わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

現代陶芸60(伊藤赤水)

2012-02-29 22:32:53 | 現代陶芸と工芸家達
新潟県佐渡には、19世紀前半頃から、「無名異焼」(むみょういやき)と呼ばれる、赤い肌の焼き物が

焼かれていました。その「無名異焼」を発展させて人間国宝に成った陶芸家が、伊藤赤水氏です。

1) 伊藤赤水(いとう せきすい)本名 窯一 : 1941年〜

  〃侘

  顱法/軍禪佐渡郡相川町で、四代伊藤赤水の長男として生まれます。

  髻法1966年に京都工芸繊維大学窯業科を卒業後、帰郷して三代である祖父に師事し無名異焼の

     技術を学び家業を継ぎます。

     (尚、1961年に四代赤水(博)は没し、三代赤水(孝太郎)は、かなりの高齢でした。)

  鵝法1972年 第19回日本伝統工芸展に初入選して以来、連続入選を果たし、国内の展覧会などでも

     数多く受賞を重ねています。

     日本国内以外でも、米国、英国、香港など多くの海外展にも招待出品されています。

  堯法1976年に五代赤水を襲名します。

     1984年から「練上(ねりあげ)」技法による作品を手掛ける様に成ります。

     2003年に「無名異焼」の技術で、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されます。

 ◆ 嵬橘尚枉董廚箸

  顱法17世紀頃から、佐渡金山では素焼きによる、金銀の精錬用具としての製品が、伊藤家によって

   作られていた様です。19世紀前半に7代伊藤伊兵衛が、坑道より産出する「無名異」を混ぜた

   焼き物を作り、評判を得ます。これが「無名異焼」の発端に成ります。

   注: 「無名異」とは赤褐色の微細な酸化鉄で、坑道内の地下水が凹みに沈殿した物です。

   前記伊藤家の分家が赤水の家系で、伊藤赤水は5代目になります。

 髻法 嵬橘尚枉董廚麓訶ヅ據覆靴紊任い弔繊砲噺討个譴訐崚擇函地元野坂付近で産出する粘りのある

    可塑性に富んだ白土(野坂土)を混ぜ、更に「無名異」を加えて水簸(すいひ)した土です。

    尚、現在では「弁柄」を使っているそうです。

 鵝法 崋訶ゾ討」と言われた初期の頃は、赤い肌の焼き物でしたが、5代赤水による「無名異焼窯変」

     によって、芸術的価値が認められる様になります。

  伊藤赤水氏の陶芸

  顱法 嵬橘尚枉突卻冂曄廚砲茲蠧本伝統工芸展で一躍脚光を浴びます。

    赤い肌に黒色の窯変が、部分的に表現された作品を1972年「無名異焼窯変壷」として発表します。

   a) 轆轤成形された作品が生渇きの時、鉄や共土の素焼きの道具を使い、表面を研磨します。

   b) 半地上式の窖窯(あながま)で還元焼成します。焼成温度は1200℃位だそうです。

   c) 窖窯では、炎が直線的に走る為、障害物を置いて炎の当て方を変化させ、赤と黒の色合いや

     濃淡の妙を表現しています。 黒い色は炭素成分でなく、酸化鉄によるとの事です。

     但し、よく焼けた「窯変」は、歩留まりが悪く、2割程度との事です。

     作品としては、「無名異焼窯変壷」(同名で多数あります)、「無名異焼窯変筒水差」(1981)

     などがあります。

   d) 轆轤挽きによる成形では、左右対称の形になり、固くなり易いです。そこで「ざっくり感じ」を

     出す為に、一度研磨した素地に同質の土を吹き付け、表面の肌を和らげる作品を作る様に

     成ります。その様な作品が、「無名異焼窯変花入」(1981)などです。

     この作品は、口縁に大きな亀裂が入り、器肌には多数の「ひび割れ」が出ています。

  髻法[上(ねりあげ)技法
 
    1984年から手掛ける「練上」は、独特な線状紋や美しい花紋を配した作品で、繊細で華やかな

    表現力が見られます。

   a) 色の異なる土を何層も重ねて部品を造り、組み合わせて紋様を出す技法です。

   b) 色の違う土を重ねて海苔巻状に作り、それを輪切りにした断面を並べて、皿や壺の形を作り

     独特な縞模様や花紋が伊藤赤水の特色です。

     線紋皿、魚紋皿、花紋皿、花紋壺、花紋角皿、鳥紋皿、花紋香炉、花紋茶盌などの

     作品が有ります。

  鵝法 嶌甘魯島」について

     2009年 佐渡の岩石を使った作品「Т 佐渡ヶ島」を発表します。

     従来の平滑な器面の「無名異焼」を離れ、器の側面に佐渡の小振りな岩石を、貼り付けた

     様な凸凹な 肌をしています。Т錙覆擦辰)ですので、釉は掛かっていません。


     作品としては、、壷、香炉、角壺、篇壷などがあります。

次回(高鶴 元氏)に続きます。
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現代陶芸59(伊勢崎淳)

2012-02-28 21:50:38 | 現代陶芸と工芸家達
陶芸家の伊勢崎淳氏は、備前の作家の中心的位置にいる人物で、伝統的な茶陶から斬新な造形、

陶壁と幅広い制作活動を行っています。


1) 伊勢崎淳(いせざき じゅん) 本名 惇(あつし) : 1936年(昭和11年)〜

   〃侘

   顱法_山県備前市伊部に伊勢崎陽山の次男として生まれます。

      父陽山は、細工物の名人と言われた陶工で、代表作に「高杉晋作像」「明治天皇像」があります。

      長男の伊勢崎満も陶芸家で、陽山の跡を継いでいます。

      幼い頃より兄、満(みつる)と共に陶技を父に学び、岡山大学教育学部特設美術科卒業後から

      本格的な作陶を開始します。

   髻法1961年 父の死後兄と共に、半地上式の窖窯(あながま)を築き、初窯を焚きます。

     その作品を東京、名古屋、大阪で「二人展」を開催し発表します。

     同年 第8回日本伝統工芸展に「花器」を出品し初入選を果たします。

     以降入選を重ね1966年に、日本工芸会正会員に就任します。

     (1998年日本工芸会理事に就任します。)

