わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

現代陶芸127(小野珀子1)

2012-05-31 16:54:51 | 現代陶芸と工芸家達

釉裏金彩の陶芸家として知られる小野珀子氏は、1980年からの10年間に、この技法による大作を

発表し続けます。

1) 小野 珀子(おの はくこ): 1925年(大正14)~1996年(平成8) 享年71歳

 ① 経歴

  ) 愛知県名古屋市鍋屋上野町で、名古屋製陶所の技師である小野信吾(小野琥山)の長女

     として生まれます。

     1931年 父が福島県会津本郷に、琥山製陶所を設立する為、一家は会津本郷に移り住みます。

      (尚1939年には、琥山製陶所を佐賀県嬉野市に移転します。)

     1943年 会津若松高等女学校を卒業し、家業を手伝う様になります。

     1948年 東京の大串家に嫁ぎ、二児(長男太郎、次男次郎)の母と成りますが、1960年離婚し

      実家である佐賀県嬉野市に戻ります。ここで、花瓶のデザインや額皿、陶板などの絵付けを

      担当する様に成ります。

  )  1969年 日本工芸会西部支部展で「釉裏金彩紫陽花文青釉水指」が初入選を果たします。

     1970年 第十七回日本伝統工芸展で「釉裏金彩黄釉花入」で初入選します。

       以後十八回~二十一回連続入選しています。いずれも「釉裏金彩」の作品です。

     1971年 日本工芸会西部支部展で、「釉裏金彩黄釉瓶」が朝日金賞を受賞し、東京国立近代

      美術館お買い上げになります。

      同年 東京南青山のグリーンギャラリーで初の個展を開きます。

     1975年 オーストラリア・ニュージーランド巡回、近代日本陶芸展を始め、インド、北アメリカ等

      海外でも作品を発表しています。    

  ② 小野珀子の「釉裏金彩」

   ) 彼女が釉裏金彩という技法に取組むきっかけは、1964年、珀子49歳の時に加藤土師萌の

    作品に出会った事からだと言われています。

    加藤土師萌(はじめ=色絵磁器で無形文化財保持者)氏は、前回お話した竹田有恒が1961年の

    日本伝統工芸展に出品予定の作品が破損した際に、この作品の技法に感銘を受けた審査員の

     一人で、修理後入選させた張本人とされています。

    加藤氏はこの新技法に挑戦し、翌年の日本伝統工芸展に「釉裏金彩」の名前で発表します。

    1964年 現代国際陶芸手展(国立近代美術館、朝日新聞社主催)で「釉裏金彩」が展示され、

    九州久留米市の石橋美術館にも巡回展示されます。小野氏が出会ったのは、この時の様です。

  ) 竹田氏と加藤氏の「釉裏金彩」の方法は、ほぼ同じものです。若干の違いは、竹田氏が金箔による

     文様を重視したのに対し、加藤氏は金箔とその上に掛かる釉の一体感を重視しているのでは

     ないかと言われています。

  ) 小野氏は、金襴手の作品をすでに手掛けており、金(金液、金泥)を使う事には慣れていて、

     金箔を取り扱う事にも、抵抗感が無かったと思われますが、一人で挑戦して行きます。

    a) 小野氏の「釉裏金彩」の特徴は、竹田氏が陶土を使用したのに対し、磁土を使った事です。

       磁胎である為、釉の発色が格段に鮮やかになります。金箔部分は釉の重なり具合や、

       色釉の変化によって、微妙な色調となり雰囲気も大きく変える事も出来ます。

    b) 例えば黄釉を使用すると、金箔の豪華さが引き出せます。

      (黄釉は、ルチール・酸化亜鉛・上絵白釉の混合でフリットを作り、同量のソーダー釉に混ぜて

       調合するそうです。)

      青釉を使うと、華やかで落ち着いた作品に成ります。金箔と重なると、青緑色に発色します。

      (青釉は、アンチモン・酸化コバルト・上絵白釉のフリットに、同量のソーダー釉を調合する

       そうです。)

       一般には透明系の釉を使うそうで、やや厚めに掛けた方が良い結果が出る様です。

    c) 小野氏の「釉裏金彩」の方法

     イ) 高台内以外は、施釉せずに高温で本焼きし、焼締します。

     ロ) 作品全体に漆を塗り、模様に切った金箔を貼ります。

        金箔の厚さの調整(薄い金箔は縮を起こすそうで、特注品の金箔を使用)や、漆の乾き具合

        など注意が必要との事です。   尚、プラチナ箔を焼き付ける場合もあります。

     ハ) この状態で、820~30℃程度の温度で金箔を焼付けます。(漆は焼けてなくなります。)

     ニ) 更に低火度の釉(上記黄釉や青釉など)を全体に掛け、同程度の温度で焼成します。

    失敗としては、温度管理が難しいようで、焼成中に金箔が動いてしまったり、釉の熔け具合

    (流れ易い、熔け不足など)によって、多くの失敗を繰り返し、完成までに4~5年掛かった様です。

  ・ 注: 小野氏はご自分の開発した技術を公開しています。それによると

   ) 素地は磁胎で、約1300℃位で高台内以外は無釉で本焼します。

   ) 漆は中国産の本黒漆を使用し、全体に塗り、金箔を貼り付けます。

   ) 漆の乾燥には、夏場で1週間程度、冬場で約1ヶ月程度掛かります。

       乾燥具合は、指先で押して確認するそうです。

   ) 金箔は京都の「堀金」に特注し、厚みは一匁(もんめ)で、12枚が良いそうです。

   ) 金箔を焼き付ける為に、820℃程度で約8時間焼成します。

   ) 釉を掛けて焼成します。釉の調合は上記bを参照して下さい。

      焼成条件は、上記と同程度の温度で、24~25時間も掛けて焼くそうです。

      但し600℃位までは、通常の3倍程度の時間を掛け、ゆっくり昇温する事が、肝要との事です。

 ③ 小野氏の作品

以下次回に続きます。

 

