ぼたん)文です。

  ) 次に、印花文、櫛描文が出現します。

  ) 一度途絶えた劃花文が復活し、貼付文と併用される様になります。

  これらの文様の題材は、丸、角、菱、十字、格子、点列などの幾何学文様や、牡丹、蓮、菊、

  梅、桜、松、椿、藤、葵、竹、柳、唐草などの植物文、魚、鳥、猿などの動物文が多いです。

  ) 当初は壷の肩に印花文や櫛描文を施すものが多いですが、やがて胴部中央に廻らせる様に

    大きく描いていきます。更に最盛期には胴の中央の他に、その上下にも文様が施され全体を

    覆う様に文様が着けられます。

 ⑤ 古瀬戸の釉に付いて。

  釉には、灰釉(かいゆ)と鉄釉の二種類があります。

  ) 初期の頃は灰釉を施した作品が多いです。木灰を単味で使った場合は、釉の厚みが薄く

    流れ易い釉に成りますが、次第に長石質の材料(サバと言う)を加える事で、厚みの有る

    安定した釉層に成って行きます。

    灰釉は、木灰の種類によって、灰色(グレー)、黄褐色、くすんだ緑色、淡い緑色に発色

    します。
  
  ) 鉄釉は鎌倉後期頃から使われ始めます。鉄分は鬼板(おにいた)と呼ばれる粘土質の

    固形物ですが、南北朝以降になると、黒浜や水打などが使用される様になります。

    鉄釉は、鉄の含有量に応じて、赤褐色、茶褐色、黒褐色に変化します。

   いずれの釉でも、器面に施した文様は釉を通してしっかり確認できます。

 ⑥ 焼成方法は、従来と同じく窖窯(あながま)が使われています。

   初期の壷などの口縁には、重ね焼きした数箇所の目土痕が有るものが多いです。  

3)古瀬戸焼の終焉。

 15世紀末~16世紀中葉(室町後期)にかけて、古瀬戸焼の窯は一斉に廃れていきます。

 その原因は、応仁の乱やその後の戦乱で不況が続き、販売量が減った為と言われています。

4)古瀬戸焼の逸品

 ① 重要文化財 瀬戸灰釉瓶子 一対: 正和元年銘(1312年)

   岐阜県郡上郡白鳥町 白山神社境内出土: 白山神社蔵。

   a) 高さ 30.4cm、口径 7.3cm、胴径 19.2cm、 底径 12.0cm

   b) 高さ 31.8cm、口径 7.1cm、胴径 20.1cm、 底径 12.0cm

   黄緑色の灰釉が全面に厚く掛り、数本の流条化文となっています。

   古瀬戸最古の紀銘瓶子として、年代基準資料に成っています。

 ② 重要文化財 灰釉画花文壷(がっかもんつぼ):14世紀 鎌倉円覚寺開山塔出土

   円覚寺蔵。 円覚寺開山の心慧智海(しんえちかい)和尚の蔵骨器です。

   文様は細い箆(へら)描きで、器面と蓋の全体に草葉文が施されています。

   高さ 27.7cm、口径 14.2cm、胴径 27.6cm、 底径 12.0cm

   淡緑色の灰釉がかかっています。

 ③ 重要文化財 灰釉巴文広口壷: 14世紀 梅沢記念館蔵。

   高さ 22.4cm、口径 13.4cm、胴径 23.5cm、 底径 11.6cm

   三角形の断面を持つ凸条の帯を胴の上下に設け、その間を17本の縦の突帯で結び、その間に

   三つ巴(ともえ)浮文を貼付たものです。黄褐色の灰釉が掛り、細かい貫入が見られます。

 ④ 瀬戸鉄釉巴文瓶子:14世紀 

   形は梅瓶(めいびん)と呼ばれる肩の部分は最大径で、底に向かう程細くなっています。

   黄白色の素地で、紐土巻上成形されています。文様は肩と胴に櫛目を施し、上段櫛目の上に

   二本線による蓮弁文を施し、肩から胴に掛けて印花による巴(ともえ)文が付けられています

   明るい茶褐色の鉄釉が全面に施され、良く熔けて素晴らしい釉調と成っています。

以下次回「中世の美濃焼」に続きます。
 
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焼き物の着物(色彩)44 中世の瀬戸焼 1

2014-03-30 21:57:15 | 陶磁器と色彩
従来、中世の焼き物は、六古窯(瀬戸、常滑、越前、信楽、丹波、備前)を中心に考察されていま

したが、同時代に全国に二十四箇所の窯場が確認され、美濃や伊賀、加賀などでは六古窯同様に

現在でも生産が続いている事からも、六古窯に囚われる必要性も少なくなりました。

今日では、中世の焼き物は、土師器(はじき)系、須恵器(すえき)系、瓷器(しき)系の三系列に

分けて考える様に成ります。

土師器系は、祭礼用と煮沸用の日常食器として使われ、須恵器系は、平安時代の須恵器の伝統を引

き継ぎ、無釉の焼締陶の信楽、丹波、備前などの焼き物や、珠洲や亀山などの産地があります。

白瓷(しらし)の流れを汲む、施釉陶器は、瀬戸、美濃のみに引き継がれます。

1)古瀬戸焼き。

  愛知県瀬戸市地域では、猿投窯の白瓷の伝統の上に南宋の製陶技術を導入し、当時唯一の

  施釉陶器の生産地であり、中世窯業の中心地として栄えます。16世紀に成ると美濃の地でも

  施釉の焼き物が作られる様になります。以後数百年に渡り現在も、瀬戸と美濃は日本の窯業の

  中心として栄えています。

 ① 古瀬戸の発生。

  (鎌倉から室町時代中期まで 12世紀~15世紀頃までに焼かれた瀬戸焼きを、古瀬戸と

   呼びます。)

