わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

焼き物の着物(色彩)22 無彩色21(須恵器3)

2014-02-28 22:07:05 | 陶磁器と色彩

4) 須恵器を作る環境。

  ② 窯は半地下式の窖窯(あながま)が使われています。(前回の続きです。)

   ) 窯の構造。

   ) 燃料に付いて。

     燃料は薪が使われていますが、須恵器を焼き始めの頃は、広葉樹林帯の樫(かし)や椎

     (しい)の木で焼成していた様です。現在では、攻焚き(せめたき)で脂を多く含む、赤松を

     使います。但し、生産場所によって現地の風土、地理的条件の違いにより薪の種類も違い

     ますので、地域差が存在します。

    a) 生産量に伴い、燃料の消費量が増え、周囲の自然林は荒廃して行きます。

       当時は植林の発想はありませんので、燃料を求めて新たな場所に窯を作る場合もあった

       様です。

      ・ 尚、荒廃した場所でも、杉や赤松などが自然再生される事が解かると、赤松を使う様に

       成り、一部植林もされていたかも知れません。

    b) 一度の焼成で1,500~2,000束の薪が必要との事です。

      復元した須恵器の窖窯では、三昼夜の窯焚きで、約2000束の薪を使用したとの事で、

      大量の樹木が伐採され、古い書物には燃料の争奪戦の記載もある様です。

   ) 焼成方法に付いて。

     須恵器は還元焔で焼成して、あの独特の青味掛かった灰色になります。更に、青い色調は

     胎土をガラス質に近い硬さにする働きもあります。

     但し、窯焚き当初から還元焔にすると、温度上昇が鈍く燃料の無駄が多いです。

     a) 最初に空気を十分送る、酸化焔で窯の温度を高めます。

     b) 攻焚きの段階で、薪を大量に投入して密閉状態にし、窯内を還元状態にします。

     c) 不十分な還元の場合には、表面は青色ですが、割れた断面を見ると、芯の部分に赤味

       が見えます。 窯跡近くから失敗して捨てた灰原(かいばら)と呼ばれる場所が見られる

       場所もあります。

  ) 窯の使用年限に付いて。

    a) 6世紀中頃の窯は、何度も補修を繰り返し長期間使用続けられています。

      20回以上補修が繰り返された窯もあります。壁は塗り替えられ、窯底には砂などを入れて

      補修しています。

    b) 7世紀以降に成ると、補修するより隣に新たな窯を築く事が多くなります。

      これは、窯の改良とも関係があります。即ち窯の傾斜の変化や焚口を広げる事、煙道を

      煙突状に作る事などす。中でも、窯の中に分焔柱(ぶんえんちゅう)と見られる棒(径が

      10~15cm)が焼成部の各所に取り付けられ、窯の長さも短くなります。

      平安時代末期に成ると、分焔柱も太くなり、天井と底の間を結ぶ物へと発展します。

      これらの改良は火勢を強め、火の回りを調整する処置と考えられています。

    c) 窯の改良は床面の傾斜角度や、大甕を据える為床面に浅い窪みを持つ窯も現れます。

      後日述べる灰釉陶器の焼成には、1240℃以上の温度が要求される為、更に工夫を凝らす

      事に成ります。

  ③ 轆轤に付いて。

以下次回に続きます。

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焼き物の着物(色彩)21 無彩色20(須恵器2)