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現代陶芸126(竹田 有恒2、恒夫)

2012-05-27 21:01:02 | 現代陶芸と工芸家達

 ③ 有恒氏の釉裏金彩の技法

   ) 信楽の土を主体とした土を使います。磁器土を使うと、金の色が直に出過ぎて、玉虫色が

      出ないといわれています。土物では金をを吸収してしまう為失敗も多いそうですが、金箔の

      厚みや釉の掛け方、焼成の仕方によって色々と変化が出るとの事です。

      又、陶土にする事で釉に貫入が入り易くなり、金が微妙な輝きになる利点もあるとの事です。

   ) 施釉した作品を高火度で本焼きし、その釉の上に漆と白玉とで調合した接着剤で、金箔を

      貼ります。文様部分には厚手の金箔を、余白部分には薄手の金箔を散らして張ります。

      線状の部分は、粗いヤスリで削った金の粉を筆などで、線描きします。

      金箔の配置によって様々な文様を付ける事が出来、透明系の釉を通して金が浮き出て来ます。

    ) 低温で素地に金箔を焼付けてから、釉を掛けて焼成します。

       釉は白玉(主に楽焼用の釉に使用)と珪石、長石、呈色剤の酸化金属を混合したもので、

       低火度釉となります。

    ) 上記酸化金属で、酸化銅を用いると緑色に、酸化鉄を使うと黄色になります。

       金属の配合量によって、ある程度濃淡を付ける事も可能です。

       緑を帯びた黄色を「萌葱(もえぎ)色」と呼び、明るい黄色を「萌黄(もえぎ)色」と呼んでいます。

        (呼び方は同じ音ですが、字が違います。)

   ) 一度の施釉と焼成では十分な色が出ず、2~3回繰り返すと、金と釉が混ざりあい、金色が

      くっきり、又はほのかに輝き、奥行きのある色調に成るとの事です。

 ④ 有恒氏の作品

   ) 作品の種類: 大鉢、大皿、壺、香炉、香合、水指、酒気(ぐい呑み)などの作品があります。

   ) 作品の文様: 蔦(つた)、野葡萄、羊歯(しだ)、いたどり、露草などの他、野草や雑草を

      取り上げています。

   ) 作品としては、「萌黄釉裏金彩鉢」(高9.2 X 径25.2cm)1961年、、「萌黄釉裏金彩花瓶」

     (高35.3 X 径23.5cm)1965年、、「釉裏金彩月桂樹文壺」(高28 X 径25.2cm)1973年,

     「釉裏金彩蔦文鉢」(高10 X 径41cm)1973年: 石川県美術館。「萌黄釉裏金彩葡萄文花瓶」

      (高34 X 径24cm)1975年、「釉裏金彩緑蔭文鉢」(高8.3 X 径35.3cm)1976年

     「緑釉裏金彩鉢」(高10.3 X 径35cm)1974年、「紫釉裏金彩穂波文香炉」(高10.5 X 径11.5cm)

     1975年、「釉裏金彩野葡萄文花瓶」(高24.5 X 径25.5cm)1981年等の作品があります。

2) 竹田恒夫(たけだ つねお): 1932年(昭和7)~1996年(平成8)

   父・有恒が独創した釉裏金彩を継承し、発展させました。また、九谷色絵も手掛けています。

  ① 経歴

   ) 九谷焼の竹田有恒の長男として、石川県金沢市に生まれます。

      金沢市立工業高校を卒業後、電気商に勤務しながら、父の絵付けの手伝いをしていました。

      1955年 父の病の為、この年より本格的な陶芸生活に入ります。

       有恒に師事して釉裏金彩、九谷色絵などの修行生活を送ります。

       同年 石川県現代美術展に初入選を果たし、陶芸界にデビューします。

      1970年 第十七回日本伝統工芸展で、初入選し、以後連続入選します。

      1973年 日本工芸会陶芸部正会員になります。

      1975年 第二十二回日本伝統工芸展で、日本工芸会賞を受賞します。

      1976年 第二十三回 日本伝統工芸展で、「釉裏金彩野葡萄文鉢」が入選します。  

      1979年 第二十六回 日本伝統工芸展で、 「萌黄釉裏金彩飛鳥柘榴文大皿 」が入選。

      1980 朝日陶芸展で、'80賞を受賞します。

      1983年 第三十回 日本伝統工芸展で、「釉裏金彩ざくろ文鉢」が入選しています。         

       同年 伝統工芸士に認定されます。  
  
      その他、石川県現代美術展北国賞・最高賞、伝統九谷焼工芸展大賞・優秀賞、日本陶芸展

      など多くの場で活躍しています。

  ② 竹田恒夫氏の陶芸

   父有恒氏が王朝風や琳派風の優美な作風なのに対し、金彩の他に染付けを加え、濃度の濃い

   緑釉や色釉を施し、色彩に変化をもたらしています。

 次回(小野珀子)に続きます。

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現代陶芸125(竹田 有恒1)

2012-05-26 21:22:58 | 現代陶芸と工芸家達

金の輝きに魅せられ、長年の研究の結果、釉裏金彩(ゆうりきんさい)の技法を確立したのが金沢市

在住の陶芸家、竹田 有恒氏です。現在は息子の恒夫氏が跡を継いで、この技法を発展させています。

1) 竹田 有恒(たけだ ありつね) : 1898年(明治31)~1976年(昭和51)