   鵝法1965年 東京銀座松屋にて、初の個展を開催します。

     翌年には、日本工芸会正会員になります。1981年には金重陶陽賞を受賞し、その後も

     「田部美術館茶の湯の造形展」で優秀賞、岡山県文化奨励賞、山陽新聞賞を受賞します。

   堯法2004年 国の重要無形文化財(人間国宝)保持者に認定されます。

      備前焼では、金重陶陽(1896年 〜1967)、 藤原啓(1899年 -〜1983)、 山本陶秀(1906 〜1994)
  
      藤原雄(1932〜 2001)に次いで、 伊勢崎淳氏が五人目の人間国宝になります。

 ◆ “前焼について
   
    備前焼は、岡山県備前市周辺を産地とする、釉を一切使用しない陶器やТ錙覆擦辰)です。

    備前市伊部地区にちなみ、「伊部焼(いんべやき)」との別名もあります。

  顱法[鮖

   a)  備前焼の歴史は古く、平安時代の須恵器から発展し、鎌倉時代初期には焼き締め陶が

     焼かれています。鎌倉以前は還元焼成でしたが、鎌倉後期には酸化焔焼成と成り、水瓶や

     擂鉢(すりばち)など、実用本位の茶褐色の陶器が焼かれる様になります。

     当時の作品は「古備前」と呼ばれ珍重されいます。

   b) 室町時代〜桃山時代に茶道の発展とともに、茶陶として人気が高まります。

     しかし、江戸時代には、安価で大量生産が可能な磁器が登場し、茶道の衰退と共に備前焼も

     衰退して行きます。この状態は、明治、大正頃まで変わらなかったが様です。

   c) 昭和に入り金重陶陽らが桃山陶への回帰を計り、芸術性を高め備前焼の復興をはかります。

     この努力が報われ、多くの陶芸家が誕生し、現在では備前焼の人気は不動の物と成っています。

   d)  備前焼の代表的な作品には以下の様な物があります。

   ・ 筒型花生 弘治3年(1557年)銘(個人蔵) 重要文化財

   ・ 矢筈口水差 銘破れ家(北陸大学蔵)重要文化財

   ・ 緋襷(ひだすき)水差(畠山記念館蔵)重要文化財

  髻法“前焼の特徴

   a) 釉を一切使わず「酸化焔焼成」によって堅く締められた赤味の強い焼き物で、「窯変」によって

     生み出された模様は、同じ物が存在しないのが特徴です。

   b) 現在は茶器、酒器、皿などが多く生産されています。派手さはないが飽きがこないのが特色で

     もあります。皿等は水に漬けるてから使用すると、一段と生き生きします。

   c) 備前の土は鉄分を含み、滑らかな肌触りですが、耐火度が低く急な昇温が出来ず、

     数日〜十数日の間、薪による焼成が必要になります。それ故、高価な作品が多いです。

   伊勢崎淳氏の陶芸

   顱法仝堵前の復活: 淳氏の仕事場の裏山には、平安末期から江戸末期にかけての多数の

     古窯の跡が存在しています。その中の「南大窯」は全長五十数M、幅5.5Mあり国の重要文化財

     になっています。この様な環境の下、兄と共に16Mの窖窯を築き、その後も数回窯を

     作り変えています。この窖窯で年2〜3度の窯焚きをしてるそうです。

   髻法―濟瓩硫倬Г隆鑒に明るさがあります。

     一般に窖窯の作品は、灰が厚く被り暗い肌と成ります。これは「練り炊き」と言って焼成中に

     温度を上げ下げして、黄胡麻などの「窯変」を生じるには良い方法ですが、肌が暗く成り易く

     表面が荒れてきます。これを防ぐ為に「あっさり」焼成しているとの事です。

     更に「カコ挽き」と呼ばれる、皮又は布を両手に持って轆轤挽きする方法を取っています。

     こうする事により、器肌が荒れる事も無く、土の味わいが失われず、柔らかい感じが出ます。 

   鵝法〆酩覆蓮崢曄廚筺崑膸」が多く、「壷」には火襷が、「大皿」には「牡丹餅」による

      緋色の円形や楕円形の文様と、火襷を組み合わせた作品が多いです。  

   堯法‘壁について

      1977年の渡米で、彫刻的な作陶にも視野を広げる契機になります。
     
      2002年 新総理官邸のロビー(総理インタビュー後方)に陶壁を製作したのを始め、

      2003年 岡山大学創立50周年記念の陶壁を制作。その他、備前市役所、倉敷ノートルダム

      記念館などの玄関に、備前焼レリーフの壁画装飾を担当し、近代オブジェ陶にも意欲的な

      姿勢を示しています。

次回(伊藤 赤水)に続きます。

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現代陶芸58(藤原雄2)