2014-02-27 21:38:54 | 陶磁器と色彩

4) 須恵器を作る環境。

 ① 須恵器の生産には、高温に耐える粘土と燃料の薪(まき)が多量に必要になります。

  ) 従来の土器制作では、極端な話加工し易い粘土質であれば、余り土質を選ぶ必要も無く、

    手近な土を利用すれば良かったのですが、須恵器の様に1000℃以上の高温(?)で焼成する

    となると、土質を選ぶ必要があります。

  ) 海成粘土と水性粘土。

    粘土には海成粘土と水性粘土の二種類に分類されます。

    a) 海成粘土は耐火性が劣り、1000℃を超えると形が崩れ、表面がケロイド状に熔解し

      海綿状になりますので、土師器の焼き物として使う事が出来ません。

      原因は、粘土に塩分が含まれている為です。

    b) 水性粘土は、淡水(真水)の湖や川の底に溜まった粘土層などで、1000℃以上でも

      変形や熔解現象は起きません。それ故、須恵器にはこの粘土が使われます。

    c) 海成粘土と水性粘土の区別。

     イ) 粘土の色の違い。 

       海成粘土層は黒灰色~暗灰青色をしています。淡水成粘土層は緑青色をしています。  

       但し、地表の空気に長く晒された場合には、いずれも表面が白っぽくなっています。

     ロ) 海成粘土は酸性で、淡水成粘土はアルカリ性になっています。

       粘土を水に溶かし、pH(ペーハー=酸性、アルカリ性の度合い)や電気伝導度を測定

       すると判明します。

     ハ) 海成粘土層のあるところは、塩分を含む為、中々雑草が生えないとの事です。

    d) 粘土の採掘。

      須恵器に適する粘土は、必ずしも容易に手に出来た訳では有りません。

      須恵器を焼いた窯跡近くには、粘土採掘坑や粘土土坑跡が数多く存在しています。

      粘土の採掘には、土木工事の様に、山肌に道具を用いて横穴を掘った跡が見られます。

      又、採掘場所の近くに、水簸(すいひ)したと思われる場所(設備)の存在する場合も有り

      ます。但し、須恵器に使われた粘土が、全て水簸されていたと言う証拠は無いとの事です。

     イ) 粘土を採掘する専業職人も存在していた可能性もあります。

        即ち、粘土の選定が出来る経験者が先頭に立ち、採取可能の粘土層を見付けだし、

        更に、採取の可能性を検討した後に採掘に取り掛かる事になります。

     ロ) 横穴の坑道の長さは5~10m程度で、入り口の幅は約1.5mの物が多いようです。

        坑道の奥は円形に広がりを持ちます。 更に、坑道から垂直方向に直径2~3m深さ

        0.5m程度の竪穴が掘り下げられた状態が確認できます。

     ハ) 上記の様な採掘場所は、同じ山に十数個存在する場所も有ります。

        それだけ粘土の需要があり、又粘土の層が薄い事になります。

  ② 窯は半地下式の窖窯(あながま)が使われています。完全な地下式の窯は少ないです。

    窖窯は良い土の出る所に窯を築く事になります。又水性粘土の上に窯を築く必要があります。

    窯の温度が1200℃を超える場合もありますので、熱に強くなければなりません。

   ) 半地下式とは、斜面の傾斜角度を10~30度位にし、窯の底面部を船底風に掘り込み

     窯の断面を蒲鉾状にし、両側の土を盛り上げた側壁、更に粘土で天井を付けた構造に

     なっています。 窯の奥行き(長さ)は5~10m程度の物が多い様です。

     風雨を避ける為、屋根があったはずです。

   ) 窯の構造。

     基本的な構造は、焚口(たきぐち)、燃焼部、焼成部、煙道部で、特に煙突はありません。

     当然スペース的には、焼成部が一番広いです。天井部には煙出しの小穴が空けられていま

     した。 焚口は風が入る方向に開けられ、特に強い季節風が吹く方向に向いています。

     7世紀以降の窯では、底面が階段状に作られた窯もありました。

   ・  尚、現在でも窖窯は、無釉の焼締陶器を焼く窯として圧倒的人気を博しています。

     その構造は須恵器を焼く窯とほぼ同じですが、現在では壁材に耐火レンガを使用し、煙突を

     付け、ダンパーやドラフトの機能を持たせ、自然の風では無く煙突の引きの強さで、燃焼を

     コントロールしています。

   ) 燃料に付いて。

以下次回に続きます。

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焼き物の着物(色彩)20 無彩色19(須恵器1)

2014-02-26 21:50:44 | 陶磁器と色彩

須恵器(すえき)は、5世紀頃に朝鮮半島を経由して、我が国へ伝わった新たな焼き物です。

5世紀中頃から生産され、主に古墳時代~平安時代に使用されていました。

5~7世紀の須恵器は葬送の為に使用され、主に古墳から出土しますが、時代が下るに従い

一般庶民の日用雑器として定着して行きます。

須恵器の語源は、古来「陶器」を「須恵毛能(すえもの)」と呼んだ事に由来するとの事です。

1) 須恵器の起源

   青灰色硬質の焼き物は、紀元前2,000年の中国の山東省の、龍山文化の灰陶(かいとう)に

   行きつきます。 灰陶は叩きによる成形技法と、還元焔の焼成方法で制作されていました。

   尚、中国の轆轤もこの文化の時代に使われていた様です。

2) 我が国での須恵器の生産は、焼き物史上、衝撃的で革命的な出来事です。

   それまでの焼き物の概念を一変させる程でした。更に、その技術は現在の陶磁器に受け継が

   れています。

  ① 須恵器の生産が革命的であった理由は、大きく分けて次の二点です。

   ) 技術的な面として。

    a) 焼成用の窯(窖窯)を使い、1,000℃以上の高温で焼く事で、土器とは違い今迄に無い

      硬質の焼き物を、作れる様になります。

    b) 轆轤(ろくろ)が伝わり、機械で器を作る技法が取り入れられた結果、専門的な焼き物の

      技術集団が発生し、大量の焼き物が作れる様になります。

      但し、当時の轆轤の技法は現在の水挽きとは、異なる技法であった様です。

      詳細は後日お話します。

  ) 専門職人により、集中的に多量に作られた焼き物は、制品の流通を通して、生産者と

    使用者を明確に分離します。自給自足的な村落共同体で細々と作られていた焼き物は、

    地方の豪族や国などの権力者の下で、職業として独立した職人達によって制作される様に

    成ります。畿内で作られた焼き物は関東一円にも運ばれ、遠く仙台などの東日本までにも

    及びます。やがて、6世紀末~7世紀前半には、摂津、尾張、伊勢、遠江(とおとおみ)、出雲、

    能登などの地方の窯でも、須恵器が焼かれる様になります。

  ) 最も古い須恵器は、大阪府堺市と和泉市周辺の、陶邑古窯址(すえむらこようし)から出土

     します。この地は仁徳天皇稜を始め応神天皇稜古墳など、巨大な前方後円墳や円墳など

     5世紀を代表する古墳群が多く存在する地域でも有ります。

3) 須恵器とはどの様な焼き物まのか?