  ① 経歴

   ) 石川県能美郡根上町下江で、製糸業を営む竹田仁松の次男として生まれます。

      1913年 根上町の助田陶房で下絵付の技法を学びます。

      1914年 九谷焼窯元の川尻晴藍堂にて絵付けの徒弟として、修行を重ねます。

      1917年 東京築地工芸学校、雑工芸科夜間部に入学します。

      1924年 父仁松が息子の為に、屋敷内に仕事場を作ってくれたので、帰郷します。

      1928年 京都の蛇ヵ谷にある初代川尻七平の窯で、絵付師として働きます。

       ここで、染付、陶彫、象嵌などの陶磁器の技術を、身に付ける事に成ります。

      1931年 結婚を機に、金沢市越中町に借家を持ち、ここに上絵付用の窯を築き独立し、

       伊万里風や色鍋島風の食器を焼成します。

      1935年 1938年と商工省展に入選し賞を得ますが、1939年 同展が廃止になり、以後展覧会

       にはしばらく出品せず、陶工として作品の製作に励みます。

      1951年 第八回日本伝統工芸展で、「黄地金彩鉢」が初入選を果たします。

       但しこの作品は、出展の為の輸送途中に破損してしまいます。破損した作品が同展で

       入選した事は一度も無かった事でしたが、新技術の素晴らしさに、修理の上入選させたと

       言われています、この作品が彼の華々しいデビュー作となります。

      1963年 第十回同展で、「金彩萌黄釉鉢」が、第十一回同展で「金彩萌黄釉鉢」が、十二回展

       では「金彩萌黄鉢」が朝日新聞社賞を受賞します。更に日本工芸会正会委員に推挙されます。

      1966年 第十二回日本伝統工芸展で「沈金彩萌黄釉鉢」を出品します。

      1969年 皇居の昭和新宮殿に「萌黄釉金彩花瓶」一対を納入しています。

       (1969年より沈金彩を釉裏金彩と改称します。)

 ②  竹田有恒氏の陶芸

    中国では宋代~明代に、金箔を釉の上に焼き付けて文様にする金襴手の技法が存在しています。

    我が国でも、中国に倣い伊万里金襴手等を生み、更に九谷でも1865年に永楽和全により

    金襴手が作られたのを切っ掛けに、この地で盛んに作られる様になります。

  ) 竹田氏の釉裏金彩の方法は、上記技法と全く異なり、素地に金箔を焼付け、その上に厚く緑釉を

     掛けて焼成する技法です。

  ) この技法で製作すると、黄金色の輝きを押さえ、柔らかく落ち着いた奥ゆかしい色調になります。

     更に、釉で覆われる為、金襴手の様に金が剥がれる事もありません。

     又、釉には細かい貫入が入り、光の屈折と反射により、玉虫の様な微妙で複雑な輝きを発します。

  ) 成功秘話に彼が63歳の時、正倉院の漆の御物の中に、金や銀の薄板を貼った「平文(ひょうもん)

     技法」の装飾方法にヒントを得て、金箔を焼き付ける方法を試み、成功したと言われています。

  ) 磁器の土を使わず陶土を使い、あえて貫入が入る様にしています。

 ③ 有恒氏の釉裏金彩の技法

 以下次回(竹田有恒2、恒夫)に続きます。

  •  尚、当ブログでも「釉裏金彩」に付いて取り上げています。

      興味のある方は、陶磁器の絵付け(釉裏金彩)、2010年1月15日をご覧下さい。 

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現代陶芸124(浅蔵五十吉2)

2012-05-25 21:22:50 | 現代陶芸と工芸家達

2) 三代浅蔵五十吉: 1941年(昭和16) ~

  ① 経歴

   ) 石川県小松市八幡で、二代浅蔵五十吉の息子として生まれます。

     1960年 国立名古屋工業技術試験場、陶磁課に入所し二年間研修を受けます。

     1962年 色桧陶芸界の巨匠、北出搭次郎門下に入り指導を受けます。

     1963年 石川県現代美術展に初入選を果たし、以後連年入選しています。

      同年 第八回日展で「岩層」と題する花器が、初入選し以来23回連続入選を果たします。

     1965年 第十回日展の入選作「海辺ノ譜飾盤」が、政府買上となります。

     1968年 日本現代工芸美術展で初入選します。

     1972年 第四回日展で「対話の夢」が特選を受賞し、翌年無審査出品となります。

     1976年 日展会友になります。平成3、8、10年に日展審査委、11年に日展評議委員になります。

     1984年に日本芸術院会員、1992年に文化功労者、1996年に九谷焼作家として初めてとなる

     文化勲章を受章します。

     1993年 故郷の寺井町に「浅蔵五十吉美術館」が開館しました。

     1999年(平成11年) 三代浅蔵五十吉を襲名します。 現在深香陶窯の窯主となっています。

     同年 第38回日本現代工芸美術展で文部大臣賞を受賞します。

 ② 三代浅蔵 五十吉の陶芸

   初代と二代から受け継いだ色釉を使い、時にはプラチナ等も使って上絵付けを行っています。

   主に、素地は分厚いものを使用し、絵柄の輪郭を掘り込み、立体感を出して重厚に仕上げています。

   上絵付けだけではなく、成形も自分でこなしており、その造形はダイナミックです。

   (磁器製作では一般に分業化されていて、土造り、成形、釉掛けと上絵付、焼成(窯焚き)等に仕事が

   分かれているのが普通で、絵付けをした人がその作品を作った人に成る慣わしになっています。)

  ) 浅蔵(又は五十吉)カラー: 「茶」と「黄」が混ざり合った独特の渋味のある色絵が特徴の釉です。

     黄色のイメージが強く、明るい黄色、渋い黄色、落ち着いた黄色と様々の黄色の色絵があります。

  ) 貴金属のプラチナを使った作品もあります。

    「花瓶 瑞鳥(ずいちょう)」(高30 X 径17cm): 深い緑の地に銀の鳥が二羽描かれています。

    この鳥の銀色はプラチナを使って描いています。

    「花瓶 果実に鳥 」(高29 X 径15cm): 紺色の地に柘榴(ざくろ)と鳥が描かれている作品です。

 ) 刻文の作品:二代目より引き継いだ技法で、正面に彫刻し、レリーフ状(浮彫)にして、浅蔵家独自の

    様々な色釉を使い加飾する方法です。

    「刻磁彩 実のり」 (2010年 「第33回 伝統九谷焼工芸展ー選抜加賀展」優秀賞)は、方形の形で、

    黄銅色の濃い釉で仕上げています。

次回(竹田 有恒)に続きます。

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現代陶芸123(浅蔵五十吉1)