2012-02-27 21:32:50 | 現代陶芸と工芸家達
前回に続き「藤原 雄氏」の話を進めます。

   藤原 雄氏の陶芸

    父藤原啓氏が「日本伝統工芸展」を作品発表の場にしたのに対し、雄氏は同じ土俵に載らず、

    個展や他の陶芸展、海外などに活躍の場を作っています。

    その作品の評価は、父啓氏を超えているとも言われています。

   顱法 崢曚陵此廖А”磴剖気┐鮗けていた際には、「作っても作っても父に作品を壊されていた」

     と語っています。ある時、父から「口の細い備前焼の壷は珍しい」と初めて褒められ事が

     切っ掛けになり、積極的に壷を造る様に成ったと述べています。

     更に、鉢とか水指を作っていても自然に、壷の形になってしまうとの事です。

   髻法…曚涼罎任癲▲轡鵐廛襪雰舛猟曚鮃イ漾◆嵬鐇犬猟曚亘佑寮萓犬任△襦土の温か味や

     ぬくもりを持つ弥生の壷は現代の壷だ」「原始的な縄文の土器は、エネルギーを感じるが、

     文様が邪魔になる時がある」「人間が感じる普遍的な美しさは、弥生の壷にある」

     「壷は最も単純な形をしているが、人間の喜怒哀楽を最も表しやすい。壷の肩を落とすと

     情けない感じがするし、一寸肩を広げるとリッチな感じになる。」「なるべく余計な事を

     しない。単純明快な形の中に、人間の優しさ、暖かさ、豪放さなど、人間の持っている

     基本的なものが表現できればそれでいいのだ」「電気こたつではなく、湯たんぽの様に

     じんわり伝わってくる暖かさ、それが壷には必要だ」「壷は時代や国境や民族を越えて、

     人の心をなごませるものを持っている」「だから、今まで壷ばかり作ってきた、これからも

     出来るだけ壷を作っていこうと思っている」と述べています。

    ・ 参考文献: 陶工房(1997年 No4)誠文堂新光社: 藤原雄「壷語録」より

   鵝法〕沙瓩了藩僂靴討い訶擇蓮∪藉鵝覆劼茲察砲噺討个譴覦防堯覆い鵑戞房辺の田圃の底の

      鉄分の多い土を使っています。

      当然場所により性質に差がある為、数種類の土を混ぜ合わせ調整しています。

      昭和30年代の土は、採取したものをそのまま使用していますので、器肌に「石ハゼ」が出て

      います。昭和50年代からは、粘土の粒子も細かく成り、焼き肌も滑らかに成っています。

   堯法〆酩並い蠅蓮⊆腓謀兎壱橄發鮖箸ぁ一塊の土から成形しています。

      尚、紐造りの方法はとりませんし、「コテ」なども使用していません。

      「コテ」を使うと、表面の「ぬめり」を剥ぎ取り、手が滑らない事と、土の中の小砂などが

      表面に浮き出て、土の味を殺してしまうからです。

   ) 壷に施す装飾は「シンプル」な櫛目などの線刻文で、必要最低源に留めています。

      壷以外にも、正方形の板皿を多数作っています。これは雄氏が食通であった事と、

      北大路魯山人の影響があって、料理を盛るための皿を造っています。

      皿には好みの果物や花、風景などが線刻されています。

  尚、雄氏の跡を継いだのは、息子さんの藤原和(かず)氏です。    

次回(伊勢崎淳氏)に続きます。    
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現代陶芸57(藤原雄1)

2012-02-26 21:47:12 | 現代陶芸と工芸家達
前回取り上げた藤原啓氏の長男で、啓氏と同じ様に、人間国宝に指定された、備前焼きの陶芸家に、

藤原雄氏がいます。轆轤挽きに秀で「壷の雄」の異名を持っています。

1) 藤原 雄(ふじわら ゆう): 1932(昭和7)〜 2001(平成13) 享年70歳

  〃侘

  顱法‘8 啓の長男として、岡山県和気郡伊里村(現、備前市)に生まれます。

  髻法1951年 明治大学文学部日本文学科に進学し、文学や音楽に熱中していました。

     卒業後、出版社の「みすず書房」に就職しますが、1955年9月に父親の看病の為に休職し

     帰郷します。(父啓氏は、胃潰瘍で倒れます。)

  鵝法,修慮紂陶芸家小山富士夫氏の勧めもあり、会社を辞し父に師事して備前焼の技法を学び

     始めます。(尚、雄氏の右目は0.03、左目は全く見えない状態との事で、何時失明しても

     良い様に、作品を見ずに轆轤が挽ける様に努力を重ねています。)

  堯法1958年 春に朝日新聞社主催の「現代日本陶芸展」と「全関西美術展」に『花器』が入選し

     秋には「日本伝統工芸展」に『大徳利』が初入選します。更にこの作品が伝統工芸展の

     ポスターとして使用されます。

     1960年 一水会展に出品し、一水会賞受賞して、一水会会員に推挙されます。

     同年 岡山天満屋、東京三越で初の個展を開催します。

     1961年 日本工芸会より正会員に認定されます。

     以降、「現代陶芸代表作家展」(名古屋松坂屋)、「現代陶芸展」(東京国立近代美術館主催)