  ① 青味かかった灰色も色調を持つ硬質な焼き物です。

     この色調は、窖窯(あながま)で還元焼成された証です。尚、土師器までの焼き物は殆どが

     酸化焼成で行っています。但し初期の須恵器には酸化又は中性焔で焼成した物も有りました

  ② 高温で焼成されている為、土器に比べて格段に堅牢に出来ています。

    1100℃以上で焼成されたと思われる須恵器も出土しています。

  ③ 轆轤を使っている為、薄くて均整の取れた形の作品が多いです。

  ④ 須恵器が制作されたのは、約700年間とされています。

     その間に、種類と形態も様々に変化しています。種類については後日お話します。

4) 須恵器を作る環境。

以下次回に続きます。

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焼き物の着物(色彩)19 無彩色18(埴輪7)

2014-02-23 22:22:46 | 陶磁器と色彩

④ 埴輪の作り方。

 ) 埴輪の表情と衣装。

    大型化した埴輪は、葬送の行列を再現したもので、その様子を長く墳丘内に留め、更には一定

    期間人に見せる為に制作され、並べられた物と言われています。

    各種の埴輪の中でも、一番魅力的なのは人物埴輪です。その表情や衣装からは当時の生活

    様式や、暮らし振りが判明します。

  a) 人物埴輪の眼や口は、透かし彫りで表現されています。

     細く横長の楕円形の眼は空洞の為、眼全体が黒く見えます。その見ている先は「ハッキリ」

     しませんが、一説には泣いている眼であると見る人もいます。しかし見る人に何かを感じ

     させる眼でもあります。

     口も眼よも小さな孔で、僅かに口を開けている状態で表現されています。

     一見、放心した時の表情に似ています。

   b) 人物埴輪のほとんどは、男女を問わず、武人さえも数珠状の首輪(頸飾り)をしています。

      当時の頸飾りは、正装の時には必須の装飾品であった様です。

      但し、これらの衣装は特別の場所で着用された物で、普段にはもっと質素な衣装であった    

      事は事実です。

   c) 重要文化財 正装の女(群馬県伊勢崎市出土)に見る衣装。

     全身を表現した有名な女子の埴輪です。尚、圧倒的に上半身のみの埴輪が多いそうで、

     全身像は極めて稀な事の様です。

     イ) 頭は櫛を挿した髷(まげ)を結い、筒袖の衣装で、左前に合わせ、上下二箇所を紐で

       結ばれ、スカート状の裳(も)を付けています。

     ロ) 上衣(上着)には、青海波(せいがいは)の文様があり、裳には縦縞の文様が先の尖った

       用具で引っ掻き、細い線で表現されています。

   d) 埴輪 正装の男に見る衣装:(埼玉県美里村、太田市出土)

     鉢巻状や鍔(つば)の付いた帽子、耳飾り、頸飾り、上衣、環頭太刀、刀子(とうす)、褌

     (はかま)、足結び、沓(靴)を履いています。

     褌とは腿の部分が大きく膨らみ、その下を紐で結ぶ衣装です。褌には櫛目文様の細かい

     線が、縦方向に描かれています。

   e) 国宝 「挂甲をつけた武人」(埴輪武装男子立像)に見る衣装: 群馬県太田市出土

     衝角付冑、挂甲(けいこう=鎧)、肩甲、籠手(こて)、太刀、膝甲、臑当(すねあて)で完全

     武装した埴輪です。衝角付冑には鋲(びょう)が打たれ、耳当で顔を包み込みんでいます。

     挂甲、肩甲、籠手、膝甲、臑当には、細い線で短冊状の模様が描かれています。

    ・ 武人の埴輪の特徴として、柄に手を掛け今にも抜刀する構えになっている事です。更に

      墓の外を向くように設置されている事です。これは、外から来る悪霊や悪者に対して墓を

      守る姿勢を示していると言われています。

   f) 赤色顔料(ベンガラなど)を、顔や冠、衣装に塗布した埴輪も多くあります。関東地方では

     赤以外に、黒やグレーの色も使われています。

次回から須恵器(すえき)に付いてお話します。

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焼き物の着物(色彩)18 無彩色17(埴輪6)