2012-05-24 21:45:05 | 現代陶芸と工芸家達

伝統的な九谷焼の技法に工夫を重ね、日展を中心に活躍し、1996年に九谷焼作家として初めてとなる、

文化勲章を受章しました人が、二代目浅蔵 五十吉氏です。

1) 二代浅蔵 五十吉(あさくら いそきち)本名は与作 : 1913年(大正2) ~1998年(平成10年)

 ① 経歴 

  ) 石川県能美郡寺井町に生まれます。父磯吉は成型に堪能な「焼物造り屋」であったそうです。

     1929年 小学校卒業後直ぐに、九谷焼上絵師の第一人者の初代徳田八十吉(当ブログ121参照)

      の下に弟子入りします。

     1946年 終戦後加賀市の北出塔次郎(当ブログ119参照)に師事し、本格的に作陶生活が

      始まります。

      同年 第一回日展に「色絵三華の讃水鉢」を出品し初入選を果たします。以後連続入選します。   

     1952年 第八回日展出品の「色絵方形水盤」が、第一回北斗賞を受賞します。

       「色絵方形水盤」(高13.7 X 横64cm)(1952年)

     1955年 第十一回日展で「窯変交歓花器」で二度目の北斗賞を受賞します。

 ) 1956年 日ソ国交回復記念展に、「「釉彩花菖蒲飾鉢」を招待出品します。

     この作品が、ソ連国立レニングラード美術館のお買い上げとなります。

    1962年 第五回新日展審査員に就任します。第十一回新日展でも審査員になります。

    1964年 第七回新日展で「磁象飾皿」が政府買い上げに成ります。

    1974年 日展評議委員になり、「飾皿・瑞鳥の譜」を迎賓館に納入されます。

      「飾皿・瑞鳥の譜」(高9.5 X 径65cm)(1974年)

    1977年 第九回日展で内閣総理大臣賞を受賞します。同年日展理事に就きます。

    1981年 色絵磁器「佐渡の印象」で芸術院賞を受賞します。

    1992年 文化功労者に、1998年 に文化勲章を受章します。 

 ② 二代目浅蔵五十吉の陶芸

   最初に師事した徳田八十吉の古九谷風の色絵具の使い方と、次に師事する北出塔次郎の近代的な

   色絵の世界を巧みに組み合わせ、独自の色絵を作り出します。

   ) 磁彩: 器の表面に浮き彫りや盛り上げ文様を施し、本焼きで硬く焼き締め、上絵を描き

     焼き付けた作品です。「花器・構成の美」(高38 X 径34.8cm)(1957年)、「羊頭花器」

     (高24.2 X 径34cm)(1960年)小松市立女子高等学校。

   ) 刻釉(こくゆ): 作品の表面を竹へら等を使い、線彫りし本焼焼成後、上絵を描く方法です。

      「飾皿・花園に遊ぶ」(高9.5 X 横65cm)(1976年)、「刻菊花文花生」」(高41.9 X 径30.2cm)

       (1974年)等の作品です。

   ) 釉彩(ゆさい): 表面には何も施さず、焼き締め後呉須で絵を描き、更に絵具で絵付けをする

      方法です。「遊魚飾皿」(高15 X 径55cm)(1963年)

   ) 磁象(じしょう): 収縮率の異なる土を用い、乾燥、焼成に伴う収縮で故意に亀裂を発生させ

      更に上絵を施す技法です。 作品としては、「磁象角飾皿」(高11.6 X 径33.5cm)(1974年)、

      「岩煌花器」(1974年)などの作品があります。

   ) 独特な黄色の釉薬や深厚釉、小紋などを巧みに用いた作品。 

      「色絵蓋物・三華の譜」(高15.8 X 径34.6cm)(1948年)、「鉢・九稜三華の譜」

      (高12 X 横42cm)(1974年)等があります。

2) 三代浅蔵 五十吉: 1941年(昭和16) ~

以下次回に続きます。

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現代陶芸122(徳田 八十吉2 )

2012-05-23 16:58:55 | 現代陶芸と工芸家達

 

② 二代目の陶芸

   上絵において最も重要な事は、色釉の調合技法で、初代の下で釉の開発に努め、「上絵艶消釉」や

   「上絵窯変釉」を創作します。

   従来九谷の色絵の色調は、光沢のある緑、黄、紫の三彩ですが、これを艶消釉にする事で、

   新鮮さを引き出しています。草花を中心とした画面構成は、詩情溢れる豊かさを感じる作品に

   成っています。

  ) 色絵の作品

     「色絵飾皿・砂丘の春」(高8 X 径55.5cm)(1951年)、「色絵銀杏文飾皿」(高7.3 X 径45cm)

     (1954年)、 「色絵杜若文(かきつばた)飾皿・河のほとり」(高5.5 X 径53.6cm)(1962年)、

     「色絵飾皿・豊秋」(高7.2 X 径55.3cm)(1964年)小松市美術館、「色絵飾皿・凝視」

     (高8.5 X 径61.5cm)(1968年)等の作品があります。

  ) 金襴手の作品: 地の色により、黄地、赤地、瑠璃地、緑地金襴手などの種類があります。

  ) 涌象(ゆうしょう): 「上絵付した文様や形が器の表面に涌き出る」と言う意味だそうです。 

     数種類の色土を積み上げ、轆轤成形する練り込みの技法で作ります。

     練込で生じた模様に上絵付けをする、二代目独特な技法です。

     生乾きの時に表面を削り出し、高火度で焼き締めた後、上絵具で彩色したり、金砂子を

     貼り付けた後、低火度で焼成焼付けます。更に金砂子部分を瑪瑙(めのう)棒で磨き艶消しに

     します。「涌象花瓶」(高31.5 X 径31.8cm)(1971年)、「緑釉花瓶」」(高33.3 X 径31cm)