     個展(東京三越、岡山天満屋)など、作品の発表を続けます。

  ) その他にも、1963年スペイン・バルセロナの「国際陶芸展」での大賞受賞や、米国(現代陶芸

     美術館)やカナダで海外初の個展を開いています。

     又、米国で備前焼の講座を持ち、ダートマス大学美術館、ニュウーヨーク現代陶芸美術館で

     個展を開催など、幅広い活動を行っています。

  ) 1996年(平成8)に、重要無形文化財保持者(人間国宝)となります。

 ◆ “前焼の「窯変」について

   釉を一切使わずに、赤味の強い備前焼の魅力は、「窯変」によって生み出されています。

   釉を使わない場合と、釉を使った場合とでは、作品の窯詰めに大きな違いが出ます。その事がまた、

   「窯変」を作り出す原因にもなります。一番の違いは作品を重ね合せたり、隣同士を接触させたり、

    横に寝かせて焼成する事が出来る点です。

   「窯変」には幾つかの種類がありますので、お話します。

  顱法仝嬲磧覆瓦沺法А〕卻欧虜巴罎法⊃鼎両廠イ生地に付き、熔けて自然の灰釉に成った物で、

     青胡麻や黄胡麻があります。窯の構造の違いによる湿度の関係で、時代毎に色が異なり、

     備前焼の時代鑑別の基準に成っています。

    ・ 平安〜桃山時代では暗緑色に青胡麻で、江戸期には黄胡麻、江戸末期以降は茶色の胡麻で、

      現在では、人工的に発色させています。

    ・ カセ胡麻: 作品に降り注いだ、小粒の灰が熔けきらずに付着した物で、不完全な胡麻と

      成ります。古来茶人の間で人気を得ています。

    ・ 榎(えのき)胡麻: 火力が弱く灰が熔けきらず、榎の樹肌の様に黒や灰色の粒々が

      付いている物で、 桟切の強い物といえます。

  髻法 桟切(さんぎり): 窯の中で灰に埋もれ、火が直接当たらない為に発色した物です。

     赤く成るべき肌が、還元焼成で暗灰色や青色などの様々な色や模様に成ります。

    ・ 大正以降、木炭を使い人工的に作れる様になります。

  鵝  火襷、緋襷(ひだすき): 白や薄茶色の器肌に、濃い赤色の線が生じた物です。

     本来は作品同士がくっつかない様に藁を巻いて、窯詰めすると自然に発生した物です。

     又、藁を巻き匣鉢(さや)などに詰める時にも使用しました。藁の燃え痕が赤く発色します。

    ・ 現在では、人工的に藁を巻いて、発色させる事が可能ですが、藁を叩いて軟らかくする等の

      前準備も大切な様です。

  堯法_潅位漾覆椶燭發繊法А‖腓な平たい器の中に、小さな作品を重ね置きすると、焼成時に

      置いた場所が、甘い焼き肌となり色も周囲と違ってでます。その形が牡丹餅の様に

      見える事から、名が付けられました。

  ) 青備前(あおびぜん): 通常酸化焔で焼成しますが、還元焔になると青くなります。

      又、窯中で空気が当たらない箇所で焼成されると青く出来ます。

     ・ 初代藤原楽山が考案した、「塩青焼」という塩を用いた手法でも、独特の青備前が

       作り出されています。

  ) 黒備前 : 古備前の時代に焼かれた備前焼の一つ。残存する作品は少ないです。

      ・ 近年、再現する技法が研究され、森陶岳氏(後日取り上げます)の大窯や、著名な

        備前陶芸家の間でも焼かれていまが、黒っぽいだけで本来の姿ではないとの事です。

   藤原 雄氏の陶芸

次回(藤原 雄2)に続きます。
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現代陶芸56(藤原啓2)