2014-02-21 22:35:42 | 陶磁器と色彩

④ 埴輪の作り方。

  ) 埴輪は、粘土の紐を積み上げながら成形する方法で、型による方法ではありません。

    基本的には中空に仕上げられています。これは土偶などとは大きな違いです。

    中空にする事で、埴輪の重さを軽くし、大きな埴輪を作る事も可能に成ります。

    又、中空にする事で、作品の乾燥を早め短い期間で、埴輪を作る事が出来る様にもなります。

    但し、側面に開けられた孔は、乾燥を早める以外に、別の目的があると思われます。

   a) 粘土は赤土を含み、800℃程度の低温で焼成する為、埴輪は赤褐色になります。

     余談ですが、現在でも埴輪を作る人は、「テラコッタ」と言う粘土を使います。これは白い土に

     鉄分を含む黄土を混ぜた土です。但し、高い温度で焼成すると、独特の赤褐色は出ずに、

     黒褐色になります。「テラコッタ」は素焼きの植木鉢の色となります。

   b) 筒型埴輪の様に円筒の物は、粘土で紐を作り巻き上げて作ったと思われます。

     当時は轆轤(ろくろ)は有りませんが、何らかの方法で作品を回転させたか、作る人が回った

     と考えられています。尚、回転させる為に、大きな葉(又は、複数の葉)の上で粘土を載せ、

     地面上を滑らせて回転させた可能性もあります。埴輪によっては、底に葉の文様が残る物も

     出土しています。

  c) 家形埴輪などは、粘土を板状や帯状にして、軟らかい内に、貼り付け形を作った物と思わ

    れます。

  d) 人物埴輪や太刀や盾などの埴輪には、主に円筒形の基台部が付いています。

    家形埴輪にも、背の低い基台部が付いています。

    基台部は人物などの埴輪を高く持ち上げる効果と、遠くから見える効果があり、更に基台部を

    地面に埋め込む事で、安定した状態に設置する目的があります。この基台部の側面には丸い

    孔が開けられた物が多いです。特に円筒形埴輪の側面には色々な形の孔が数多く開けてられ

    ています。 この孔は土に埋め込む際、周囲から土が円筒内に流れ込み、埴輪を安定化させる

    働きをさせる目的かも知れません。

  e) 高さが1m以上の大型の埴輪もあります。これらは、下から順番に積み上げ、ある程度乾燥

    させて強度を持たせてから、更に土を載せていく方法をとりました。背の高い埴輪には、横方向

    に繋いだ痕が残る物も多いです。

   f) 埴輪の各パーツを先に作り、それらを粘土で貼り付けたり、差し込んだりして作る方法も

     有ったようです。 人物埴輪は、基台を作り、その上に人物の胴体、頭、帽子又は冑(かぶと)

     両腕、剣や楽器などとパーツを順番に取り付け、全体象が大まかに出来上がると、衣装と

     目、鼻、口を付けて埴輪が出来上がります。人物埴輪の腕は、実際の人の腕の長さより短く

     作られています。これは、取り付け部分に大きな力が掛り、破損し易いのを防ぐ為と思わ

     れます。  

    ・ 動物埴輪には脚部と胴体部の境に、繋いだ痕が認められます。

    埴輪の成形が終わり、十分乾燥させてから焼成しますが、焼き損じたり、「割れ」なども多く

    有ったと思われます。現在、ほとんどの埴輪は、破損した状態で出土しますが、当然、完成品が

    使われたはずです。

 ) 埴輪の表情と衣装。

以下次回に続きます。

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焼き物の着物(色彩)17 無彩色16(埴輪5)