   古瀬戸の発祥には、陶祖加藤藤四郎左衛門景正の伝説が伝わり、1242年に瀬戸で良質の

   粘土を発見し、窯を興したのが最初と言われていますが、確実な証拠はありません。

   現在では二通りの説があります。

  ) 再興灰釉(かいゆ)陶器説: 12世紀に白瓷の生産が衰退した後、鎌倉時代中期に

    瀬戸の南部丘陵地帯で、四耳壷(しじこ)や瓶子などが、大量に施釉陶器として作られる

    様になります。この事から、古瀬戸の発祥は鎌倉中期頃と推測する説です。

    四耳壷は、鎌倉時代に中国の宋で作られた物を模倣して作られた物です。主な用途は蔵骨壷

    として使われています。

  ) 猿投窯東山地区の東山窯説: 平安末に猿投窯が衰退し常滑や渥美に生産地が移動したが

  一部は猿投に留まり、より高級な施釉陶器として生き残ったと言う説です。

 ② 古瀬戸の製品。

   中世で施釉陶器を焼いた古瀬戸窯は、二百基余り存在していたと言われています。

  ) 施釉陶器は社寺、貴族、武士階級、富裕農民層らが使用した日常容器類ですが、その

    種類は、食器用(碗、皿、鉢、水注など)、調理器具(卸皿、擂鉢、片口、釜、土瓶)、

    貯蔵容器(壷、瓶、甕類)、日常用具(薬壷、水滴、合子、燭台、各種鉢類)、仏具

    (瓶子、花瓶、灯明皿、香炉、仏塔)、茶陶(天目茶碗、茶壷)などがありますが、

    ほとんどが、中国陶器の模倣品として作られていた様です。

  ) 時代によって作られた施釉陶器の器形が変化しています。

   a) 平安末~鎌倉初期:四耳壷、仏具などが多いです。

   b) 鎌倉前期~南北朝:高級食器類が焼かれ、更に火葬蔵骨器(灰釉四耳壷)や花瓶や香炉など

    社寺を対象とした祭祀用具が顕著です。

   c) 室町時代: 天目茶碗、茶入など茶道具類が多いです。

  ) 中世の焼き物は、農業と深く結び付いています。

   a)小壷は籾殻(もみがら)の貯蔵用に使われ、種壷と呼ばれています。信楽の蹲る(うずく

    まる )は著名な種壷です。

   b) 種を播く際に、種を水に浸し発芽を促進させる容器として、壷が使われています。

    播種前に籾殻を水に浸す事で、稲の生育を大きする働きがありました。

   c) 甕も水蓄える他、酒を発酵させたり、貯蔵するものとして利用されています。

    更に、肥甕(こえかめ)として使われます。即ち鎌倉時代より糞尿が肥料として利用される

    様になると、糞尿を発酵させる為に、屋敷の一部に埋めた大甕が使われています。

    尚、糞尿の利用は60年程前までは一般に見られる光景でした。

以下次回に続きます。

   
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焼き物の着物(色彩)43 中世の信楽焼 2

2014-03-28 22:07:23 | 陶磁器と色彩
古い信楽焼きの魅力は、素朴な造形と荒々しい器肌に、酸化焔により赤い色(緋色)や白、黒などの

焦げと、照りのある事です。降灰による灰の流れ落ちで緑色を呈し、更に小石(長石粒)混じりの

肌の触感が、中世信楽独自の無釉と相まって、千差万別の器肌を作る事にあります。

以前は蹲る(うずくまる)と呼ばれる、小さな種壷に人気が集中していましたが、昨今では信楽の

大壷の人気も高まっています。

2) 中世の信楽古窯の制作品に付いて。(前回の続きです)

 ④ 窯は「双胴式窖窯」と呼ばれる信楽独特の窯が使われています。

  中世の信楽古窯址は、中井出窯跡(信楽町)や五位ノ木窯跡(神山奥新田)、窯ヶ谷窯跡、

  南松尾窯跡、オスエノジラ古窯跡(言い伝えの場所)など数箇所存在し、各々数基の窯を有し、

  その数は50基以上有ったとされています。これらの大窯は、共同窯として使われた可能性が

  あります。

 )「双胴式窖窯」は中井出窯跡から発掘された窯で、燃焼室が一つに焼成室が左右に二列に

   分かれ、その奥の煙出し口が一つになった構造になっています。

 )全長16.3m、燃焼室長さ10m、最大幅4m、底面傾斜30度の地下式又は半地下式の大窯です。

   燃焼室中央に大きな岩に粘土を貼り付けた厚ささ60cmの隔壁を設けています。

 ) この様な構造になったのは、脆弱な基盤の上に幅の広い大窯を築く為と思われています。

3)紀年銘作品について。

 壷や甕に製作されたと思われる年号が記された作品があります。これらの焼き物の様式から、

 他の焼き物の制作年代が類推される様に成りました。

 ① 現在知られている紀年銘のある主な作品は以下の通りです。

  ) 応安二年(1369年)銘 甕 (伝甲賀郡出土)

  ) 応永三年(1396年)銘:「応永三年秋九月 信楽権右衛門作」 香炉(伊賀町長久寺蔵)

  ) 応永二十八年(1412年)銘 壷

  ) 長禄二年(1458年)墨書銘: 擂鉢外側「長禄二年五月十四日 諸行無常 是生滅法」、

    擂鉢内側「南無阿弥陀仏」、その他 甕 (信楽長野出土)

