わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

明治以降の焼き物

2009-12-31 11:59:33 | 世界の陶磁器の歴史
この「シリーズ」の最後として、明治以降の、陶磁器の歴史について、述べます。

1) 九谷焼

  ・ 優れた陶人の輩出や、良質の磁土の発見と共に、小松、加賀、金沢、寺井などで、九谷焼は、

    目覚ましく、発展を遂げ、明治に入って、海外への輸出で、さらに進展し、わが国製陶産業の

    一翼を担う事と成ります。

 ・ 再興九谷の諸窯は、江戸末期時点で、ほとんどが民営で、新時代に対応した作品造りに、

   努力していた為、明治維新の悪影響は、ほとんど受けず、明治に入って、より活気を、

   呈するようになります。

 ① 名工として、金沢では、内海吉造、阿部碧海(へきかい)、石野竜山、安達陶仙があり、

   能美郡では、九谷庄三、松本佐平、松原新介、初代徳田八十吉(やそきち)など、

   江沼では、竹内吟秋(ぎんしゅう)、浅井一豪(いちごう)兄弟、初代須田菁華(せいか)、

   初代中村秋塘(しゅうとう)らの名工が、よく知られています。

   富本憲吉や、北大路魯山人も、作陶に加わった時期がありました。

 ② 明治政府は、国力増強のため、殖産興業、輸出振興策を打ち出し、それに呼応するように

   九谷焼は、国内外で開催される、博覧会へ出品して宣伝します、輸出にも力を入れた為、

   輸出陶磁器の、第一を誇るようになります。

 ③ 作風は、八郎手または庄三風の、彩色金襴手と、細字の密画で、好奇心をそそるものが多く。

   これが欧米人の趣向と、一致しました。 

  ) その作風は、青(緑)、黄、赤、紫、紺青の五彩を使い、大胆な構図、のびのびとした、

    自由な線書き、豪快で味わい深く、赤色で綿密に人物を描き、その周りを、小紋などで、

    埋め尽くし、所々に金彩を加えた、赤絵細密描画です。

  ) 明治時代に入ってからは、大量の九谷焼が、海外へ輸出されました。

2) 明治以降の京焼(清水焼)

  明治以降は、近代的生産手法を導入し、日本の重要な、輸出品となっていきます。

  伝統に甘んぜず、積極的に海外からの技術も導入し、新しい京焼の魅力が、生まれ始めます。  

  しかも、京焼は、創造性や、芸術性を失わず、多品種・少量生産を特色とする、高品質の

  陶磁器の伝統も、守り続けています。

3) 洋食器の「ノリタケ」(大倉陶園)の設立

   1904年には、輸出貿易を志していた、森村市左衛門が「ノリタケ」を設立し、後の1919年には

   日本が世界に誇る、洋食器メーカーである大倉陶園が設立されました。

   ここに、日本の近代陶業と、日本の洋食器の、歴史が始まりました。  

   明治37年(1904)、「ノリタケカンパニー」の前身となる、「日本陶器合名会社」を創立し、

   愛知県、鷹場村、大字則武(現 名古屋市西区則武新町)の地に、近代的な設備を備えた

   大工場を建設し、洋食器の生産を始め、米国へ輸出された、日本製の洋食器は、大変に売れ、

   やがて、「ノリタケチャイナ」の名で、世界中に知られる、「ブランド」へと、成長していったのです。


 今回で、「陶磁器の歴史」の話を、終わらせて頂ます。

 次回より、別のテーマで、話を続けたいと、思います。
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有田焼の影響 2

2009-12-30 21:21:28 | 世界の陶磁器の歴史
豊臣秀吉の朝鮮出兵は、これと言った成果は、有りませんでしたが、唯一、焼き物に関して、

大きな影響を、与えました。

即ち、朝鮮より、連れ帰った(捕虜、拉致による)陶工により、諸藩に新しい窯が造られ、

陶磁器の生産が、始まります。 特に唐津や、有田で発展した、磁器は、窯の構造、製法や、

絵付けなどの、陶磁器の発展に、寄与すると共に、負の面でも、影響を与えます。

1) わが国の、他の窯場への影響

   磁器の魅力は、その白い肌と、高い硬度を持ち、耐久性に優れ、吸水性が殆ど無い磁器は、

   雑菌も吸い込まない為に、非常に衛生的で、実用陶器としては、最適であるといえます。

   それ故、 商人や、庶民さえも、磁器を使うように、成ります。

 ① 陶器の産地への影響(衰退)