    (1969年)等の作品があります。

3) 三代目徳田八十吉(本名は徳田正彦): 1933年(昭和8年)~2009年(平成21年)

  ① 経歴

   ) 石川県小松市で、二代目八十吉の息子として生まれます。

       金沢美術工芸大学短期大学工芸科、陶磁専攻を中退し、初代に古九谷の上絵釉の調合を、

       二代目には、古九谷の絵付け等の陶芸技術を学びます。

     1958年 第1回一水会陶芸展で初入選を果たします。

     1971年 第十八回日本伝統工芸展示で「彩釉鉢」が、優秀賞(NHK会長賞)を受賞します。

     1977年 日本伝統工芸展で総裁賞を受賞します。

     1988年に三代目を襲名。

     1990年 国際陶芸展でグランプリを受賞します。

     1991年には第11回日本陶芸展で、大賞・秩父宮賜杯を受賞します。

     1997年6月6日、重要無形文化財「彩釉磁器」の保持者(人間国宝)に認定されました。

      アジアやロシア、アメリカ国内、ローマでも多くの個展を開催しています。

   ・  追悼展が2011年12月~2012年 1月まで小松市立博物館、本陣記念美術館、錦窯展示館で

     開催されました。

 ② 三代徳田 八十吉の陶芸

  ) 耀彩(ようさい)の創造

    古九谷の五彩(赤、黄、緑、紺、紫)のうち、赤(ガラス質が含まれていない)を除く四彩を組み合わせ

    高温(通常より200℃程高い1000℃)で焼成して独自のグラデーションによる、彩釉磁器の焼成に

    成功し、「耀彩(ようさい)」と名付けます。耀彩とは、『光耀く色』という意味だそうです。

    耀彩は煌(きら)めく色彩と輝く様な光を放し、色鮮やかな美しい作品です。

    尚、組み合わせの種類は200種類以上との事です。

    「耀彩線文壺」が、メトロポリタン美術館に収蔵されています。

  ) 「青手古九谷」の作品

     釉薬で色彩を調整し、鮮やかな群青色に強い個性が発揮されています。

     海外にも多くの作品を発表して高い評価を得ています。また、古九谷の学術研究にも尽力します。 

4) 四代目徳田 八十吉(本名は順子):1961年(昭和36年)~

   三代目徳田八十吉の長女として、石川県小松市大文字町に生まれます。

   1980年 小松高校卒業後、ニューヨーク州ジェームスタウン高校へ留学します。

   1983年 青山学院女子短期大学を卒業後、NHK金沢放送局でニュースキャスターを勤めます。

   (1984~86年)

   1990年 石川県立九谷焼技術研修所を卒業します。その後父の秘書として、世界各国を訪問して

    います。同年 第46回現代美術展に入選を果た、朝日陶芸展'90にも入選します。

    更にオーストラリア巡回展にも参加します。

   1991年  JR金沢駅に陶壁「動輪」を制作設置します。

   1994年 小松市すこやかセンターに、陶壁「動輪Ⅱ」を製作します。

   1995年  仙台市秋保温泉「蘭亭」に、陶壁「花・むつみ」を製作します。

   1998年 APAホテル金沢駅前に、陶壁「春」を製作します。

   2001年 AOAホテル東京西麻布に、陶壁「LOVE」を製作し、同年、小松大和、富山大和、岡山

    高島屋にて個展を開催します。

   2004年 第55回日本伝統工芸展に入選し、 第56回日本伝統工芸展でも入選します。

    第57回日本伝統工芸展で「彩釉鉢・昇龍」が入選します。

   2010年 第三十三回伝統九谷焼工芸展で 「彩釉花器・昇龍」が大賞を受賞されています。

  ・ その他個展、グループ展を、全国の百貨店等にて多数開催しています。

   三代目の死去を受けて、翌2010年に四代を襲名しました。

   同年 「襲名記念 四代 徳田八十吉展」がJR 名古屋の高島屋、美術画廊で開催されました。

次回(浅蔵 五十吉)に続きます。

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現代陶芸121(徳田 八十吉1 )

2012-05-21 21:47:59 | 現代陶芸と工芸家達

色絵磁器の九谷焼は、加賀百万石の城下町・金沢の文化を象徴する焼き物です。

その大半は、石川県能美郡寺井町で作られているとの事です。

徳田 八十吉は、磁器に上絵を施す九谷色絵の伝統継承者として、明治の初代~平成の四代目八十吉

まで、続いている名跡です。

1)  初代徳田 八十吉(とくだ やそきち): 1873年(明治6年)~ 1956年(昭和31年) 号は鬼仏。

   古九谷・吉田屋の再現に生涯を賭けた、九谷焼の最高峰の作家として評価されています。

   (吉田屋については、後述の注を参照して下さい。)

