まちや小(ぐわあー)

その先を曲がったら何があるのだろう、どきどきしながら歩く。そして曲がってみて気がついたこと・感じたことを書く。

知らない

2009年12月06日 | Weblog
今、住んでいるまちの「特産品は?」と聞かれて、
水産物ならこれとこれとこれと…
で、加工品ならこれとこれとこれ、
農産物ならこれとこれとこれとこれで
加工品なら…

で、お菓子なら…

1つのカテゴリー×3として、水産が6(水産物・加工品)で農産も6(農産物・加工品)で、お菓子が3として合計で15。
これ位ならちよっと考えれば「出てくる」はず。
出ないことが?

まあ、市民代表として選ばれた人(?)ならこの程度は答えて当たり前のこと。
だが、何一つ知らないとしたら、
それは「?」なのだ。

少なくても、今住んでいるまちの特産品を水産物ならこれで、農産物ならこれで、お菓子ならこれと。
3つはともかく、最低でもそれぞれ1つか2つは知っていなければ、選ばれた人として恥ずかしいこと。

で、こうしていろんなものがあり、いくつもが全国的にも知られているのに、
この「まち」を歩いていないから、物を食べていないから
だから「知らない」という。
これ「知らない」と云えることがすごい。

「商品」というものはパッケージになっていたりするものばかりではなく、製造コストの関係もあり、そこでしか味わうことの出来ないものも多くある。
だから「そこでしか食べることの出来ないモノ」といった売り方があっていいし、
そういったものが評価され、それこそが、どこにもない「モノ」として多くの人が食べに着たりして、で、売れることになるのだ。

だから、どこどこの「お土産」という、それが前述したようにパッケージにされたものでしか、それしか頭にないのなら特産物=(イコール)おみやげといったことしか頭の中に浮かんでこないとしたら、それは考え方が旧態依然のものでしかなく、なのでそういった頭からは新しい発想は浮かんでこないのだ。

繰り返し書くが、この「まち」にはいろんなものがある。

缶詰になっているもの(ねぎ鰯)やパッケージされたもの(みりん干し)、そしここで手作りで売られているもの(農水産物・お菓子等)。
そしてそれらのいくつかはしつこく書くが「全国的にも知られて」いたりする。

それを調べないで、歩きもしないで「このまちには何もない!」というのは、なんともはやで、このまちに引っ越してきたばかりの人がいうのなら仕方ないのだが、「選ばれた人(?)」が知らないというのは「選ばれた(?)」という、その資格はないのだ。