   瀬戸や京都、九谷など、陶石が採掘出来る地方では、早速磁器の技法を学び、生産を開始します。

  ) 磁器の原料(陶石)が、手に入らない、志野、織部、備前、唐津などは、磁器の生産が出来ず、

    磁器の興隆に押され、18世紀~20世紀初頭までは、陶器は、ほとんど忘れ去られ、

    廃業した陶器の窯元も多く、陶器の存在さえ、忘れる程に、なっていきました。

 ② 日本陶器の復興

  ) 昭和に入って、北大路魯山人が、その独特な美意識から、桃山の、美の再興を目指し、

    美濃の陶工、荒川豊蔵と共に、1935年、志野の再現に成功します。

  ) 柳宗悦の提唱する、民芸運動(日本の焼き物の美は、大衆が使う実用陶器に在り)と云う

    思想の影響もあり、この運動に、共感する、河井寛次郎、益子の浜田庄司や、備前の金重陶陽、

    瀬戸の加藤唐九郎、唐津の中里無庵などが、廃れてしまった、それぞれの産地の、

    技術の再興に乗り出しました。

  ) 技術的には、英国の「バーナード、リーチ」達による、ゼーゲルコーンの使用や、化学的な、

    原料や、釉薬の解析法など、科学的、合理的製陶技術が伝わり、それまで「窯まかせ」だった

    日本の焼き物の技術を、格段に進歩させました。

   こうした伝統再興の運動は、各地に展開し、日本の陶器は再び復活して、現代に至っています。
     
2) ヨーロッパへの影響

   柿右衛門様式の色絵磁器は、輸出用色絵磁器として、飛躍的に発展し、数多くの作品が、

   ヨーロッパに渡りました。

 ① 日本が、鎖国中にもかかわらず、1653年には、大量の有田磁器が、オランダの 東インド会社の

   手で、伊万里港から、ヨーロッパをはじめ、海外へ輸出され、人気を博しました。

   磁器は、盛んに輸出され、世界各地の求めにより、様々な磁器が作られました。

   東洋と西洋の生活文化の違いで、デザインの好みや、器の種類や形の上に、あらわれます。

   徳川将軍への献上品であった「鍋島焼」と、ヨーロッパの王侯が求めた磁器は、異なり、

   ヨーロッパには、輸出専用に、焼かれましたます。

 ② この優美な磁器に、ヨーロッパの王侯貴族は、魅了され、ドイツ、オーストリア、オランダ、

   イギリス、フランス、北欧、そして東欧諸国まで、伝わります。

  ) ヨーロッパでは、東洋磁器を 盛んに求めていましたが、18世紀に入り、ドイツの

    マイセン窯で、ヨーロッパ初の磁器が生まれ、その後、日本の磁器などの、影響を受けながら、

    急速に、ヨーロッパでの磁器生産が、盛んになりました。

   ドイツの「マイセン窯」の他、フランスの「シャンティイ窯」、「サン・クルー窯」、

   イギリスの「チェルシー窯」など、各地で、柿右衛門様式の模倣が行われました。 

 以下次回に続きます。

  有田焼の影響
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会津本郷焼、砥部焼、その他

2009-12-29 22:10:47 | 世界の陶磁器の歴史
引き続き、諸藩の磁器の生産について、述べます。

4) 会津本郷焼(あいづ、ほんごうやき)(福島県)

 会津本郷は、陶器と磁器が共存する、東北地方で最古の歴史を誇る窯場です。

 1593年に、領主である蒲生氏郷が、播磨国(兵庫)から、瓦工を呼んで、鶴ヶ城の屋根瓦を

 製造させたのが、本郷焼の、始まりです。

 ・ 17世紀中頃に、瀬戸から陶工、水野源左衛門が招かれ、本格的に、焼き物の基礎が築かれます。

  その後、1645年 に、会津藩主、松平保科正之が、長沼(福島県岩瀬郡長沼町)から、

  瀬戸生まれの陶工を、召し抱えて、本格的な陶器の製造が、開始されました。

 ・ 有田の、磁器の製造技術は、加賀(石川、九谷焼)、京都(京焼)、伊予(愛媛、砥部焼)など、

  各地に伝えられました。

 ① 会津藩にも、1800年に、有田や京都で学んだ、佐藤伊兵衛が、磁器の製法を伝え、

   白磁が焼かれます。

   幕末には、大いに発展し、現在の会津本郷焼の、原型が完成します。

   (地元の豊富な原料を用いた、会津本郷の焼物は、約350年の月日を経て、瓦から、

   日用使いの器へと形を変え、現在17軒の窯元に支えられています。)

 ② 現在、宗像窯以外の、16の窯元では、磁器が中心に焼かれています。白磁染付、色絵など、

   窯元ごとに、独自の作風を打ち出し、「会津本郷の磁器と言えばこれ」という様な

   特徴的な物は、ありませんが、どれも華やかで、賑やかです。

 ③ 昔と違って、分業で行っていた作業も、今はすべての工程を、一人の職人が行っています。

   会津本郷焼は、日常品であるため、使いやすさ、丈夫さ、軽さを第一に、作っています。

 ④ 会津本郷焼で使われる釉薬に、「飴釉」(あめゆ)があります。

   飴釉は、文字通り飴色で、光沢を持ち、この釉を使った、代表的な陶器が、「鰊鉢」(にしんばち)