2012-02-25 21:41:35 | 現代陶芸と工芸家達
前回に続き、藤原啓氏の話を続けます。

◆‘8況爾瞭芸

  鵝法ー蟆鵑訣橄發鮖箸辰得形しています。

    「茶碗の口を作る時、起伏を付けなければいけませんが、手ロクロ自体のスピードが一定でなく

     完全にスムーズに動いておらず、中心が取り難いので自然に起伏がつき、また高台を削る

     時にも、自然に歪みが出て、かえって面白い作品が作れる場合が多い。」と語っています。

  堯法“前焼は一つ挽きで作る。

    どんな小さな作品も、一個づつ土を轆轤上に置いて成形します。

    他の窯場では、「棒挽き」といって、轆轤に大きな塊を置き、その塊の土から皿や茶碗等を

    数個〜数十個挽いてするのが、一般的です。

    備前が一つ挽きの理由は、底になる土を叩き締め、その上に土を置く事により、底割れを

    防ぐ事が出来るからです。

  ) 備前の土は手触りが良くて、粘りが強く大きな作品でも、だれる事なく一気に轆轤挽きする

     事が可能です。但し肉厚に差があったり、急なカーブを付けると、割れが出ると言われています。

     更に、収縮率が大きく約20%程度(一般の土は12〜13%)有るとの事です。

  ) 備前焼きの作品は、大変人気があり高価な物が多いです。

     特に「窯変」と呼ばれる作品は、顕著です。その理由は窯焚きに一週間〜十数日掛かる事と、

     出来の良い作品の割合が少ない為と言われています。良くて一割程度で一窯で数個と言う
 
     場合も有るそうです。

  ) 焼きの良い作品を作るには、「窯詰」も大切です。

    「火の廻り具合、作品と作品の距離、くっつき具合、大小の作品の置き具合、火の焚き口からの

    距離など、いっさいが作品の焼き具合に影響します。」と藤原啓氏は述べています。

    「作品の何処にどの様な文様を付けるかを考え、火の流れ方、火の動き、松灰の飛び方向と、

     灰の量などを総合判断して窯詰めを行いますので、最も苦労する作業である。」とも記して

     います。「窯変」が取れる場所は、ある程度決っていて、その位置に置きますが、絶対的な

     物でないそうです。窯詰めには3日〜一週間程度の日数が必要との事です。

     尚、啓氏の窯は、一度に大小の作品が800〜1000個位入る大きさで、年に1〜2度窯焚きを

     するそうです。それ故、失敗しない様に心掛けているそうですが、窯を開けるまで判別できず、

     苦労が絶えません。

  ) 窯焚き: 備前の土は火に対して非常に敏感で、少しの無理でも「ひび割れ」や「破裂」が

     起こります。

   a) 土の耐火度が低い為、時間を掛けて少しづつ温度を上げる方法ですので、非経済的で、

     非科学的なのが備前焼きなのです。

   b) 焼成は酸化焼成が基本ですが、酸化還元を交互に行いながら、温度を上昇させます。

   c) 平均的な焼き方ではなく、時には急に温度を上げたり、逆に焚き口を大きく開いて温度を

     急激に下げる作業を行います。これは温度上昇と共に、灰が熔け流れ落ちてきます。

     この状態では、器肌がピカピカに光り、備前焼特有の渋みが出ません。温度を急降下させる

     事により、灰の流れを止めます。その後、温度を上げて器に降り積もった灰を熔かし、

     より重厚な灰被りを造りだします。

   d) 「窯変」を採る為には、作品をい「じめる事」とも大切と述べています。

     即ち、作品に直接薪をぶつけたり、窯の横の小窓を開けて冷たい空気を送りこみます。

     こうする事により、作品の向きを変えたり、傷や変形をもたらし、灰の熔け具合にも変化が

     出るそうです。

   f) 温度計やゼーゲルコーンを使わず、炎の色と煙突からの煙(炎)から、焼きの終わりを
  
      判断しているとの事です。尚、焼成温度は1300℃との事です。

  ) 最後に、藤原 啓氏の好きな言葉に、「夢」「陶酔」「無心」「豪放」が有ります。

 尚、「窯変」の種類などは次回に述べる予定です。


 次回(藤原雄)に続きます。

 参考文献: 日本のやきもの 備前 文=藤原啓、雄氏、(株)淡交社(1985年 初版)
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現代陶芸55(藤原啓1)

2012-02-24 21:57:53 | 現代陶芸と工芸家達
40歳から陶芸を始め人間国宝(国の無形文化財)に成った備前焼の陶芸作家に、藤原啓氏がいます。

尚、備前焼では、山本陶秀に次いで二人目の無形文化財認定者と成っています。

1) 藤原啓(ふじわら けい): 1899年(明治32年)〜 1983年(昭和58年) 本名 啓二

   〃侘

   顱法_山県和気郡伊里村(現、備前市)で農業藤原伊三郎の三男として生まれます。

   髻法1909年 10歳の時 「名月や掉さしかねて流す舟」の俳句を、実業之日本社の「日本少年」に

      応募して一等となり、16歳で博文館の「文章世界」に短文を応募し一等と成ります。

   鵝法19歳から、地元伊部の小学校の代用教員となりますが、翌年、教員を辞し神戸の友人を

      訪ねます。ここで社会問題に興味を持ちます。 博文館「文章世界」の編集長の

      加納作次郎氏に東京での就職を依頼し、「すぐこい」との返事で上京し、博文館の仕事を

      続けます。その後、文学者の正宗白鳥や坪内逍遥などと知り合い、文学を志しますが

      道が開けず、病を得て、1937年 失意のうちに郷里の備前に帰ります。

   堯法1938年 39歳 正宗白鳥の弟で万葉学者の正宗敦夫から、備前焼でも焼いてみたらと薦められ

      敦夫の世話で、伊部の陶工三村梅景を知り、築窯、原土の入手、ロクロ成形などの指導を

      受け、本格的な陶芸生活に入ります。翌年には初窯を焚いています。

   ) 1941年 金重陶陽と親しくなり、備前焼の焼成法の指導を受けます。

      翌年には、第一回個展を岡山市の禁酒会館で開きます。

      1949年 岡山県文化連盟賞を受賞。1953年 東京日本橋の壼中居で個展を。

      1954年 北大路魯山人の紹介で、東京日本橋の高島屋で個展を開き、

      1955年 東京日本橋の三越で個展を開催するなど、次々に作品を発表します。

   ) 1956年 第三回日本伝統工芸展に「備前平水指」を出品し、日本工芸会正会員に推されます。

      以後、毎年日本伝統工芸展に出品し続けます。 第四回では「備前焼壼」、第五回は

     「備前平鉢」、1975年第二十二回まで出品を続けます。

  ) 1958年 日本工芸会理事に推され、以後60年まで理事を務めます。

     日本伝統工芸展の鑑査員を勤め、1975年 迎賓館に備前水指「備前花入」を納め1969年には、

     新宮殿に「擂座壼」一対を納めます。

     その他、プラハ国際陶芸展での金賞を受賞やヨーロッパ、中近東諸国、中南米のマヤや

     インカ文明、その他、フランス、スイス、ベルギー三カ国を巡回など、海外にも多く出掛けて

     います。

  ) 1970年 71歳 「備前焼」の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されます。

     1977年 自宅の敷地内に財団法人「藤原啓記念館」完成。作品を寄贈し、一般に展示公開します。

     1982年 「藤原啓 記念賞」を設立し、1984年から優れた製作活動を示した陶芸家一人に隔年で

     贈ることになります。第一回受賞者は、走泥社同人の鈴木治氏です。

 ◆‘8況爾瞭芸

  顱法40歳と言う遅い門出でしたが、金重陶陽や北大路魯山人らの指導を受け、技術向上に邁進し

     します。特に金重陶陽が先駆となった、古備前復興の継承に尽力し、桃山古備前の技法を

     基礎にして、「窯変」を生かした近代的な造形が特徴です。

     師である金重とは対照的に素朴で大らかな作品が、備前焼の新たな展開を示し、後進へ大きな

     影響を与えました。

  髻法ー蟆鵑訣橄癲覆蹐ろ)による筒型の花入や、徳利などの酒器、壷や鉢が多いです。

     形はシップルで「奇をてらった」物ではありません。

     「私は、あまり手の込んだものより、あっさりした、いわばロクロで挽き上げただけの

      作品が好きである。水指でも花入でも耳のくっついていない、『単純明快』な作品が

      好きである。あまり考え過ぎたり、よく仕事ができているといって、その作品のフォルムより

      手の込み具合をほめる様な作品は好きでない。」と述べています。

次回(藤原啓2)に続きます。

 参考文献: 日本のやきもの 備前 文=藤原啓、雄氏、(株)淡交社(1985年 初版)
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現代陶芸54(西川實)

2012-02-23 17:47:00 | 現代陶芸と工芸家達
今まで取り上げた陶芸家達は、多くが生家が焼き物と何らかの関係がありましたが、今回取り上げる

作家は、ほとんどその関係の無い、京都の「西川實」氏です。

1) 西川實 (にしかわ みのる): 1929年(昭和4)〜

  〃侘

  顱法ゝ都市山科区観修町で、農家の西川白吉の次男として生まれます。

     (生家の先祖は「大黒屋」の屋号を持つ旅籠であったと言う事です。)