  ) 永禄元年(1558年)銘 四耳壷

  その他、多数出土しています。

4) 茶陶信楽について。

 室町時代後期頃までは、他の窯場と同様に壷、甕、擂鉢などを生産していましたが、その後侘茶の

 世界で、焼締陶が注目を浴びる様に成ります。更に、都会的な文化が導入され、作風も大きく

 変化して行きます。

 ① 侘(わび)茶の世界で求められた物は、味わい深い質量感と焼締による素朴な侘びた趣でした

   侘茶の世界に最初に登場するのは、備前焼と信楽焼きです。

 ② 最初に信楽焼に着目したのは、村田珠光(1423~1502年)と言われています。

   信楽の焼き物が実際に使われた事を示す最初の記録は、1542年(天文二十三年)の「松屋

   久政茶会記」で、千利休の師でもある北向道陳(どうちん)が「信楽水指」を用いた事が

   記されています。その後、武野紹鴎(じょうおう、1502~1555年)所持の「鬼桶水指」、

   壷水指「シメ切」等が使用されます。

    注:「鬼桶水指」:15世紀 高さ20cm、千宗旦の箱書付

       桶形の物を鬼桶と呼んでいます。

       壷水指「シメ切」:15世紀 高さ18.1cm 藤田美術館蔵。

     これらは、最初から水指として作られたものではなく、日用雑器として使用されていた

     物を水指に転用した物(見立て物)と言われています。

 ③ 信楽水指、茶碗(1549年)、建水(1558年)、花生(はないけ、1578年)、茶入(1587年)が

   茶会記録に登場します。天正年間(1570~1591年)に現在伝世されている茶陶の種類は出揃い
 
   ます。

  ) 旅枕型花生: 筒花生で口がややつぼまっている形です。

     矢筈口(やはづくち)水指: 口辺に広い突出した帯を巡らせ、胴部や胴裾部に強い

     箆目(箆削り)の入った物が多いです。蓋は共蓋(同じ土で作った物)と成っています。

  )「紹鴎信楽」、「利休信楽」と呼ばれる物は、紹鴎や利休が所持していた信楽の焼き物を

    言いますが、次第に「紹鴎好み」「利休好み」の意味に変化して行き、需要者の好みが

    窯場の生産に影響を与える事に成ります。その後も、「新兵衛信楽」「宗旦信楽」

    「宗石信楽」「遠州信楽」「仁清信楽」「空中信楽」などと呼ばれる作品が次々に生まれ

    ます。

   a)「利休信楽」(宗易信楽とも言います):一重口水指が著名です。16世紀 高さ14.7cm

    正面にビードロ釉が流れています。又、「千家名物三水指」として、「楊貴妃」「風折」

    「磯シジミ」或いは、「三夕」「腰折」「柴庵」の計六口の信楽水指が著名です。

    これらは、茶の道具として意識的に制作されています。即ち、還元焼成で渋い味わいに

    焼き上げ、灰釉を流し掛け釉流れを生じさせています。

   b)「新兵衛信楽」慶長(1596年~1615年)の頃、信楽で注目されたのは、京都の茶人の有来

   (うらい)新兵衛によって作られた信楽があります。瀬戸物を扱う大店でもあり、彼の

    発注する美濃や信楽焼きの茶道具(水指、筒花生、茶入など)には「丁」の窯印があります

以下次回に続きます。



 

 
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焼き物の着物(色彩)42 中世の信楽焼 1

2014-03-26 22:37:05 | 陶磁器と色彩
信楽焼きや中世の信楽焼きは、近江(おうみ)国甲賀郡信楽郷(現在の滋賀県甲賀郡信楽町の山麓)