   で、古くから鰊の、山椒漬けに、使われてきたました。

5) 砥部焼 (とべやき)(愛媛県伊予郡砥部町)

  ① 砥部焼は、1730年頃から、作られている焼き物で、藩の財政再建のため、

   砥石(といし)の屑(くず)から、磁器を作った事が、始まりと言われています。

  ・ 1777年に、九州の波佐見や、三川内などの技術を、取り入れて、染付の磁器の焼成に、

   成功しました。後の1818年には川登で、良質な陶石が発見され、量産化が進められました。

 ② 現在の砥部焼

   明治以降、第二次世界大戦以前の砥部焼では、さらに良質な陶石が、発見され、

   近代窯業の技術や、設備が導入され、良質の磁器が、大量生産されるようになりました。

   作品は、染付や呉須で描かれた、大花瓶や錦絵磁器、などがあります。

   1976年に、経済産業省から、伝統的工芸品の指定を受け、2005年(平成17年)に、

   愛媛県の無形文化財に、指定されました。

6) 出石焼 (兵庫県出石郡出石町)

  出石焼は、18世紀中ごろに、始まります。

  日本で、唯一「純白」の素地を生産する、磁器の産地でもあります。

  伝統的に、彫刻を施した磁器製品が多いです。

  「かきたに陶石」を使い、轆轤造りで、彫り、透かし彫り、絵付けの技法で、 飲食器、 花瓶 、

  工芸品 、茶器、 茶道具などを、作っています。

 7) 天草陶磁器

   熊本県本渡市、天草郡大矢野町、五和町、苓北町、天草などが、生産地です。

  ① 天草では、江戸初期~中期より、村民達により、陶磁器が焼かれていました。

  ② 天草陶石と言う、優れた陶石が、産出されており、全国の陶業地に、送り出されています。

   天草陶石は、カオリンをより多く含み、鉄分が少ないので、有田の 泉山の磁石より、

   製品化する際に有利で、現在では、泉山陶石が、枯渇した為もあり、有田でも 天草陶石が、

   大量に使われています。

  ③ 1673年以前から、磁器が焼かれ、陶器は1765年に水の平(現在本渡市)に、水の平焼が

   創業されました。日用品が、主に焼かれています。

   透明感のある純白の磁器や、黒釉を使った、個性的な製品が多いです。

以下次回に続きます。

 会津本郷焼 砥部焼  


       

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三川内焼(平戸焼)

2009-12-28 21:40:58 | 世界の陶磁器の歴史
前回に続き、諸藩の焼き物について、お話いたします。

3) 三川内(みかわうち)焼 (長崎県、佐世保市)

  佐世保が誇る、伝統的工芸品、「三川内焼」は、藩窯の手厚い庇護のもと、採算を考えずに、

  良い環境の中で、ひたすら、高級品を作り続けた、歴史があり、その高い技術は、今に

  引き継がれています。

 ・ 秀吉の朝鮮の役(1598年)で、平戸藩主が、朝鮮より連れ帰った、陶工の一人で、巨関(こせき)が、

   平戸の中野で、作陶をしたのが始まりです。

   良質の陶石が、近くになかったため、巨関と息子、今村三之丞は、陶石を探し求め、

   最後に落ち着いたのが、三川内でした。

 ・ 平戸藩主の命により、三之丞は、三川内山に、藩用窯を開き、その後、皿山役所の出張所を、

   木原山と、江永山に設けます、それが、三川内、三皿山の起こりです。

 ・ 巨関、三之丞、弥次兵衛の親子三代の、努力と研鑽によって、天草陶石と、網代陶石を用いて

   純白の磁器の焼成に成功します、これが平戸焼(三川内焼)の、白磁の始まりです。

 ① 三川内焼は、「繊細優美」の一言で表現され、開窯以来、朝廷や将軍家への献上品が多く、

   日用品から、室内装飾品に至るまで、常に高級感のある、「焼き物」造りに専念します。

    (昭和53年には、国の伝統工芸品に、指定されました。)