2014-02-20 21:48:25 | 陶磁器と色彩

③ 埴輪の種類: 前回の続きです。

 ) 人物や動物の埴輪。

  e) 動物埴輪に付いて。

    5世紀初頭~中頃に、動物を象(かたど)った埴輪が登場します。

    動物の種類は、水鳥、鶏、馬、猪、鹿、犬などが多く、稀に牛、魚、鷹などが出土します。

    特に、水鳥と鶏(にわとり)が多く、大阪府の応神陵では、多数の水鳥が墳頂部から出土して

    います。 墳丘部に埴輪を置くのは古墳時代の早い段階の行為です。

    葬儀に水鳥を供えるのは、弥生時代にも行われいた様です。但し木彫りの水鳥を使用して

    いました。

    イ) 水鳥の埴輪: 空を飛ぶ水鳥は死者の魂を宿し、遠くへ運ぶ者として、神聖視され霊鳥

      として、崇められていた事は事実です。水鳥の中でも白鳥は特に神聖視されています。

      死者の魂を運ぶ物として、船の埴輪があります。下半分が丸木船で、上半分に2枚の板状の

      物が左右に取り付けられています。古墳の壁画にも「船」は描かれています。

     ・ 重要文化財 埴輪 「船」: 5世紀 長さ101cm 宮城県の円墳の頂上部に置かれて

      いました。        

    ロ) 鶏: 天岩戸神話では、夜明けを告げる鳥として、又、魂を復活させる霊鳥として、語られて

      います。     

      埴輪は持ち上げた頸や、赤く塗られた鶏冠、翼などが写実的に表現されています。

    ハ) 馬: 4~5世紀に中国大陸東北地方や朝鮮半島で馬の飼育が行われ、やがて日本

      列島にも伝えられました。当時の「最先端の乗り物」として登場します。

      馬は動物埴輪の中でも一番多く出土します。5~6世紀に副葬品として広く普及します。

      轡(くつわ)、鞍、鐙(あぶみ)持ち、たて髪や尻尾は切り揃えた飾り馬となっています。

     ・ 重要文化財 埴輪 「馬」: 6世紀 高さ80cm 島根県松江市出土

     ・ 他の動物埴輪と比べ、著しく「人の手が加わった」り精巧な姿が特徴で、当時の権力者の

       持ち物としての象徴性を表しています。

   ニ) 猪(いのしし)と鹿: 両者とも石器時代より狩猟の対象の獣で、貴重な食料になってい

      ました。背中に矢が刺さった状態の埴輪は、狩猟の様子を演出しています。

      鹿は食料以外に、角は鏃(やじり)や縫い針、釣り針など、各種の道具に加工され利用

      されていました。

    ・ 重要文化財 埴輪 「猪」: 6~7世紀 高さ51cm 群馬県出土 東京国立博物館。

   ホ) 犬: 石器時代から人と生活を共にしてきた動物です。埴輪には飼い犬である事を証明する

     首輪に鈴が着けられています。尻尾を巻いているのは、日本犬の特徴です。

   ヘ) 魚: 魚の埴輪は少なく、関東地方で数例のみです。、殯儀礼の供物として使用されたと

      思われます。

  これら動物埴輪は、殯(もがり)儀礼と密接な関係があり、本葬の際に墳丘部や横穴の入り口近く

  立てられ、その後地中に埋められます。又は、周囲の堀の中に埋められた物と思われています。

④ 埴輪の作り方。

以下次回に続きます。

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焼き物の着物(色彩)16 無彩色15(埴輪4)