   1953年(昭和28年) 九谷焼上絵付の技術で、文化財保護法により国の無形文化財(人間国宝)に

    認定されました。

     注: 古九谷焼とは江戸初期に、加賀藩の支藩である大聖寺藩祖の前田利治が、後藤才次郎に

      命じて、肥前有田から陶工を招き、色絵磁器を作らせたのが始めと言われています。

      古九谷焼は、釉と文様により二種類に分類されます。

      1) 五彩手: 赤、青、紫、黄、緑などの上絵具で、山水、花鳥、動物、魚、人物などの文様を

         描いています。

      2) 青手古九谷: 緑釉の地に黄、緑、紫、青(藍)などで濃厚な文様を付ける作品です。

 ①  経歴

   ) 石川県能美郡小松大文字町(現小松市)で、染物屋の添田伊助(屋号は亀屋)の長男

       として生まれます。 少年時代に家業の染色を手伝い、日本画を初め荒木探令(たんれい)に、

       後に山本永峰に学びます。

      1890年 義兄の松雲堂松本佐平(佐瓶)の下で、九谷焼の絵付を修業します。

      1916年 石川県美術展覧会で一等を取ります。

      1922年 東京平和博覧会で、銅牌を受賞します。東宮殿下御成婚で、石川県より花瓶を

       製作し、献上しています。

      1922~24年 石川県工芸美術展覧会で 連続最高賞を受賞します。

      1928年 第24回商工省展の出品作品が、朝香宮家に御買上となります。

      1931年 宮内省より、獅子置物が買上となります。

      1933年 久邇宮若宮、同妃殿下 御来松、花瓶、香合を製作し献上します。

      1947年 天皇陛下御来県時に、県より飾皿の製作依頼を受け献上します。

      1953年 文部省より無形文化財(人間国宝)の指定を受けます。

      2006年  初代 徳田 八十吉展 特別展 歿後50年 「古九谷吉田屋の再現にかけた 生涯」が

       小松市立博物館で開催されました。 

 ②  初代八十吉の陶芸

     九谷焼の色釉の調合技法や顔料の研究に努め、古九谷風、吉田屋風、粟生屋風の色絵と

     ビロード釉、碧明釉(緑系)、欽朗釉(黒系)、深厚燿変など独自の釉を開発し、深厚釉を作ります。

     特に 吉田屋窯風の作風を得意としました。

      注:  吉田屋は江戸中期に、100年を経て古九谷を再興させます。

         赤以外の黄、緑、藍、紫の四彩「青手古九谷」の技法が息づき、豪快華麗な古九谷とは

        対照的に、緻密かつ軽快な筆遣いで、繊細な大和絵的なモチーフにも個性が発揮されます。

2)  二代目徳田八十吉 魁星: 1907年(明治40年)~ 1997年(平成9年)

  ①  経歴

   ) 石川県能美郡辰口村宮竹で、醤油商の雲戸家の五男として生まれます。

     1923年に初代の養子となり師事します。(初代は病で子供を失たとの事です。)   

     1924年 小松中学校三年生生(15歳)の時、商工省工芸展覧会で初入選を果たし、翌年と

      翌々年に石川県工芸奨励会展覧会に入選し、会員に推薦されます。

     1927年 東京美術学校(現、東京芸大)長の正木直彦氏が古九谷研究の為、小松を訪問します。

      その際初代が案内役を務めます。その縁で正木氏と会い、陶芸理論を学び、日本画を

      学ぶ様に助言を受けます。

      そこで、石川県商品陳列所図案科の主任技師、浅野廉に図案を学び、日本画は玉井敬泉氏に

      学びます。

   1931年 小松町の産業研究生として、京都陶磁試験所で勉強する事になります。

   1936年 正木氏の紹介で富本憲吉氏の工房を訪ね、以後7年間、陶絵を学びます。

   1938年  富本憲吉氏が色絵磁器の研究の為、小松・江沼地区を訪れ会う事が出来ました。

    その際「一日一枚写生をし、一年分を持って上京する事」と約束をします。

   1939年 約400枚の写生画を持って上京します。そこで厳しい批評にあいます。

    「単に物を写すのではなく、一本の線や点を書くだけでも、それらは筆で太し細しを表現するように、

    抑揚のある心で引け」 と批評され、これ以後彼の絵は一変したと言われています。 

   1956年 二代目徳田八十吉を襲名。九谷焼の近代化を推進して行きます。

   1958年 ブリュッセル万国博覧会で、グランプリを受賞します。

   1965年 日展審査員、1966年 日展会員、

   1988年 八十吉の名を長男に譲り百々吉を名乗ります。

    初期の頃の号は、魁星(かいせい=北斗七星の第一星)といいます。

 ②  二代目八十吉の陶芸

以下次回に続きます。

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現代陶芸120(北出不二雄)

2012-05-19 22:36:57 | 現代陶芸と工芸家達
前回紹介した北出塔次郎の跡を継ぎ、日展中心に制作活動を進め、色絵の他、彩釉陶器を工夫し
 
両者を併行して作陶している作家に、北出家四代目の北出不二雄氏がいます。
 
尚、北出窯は、初代宇与門により明治元年、加賀市栄谷の地に興された窯元で、二代亀吉(大正~昭和)

三代塔次郎(明治~昭和)と継承されています。
 
1) 北出 不二雄 (きたで ふじお): 1919年(大正8年) ~

  ① 経歴

   ) 九歳の時、縁有って北出家の養子に成ったとの事です。(詳細は不明)