 ② 三川内焼の美しさの特徴は、以下の事柄です。

  ) 磁肌の白さを強調した、白磁であり、成形の削りも妙で、薄手で、繊細な筆致の染付けと

     細工物を、挙げる事が出来ます。

     この白さは、天草陶石を、原料とすることで、生まれました。

     白磁の作品には、皿や茶道具の水指、置物などがあります。

  ) 作品は、限界まで削って、薄くします。卵殻手とも呼ばれています。

     文様を削り込み、釉薬の溜まりによる、濃淡を出す青影(いんちん)の技法もあります。

  ) 染付けの技法は、繊細な筆致による、絵付けで、他の追従を許さない、高度な技法です。

     藩窯の元、高度に磨かれた技術で、代表的な絵柄は、唐子,花鳥山水,秋草文様などです。

   ・ 特に、唐子模様は、唐子が唐扇を持って、蝶を追い、松と牡丹のそばで、戯れる構図の絵は、

     三川内焼のトレードマークです。

   ・ 唐子絵の焼物は、他の窯では、焼くことを許されない、『お止め焼き』で、その上、

     描かれた唐子の人数によって、七人唐子は、献上品、五人唐子は、藩公の用品、または、

     諸大名への贈答用、三人唐子が、一般用と区別されていました。

  ) 細工は、香炉の透かし、菊細工の起こし、貼り付け、彫刻などの、細工物も、三川内焼の

     特徴です。 更に毛彫りによる、表面の文様など、細部までも、手を抜かない技術です。

  ) 代表的な製品は、絵皿、花瓶、香炉、茶器、酒器、割烹食器などです。

 ③ 平戸は、遣唐使船時代からの、古い港で、南蛮貿易港としても、繁栄していました。

 ・ 南蛮交易が、盛んだった頃は、有田焼同様、たくさんの三川内焼が、国外に輸出されます。

 ・ しかし、藩用窯だったため、江戸幕府が倒れると、藩の庇護も無くなり、存亡の危機に

   立たされます。

   早くから民窯としての、経営と実績をもった有田や、伊万里と競争できず、三川内焼の凋落は、

   目に見えて、ひどくなります。 

 ・ 豊島政治がこれを見て、再建に乗りだし、販路の拡張、伝承の技を、守るため、意匠伝習所を

   1189年に創設します。伝承所の指導のもと、三川内焼の優れた技術は、若い陶工たちに、

   受け継がれ、今日に至っています。

以下次回に続きます。

 三川内焼(平戸焼)
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有田焼の影響(京焼、瀬戸焼)