一円で制作された焼き物を言います。信楽は位置的にも京都や大津伊賀上野、亀山への道もあり、

湖東地方から、日野、水口を通り奈良へ通じる主要な交通路が存在していました。

時代的には須恵器の衰退する9世紀末から10世紀に掛けてから、鎌倉時代までの空白期間があり、

信楽焼きは鎌倉時代になってから登場したと思われています。

1) 信楽焼きは、備前、丹波焼きと同じ様に、無釉の焼き締め陶器です。

  鎌倉時代から室町時代にかけて焼かれた種壺・雑器をいう。

2)中世の信楽古窯の制作品に付いて。

 ① 使用粘土は一般に蛙目(がいろめ)粘土や木節粘土と呼ばれる、花崗岩が風化分解して出来た

  石英や長石粒を含んだ、耐火度に富んだ土を使っています。現在陶芸材料店で、市販されている

  古信楽と呼ばれる、白い粘土(細目、粗目など)とほぼ同じ粘土です。

 ② 作られた作品は、主に壷、甕、擂鉢の三点セットです。

  ) 壷の器形には、胴長で口頚部が外に開いた形の物と、胴がずんぐり丸い物があります。

    肩の張り具合も時代によって差があります。肩の張りが強い形の物が一番古く、次に

    肩の線が上がり端正な形になります。やがて次第に撫肩に成りながら、肩の線が下がり

    ながら美しい形に成ってゆきます。

  ) 口造りも大きく外に反った形から、口頚部が直立し口縁部が外に反る形となり、室町時代

     末期になると、玉縁状の口造りになります。小壷などには、二重口のものもあります。

  ) 肩に見られる「桧垣文」は信楽焼きの特徴の一つですが、14~15世紀前半の作品に

    集中して付けられている文様で、小壷には必ずと言って良い程付けられています。

  ) 擂鉢は他の中世窯と同様に、平底で口縁の一部を折り曲げて、片口状にした物で、内側には

    卸目(おろしめ)が付けられ、時代が降るに従いその目も細かくなり、その数も増えます。

 ③ 制作方法は、大壷や大甕などでは、粘土紐の巻上げの方式です。

  ) 回転盤の上に作品の底となる円盤状の粘土を作ります。

  ) 粘土紐を巻き上げ、一定の高さまで作ります。紐と紐の繋ぎ目は痕が残らない様に平らに

    伸ばします。一旦乾燥させ更に上に継ぎ足します。

  ) 胴の部分は3~5段位継ぎ足して高さを増します。

  ) 最後に轆轤水挽きで、口頚部を作ります。

  ) 器の表面は箆(へら)削りによって形を整えたり、水で濡らした刷毛で表面を綺麗に

    します。

  ) 「下駄印」と「窯印」、「ユミ痕」に付いて。

   イ)下駄印」は底面に残った「ニ」の凹みで、下駄の歯の様な形からこう呼ばれています。

     これは回転代に付けられた二本(又は一本)の凸状の棒の痕で、粘土が回転台に密着

     させる為の物です。室町後期から桃山時代の作品に多く、信楽独特の物としていましたが

     近年類似の物が、古丹波や古備前焼きなどでも、確認されています。

   ロ)「窯印」が壷の肩には見当たりません。

     一般に他の窯場で見られる、壷の肩に箆などで彫る印などの「窯印」は描かれている

     場合は少なくなっています。

   ハ) 「ユミ痕」とは、成形した作品を回転台から降ろす場合に使う道具です。

     藤蔓(ふじつる)を曲げて底を挟む様に巻きつけ、取り上げますが、その際「ユミ痕」が

     付きます。ほとんどの壷や甕の底にその痕が付いています。

  尚、擂鉢や小壷なども基本的には同じ方法をとります。

 ④ 窯は「双胴式窖窯」と呼ばれる信楽独特の窯が使われています。

以下次回に続きます。

  
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焼き物の着物(色彩)41 中世の渥美窯

2014-03-25 22:37:30 | 陶磁器と色彩
前回取り上げた古常滑窯が栄えていた頃、知多半島の三河湾を挟んだ対岸の渥美半島にも、多くの

古窯が存在し、国宝や重要文化財となる焼き物などを造り出しています。

但し、常滑が現在でも焼き物を造り続けているのに対し、渥美古窯は忘れ去られ近年(昭和39年)