  髻法1946年 京都市立第二工業高校の窯業科を卒業します。

     同年陶芸家の叶三夫氏に師事します。

  鵝法1948年 「白釉壷」を日展に出品し、初入選を果たします。翌年には楠部彌弌氏が主宰する

     「青陶会」の結成に参加します。

  堯法1958年 結婚と同時に、京都市東山区泉湧寺に移り住みます。

     同年 第七回朝日陶芸展で「緑釉印刻文平壷」が朝日新聞社賞一席を受賞します。

     1964年 第七回日展で「風伯」(嵐神の意味)が特選、北斗賞を受賞します。

     (この作品は、文部省お買い上げ後、イタリア大使館に贈られています。)

     以降、現代工芸展会員賞、外務大臣賞など数多く受賞し、日展審査員、日展会員を歴任します。

  ) 1970年 伏見深草に窯を築き移住します。窯名:深草窯(ふかぐさがま)

 ◆\樟醺藥瓩瞭芸

   彼が注目を浴びる様に成ったのは、彫塑的な表現方法と、塩釉の作品であり、後に伏見深草窯を

   築き、当地の土を使用して、白釉流飛文の作品と、更に中国の宋時代の鈞窯釉に魅せられ独自の

   釉を開発します。

  顱法々を基調にした作品

   1964年に日展で、特選、北斗賞を受賞した「風伯」や「跡(あと)」と題する作品は、黒マット釉が

   焼締状な肌をして、文様や印花文が施されています。その部分には木灰を掛けた様な黄色味が

   出ています。「跡」には蚊帳目が見られ手捻りで作った物と思われ、前衛的な作品に成っています。

   土に酸化鉄や大正黒を加えている様です。

   注: 大正黒は、酸化クローム、鉄、若干のコバルトを組み合わせ、加焼、粉砕された絵の具と

      言われています。

  髻法…α催な作品

    「彼岸花」(1978)と題された、縦長の円筒形の作品の表面には、彼岸花を持つ童女が浮彫で

    表現されています。「コスモスの頃」(1981)と題する作品にも、同様に頬に手を置いて

    座り込んだ童が表現されています。その他「閑日(かんじつ)」(1977)にもお地蔵さんの様な

    人物が表現されています。人物(特に子供)や仏様を浮彫にした作品が多いです。

  髻法’鴈慘飛文(はくゆうりゅうひもん)の作品

    伏見の深草に移転すると、地元に鉄の結晶を含む土を発見します。この土は粗めですが、

    作品を成形し、長石釉(志野釉)を掛けて焼成した作品です。

    高温で鉄分が吹出て、釉と共に流れ落ち、斑点を飛ばした様に見えます。

    作品としては」「雨情(うじょう)」(1979)、「白釉流飛人物文方器」(1982)などがあります。

  鵝法℃睛呷悄覆んようゆう)

   a) 中国の北宋から元の時代に、青味のある白濁釉に銅を呈色剤とし、還元焼成による紅や紫の

     文様や斑点のある作品が現れます。これをその産地名から我が国では「鈞窯釉」と言います。

   b) 釉下に辰砂などの銅釉を塗り、その上に鉄を1〜2%含む藁灰釉を厚く掛け、還元焼成すると、

     表面に滲み出て紅、紅紫、紫などの色に発色します。彼はこれを「礁華(しょうか)」と

     呼んでいます。 注:礁華とは、「隠れながら現れる華」の意味との事です。

   c) 作品としては「鈞窯礁華茶碗」(1980)、「鈞窯礁華壷」(1981)、「鈞窯方瓶」、「鈞窯香炉」、

     「鈞窯礁華鉢」などがあります。

  堯法 ̄釉(えんゆう)

     透明系の釉ですが、釉は平滑でなく細かい粒々の「ちじれ」を起こしているのが特徴です。

     鉄などの下絵が「スリガラス」を通して見る様な効果があります。

     (塩釉に付いては、以前説明していますので省略します。)