2014-02-19 21:11:48 | 陶磁器と色彩

③ 埴輪の種類: 前回の続きです。

 ) 人物や動物の埴輪。

   古墳時代の5世紀中頃から、巫女(みこ)などの人物埴輪や馬や犬などの動物埴輪が登場します   

   人物埴輪や動物埴輪などは、行列した状態や一塊の像として並べられており、葬送儀礼を表現

   したとする説と、生前の祭礼の様子を再現したとする説などがあります。

   この様な埴輪の姿、形や並べ方は、古墳時代の祭祀や死生観を反映していると見られます。 

   a) 古墳時代の葬儀に付いて。 当時の葬儀に、殯(もがり)の風習があります。

   イ) 殯儀礼とは、死亡直後から本葬までの期間に行う儀礼です。

      この期間は、大きな権力を持つ人ほど長期に成り、歴代天皇では短くても数ヶ月、長い場合

      には数年に及ぶ例もあります。

   ロ) 目的は、死者の復活を願い「魂呼び」を行う事です。棺に遺体を収納し住居とは別の「喪屋」

      に仮安置します。 同時に本葬の為の丘墓の造営や石室建設が行われる時期です。

  b) 「魏志倭人伝」によると、殯儀礼には死者霊を呼び戻す為、「うすめ」、「なきめ」、「みけひと」

     「はきもち」等の言葉が登場します。「うすめ」は魂を呼ぶ呪術を施す巫女で、「なきめ」は

     「泣き女」と思われます。又「みけひと」は死者に食物を用意する人、「はきもち」は掃除用具を

     持つ者と考えられています。その他に儀式の布を織る「ゆうつくり」、生贄(いけにえ)の獣を

     捕らえ料理する「ししひと」等の人々が登場します。

   イ) これらの人々は、それぞれ殯の間に役割分担が行われていた事を表します。

   ロ) 本葬後にも、殯と同じ働きを人に替え、人物埴輪が役割を担っていたと思われます。

   ハ) 殯では、歌や舞は重要な行為で、琴を奏で太鼓を叩き、歌い舞い踊る事で霊魂を揺さぶり、

      遊離した魂を呼び戻す行為とされていました。 

   ニ) 人物埴輪は他の器財埴輪(家、武具など)が墳丘上又は石室入り口付近で出土するのとは

      異なり、墳丘外で出土するのも殯との関連性が指摘されています。

  d) 人物埴輪の出現は、5世紀代で主に畿内です。この頃は大部分が巫女の埴輪でした。

     人物埴輪の制作が群馬や茨城県など関東地方に伝わるのは、6世紀に入ってからです。

     埼玉県鴻巣市の生出塚遺跡は当時の東日本最大級の埴輪生産遺跡として知られています。

   ◎ 人物埴輪の種類: 巫女、踊る男女、武人、正装の男女、琴をひく男、冠をつけた男、笑う男

    ひざまずく男、鷹匠など多くの人物が登場します。

   イ) 腰かける巫女: 6世紀 高さ、68.5cm 重要文化財 群馬県出土 東京国立博物館蔵

      腰に鈴と鏡、香袋と思われる物を付けています。顔は未婚の少女の様相です。

    ・ 手をあげる巫女: 6世紀 高さ、88.5cm 群馬県出土 東京国立博物館蔵

      上衣は暗褐色の円文で飾られ、顔、眉、頬(ほほ)に赤色が施されています。

   ロ) 冠をつけ座る男: 6~7世紀 高さ、74.9cm 重要文化財 高崎市出土 

      円形の腰掛にあぐらをかいて座り、上部が山形の切り込みで、蝶や円形の飾りを付けた

      豪華な冠を付けています。殯を主宰する人物と思われます。

     ・ 冠をつけ座る男: 6世紀 高さ、89cm 重要文化財 福島県いわき市出土 

       両手を挙げて何かを捧げるポーズです。

      立派な王冠は当時の王(又は権力者)を表しています。

     ・ 「冠をつけた男」などは、簡素な冠ですので、王ではなく神官かも知れません。

     ・ 「帽子をかぶった男」や「盛装の男」、「あごひげの男」などは、葬儀に列席した貴人と

       思われます。

   ハ) 武人の埴輪は、短甲(たんこう)や挂甲(けいこう)をつけた武人の埴輪が、多数出土して

      います。又、盾を持つ男の埴輪もあります。

    ・ 「短甲つけた武人」(埴輪武装男子像): 6世紀 高さ 64cm 重要文化財 熊谷市出土

     東京国立博物館。短甲とは、短い鎧の事で、短甲つ着用した武人埴輪は例が少ないそうです

    ・ 国宝 「挂甲をつけた武人」(埴輪武装男子立像): 6世紀 高さ 130.5cm 群馬県

      太田市出土 東京国立博物館。  全身を甲冑で身を固め、太刀と弓矢を持つ武人埴輪。

   ニ) 琴をひく男: 6~7世紀 高さ 73.3cm 重要文化財 前橋市出土

   ・ 琴をひく男: 6~7世紀 高さ 64cm 埼玉県出土

    いずれも、円筒の台に腰掛、前を見据えて、両手で4弦の琴を奏でています。

  ホ) 踊る男女、両手を高く上げた女など、手の動きがユーモラスに表現されています。

  へ) その他、頭に壷をのせた女、笑う男、鍬(くわ)を持つ男、馬をひく男など、日常生活の一部を

     写し取った埴輪も出土しています。

  ト) 埴輪の男女差を見分ける方法は、髪型の差で、衣装の違いは少ない様です。

   ・ 男の髪型: 男の結髪は「みずら」と呼ばれる、長く伸ばした髪を左右に分け、耳の周辺で束ね

    結んだ状態です。 更に盛装の男性は「下げみずら」と呼ばれる、髪の先端が肩まで伸びて

    います。労働に従事する者は「上げみずら」と呼ばれ、髪の下端が耳の周辺で小さく丸められて

    います。

   ・ 女の髪型(髷=まげ): 髪を前後に分け、それぞれふっくらと折り曲げ、中央を紐で結わえた

    形をしています。島田髷を潰した状態に見えますので、原始島田髷と表現する人もいます。

    但し、時代と共に簡略化され、薄い板状で表現される様になります。

   ・ 男女の衣装: 上下に分かれる衣装で、上着を衣(きぬ)と呼び、腰よりやや長めで裾広がり

    です。 腰紐のある物は左右を左前に合わせます。現在でも死者に衣装を着ける場合、左前

    に行います。

  e) 動物埴輪。

以下次回に続きます。

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焼き物の着物(色彩)15 無彩色14(埴輪3)

2014-02-18 18:07:50 | 陶磁器と色彩

③ 埴輪の種類: 