2009-12-27 20:44:10 | 世界の陶磁器の歴史
有田で焼かれた、日本最初の磁器は、有田での生産が、活発に成るにつれ、日本の各地窯場に、

大きな影響を与えます。

1) 京焼

   京都周辺には、磁器に適した土がなく、京焼は陶器しか、焼く事が出来なかったが、

   磁器とは、違った日本の色絵の世界を、作り出します。

   粟田口あたりが、京焼の始まりで、このほか、八坂焼き、清水焼等の名が文献にあります。

   これらの窯は、東山から北山にかけての、山麓にあり、御室焼だけが、洛西にありました。

   この窯の主宰者が、野々村仁清(にんせい)です。

 ・ 有田の色絵と、決定的に違うのは、仁清の色絵の意匠が、中国の様式を、全く顧みなかった事で、

   描かれているのは、大和絵、琳派風絵画、水墨画などの、きわめて和様の意匠で、

   京都ならではの、優美な色絵となっています。

   その後、仁清に学んだ、尾形乾山が、仁清の和様の色絵を、さらに展開することになります。

 ・ 京焼とは、粟田口焼、御室焼、清水焼など、京都で作られる作品の、総称です。

   上絵付けを施す技法を、用いた陶器が多く、作家ごとの、個性が強いのが特徴です。

 ① 京焼の色絵は、柿右衛門の赤絵より、30年も前に、野々宮仁青(にんせい、生没不明)によって、

   上絵付けが、なされていました。 

   但し、陶器の上絵付けで、ヨーロッパが求めていた、磁器の赤絵では、有りませんでした。

   仁清の絵付けは、それまでの、「写しもの」と呼ばれる、茶器製造から、多彩なデザインの

   「色絵もの」で、それまでの、京焼の作風を、変える程の物でした。

  ・ 天皇、皇族、貴族、僧侶などが、型紙や、図面を添えて、盛んに、仁清に注文を出しています。

 ② その影響を受けて、江戸初期から中期にかけて、東山山麓の各窯で、「古清水」と

   呼ばれる、色絵陶器が、制作されます。

 ③ やや遅れて登場したのが尾形乾山(おがた、けんざん)です。

   仁清に学んだ、尾形乾山が、仁清の和様の色絵を、さらに、展開する事になります。

   乾山は、画家、尾形光琳(こうりん)の弟で、光琳の絵付けした物に、乾山が書を寄せる

   共同作業で、数々の名作を残しました。
  
 ④ 江戸の中頃に、新しい京焼として、本格的な磁器が、焼成されます。

   奥田頴川(えいせん)(1753年~1811年)は、鳴滝に窯を開き、中国明代の磁器を手本に、

   京焼として、初めて古染付・赤絵など、色彩磁器の焼成を、完成させます。

   これを継承したのが、五条坂の諸窯です。

   木米,道八等の名工を、弟子として養成し、京焼の中に、唐物写しの、新しい傾向を

   もたらします。

 ) 頴川の教えを受け、青木木米(1767年~1833年)は、磁器の作品を、多く残します。

    主に、煎茶器を制作し、後に、青蓮院宮、粟田御所の、御用焼物師となります。

    青木木米は、仁清や乾山と並び、「京焼三名工」と、讃えられます。

 ) 仁阿弥道八(にんあみ、どうはち)(1782年~1855年)も、奥田頴川の後を受けて、

    磁器の作品を多く残します。


2) 瀬戸焼

   1804年(文化1年) 、加藤民吉は、磁器の製法を修得するために、九州へ渡ります。

   1806年(文化3年) 瀬戸に帰り、有田で得た技術を元に、 53歳で没するまで、

   染付磁器の研究を続けました。

   そして、その製法を人々に伝え、瀬戸は再び「焼き物の町」として、栄えます。

   加藤民吉(たみき、1772年 ~1824年)は、瀬戸生まれの陶工で、瀬戸焼の

   染付磁器を創成しました。 地元瀬戸では、磁祖と呼ばれていまいす。

 ・ しかし、加藤が学んだ技術は、有田から、無断で、持ち出したものです。

  (当時、有田焼の技術は、当然、門外不出であった為、伝統技術の、スパイ行為は大罪で、

  加藤は、決死の覚悟で、臨んだという事です)。

  そのため、有田は加藤のスパイ行為によって、技術を盗まれ、後の大幅な衰退を余儀なくされます。

  有田では、民吉は、極めて悪評の高い、人物となっています。

以下次回に続きます。

 京焼 瀬戸焼
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九谷焼 2 (再興九谷)

2009-12-26 21:58:43 | 世界の陶磁器の歴史
古九谷の窯が、廃止に成ってから、百十余年、加賀には、焼物らしいものが、有りませんでしたが、

産業奨励・失業者救済の目的で、大聖寺藩(加賀藩の支藩)が、文化4年(1807)京都から、

青木木米 を招き、春日山に、官営の窯を築いた事が、今日までの、陶業継続の、きっかけと成ります。

2)  再興九谷

   文化年間(1804~18)に、加賀藩の殖産政策として、卯辰山(うたつやま)(金沢市)に、

  窯が開かれたのを始まりに、藩内各地に、新しい窯が、勃興します。藩営だけでなく、民営の窯も、

  作られます。これらの諸窯の作品を、「再興九谷」と呼んでいます。

 ① 1807年(文化4)京都から、青木木米(もくべい)が招かれ、弟子の本多貞吉とともに、

  卯辰山麓に、春日山窯を開きます。

  ・ ここでは、呉須赤絵、青磁、古赤絵、染付、絵高麗、交趾(こうち)写しなどが、中国陶磁を、

  手本に焼かれます。

  しかし、金沢城の大火に伴い、陶業も発展せず、1822年(文政5)には、木米は京へ帰ります。

  ・ 加賀藩主、武田民山が、受け継いで、別に民山窯を、開いています。

    民山窯は、半磁胎の素地に、赤を中心に上絵付した、明るく朗らかな、作風で魅力的な磁器を、

    多く焼いきますが、彼の没した1844年(弘化1)には廃窯します。

 ② 1811年に、若杉村(現小松市若杉町)の十村(とむら)の庄屋、林八兵衛が、本多貞吉を招いて、

   若杉窯を起しています。その後、藩の郡奉行の支配となり、一大製陶所に発展します。

   その間、藩では、京都、肥前からの移入を禁じて、生産を保護奨励します。

  ・ 伊万里をはじめ、種々の焼物を 手本として、量産する共に、阿波(徳島)出身の、武一勇次郎を、

    絵付師に迎えて、絵付物に、優作を残し、1875年(明治8)まで存続します。

 ③  いわゆる、「伝世古九谷」の色絵磁器を、本格的に写し、新たな独特の装飾様式にまで、

    展開させたのは、大聖寺の豪商、吉田屋(豊田伝右衛門)です。

  ・ 彼は、晩年の1823年ごろ、古九谷の、古窯址の近くに、新窯を築き、吉田屋窯とします。

   本多貞吉の養子、清兵衛が主力となり、古九谷の「五彩手」と「青手」に倣った、

   芸術的香りの高い、重厚な、色絵磁器を造ります。再興九谷焼では、最も優れた作品群と、

   言われています。

  ・ 「青手古九谷」の、塗り埋め様式を、再興したもので、赤を使わず青(緑)、黄、紫、紺青の四彩を

    使っています。模様のほかに、小紋を、地紋様風にして、器物全面を、絵の具で塗り埋めた

    重厚さのある作風で、独特の雰囲気があります。

  ・ 窯は1825年に、山代(やましろ)の越中谷窯に、移されるが、31年(天保2)に廃窯します。

 ④ 吉田屋窯の後を受けて、宮本屋宇右衛門が、1832年に宮本屋窯を開き、赤絵細描に優れた、

   飯田屋八郎右衛門が、絵付師を務めて、「八郎手」とよぶ、「金襴手」を、完成させます。

  ・ これが世評を集めて、加賀の諸窯に、影響を与え、九谷赤絵流行の、起因となります。

  ・ この「八郎手」に、独自の工夫を加えて、艶やかな「彩色金襴手」を作り出したのは、

    九谷庄三で、「庄三風」の始祖となっています。

 ⑤ また京都から、山代へ招かれた、永楽和全(わぜん)による、「金襴手」の技法は、

   「九谷永楽」と呼ばれる、独特の作風を残しました。

  ・ 「京焼金襴手」手法で、全面を赤で下塗りし、その上に、金のみで、彩色した豪華絢爛な

    作風とともに、京焼風な洗練された、美しさをみせています。

以下次回(有田赤絵の影響)に続きます。

 再興九谷焼

 
 