       養父の下で陶芸の手解きを受けます。

     1937年 石川県立工業学校窯業科を卒業します。翌年 商工省陶磁器試験所伝習生二期を

      終了しています。1939~1945年兵隊として応召されます。

     1950年 金沢美術工芸専門学校陶磁器科を卒業し、第六回日展に初入選を果たします。

      以後連続入選を繰り返します。

   ) 1955年 石川県現代美術展で、「線文壺」が最高賞を受賞します。

      1956年 日本伝統工芸展で初の入選を果たします。同年金沢市・北国書林で初の個展を

       開催しています。

      1958~1959年 山城町文化財専門委員として、古九谷窯跡の綜合調査に参加し、「古九谷の

       研究」を発表しています。

      1964年 第二回朝日陶芸展で「彩磁華文壺」が優秀賞に選ばれます。

      1965年 第八回改日展に「青釉彫文鉢」を出品し、特選・北斗賞を受賞します。

       更に、1971年に日展審査員に、翌年には日展会員、1986年に日展評議員になります。

   )  1980年 作陶三十周年記念展を、東京日本橋三越で開催します。

      1987年 第十九回改組日展に「青釉 石窟佛」を出品し、内閣総理大臣賞を受賞します。

      平成2年 九谷焼技術保存会会長(現・顧問)になります。

      2002年 「現代九谷の黎明 北出塔次郎と青泉窯三代展」(九谷焼美術館主催)を開催します。

      2010年 日本陶磁協会特別賞を受賞します。

 ②  北出 不二夫氏の陶芸

     彼の作品は年代により、次第に変化が出て来ています。

   ) 昭和30年代までは、施釉した後本焼きした磁器に、色絵具で上絵付けする伝統的な技法が

      中心に成っています。

   ) 昭和40年代に入ると、硬く焼き締めた素地に直接上絵付を施す技法と、素地の軟らかいうちに

      陶彫や釘彫で器面に文様を施し、その上に単彩釉を掛けた作品で、オブジェ的な要素を含む

      作品です。昭和40年代後半に成ると、ペルシャ風のタッチに成っています。

      「彩陶(さいとう)」: 釉面は柔らか味のある光沢となり、釉下の描写は落着いた色に透けて

      みえます。代表的作品に「彩陶深鉢・鳥たち」(高33.5 X 径39.5cm)(1974)があります。

      その他に「彩陶壺・薫風」(高32 X 径38cm)(1972)等の作品があります。

   )  昭和50年代になると、色絵による文様構成となり、伝統的なものを現代的に復興する作品に

      成っています。「彩陶鳥文皿」」(高9.2 X 径42cm)(1977年) 石川県美術館。

      「塗埋手小禽(ぬりうめて しょうきん)文飾皿」」(高8 X 径42.4cm)(1980年)

      この作品は、古九谷の青手(塗埋手)の様式に倣ったもので、青手の再生と見られる作品です。

     「赤絵壺・初夏」(高30.5 X 径38.5cm)(1979)の作品は、九谷赤絵の技法が最高度に

     発揮され、現代的意匠的に成っています。

   ) 青釉(せいゆう): トルコ青と成って発色する釉です。

      高火度焼締後、器の表面に銅を呈色剤とした、特殊なアルカリ釉を掛け、低火度で焼成します。

      焼き上がりは、トルコ青に発色しますが、釉に特殊な成分を混ぜる事により、艶消しや半艶消しに

      仕上げる事も可能です。「飾壺・麗日(れいじつ)」(高41.9 X 径33cm)(1980年)、

      「染付壺・みちのく」(高62 X 径23cm)(1970)、「青釉彫文鉢」(高20.8 X 径43.5cm)

      (1965年)等の作品があります。

次回(徳田 八十吉)に続きます。

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現代陶芸119(北出塔次郎)

2012-05-18 22:18:18 | 現代陶芸と工芸家達

現代九谷を確立した巨匠として、北出塔次郎氏がいます。

九谷焼は、現在の石川県江沼郡山中町九谷で、江戸時代始め焼成された色絵磁器で、地名に因み

九谷焼と呼ばれています。江戸前期の「古九谷」、江戸後期からの「再興九谷」、昭和の戦後以降

北出塔次郎らによる「現代九谷」と、時代に応じて姿を変化しています。

1) 北出塔次郎(きたで とうじろう): 1898年(明治31) ~ 1968年(昭和43)