再発見されます。2013年には「渥美窯 ~国宝を生んだその美と技」展が田原市制10周年記念

特別展として開催されました。

1) 渥美窯(あつみかま)とは、平安末期(12世紀始め)から鎌倉後期(13世紀)にかけて、

  約200年間続いた渥美半島に存在した古窯群です。その数は500基とも言われています。

  渥美窯がなぜ消滅したのかは、不明ですが支配者層の交替、薪などの資源の枯渇、常滑との

  競争で敗北などが考えられています。

2) 渥美窯では、古常滑と同様な作品が作られています。

  即ち、山茶碗、山皿、鉢類、瓶(へい)、壺、甕(かめ)などの日常雑器の他、経筒や蔵骨器

  などの祭祀容器、漁具、なども生産され、東北の平泉や鎌倉など全国に船で送り出されています

  但し、古常滑が東北~九州までの広範囲なのに対し、渥美窯で作った作品の普及範囲は狭く

  成っています。

 ① 特徴的な作品に、刻文、線核文様があります。

  刻文には、文字が書かれたものと、絵や図柄などの模様を描いたものがあります。

  )文字は、漢字が多く、漢字とひらがなの組み合わせ等があります。

    経筒や瓦経には、渥美の地名、人名、願文などが記されています。

  )線描きの絵は、半截竹管(縦に割った細い竹片)によって三筋文、袈裟襷文、蓮弁文、

    秋草文などに描かれています。 絵柄は草木、昆虫、小動物、魚の他、伝世品には、烏瓜、

    葦(あし)、雁、蜻蛉などの動植物が多いです。

    これらが描かれた壷などは、特注品として制作された物で、時の権力者や、宗教と結付き

    社寺などで、珍重され日本の各地で使われました。

  )「袈裟襷文」「蓮弁文」と呼ばれる模様は、渥美古窯の初期から標準使用されていた様です

 ② 窯印と思われる文字が壷の肩に書かれています。

   多くの場合は、「上」、「万」、「大」、「本」、「+」等、漢字一文字が多いです。

3) 渥美窯の特徴 

 ① 胎土は砂質で、火に当たると焼き締まり、青味を帯びた灰色に成ります。

   但し、耐火性が低く、亀裂や焼き崩れなど起こし易い土でもあります。

 ② 焼成は、窖窯(あながま)を用いた間接焔焼成です。

   間接焔焼成とは、直接焔が作品に当たらない様に焼く方法です。即ち焚口近くに分焔柱を

   設け、焔を左右方向に流れる様にしたり、焔が作品の上をかすめる様に流したり、焔を一度

   天井に当てて下降させたりして、直接当たるのを防ぎます。

 ③ 燻製還元焔焼成により、黒色の焼き物のもあります。

   焼成最後の段階で、松葉などを投入し器に炭素を吸収させる事で黒色に焼き上げ、同時に

   焼き締め強度を強くする働きもあります。

 ④ 窯の全長は15~16m程度が多いです。焼成室は山を「くり貫いて」作られています。

3) 渥美で作られた国宝、重要文化財の作品。

 ① 国宝 秋草文壷(あきくさもんこ):12世紀 慶応義塾大学蔵。

   高さ 40.0ocm、口径 16.3cm、胴径 29.0cm、底径 13.6cm

   昭和17年 神奈川県川崎市での道路工事の際に発見された蔵骨壷です。

   大きく喇叭状に開いた口頸部と胴長の器は、平安後期から用いられている大型広口壷の流れを

   汲むものです。農村の秋の風景を描いたと思われる、薄(すすき)や蜻蛉(とんぼ)、柳に

   烏瓜などが箆(へら)書きされています。

   器肌は黒褐色で、頸から肩に掛けて、黄色味を帯びた茶に緑が混じった釉が掛けられています

 ② 重要文化財 葦鷺文三耳壷(あしさぎさんじつぼ):12世紀 松永記念館蔵。

   高さ 39.3ocm、口径 16.5cm、胴径 34.0cm、底径 13.5cm

   平安末期の代表的な作品で、撫肩の大壷です。

   三分割された一面には、流水葦鷺文が流麗な筆で描かれ、他の二面には二筋の沈線で襷掛け

   しています。

 ③ 重要文化財 経筒外容器(きょうづつがいようき):治承二年(1178年)銘 世義寺蔵。

   造立の趣旨、願主、造手の名前が記されています。

近年、渥美焼きは再発見され、焼き物として美術的な価値の評価も高まっています。


尚、国の指定史跡として、芦ヶ池周辺の「大アラコ古窯跡」、伊良湖地区の「伊良湖東大寺瓦窯跡」

や、田原市指定史跡の「皿焼古窯跡」などがあります。

以下次回に続きます。

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焼き物の着物(色彩)40 中世の常滑(古常滑)2

2014-03-24 14:27:08 | 陶磁器と色彩
 ② 古常滑焼の特徴

  ) 古常滑焼の技法。

   a) 成形方法。各時代を通して、紐造り成形、輪積成形、轆轤成形の三種類があります。

   イ) 紐造りは大甕などの、大物成形には必要不可欠な技法です。

     太さ5cm程度の粘土紐を肩に掛け、成形台を回りながら粘土を螺旋状に積み上げる

     方法で、作品の内側に螺旋状の痕跡が見られる大甕もあります。

     背の高い物は、下部が乾燥したらその上に乗せる方法で、数度に分けて行います。

     繋ぎ目は接着が弱い為、叩き締めを行います。作品によっては外側に数段の押印がある

     物がありますが、これは土を締めた跡です。

     尚、この方法は現在でも基本的技法として、用いられています。

   ロ) 輪積成形は、比較的小さな壷類(三筋壷など)の成形方法です。

     ドーナツ状の粘土紐を、積み重ねて行きます。その他は紐造り成形と同じ工程になります

   ハ) 轆轤成形。常滑では「山茶碗」と「山皿」の成形に限られています。

     但し、轆轤の実物は見つかっていませんので、どの様な轆轤であるかは不明です。

  ) 前回述べた様に、3,000基を越える窖窯が存在し、大量の陶器が主に海路で、全国に

    送り出されています。その種類も多肢に渡っていますが、時代毎に幾らかの違いがあります

   a) 初期の頃は、宗教用の特殊な容器として、貴族、社寺、武士階級で用いられています。

    特に、各地で出土する常滑焼は、経塚や古い墓などの宗教遺跡の物が圧倒的に多いです。

   ・ 経筒外容器: 12世紀に多く作られます。高さ30~48cm程度で、蓋が付いて

     います。尚、次回述べる渥美焼きには、国宝級の経筒もあります。

   b) 知多半島で最も多く生産されたのは、山茶碗です。次いで、山皿、片口鉢(大平鉢)で

    食器用又は調理用として使われていた物と思われます。

   ・ 山茶碗:灰白色を呈する無釉の焼き物で、口径15cm、高さ5~6cm程度です。

     付け高台を持ち、薄手に出来ています。

   ・ 山皿: 山茶碗と同じ形態で、同時に焼かれた物です。径8cm程度です。

   ・ 片口鉢: 口径30cm程で、1(又は3)箇所に注ぎ口を設け、内側には卸目

     (おろしめ)は有りません。(擂鉢では無い)高台も有りません。

   c) 大甕は古常滑焼を代表する焼き物です。13~14世紀に掛けて鎌倉付近や西日本の

     各地から大量に出土します。

   d) その他の器。水瓶、短頸壷、広口壷、小壷、耳付壷、水注、羽釜(はがま=煮炊き用)、

    硯(すずり)、器台、瓦などがあります。

  ) 焼成技術。無釉の作品を窖窯(あながま)で焼成し、自然釉が降り掛かる事になります。

   大甕を焼く様になる14世紀に成ると、窯の構造に変化が見られます。

   a) 従来ですと、分焔柱の工夫はあるものの、基本的には直炎式の燃焼方法である為、大甕の

    下部への過剰燃焼で、焼き崩れの現象が起こり易かったです。

   b) 窯を倒炎式に改良する。作品の前に急斜面の分焔柱を設け、燃焼室の炎が分焔柱に当たり、

    急斜面を上り焼成室の天井に当たり、そのまま又は一部は下降しながら煙出口に至る経路を

    たどる事で、下部の過熱を防いでいます。但し、この事で口から肩に掛けてが過熱し崩れる

    事もあった様です。

   c) 自然釉は薪の灰によるもので、1200℃以上の高温で熔け、ビードロ状の緑の流れに

    成るものや、光沢の無い黄褐色が肩に振り掛かる場合もあります。

    どの様に成るかは、窯任せです。鉄分を含む常滑の土は赤茶(茶褐色)色に発色しますので

    自然釉と一体と成って、魅力的な作品と成っています。

以下次回に続きます。
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焼き物の着物(色彩)39 中世の常滑(古常滑)1