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九谷焼 1 (古九谷)

2009-12-25 22:29:10 | 世界の陶磁器の歴史
我が国の、色絵磁器は、有田焼と九谷焼が、代表的な、焼き物といえます。

九谷焼は、有田焼から、大きな影響を、受けて発展します。

・ 九谷焼は、大きく分けて、1)古九谷焼と、2)再興九谷焼とが有ります。

 1) 古九谷は、明暦元年(1655年)~元禄(1688年~1704年)前半頃に、作られた焼き物を言います。

  ① 古九谷焼の特徴

    古九谷と、称されているのは、色絵磁器で、不透明な鈍い白色素地に、花鳥、山水、風物などを、

    描いたものが多く、いずれも大胆な構図で、濃い彩釉を用い、力強い筆致で、

    上絵付されています。文様は、祥瑞(しょんずい)風、和風などから、種々の影響がみられ、

    幾何学文様なども用い、古九谷様式ともいうべき、独自の意匠を展開しています。

    また素地を、青・緑・紫・黄の彩釉で、塗りつぶした青手(あおで=塗りつぶし手)も、

    古九谷特有のものです。

  ② 九谷で磁器土が、見つかり、それを受けて、大聖寺藩主の前田利治が、家臣の後藤才次郎を、

    有田に派遣して、作陶の技術を修得させ、帰藩後、田村権左右衛門を、指導して明暦元年に、

    (現在の石川県、江沼郡、山中町九谷に)築窯したと、一般に伝えられているます。

  ③ 古九谷焼は、何処で焼かれたのか?

    古九谷焼の焼成場所については、幾つかの説が存在します。

    九谷で焼かれた説。 伊万里(有田)説。 本焼きまでは有田で、上絵付けのみ

    九谷で焼いた説の、3通の説があります。

   ) 九谷説      

    ・ 当時、大聖寺焼と呼ばれた、古九谷窯は、かなり画期的なもので、34メートルに及ぶ、

     大規模な連房式登窯を、2基も備える窯場であった事が、発掘調査で解かります。

    ・ この窯の、構造や規模は、有田の天狗谷古窯や、初期伊万里を焼いた窯と、実測値が

      極めて近く、類似していました。 有田の影響が、大きい事が、わかります。

    ・ 「明暦元年」の銘が有る、花瓶の陶磁器片や、「明暦弐歳」銘の、色見磁器片が、

      発掘されている事から、この説を主張する人もいます。

   ) 古伊万里説

    ・ 発掘品からは、古九谷焼として有名な、平鉢や、薄手の輪花の中皿、隅切りの中皿、

      型物の小皿などが、見つかっていない。

    ・ 伝世の古九谷焼では、素地に、目跡が有るが、発掘品には、見当たらない。

      (目跡とは、本焼きの際、重ね焼きする為、目を立てます、焼成後、これを削り取り

       ますが、跡が残ります。)

    ・ その他、焼成温度の違い、高台径の違い、文様の違いなど、古九谷焼が、九谷で作られ、

      焼かれた事に、矛盾するとの、主張があり、有田で焼かれた物と、見る方が、

      自然であると言う、説です。

    ) 上絵付けのみが、九谷で焼かれた説

     ・ 有田で焼かれた白磁が、伊万里港から、船で北陸まで運ばれ、陸路九谷に入り、

       そこで、上絵付けが、施されたと言う説です。

     ・ 古九谷焼の作品の数は、多量で、二つの窯だけで、焼くには、不可能である。

     ・ 古九谷の色付けの、筆使い、作風は、有田と異なり、呉須の線描の上に、絵の具を、

       厚く盛り上げる「溜塗り」風に、塗っています。

       それ故、上絵は、九谷で行ったと見る、説です。

   尚、九谷では、磁器土が、十分供給されず、有田から、搬入したとの説も、有ります。

  以上の説が有りますが、その結末は、私には、解かりません。 

  ④ 古九谷窯の廃止

    元禄に成ると、突然、九谷の窯は、廃止に成ります。

    その原因は、諸説有りますが、基本的には、この窯で焼かれた作品は、藩にとって、

    大きな利益を、「もたらさない」為と、思われます。   

 2. 再興九谷

 以下次回に続きます。
    
 古九谷焼
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柿右衛門様式(赤絵)