  ) 家や器材の埴輪

  ) 人物や動物の埴輪。

    尚、)と)を合わせて「形象埴輪」と言う事もあります。    

    形象埴輪からは、古墳時代当時の衣服・髪型・武具・農具・建築様式などを知る事ができます。

  ) 家や器財の埴輪: 前回の続きです。

   c) 家形埴輪: 円筒埴輪や盾や太刀などの武具に守られた内側に、家形埴輪が置かれて

     います。 この家は死者の霊魂が住む場所として、提供されていると見るのが妥当です。

     家の屋根に多数の小孔があり、常緑樹の枝を挿す為のものと言われています。

     即ち、常緑樹の小枝には、神霊や霊魂が寄り付く目印になり、死者の霊を招く働きがあると

     考えられています。

   イ) 形象埴輪の中でも、家形埴輪は最初に出現する埴輪です。

      古墳の埋葬施設の真上に置かれ、初期の頃は大型な埴輪が一個で有ったものが、次第に

      数を増す様になります。数多く置く事でより完全に魂を呼ぶ事が出来ると、考えた結果では

      ないかと言われています。古墳によっては10個以上配置された物もあります。

   ロ) 群馬県赤堀村茶臼山古墳は、5世紀中期の古墳ですが、注目すべき家形埴輪が出土し

     ます。 切妻造の家が3軒、倉が4軒、納屋が1軒の計8軒が出土します。

     切妻造の家には、丹彩の痕跡が認められます。丹(に、又はたん)は単に装飾的意味の他に

     邪霊を防ぐ色で、呪力があると考えられ、埋葬や祭りの際に多く使われいます。

      注: 丹とは縄文、弥生、古墳時代に使われた赤色顔料で、主に酸化鉄(べんがら)や水銀朱

        (硫化水銀、辰砂)ですが、古墳時代になると水銀朱が多く使われます。

     この家々で、一つの屋敷を構成する配置になっています。即ち切妻の母屋を一番奥に置き、

     その左右に副家を、納屋を母屋の裏側にし、倉は母屋と副家の側面に配置されていました。

     これらは、埋葬された豪族の屋敷を再現したものと、言われています。     

   ハ) 家形埴輪の大きさは、意外と大きく50cm以上の高さの物も珍しくありません。

      奈良県石見遺跡からは、高さが115cmの物も出土しています。

      家の構造も、切妻造、入母屋(いりもや)造、四注造(しちゅうつくり)などがあります。

      切妻や入母屋は現在の家の形に似ています。四注造は、寄棟造とも呼ばれ、上から見ると

      真四角形で、屋根が四方に延びた形をしています。

   ニ) 家形埴輪の衰退。

      5世紀中期頃から、埋葬方法に大きな変化が現れます。即ち、竪穴式から横穴式石室へと

      推移して行きます。この変化は葬送葬礼の場所が変わる事に成ります。

      竪穴式では墳丘部や墳丘外で行われていた物が、石室入り口近くに移動する事に成ります

      更に、石室の形や石棺が家形をとる様になると、家形埴輪はこれらに吸収され、やがて

      消滅していきます。

   d) 椅子や高坏(たかつき)などの器財埴輪。

      家形埴輪の傍には、霊魂を招き寄せる為の食物献供がなされます。その為、豪華な高坏や

      大きな(幅67cm)椅子が置かれたものと思われます。

   ) 人物や動物の埴輪。

以下次回に続きます。

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焼き物の着物(色彩)14 無彩色13(埴輪2)

2014-02-17 22:44:04 | 陶磁器と色彩

3) 「埴輪」に付いて。

   埴輪の語源は、円筒形(輪)の土器を墳丘の周囲に輪の様に置いた事に由来すると言う説が

   あります。即ち、「埴(はに)」は土に植えると書きます。

   又、「埴(はに)」は、赤や黄色のきめ細かい粘土の事を指すと言う説もあります。

   いずれも、決定的な説では無い様です。

 ① 埴輪の発生

   以前には埴輪は、人や馬などの殉死の替わりとして、墓の周りに据えられた(又は埋められた)

   物と考えられいましたが、現在ではこの説は否定されている様です。

   即ち、『日本書紀』垂仁紀に、野見宿禰(のみのすくね)が日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める

   代わりに土で作った人馬を立てることを提案したとあり、これを埴輪の起源とするとの説です。

  ) 3世紀中期〜後期に、岡山県の前方後円墳(岡山市都月坂1号墳、桜井市箸墓古墳など)

    から最古の円筒埴輪である都月型円筒埴輪が出土します。

    この円筒形埴輪は高さが約80cm程で、円周方向に等間隔の凸状(桶のタガ状)の紐が  

    5~6本巡らされ、その各段には、複数個の丸や三角形の透かし彫りが見られます。

    これらは、弥生式土器とは明らかに異なる文様で、弥生式土器から自然に発生した物では

    無いと判断されています。やがて同じ様式の埴輪が、他の地方にまで広がります。

  ) 4世紀~5世紀に掛けて、畿内特に奈良の天理市や桜井市などでも、同様な円筒埴輪が

     出土します。桜井市からの出土品は242cmと巨大な円筒埴輪です。

  ) 朝顔型円筒埴輪: 奈良県布留(ふる)遺跡で出土した埴輪で、円筒の上部がくびれその上が

     朝顔型に開いている形の埴輪で、三角形、長方形、巴形などの透かし彫りが施された埴輪

     です。

 ② 埴輪の使用目的

   埴輪は古墳の上部や周囲に立て並べて使用されていました。それ故当然葬送の儀式に

   関係している物です。現在では、神聖な場所との境として置かれたとも考えられています。

   即ち、初期の円筒形埴輪は、中央の埋葬施設(石室)を取り巻く様に配置されています。

   時代が下るに従い、埴輪の数も増え、埴輪が二重(二列)、三重に並べられた古墳も出現

   します。当初は周囲に置かれた状態でしたが、次第に穴を掘り脚部を埋め込む方法に変化して

   行きます。更に、墳丘の周囲に埋め込む事で、墳丘が崩れるのを防ぐ目的も有った様です。

  ③ 埴輪の種類: 大まかに三つに分類できます。

  ) 円筒埴輪

  ) 家や器財の埴輪

  ) 人物や動物の埴輪。

    尚、)と)を合わせて「形象埴輪」と言う事もあります。    

    形象埴輪からは、古墳時代当時の衣服・髪型・武具・農具・建築様式などを知る事ができます。 

  ) 円筒埴輪:古墳時代前期初頭(3世紀中期〜後期)