2014-03-23 21:24:11 | 陶磁器と色彩
愛知県常滑市は伊勢湾に面した知多半島の中央に位置し、現在でも焼き物の著名な産地です。

しかし、中世の常滑焼(古常滑とも言います)の窯は、知多半島先端の南知多町まで全体に存在

していた様で、その数も3,000基以上と言われています。それらを総称して「知多古窯址群」

と呼ばれています。

尚、中世の常滑が終末を迎えるのは、室町時代末(16世紀中葉)頃で大量生産の為に、窯場を

常滑市周辺に集約した事と、焼成技術の変化によるものです。即ち窖窯(あながま)から、半地下

式の大窯に移つた為と思われています。中世の常滑焼は約450年間続く事になります。

1)古窯址群は、瀬戸焼きの衰退と大きく関係しています。

 ① 日宋貿易や日麗貿易により、中国(宋)や朝鮮(高麗)から、施釉された質の高い青磁類が

  輸入される様に成ると、宮廷や貴族、僧侶などの支配者層に持てはやされ、それまでの灰釉

  陶器である白瓷(しらし)は見捨てられる様になり、生産も衰退して行きます。

 ② 瀬戸では庶民を相手とする、より安価な無釉の日常食器の山茶碗(やまちゃわん)などが、

  代わりに生産される様になります。この流れは、瀬戸周辺に波及し、知多半島にまで及び、

  同じ様に「山茶碗」が多く焼かれる様になります。知多半島は起伏の富んだ地形で、窖窯

 (あながま)を築くのに最適な地でもあります。

2)古窯址群の焼き物

  現存する最古の古常滑焼は京都市今宮神社から出土した、三筋壷(さんきんこ)と呼ばれる

  物で、同時に出土する四方仏石に天治二年(1125年)の銘文がありました。 

  古窯址群では、山茶碗が一番多く作られていた様で、半島全体で見られますが、特に半島の

  付け根付近で多く焼かれています。その他、壷や甕(かめ)などが造られています。

 ① 壷や甕は、半島の中央部近辺の窯で多く作られます。 

  )壷には胴径が70cm、高さ60cm程度の大壷と、胴径、高さ共40cm程度の中壷が

   作られています。いずれも、薄造りの為、完形品として現存又は出土する事は少ないです。

   形は優雅で繊細な線で表現されています。

  )三筋壷(さんきんこ)は、胴径15cm、高さ25~30cm程度の壷で、胴部に三本の

   沈線(凹み線)を有する壷です。この沈線の意味には諸説ある様ですが、輸入された中国の

   陶磁器の影響(模倣)と見る人もいます。

  )大甕は常滑を代表する焼き物で、大きさは大壷を上回ります。用途は日用の貯蔵容器です。

    大量に生産され、13~14世紀に掛けて、西日本を中心に各地に船などで運ばれます。

   形は壷に比べ、肩の張った武骨で大胆な造りになっています。

  )「不識壷(ふしきこ)」は蔵骨器に使われた小甕の事で、14世紀に出現し、各地から出土

   しています。名前の由来は、室町時代の常滑城主の水野監物(けんもつ)が千利休に贈った

   小甕に付けた銘だそうです。 

  )「経塚壷」は平安時代末に末法思想は広がった際、経典を弥勒(みろく)が釈尊として再生

   するまで、地下に収め保存する為、経塚が築かれます。「経塚壷」は筒状の外容器(経筒)で

   経典を収めるものです。   

  ② 古常滑焼の特徴

以下次回に続きます。

 
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焼き物の着物(色彩)38 高麗青磁

2014-03-21 16:25:08 | 陶磁器と色彩

宋の青磁類の輸入と同じ頃、朝鮮半島より高麗青磁(こうらいせいじ)がもたらされます。

高麗時代(918~1391)を通じて日麗貿易が行われます。但し、前回お話した日宋貿易よりは、

規模が小さかった様です。 又、宋、高麗、我が国の三ヵ国間でも民間レベルの貿易が展開されて

いました。

1) 高麗の陶磁器。

 ① 朝鮮の三国時代。

   紀元前57年 新羅建国。  668~935年 統一新羅。

   紀元前37年 高句麗建国。 668年 高句麗滅亡。

   紀元前18年 百済建国。  660年 百済滅亡。

  ) 三国時代に中国の六朝より、青磁と黒釉(鉄釉)が流入し、更に9~10世紀前半には、

     唐、五代の陶磁器とその技術が伝わり、初歩的な緑青磁が造られる様に成ります。

  ) 緑青磁の窯址として、京畿道仁川の景西洞(キョンソドン)窯が有名です。

    窯は窖窯(あながま)で、内部は隔壁(仕切り)の無い洞窯で、底は階段式でない傾斜面です。

    断面が三角形の枕を使って窯詰めしています。

    尚、磁器を焼くには1300℃、又はそれに近い温度が必要です。当然、高温を得る為の、

    窯の改良がなされています。

  ) 緑青磁の素地には混ざり物が多く、釉面も滑らかさに欠けています。

    器の種類は、唐風の広口長頸瓶、広口長頸裳形瓶、鉢などが多いです。

  ) 10~11世紀初め頃には、青磁と入れ替わりに素地と釉が洗練された白磁が焼かれる様に

    なります。その後、途絶えていた青磁が本格的に全羅道康津郡龍雲里や桂栗里一帯で

    集中的に生産されます。

  ) 博多出土の輸入陶磁器の95%は中国産で、高麗陶磁は交易品としての評価が低かった

      様で、一部の階級の人々にのみ使用されていました。

 ② 高麗青磁。 高麗朝(918~1392年)