2009-12-23 23:06:23 | 世界の陶磁器の歴史
中国の宋の時代(12世紀)に、胎陶赤絵(陶器に赤絵を施した物)が、登場します。

14世紀以降に、宋の磁州窯で、胎磁器赤絵(磁器に絵付けした物)が、焼成されます。

更に、元末~明初めに、青花紅彩へと発展し、明朝になり、華麗な彩絵磁器が、景徳鎮窯で、

盛んに生産されます。

1530年前後に、中国では、本格的な、五彩磁器の黄金期を、迎えます。

 1) 赤絵とは

   赤色を主調とする、上絵付けのことで、「錦窯」(にしきかま)と言う窯を使い、酸化焼成で、

   700~800℃(850℃)で焼付けます。

   赤絵の原料は、鉄、クロム、銅、セレニュウム、ウラニュウムなどが有ります。

   一般に、鉄化合物を使いますが、高い温度(1000℃以上)では、赤く発色しません。

 2) 赤絵には、単に白磁の上に、絵付けした物と、呉須(ゴス)で下絵付けし、本焼き後に、

    上絵を施す、方法が有ります。

   
 肥前鍋島藩の有田では、1645年前後に、初代柿右衛門が、長崎に滞在中の、中国人の協力を得て、

 初めて、胎磁赤絵を、完成させたと、言われています。

 この赤絵は、上流階級だけでなく、商人や一般庶民にも、広く使われる様になります。

 3) 柿右衛門様式

  ・ 当時有田にある、他の窯々でも、色絵が作られており、酒井田柿右衛門に代表される、

   延宝時代(1674~1681年)に確立された、色絵の磁器を総称して、柿右衛門様式と呼んでいます。

  ・ 柿右衛門様式の特徴は、「濁手(にごしで)」と呼ばれる、上質の乳白色磁胎です。

   その上絵で、用いられる色は、明るく澄んだ色調で、赤・黄・緑、そして染付(ゴス)とは異なる、

   青の4色です。ただし後期には、これら4色に、紫や金が加わる様になります。

  ・ 図柄は、日本画的な花鳥風月が多く、その構図は、左右非対象で、東洋的とも評される、

   余白を生かしたものです。

   また、それまで染付で描かれることが多かった、輪郭線は、柿右衛門様式では、

   極めて繊細な、黒い線になっています。

  ・ 更に、鉢や皿類には、ほとんどの器の口縁に、「口銹」と言われる、銹釉が施されています。

   造形的には、変形皿も、柿右衛門様式の特徴の一つに、数えられています。

  ・ 柿右衛門様式の特徴である、「濁(にごし)」とは、この地方で、米の研ぎ汁の事をいいます。

   単なる白ではなく、透明感と、暖かみのある、乳白色の素地です。

   この素地があってこそ、柿右衛門様式の余白の美が、成り立つのだといえます。


 濁手の技法は、江戸後期以降姿を消し、柿右衛門様式そのものも、有田のやきものの中から、

 姿を消していましたが、昭和28年に12代、13代柿右衛門によって、濁手の技法は復活されます。

 有田の赤絵は、日本各地の窯(九谷焼、京焼、姫谷焼、薩摩焼など)に、大きな影響を与えます。

 又、柿右衛門様式の色絵磁器は、輸出用、色絵磁器として、飛躍的に発展し、数多くの作品が、

 「伊万里港」から、ヨーロッパに渡りました。

以下次回に続きます。

 柿右衛門様式
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我が国の、磁器の製造

2009-12-22 22:14:26 | 世界の陶磁器の歴史
室町の末から、江戸の初頭にかけて、国内で焼き物の、需要が高まった背景は、織田信長や、

豊臣秀吉といった、天下人や、諸大名が好んだ、「茶の湯」の流行が、当時の人々の「たしなみ」として

広まり、茶会が開かれ、必要となる器、焼きもの需要が、大きかった為です。

 それ故、秀吉の朝鮮出兵の際、各地の大名が、朝鮮の陶磁器を造る、陶工たちを連れて帰ります。

 ④ 磁器の製造

   「焼き物戦争」は、陶器以外の焼き物や、新しい技術、即ち、磁器の製造方法が、伝わります。

 ) 有田焼

  1604年、鍋島藩(肥後、佐賀県)主・鍋島直茂により、朝鮮半島から連行された、陶工の李参平

  (イ・サムピョン 日本名 金ヶ江三兵衛〔かながえ・さんべえ〕)が、有田の泉山に、

  良質な「カリオン」を含む、白磁鉱を発見し、1616年(諸説あり)、白川天狗谷窯を開き、

  磁器を焼きます。 これが、有田焼の始まりで、日本の磁器産業の、始まりでもあります。

  有田の焼き物は、鍋島藩の保護に守られ、有田焼として発展し続け、優れた作品や商品を

  作り出しました。 

   (有田に在った陶器の窯は、全部廃止され、磁器のみの生産と成ります。)

 ・ 尚、陶器と磁器の違いは、原料です。陶器が粘土で作るのに対し、磁器は石(陶石)を砕いた粉を

   原料としており、陶器と比べて、白くて堅く、滑らかな肌が特徴で、陶器より高温で焼きます。

 ) 伊万里焼と有田焼

   肥前(佐賀県)有田で生産された、磁器は、伊万里港から、船で、各地へ搬出されていた事から

   「伊万里焼」と呼ばれました。(それ故、伊万里焼と、有田焼は同じ物です)
 