    円筒形は、埴輪の中でも一番数が多く、最初に作られた形で、高さも40~200cmと

    大きい物が多いです。朝顔形埴輪は円筒形埴輪から発展した物と思われています。

  ) 家や器財の埴輪: 4世紀後半には、蓋(きぬがさ、きぬた)、大刀、靫(ゆぎ)、鞆(とも)

    盾(たて)、家形埴輪が出現します。

    a) 蓋は、貴人の日除けとして用いる傘形をしています。これは貴人の威厳を示すものです。

      但し、頭頂部に四枚羽を組み合わせた十字形の大きな四翼形飾りが着けられています。

      更に翼には幾何学文様や直弧文などの、呪術的な文様が施されています。

      高さも60~90cmと大きい物も多いです。

    b) 器財とは、主に武具や武器の事です。

      これらの土器類は石室の周囲に配置され、死者を守る為のものです。

      太刀: 長さが130cm余りと大きく、先細りの円筒形をし、立って設置します。

      盾: 円筒形の上部に二枚の板をサンドイッチ状の物を貼り付けた状態です。その板に線

        彫りで直線や円弧状の模様が付けられています。

        高さが150~170cm程度とかなりの大きさがあります。

        盾は本来敵から身を守る防具です。外向きに立てた盾を石室の周囲巡らせ、悪霊

        から身を守る為として設置されています。

以下次回に続きます。

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焼き物の着物(色彩)13 無彩色12(埴輪1)

2014-02-16 17:51:03 | 陶磁器と色彩

「埴輪(はにわ)」は、古墳の周囲から出土する男女の像や、馬や犬、鳥などの動物、家、倉等を

形取った土師器(はじき)の焼き物です。

1) 古墳時代とは、3世紀中頃から7世紀頃まで続いた、古墳が多く築かれた時代です。

    日本列島が初めて国家としての纏まりを形成していった、激動の時代とも言えます。

  前方後円墳の出現は、ヤマト(大和)王朝の成立を表すと考えられています。

  古墳時代は発生期、前期、中期、後期、終末(終焉)期に区分されています。

  ) 中でも、4世紀後期~5世紀後期の中期きは、古墳時代の最盛期で、大古墳群が畿内を

    中心に、九州から北関東に掛けて形成されます。 

  ) 古墳の形には、奈良盆地から大阪平野に掛けて、大型の前方後円墳が築かれます。

     東海~関東では、主に前方後方墳が主に築かれていました。

  ) その他に、丸(円)墳、方墳(四角)があり、割竹型木棺の竪穴式石室から形石棺、長持形石棺

     に変化し、やがて横穴式石室が現れます。

  ) 古墳の終焉は6世紀後期~7世紀後期にやってきます。

    古墳の終焉は、埴輪の終焉でもあります。

    大型の前方後円墳は消え、小規模な上円下方墳、大型円墳、八角墳などの墳丘が増えます

    古墳が作られなくなったのは、社会的現象に由来します。即ち、仏教の影響で、土葬から火葬に

    変わっていく様になります。又、権力の象徴として古墳が築かれましたが、寺院造営へと変化し

    更に、646年(大化2年)「大化薄葬令」が発令された事も大きく関係しています。

      注: 薄葬令(はくそうれい): 身分に応じて墳墓の規模などを制限した勅令。

2) 古墳の副葬品。石棺には副葬品として、鏡や銅(又は鉄)剣などの武器の他、装身具、農耕器具

   などが添えられていました。当然、古墳の規模に応じて出土品に差があります。

  ① 3世紀の古墳発生期には三角縁神獣鏡が、3~4世紀 の前期には中国製鏡や珠、刀、腕飾類

    が、4~5世紀の中期では、武器、馬具、装身具、鉄製品、須恵器(すえき)が増えます。

     注: 須恵器については後日説明します。

    5~6の後期には、馬具が増え鉄製の農耕器具が減少します。

  ② 三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう、さんかくえんしんじゅうきょう)は、縁部の断面形

    状が三角形状となった大型の神獣鏡です。大きさは径が20cm程度で、鏡背に神獣(神像と霊

    獣)が描かれ中国、魏の年号を銘文中に含むものも多いです。数も多く400面以上出土してい

    ます。この鏡が何処で造られたかには、諸説あります。

  ) 中国の歴史書「魏志倭人伝」に、239年(景初3年)魏の皇帝が邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)に

    銅鏡百枚を下賜したとする記述があることから、三角縁神獣鏡がその鏡であるとする説がります

  ) 同じ様なものは中国からは出土せず、中国で既に改元された年号や実在しない年号の

    銘が入った鏡もある事から、日本製、あるいは中国から渡来した工人の製であるとする説

  ) 中国製で船で日本に運ばれた舶載鏡とする説、日本で中国の鏡を真似てつくった倣製

    鏡説などがあります。

  ③ 馬具類の出土。4世紀以降副葬品に馬具類が多くなります。後で述べる「埴輪」にも多くの

    馬がありますので、当時数多くの馬が飼育されていた事が解かります。

3) 「埴輪」に付いて。

以下次回に続きます。

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