   高麗青磁の中で代表的なものが象嵌青磁でがす。

  ) 高麗の青磁は、青灰色の胎土に鉄分を含んだ釉を掛け物です。

     中国宋で大量に生産された、龍泉窯青磁などと比べると、高麗青磁は釉が薄く掛けられて

     います。 即ち、中国の青磁が釉を3~4度掛け厚い釉層を形成し、青く発色するのに対し、

     高麗青磁は1~2度掛けで透明感があり、釉層は薄いです。

     それ故、胎土と釉の色が重なり、「翡翠(ヒスイ)色」に発色しています。

   ) 11世紀後半~12世紀前半に、高麗の青磁と陶器が大宰府と博多に、集中して出土します

     青磁の大半は無文で施文方法は型押し、蓮弁削り出しといった中国風です。

     11世紀後半では全羅南道康津窯産の精製品が少数出土しますが、12世紀前半に入ると

     精製品に替わり、焼成不良な不透明な釉となり粗製品が急増します。

   ) 高麗青磁で代表的なものが象嵌(ぞうがん)青磁です。

    a) 象嵌技法は12世紀後半以降本格化します。博多では宋磁の出土量がやや沈静化し、

      高麗青磁は急減しますが、逆に京都や鎌倉で高級青磁の出土が増加しています。

      北部九州で再び増加するのは14世紀後半に入ってからとの事です。

      象嵌は金属工芸の技法を、陶磁器に応用した高麗独自のものです。

    b) 象嵌は生乾きの器面に彫刻刀で陰刻文様を彫り、そこに白い土や赤い鉄分を含んだ

      土(赤土)などを埋め込み、釉を掛け焼いた物です。赤土は黒く発色します。

      透明感の強い釉を通し、文様が白、黒に発色し、見栄えがす青磁です。

    c) 作品の種類は、花瓶(カヘイ)、梅瓶(メイピン)、扁壷、鉢、水注(注子)、香炉、枕、瓦などが

      あります。

    d) 文様は雲鶴(うんかく)文、雲鶴菊牡丹文、雲鶴菊花文、葡萄童子文、竹水禽文、唐草文、

       蓮花文、印花文など動植物をテーマにした作品が多いです。

これら輸入品は、我が国の焼き物にも大きな影響を与える事になります。

以下次回に続きます。

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焼き物の着物(色彩)37 中国宋の焼き物

2014-03-20 21:47:19 | 陶磁器と色彩

894年菅原道真の進言により、遣唐使が停止されて以来、中国との国交が途絶えていましたが、

平安中期頃から平清盛の父忠盛によって日宋貿易(11~13世紀)が始められ、清盛の頃には

盛んになります。

・ 日本からは金、硫黄、刀剣などが輸出され、宋からは宋銭、香料、陶磁器などが輸入されました。

  注: 平家が天下を取ったのも、日宋貿易によって、莫大な富を得たからとも言われています。

     尚、宋は五代後の960~1279年の王朝です。

  注: 日宋間には、正式な国交はなかったのでは無いかと言われています。

     それ故、貿易も民間レベルで行われ、平氏政権や鎌倉幕府も積極的に推進した様です。

清盛は瀬戸内航路の整備と、大輪田泊(兵庫港)や音戸の瀬戸の整備、更に海上交通を守る厳島

神社の建立を行い、海賊退治も行っています。日本の港は、北九州の博多港や、北陸の敦賀が

使われました。貿易品は色々ありますが、その中で、陶磁器は、それ迄の我が国の陶器より数段優れ

都の宮殿や貴族、寺院の人々の間で珍重され、我が国の陶器生産も、辺境に押し流されてしまい

ます。この事情は前回までにお話した事です。

1) 中国でも、宋代は陶磁器生産が急速に発達した時代で、各地で陶器や磁器など多彩な焼き物が

  発生します。 北中国(北宋)では、碗、盤、壺、瓶、水注、枕など日常の生活雑器を焼いた磁州窯

  系の陶器や耀州窯の青磁、定窯の白磁などがある。南宋では、景徳鎮窯、龍泉寺窯があります。

  陶磁器の基礎となっている現代陶芸でも、殆どの技巧や技術は、宋時代に開発され普及し定着

  したものであす。英語で「チャイナ」とは中国名であり、陶磁器をも意味します。

 ① 定窯: 白磁 北宋時代の中国を代表する白磁の生産地です。

    白い美しい肌に、わずかに黄色みを帯びた釉で、宋時代の白磁の釉の代表です。

 ② 景徳鎮窯: 白磁、青白磁。元、明、清を通じて宮廷の御器を焼造し、中国窯業の中心地です。

   青白磁は薪を燃料とする為、白磁とは言え青みを帯びた、「青白磁」となります。青白磁は中国

   では「影青(インチン)」と呼ばれています。

 ③ 龍泉窯: 青磁。 南宋代後期の青磁の代表です、

  粉青色(水色)や梅子青色(緑色)の優美な青磁を焼き、日本にも数多くの作品が伝わっています

   龍泉青磁、砧(きぬた)青磁(粉彩青磁)などが著名です。

 ④ 磁州窯: 鉄絵。華北一帯の陶器の民窯を「磁州窯」といいます。

    独特の加飾陶器が製作され、白化粧を施し、透明釉を掛けたものが基本です。

 ⑤ 建窯(けんよう): 天目釉(天目茶碗に掛けられた釉で、黒天目、禾目天目、油滴天目、

    曜変天目などがあります。)