   大阪や京などの消費地では、「伊万里から来た焼き物」、「伊万里焼」と呼ぶようになります。

  ) 初期伊万里(古伊万里)

    この磁器に、「コバルト」の青(ゴス)で、文様を描いた器を、日本では「染付」、中国では、

    「青花」と呼びますが、17世紀初頭、優れた中国磁器をモデルにして、日本でも磁器の、

    「染付」が、多く焼かれる様になります。

    1610年代頃から、色絵磁器の誕生を始め、技術革新を迎える1640年~50年代頃までの作品を、

    「初期伊万里」(古伊万里)と呼びます。
        
  ) 初期伊万里の終焉

     17世紀の半ば、有田の窯場は、次々と新しい技術を導入して、製品の様相は大きく変化します。

     安定した染付の色と線、薄い素地、中国式の大きな高台、そして色絵の誕生です。

     次々と、技術革新が進められ、伊万里は、徐々に様式を変化させますが、茶の衰退も

     相まって、17世紀中葉には、初期伊万里(古伊万里)は、姿を消していきました。

  ) 有田焼は、染付や染錦などの、古伊万里様式、赤絵、濁手などの柿右衛門様式、

     色鍋島の鍋島様式の、3系統に大別されます。

     藩御用達や献上用に、作られていた色鍋島は、一般に出回らず、一般庶民は、古伊万里と

     柿右衛門様式の、磁器を使いました。

以下次回(柿右衛門様式)に、続きます。


   有田焼(伊万里焼)
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桃山時代の陶磁器 2

2009-12-21 22:17:23 | 世界の陶磁器の歴史
諸大名は、朝鮮より連れ帰った、陶工達の、新技術や、陶磁器製法を使い、各地に窯が築かれ、

陶磁器の産地となり、藩の財政にも、貢献する様になります。

 (拉致した人数は、一つの藩で、数十人で、全体では、数百人と言われています。)

 慶長の役後、唐津焼・薩摩焼・萩焼・有田焼・上野(あがの)焼・高取焼などの窯が各地に発生します。

 各大名とも、朝鮮の優れた焼物に、目をつけ、自国領で、好みの焼物を焼かせ、それによって

 産業の振興を、図ろうとします。

  陶工達は、焼物の技術者として、破格の待遇を受けて、その技術を伝えます。

 ) 萩焼について

  a) 前回お話した様に、朝鮮より連れ帰った陶工、李勺光(り しゃくこう)は、毛利輝元に、

    預けられます。その後、弟の李敬(り けい)が呼び寄せられました。

    (一説には、連行されたとも、言われています。)
 
    この兄弟が、萩焼の祖といわれています。

  b) 関が原の戦いに、敗れた毛利輝元は、慶長九年(1604年)、居城を安芸(広島)から、

    長州の萩に移されます。 李兄弟も、これに従い、城下に窯が築かれます。

    これが、藩の御用窯としての始まりで、李朝陶芸の伝統の技が、萩の地に伝えられ、

    現在に至ております。
 
  c) 萩の川辺には、質の良い陶土にも恵まれ、弥生式土器や、須恵器などが、数多く、

    発掘されています。それ故、焼き物の素地は、十分ありました。

    輝元をはじめ、代々、毛利氏の一族は、すぐれた茶人でもあり、焼き物の育成に、

    力を入れた物と、考えられます。
 
 ) 薩摩焼

    薩摩焼も、藩主、島津義弘が、朝鮮陶工(40人余り)を、捕虜として連れ帰り、鹿児島に

    最初の窯を作ります。

    義弘は、陶工の持ってきた、白土と釉薬で、藩主専用の陶器を作らせました。

    これが、薩摩焼きの起源です。

    やがて領内の霧島・指宿辺りで、白土が発見され、「白もん」の製作は、飛躍的に、進歩します。

    尚、白薩摩は、藩主など上流階級用で、黒薩摩は、一般庶民用に、区別されて、製作されました。

  ) 高取焼き

    高取焼は、茶人大名でもある、黒田如水、小堀遠州らが、九州の地で、育てあげた茶陶窯で、

    遠州七窯の一つとして、又、筑前、黒田藩の御用窯として、知られています。

    以後、数々の名物、名器を生み出し、日本の茶道文化の中で、脈々と息づき、

    「筑前に高取あり」と謳い、茶道の道具として、高取焼が受け継がれて、います。

    開窯は、黒田長政が、慶長五年(1600年)に、筑前の国主となって以後のことで、

    長政に従って、朝鮮の地より渡来した、名工、八山(和名=八蔵重貞)が開祖です。

 ④ 磁器の製造が始まる。

  陶器以外でも、中国や、朝鮮より、焼き物の、新しい技術、即ち、磁器の製造方法が、伝わります。

以下次回に続きます。

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