 ① 経歴

  ) 兵庫県有馬郡三輪村で、坂本藤吉の三男(藤次郎)として生まれます。

    1921年 石川県江沼郡勅使村の、九谷焼の窯元北出家の婿養子に成り、陶芸を始めます。

      当時の北出家は九谷焼の窯元に素地を供給しながら、染付けを生産する大きな窯元でした。

      彼はここで陶芸の基礎と陶芸技法(絵付け)を学びます。

    1926年 大阪美術学校日本画科研究科に入学し、1928年 同校を卒業します。

     在学中の1927年 第十四回工芸展(商工省主催)で「呉須絵草果実文大皿」が初入選を果たし、

     以後熱意が増します。

    1930年 国際美術展、翌年の聖徳太子奉讃美術展、全国リーグ展に入選し、1932年には

     第十三回帝展で初入選します。

    1936年 富本憲吉氏が色絵磁器研究の為、塔次郎の窯を訪れます。その際窯を青泉窯と命名

     しています。「模様から模様を作らない」という写生を重んじる富本氏の製作態度に、

     大きく影響を受け、富本氏に師事する様になります。

     同年 第十一回国画会展で入選し、帝国美術院改組第一回展で「銀彩牡丹文瓶」が入選します。

    1937年 第二回国画会展で「葡萄文飾壺」が入選し、国画章を受賞します。

    1938年 初の個展を東京銀座・服部時計工芸部で開催します。

     この個展は九谷焼の全国的な進出を促し、注目を集め「北出塔次郎」の名前を広める切っ掛けに

    なります。

    1939年 文展で「蓮池文飾皿」の入選後、同展で「壁面装飾パネル悠久牛」、「金魚文盛器」で

     特選を得ています。

    1946年 第一回日展で「歳寒二雅飾瓶」が特選になり、政府お買い上げに成ります。

    1947年に日展審査員、1960年に日展評議委員に推挙されます。

    1963年 第六回日展で「陶製駱駝壁面装飾」が、文部大臣賞を受賞します。

    1968年 「金襴手陶製額面・胡砂の旅」(第十回新日展)で芸術院賞を受賞します。

    公職としても、「金沢美術工芸専門学校」教授、「金沢美術工芸短期大学」教授、「金沢美術工芸

     大学」教授などを歴任し、後輩の指導に当たっていました。

 ② 北出塔次郎の陶芸

    彼の作風は大きく四期(~)に分かれるそうです。

   ) 北出家の婿養子~富本憲吉氏に師事するまでで、染付けの佳作が多いです。

      「染付鯉魚文飾皿」(高6.5 X 径36cm)(1955年)などの作品です。

   ) 富本氏に強い影響を受け、写生を基本にした図案や富本風の小紋を取り入れた作品等です。

     第四回文展の 「壁面装飾パネル悠久牛」や、第六回文展の「金魚文盛器」、第一回日展の

     「歳寒二雅瓢型花生(さんかんにがひさごかた)」(高32.5 X 径17.5cm、1948年、東京芸大)等が

     代表的な作品です。

   ) 「塔次郎様式」が確立された時代です。おおらかで、大きな図案が描かれた装飾性の豊かな

      作品郡です。「水辺讃夏小屏風」(第七回日展)、「駱駝図飾皿」(第九回日展)、「陶製愛獣譜

      飾皿」(第一回新日展)などの作品です。

   ) 欧州美術の視察旅行(1960年)帰国後で、モザイクを応用した絵画風の作品です。

     「駱駝壁面装飾」(径58cm)(1963年 第六回日展)。「樹映譜壁面装飾」(第七回新日展)などの

     作品があります。

   ) 色絵の作品: 染付による下絵付と、本焼き後の九谷彩による上絵付の技法の作品です。

     「色絵鷺群大皿」(高9.4 X 径41cm)(1951)、「色絵角飾皿」(高8 X 径31.5cm)(1959)、

     「色絵翡翠(かわせみ)図飾皿」(高6 X 径39cm)(1964)、「色絵瑞鳥図飾皿」(高6 X 径40cm)

     (1964)、「色絵洋蘭図飾皿」(高5.6 X 径36.7cm)(1964年)等の作品があります。

   ) 金繍手(きんしゅうて)の作品: 九谷五彩で上絵付し、更に金彩を施し焼付け後、瑪瑙(めのう)

      棒や鯛の歯などで、金彩部分を磨き艶を出す方法です。

      「果実図花瓶」(高24.3 X 径12cm)(1948)、「鷺図陶板」(縦32 X 横23cm(1948)

      「魚貝図花瓶」」(高34.5 X 径17.5cm)(1954)、 「鳥獣図飾皿」(高8.5 X 径41.2cm)(1958)、

      「闘牛図花瓶」(高29 X 径13.5cm)(1962)等の作品があります。

次回(北出 不二雄)に続きます。

 

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現代陶芸118(小西 平内)

2012-05-17 21:22:15 | 現代陶芸と工芸家達

1) 初代小西 平内(こにし へいない): 1899年(明治32)~1991年(平成3) 窯名:太閤窯(たいこうがま)

  ① 経歴

   ) 愛媛県伊予市中山町佐礼谷日浦に、農業小西磯吉の長男として生まれます。

      1916年 18歳で大阪に渡り、商家に奉公のかたわら独学勉励し、遂に関西大学に入ったが、

       病にかかり、法華の宗門に入信して、名も平内と改めます。

      1925年 楽焼が特殊な芸術品であることを感じ、この道で名を成そうと決心します。

      1928年 伊予市の江山焼を見学して大いに得る所があった様です。

      1929~30年にわたり道後水月焼、好川恒方翁に師事寄寓し、研究を重ねます。

      1931年 甲子園ホテル内に在住の時、縁あって川喜田半泥子翁に入門師事し、同時に

       登窯を築いて本焼きも始める様に成ります。

      1945年以降(電灯も無い)有馬山中に居を移し、登窯及び楽窯を築いて作陶に努めます。

       その後、宮西市甲山大師前で、又新しい意欲を持って伊賀焼きに専念します。

       戦時中は贅沢品と見なされた美術品も、戦後に成ると茶道の発展と共に、楽茶碗も求められる

       様になります。彼の努力も実り作品も高い評価を得る様になります。

      1949年 「半泥子一門展」が岡山と山口県で開催され、出品します。

       同年 東京東横百貨店で初の個展を開催します。

        五島慶太(ごとう けいた)翁の絶大な後援(パトロン的存在)が有ったと言われています。

        注:五島慶太(1882-1959) 五島美術館を設立、東京急行電鉄株式会社の元会長。

      1955年 郷里松山で、第二回個展を開催します。

      1964年 引退して二代目平内に譲り、自らは太平と称します。

2) 二代小西 平内(こにし へいない): 1928年(昭和3) ~

 ①  経歴

  ) 愛知県中山町で、別府薫氏の四男として生まれます。(本名は別府 隆)

     1946年 叔父の陶芸家の初代小西 平内に入門し、陶芸を始めます。

     1947年 初代平内と親交のある半泥子と知り合い師事します。

     1958年 初代平内の養子となります。

     1964年 二代小西 平内を襲名します。同年 大阪三越で初の個展を開催し、以後東京日本橋

      三越、名古屋丸栄、神戸そごう等で毎年個展を開いています。

     1978年 メトロポリタン美術館で、伊賀花入が買い上げになります。

 ② 二代小西 平内の陶芸

   楽茶碗を中心にし、伊賀焼の作品も手掛けています。

   土は神戸市の有馬温泉付近で採取した土に、二割程度の木節粘土を混合した物だそうですが、

   神戸の土はすでに取り尽きてしまった様です。(現在は貯蔵分を使っています。)

   尚、楽焼に向く粘土は、急熱急冷に耐える「ガサガサ」のものが良いと言われています。

   一般にシャモット(焼き粉)を30%程度混入して使います。利点として気泡を多く含む為、作品が

   軽く成る事も上げられます。

   ) 楽茶碗の作品

      「黒茶碗・山神(やまのかみ)」(高7.9 X 径11.8、高台径5.7cm)(1979)

      「黒茶碗」(高8 X 径12.2、高台径5.8cm)(1979)

      「黒平茶碗」(高7.2 X 径14.3、高台径6cm)(1978)。

      「赤茶碗」(高10.5 X 径14、高台径6cm)(1980)

      「黒茶碗」(高9.5 X 径13.5、高台径5.8cm)(1979)

   ) 伊賀焼の作品

      「伊賀茶碗」(高8 .2 X 径14、高台径6cm)(1977)

      「伊賀花入」(高28 X 径13cm)(1976)、「伊賀肩衝茶入」(高7.4 X 径7.5 、口径3.3 X

      底径5cm)(1982)等の作品があります。

次回(北出塔次郎)に続きます。

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