次回(藤原 啓)に続きます。
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現代陶芸53(加藤Α

2012-02-22 21:54:45 | 現代陶芸と工芸家達
土の味を大事にし、手造りにより土が持つ温かみを引き出し、独自の表現方法を作り出した瀬戸の

陶芸家に、「加藤Α彁瓩います。

1) 加藤Α覆とう しょう): 1927年(昭和2 )〜 2001年(平成13 )享年 74 歳

   〃侘

   顱法^γ慮瀬戸市西窯町で、陶芸家の第二十代加藤丈助の長男として生まれます。

    注: 丈助の名前は瀬戸赤津では古くから続く、由緒ある家系との事です。

       茶陶を主な作品として、量産品も取り扱う工場主でもあります。

   髻法\ジ様匐罰惺察文宗⇒匐塙盥察砲鯊感噺紂東京工業大学専門部窯業科を卒業します。

      卒業後瀬戸に帰ると、「窯屋」の跡取りにも係らず、陶芸作家を目指します。

      当時の瀬戸では、轆轤師などの職人による伝統的な、茶碗や花器類などの高級陶器が生産

      されており、他の窯場の様に、若い世代が芸術的な陶芸の模索と努力を試みる雰囲気が

      有りました。彼はその様な時代に巡り合わせたとも言えます。

   鵝法1961年 日展に初入選を果たします。それまで八回連続して落選しています。

      彼の作品が日展に合わなかった為と言われています。そこで先輩の瀬戸の日展作家の

      青木青々や河本五郎氏の助言を得て、日展に相応しい作品に仕上げ、入選を果たしたと

      彼自身が語っています。初入選後は連続して入選を果たします。

     「見た目の綺麗な作品でないと、当時の日展じゃダメだったということです」と述べています。

   堯法1963年 第一回朝日陶芸展で通産大臣賞を受賞し、翌年には、日展で特選と北斗賞を

      受賞します。その後、日展審査員、日展会員、評議員を歴任し、日展を中心に活躍します。

  ◆_弾Δ瞭芸

   顱法“爐虜酩覆蓮紐造り、板造り(タタラ)の技法が採られ、轆轤による作品は見受けられません。

   髻法,修琉戞▲織織蕕砲茲覺鏃舛蓮板を張り合わせる箱型の作品や、角柱、円柱状の物が

     多いです。その他の方法として、大きな土の塊の中央をえぐり出して空洞を作り、形に

     仕上げる技法も採られています。

   鵝法‥租的な釉である織部釉を使わず、独自の蒼釉(そうゆう)を作りだします。

     緑又は青銅釉状の色彩で、酸化鉄とコバルトを混ぜて不透明な青緑色を作りだしました。

     即ち、コバルトは青色を、鉄は褐色を呈しますので、混ざり合うと、青緑色に成ります。

     先ず上記蒼釉を器に塗り、次いで木灰による灰釉を上から掛けて焼成します。灰釉薬は

     熔けて透明になり、下に青緑色が発色します。

   堯法℃愃漫覆罎Δ気ぁ砲般症佞韻榛酩覆あります。

     「釉彩花器・雲海」(1963年) 日展特選、北斗賞 瀬戸市役所蔵、「釉彩花器・稜」(1964年)

      京都国立近代美術館蔵 などの作品です。いずれも一塊の土をえぐり出して造っている
     
      様な作品です。釉彩とは一つの器の上下に、別々の釉が掛けられています。

      上部には、白釉(透明釉)が下部には、蒼釉が掛けられ、中間部は混ざり合って、雲が

      たなびく様な表現になっています。      

   ) 白釉刻文(はくゆうこくもん)。

      土には、酸化鉄などを加えやや褐色の色が出る様にして、白との陰影を醸し出しています。

      生乾きの作品に、竹箆(たけへら)を使い引っ掻いたり、櫛目を押し当て、線文や

      刻文を付けます。更に白化粧土で化粧し長石釉で焼成した作品です。

      白化粧土は、アルミナを含んだ蝋石を砕き、泥に混ぜたもので、これを吹き掛けしています。

      長石釉は線刻文(花模様と線)が鈍らない様に、薄く掛けています。

   )  「うどん」状の紐を、作品の上部や内側、周辺に大量に貼り付けた作品も、作られる様に

      なります。更に、金泥を吹き付けた作品も作られています。

      主な作品に、「白のシリーズ」(1978年) 「白い装い」(1978)、「白釉金彩花器・春光」

      (1983)、「白釉金彩鳥刻文器」(1983)、「金彩蝶文箱」(1983)などが有ります。

 彼の作品は、土本来の「土味」での表現を重視し、手捻りによる造りで、土の温かみが感じられる

 作品と成っています。


次回(西川實)に続きます。
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現代陶芸52(大樋年朗2)

2012-02-21 22:06:54 | 現代陶芸と工芸家達
前回の続きです。

 ◆‖臠年朗氏の陶芸

  髻法‥戸会の出品作品。 

   a) 初期の作品には、置物や香炉などの陶彫風の作品が多く、やがて花器や壷、大皿などの作品を

     作る様に成ります。

   b) 茶道具などの大樋焼きは、手捻りによる楽焼きで製作しますが、展覧会等の出品作品は、

     轆轤挽きした物と手捻りによる物、楽焼と本焼きの両方で製作した物がある様に思われます。

   c) 作品の表面には文様が施されている場合が多いです。主に鳥類が多く、次いで魚や花を

     取り入れています。その表現方法も、象嵌や印刻、掻き落しや浮彫風の物、更に釉彩による

     方法が取られています。釉は伝統的な飴釉以外に、黒釉や銅を含む釉を酸化焼成して得られる

     緑釉(りょくゆう)を使っています。

   d) 主な作品は、「緑釉鶏文壷」1957年 日展特選と北斗賞を受賞作品で、黒に近い緑釉で、

     時を告げる一羽の鶏が数羽居るように表現され、浮き彫風(レリーフ)に、デザインされて

     います。二度目の特選と北斗賞を受賞した作品「釉彩・魚紋花器」(1961年)は、シンプルな

     丸味を帯びた方形の花生けで、数匹の魚が一方向に泳いでいる姿を浮彫風に表しています。

     径が44.5X高さ27cm の大きな作品ですが、これも手捻りによる作品です。

     「花と鳥象嵌文花器」(1976年)は、土に酸化鉄を加え素地を黒く発色させています。

     更に印花文による白象嵌を加え、窓には釘彫りによる鳥や花を描いています。

  e) 釉彩とは、上絵による色付けの事で、本焼き後に金彩や金粉を施す技法です。

    「花容(かよう)」(1972年)は、オブジェ的な作品で、「りんご」を半分に切断した様な形を

    しています。切断面はオレンジ色で、皮に当たる部分は漆黒に金粉が無数に浮いている感じの

    する作品です。

  鵝法‘壁の作品

   a) 1968年 北陸放送会館ロビーに、陶壁の製作依頼が有ったのが、陶壁を作る切っ掛けに成ります。

    5m四方の大作で、30cm四方の陶板を基本構造にし、大小様々な陶板を抽象的な表現で配列

    しています。緑系と黄色系の色調で統一し、陶板の凹凸は光と影を生じ立体的な感覚を

    醸し出しています。

   b) 上記作品以降、 金沢市役所、石川県厚生年金会館、小松空港などの公共施設や、平成2年に

     開館された、大樋美術館の外壁にも彼の陶壁が使われています。

     最近の作品は、2011.12.14 に完成させた、石川トヨタ野々市店の陶壁です。

     その他多くの陶壁を手がけ、その数は100以上との事です。

   c) 陶壁の作り方は、大きな一枚の作品を作り、それを数枚に分割して焼成します。

     難しい処は、作品の肉厚が厚く数cm〜十数cmと偏肉になり、乾燥や焼成の際に縮みに

     差が出易い事と、亀裂が入り易く、更に色彩を一定に保つ必要があります。

     隣同士の陶片の色などは、連続性が必要であるからです。     

  堯法‖臠焼本家十代長左衛門窯 大樋美術館 : 金沢市橋場町2-17

     館内には、長左衛門歴代の作品を中心に、大樋焼330年の歳月と現在及び、新たなる伝統の

     姿を表す為、三つの展示室が用意されています。

     尚次代を担う、長男年雄氏の作品も展示しています。

    (年雄氏については、機会があれば取り上げる予定です。)