 ⑥ 吉州窯: 玳玻(たいひ)天目釉

 ⑦ 鈞窯(きんよう): 月白釉薬、澱青釉。、鈞窯とは、特定の窯の製品ではなく、鈞窯系という

    作風として理解されています。

 ⑧ 耀州(ようしゅう)窯: 青磁。 

    印花文(型押し文様:牡丹、菊魚、孔雀などの動物、天女、唐子など多種多様)

    刻花文(彫り文様:牡丹、蓮花唐草文など)

 ⑨ その他:官窯 汝窯(じょうよう。北宋)、哥窯(かよう)

    (定窯、鈞窯を含めて、宋の五大名窯と呼ばれています。)

 ◎ 宋代の名品は、歴代皇帝の愛蔵品として、北京の故宮に秘蔵されています。

2) 日宋貿易の我が国への影響。

  ①  船積された膨大な陶磁器類は、博多などの港に運ばれ、一時保管された後、京へと送られ

    ます。博多周辺や農村集落などの発掘調査で、宋の陶磁器や銅銭が多量に出土します。

  ② 宋の焼き物は、安価に大量生産され品質も良い為、我が国の灰釉では太刀打ちできなくなり

    瀬戸にも色々な変化を与えます。この頃から、瀬戸の焼物は茶陶(茶の湯に使う陶器)が

    主流なります。尚、我が国でも、一時期は宋の焼き物の模倣品も作られましたが、品質も悪く

    普及しませんでした。

  ③ 我が国で磁器の生産が始まるのは、桃山時代以降に成ります。

以下次回に続きます。

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焼き物の着物(色彩)36 灰釉陶器(白瓷)6

2014-03-16 21:15:45 | 陶磁器と色彩

7) 白瓷(しらし)の量産化と地方への拡散。

  ① 10世紀に入ると、猿投窯や尾北窯などの尾張での灰釉陶器である白瓷の生産は、技術

    革新と伴に生産が一気に拡大します。白瓷の需要範囲も、東海西部や畿内に限られていた

    ものが、東山道を通じて、中部山岳地帯や多賀城廃寺などの東北南部にまで広がります。

    中部山岳地帯や東北、北関東で出土する白瓷は、主に東濃系の窯で作られたもので、東海~

    関東に掛けての白瓷は、三河、遠江(とおとおみ)の諸窯で作られたものです。

 ② 10~11世紀には須恵器の生産は衰退し、白瓷の生産が中心に成ります。

  ) 作られる器の種類も、高坏(たかつき)、高盤、平瓶などから、椀や皿類を中心に水注、

    各種壷、鉢、合子など需要に応じた、新たな種類の器が登場します。

  ) 東日本での白瓷の需要は、新興の富裕農民層の増えた事も原因です。

    律令制度の崩壊と、気候の温暖化により農業生産が拡大します。白瓷の需要もこの様な背景が

    有った事が次第に明らかになります。

  ) 10世紀末~11世紀には、美濃焼が全国的に使われる様になります。 

 ③ 同時期に無釉の椀、皿、盤、瓶類に線彫りの草花、飛雲、飛禽などの文様を付けたものが

   登場します。

 ④ 量産化には窯の改良も大きく寄与する事に成ります。

   即ち、底面の傾斜が緩やかになり、椀や皿を十数枚も重ね焼きし効率化を果たす様になります。

   又、焼成方法も燃料を多く使う還元焼成より、酸化焼成する様になり少なくする事も出来、

   更に燻製による炭素の吸収を抑える事で、より美しい白瓷や青瓷(あおし、せいじ)が作れる様

   になります。又、燃焼室と焼成室が分離され、分焔柱を設置し、焔の流れる向きをコントロール

   する事で、ある程度恣意的に焼く事が出来る様に成ります。

 ⑤ 12世紀に入ると、焼成室の容積を著しく拡大させ、更なる量産化を進めます。

    11世紀後半以降、日宋貿易が盛んに成ると、中国より陶磁器が輸入される様になります。

    この輸入品は中央や地方の官衙(やくしょ)、寺院、貴族、上層階級に普及し、猿投窯などの

    焼き物は、他に販路を求める事に成ります。時を同じにして、地方の農村の興隆により、一般

    農民層の需要が増える事で、安価な焼き物を供給する為、量産化が進められます。

    但し、生産の拡大に伴い、素地の粗雑化、轆轤技術の低下、灰釉技術の簡略化などの質の

    低下を招き、粗悪な日常食器を作る事に成ります。

8) 生産地の拡大。

   12世紀(平安時代末)から猿投窯では、山茶碗を中心に山皿などを生産する様になります。

    注: 山茶碗とは、口径15cm前後で、高さは5~6cm程度の無釉の浅い碗形です。

       山皿は、径が8cm程度の小皿で、山茶碗と一緒に焼かれています。用途は仏飯器や

       灯明台として使われたと思われます。 これらは、大量生産が可能な日用雑器です。

   山茶碗の生産は、次第に愛知県知多半島方面や渥美半島などに移り、猿投窯での生産は、

   徐々に衰退して行きます。

   猿投窯での制作品の変化や、地方への拡散の原因は、当時中国からの陶磁器の輸入の増大と

   猿投窯の支配層(荘園領主、在地領主など)の移動などの他、原料(粘土)や燃料(薪)の枯渇が

   挙げられています。

以上で白瓷の話を終わります。

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