次回(加藤Α砲紡海ます。
    
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現代陶芸51(大樋年朗1)

2012-02-20 17:54:22 | 現代陶芸と工芸家達
昨年(2011年)に、加賀の大樋焼の大樋年朗氏(十代長左衛門)は文化勲章を受章しました。

受章理由は、「伝統の技術を受け継ぎつつ、従来の陶芸の枠を超えた作品の制作」を行った事です。

大樋長左衛門は、裏千家の始祖四世仙叟宗室と同道した初代から、加賀前田藩の御用窯として

主に茶道の楽茶碗を中心に作り続けていました。大樋年朗氏は十代目の大樋長左衛門を襲名しますが、

襲名前の「大樋年朗」の名前での作品も多く、作品に応じて使い分けている様です。

1) 大樋年朗 (おおひ としろう): 1927年 (昭和2) 〜  本名 奈良年郎

   〃侘

   顱法_嘆譴梁臠焼九代大樋長左衛門の長男として生まれます。

   髻法1949年 東京美術学校(現、東京藝術大学)工芸科で鋳金を専攻して卒業します。

      (当時工芸科に窯業の科目が無かった為、鋳金専攻になったとの事です。)

   鵝法1950年 第六回日展で初入選を果たします。以後連続入選します。

   堯法1957年 第十三回日展で「緑釉鶏文壷」が特選と北斗賞を受賞します。

   ) 1961年 日展で「四方魚文花器」が再び特選と北斗賞を受賞します。

      以後、日展審査員、日展評議員、日展常務理事、日展顧問などを歴任します。

      (日展などの出品作品やそれに類した作品は、「大樋年朗」の名前を使用しています。)

   ) 1982年 第14回日展で(「歩いた道」花器)で文部大臣賞受賞(東京国立近代美術館蔵)

      1985年 (「峙つ(そばたつ)」花三島飾壺)で日本芸術院賞受賞(日本芸術院会館蔵)

      1987年 十代大樋長左衛門を襲名します、 1999年 日本芸術院会員に就任します。

      2004年 文化功労者に、2011年には 文化勲章を受章します。

  ◆‖臠年朗氏の陶芸

    彼の作品群は大きく三つに分かれます。

   ・ 大樋焼き伝統の楽焼による茶道具を中心とした作品。

   ・ 各種展覧会の出品作品。 ・ 建物の壁面を飾る「陶壁」です。

  顱法|稙散颪虜酩

    a) 大樋焼きは、手捻り(てひねり)による楽焼が基本になっています。

      轆轤や型を使わず、指先と掌(てのひら)で土を薄く延ばし、箆(へら)等を使って成形

      します。半乾燥後に「カンナ」を使い、高台と内側を削り出します。

      (器の内側を削るのは、楽焼の特徴で、一般には削りません。)

      高台削りは、手回し轆轤上で、内側や口縁の削りは、掌に乗せて回転させながら削ります。

      ・ 削り痕は残します。この削り痕(斜め)が文様に成ります。

    b) 大樋焼きの土は、金沢城の北東2Km程にある卯辰山の山麓大樋村(現 金沢市大樋町)で

      楽焼に適した土が産出されます。この土を初代の頃から使っているそうです。

      この土は、楽焼特有の急熱急冷に耐える土で、砂気が多くざんぐりしています。

      先代又は先々代が採取した土を、長い年月をかけて寝かせた土を使っています。

   c) 大樋焼きの釉は、飴釉に特徴があります。本家楽家が「黒楽」「赤楽」なのに対し、

      初代から飴釉を使い、代々優れた飴釉を作っています。

    ・ 施釉方法は、素焼き後の器に、太い筆で内外を塗って行きます。

      最初に内側を筆を置く様にして塗ります。次いで、外側と高台内を塗ります。

      更に濃度を濃くした釉を、口縁から重ねて塗ります。

      三度目は、更に濃度を上げて塗り、熔けて流れを作る様にしています。

      尚、この様にして、4〜5回塗る事もある様です。

     (但し、底部と高台は、流れ過ぎないように、二度塗りで止めます。)

   d) 楽焼の焼成

     楽焼は一般の本焼きとは大きく違います。即ち、高温の窯の中に直接作品を入れます。

     (窯の上部には、次に入れる作品を余熱する場所があり、実際は余熱してから入れます。)

     釉の熔け具合を確認してから、出入り口を全開にして、火鋏(はさみ)で茶碗の胴を摘み出し、

     一度陶板の上に乗せて、若干冷やしてから、水の入った瓶(甕)に入れ急冷します。

     尚、茶碗には正面がありますので、火鋏で挟む場所は予め決めて置き、取り出し易い様に

     窯詰めしておきます。急冷する事により、還元状態を定着させ、発色も良くなるとの事です。

     場合によっては、窯変が生じ思わぬ傑作に成る事もある様です。

     窯から作品が無くなったら、余熱してある次の作品を窯に入れ、釉が熔けるまで待ちます。

     作品として「柿釉白縁茶碗」(1982)、「黒釉・飴釉茶碗一双」(1983)などがあります。

以下次回(大樋年朗2)に続きます。

 
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