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田中達也の思い出

2012-11-20 13:48:54 | 浦和レッズ
昨日はどうしても広島戦を書きたかったので、少し出遅れましたが、浦和を戦力外になった田中達也の思い出は数知れません。田中達也といえばそのスピードは魅力的ですが、身体能力に任せて強引に抜く岡野とは違って、体の向きやポジショニングを考えて効率よく空いたスペースに飛び出す動きを得意にしていました。

田中達也といえば高校サッカーの名門、帝京高校の出身ですが、入学した時点では100人中80番目の選手だったとテレビのコマーシャルで言われていました。一年生から試合に出ていたので、エリートだと思っていましたが意外な過去で、167cmと小柄な体をカバーする相当な努力をしたのでしょう。

そんな努力の結果が出たのは浦和入団1年目の2001年の5月、国立競技場での磐田戦でした。当時、磐田は強いチームで、昇格1年目の浦和には勝ち目はないと予想されていました。そんな劣勢を互角な展開に持ち込んだのは途中出場の田中達也でした。

当時、浦和のトップ下はパサーの小野伸二でしたが、田中達也は小野伸二がパスを出しやすいように体の向きを走りやすいように調節して、スペースを見つけ出しているサッカーセンスの高さを見せて、小野伸二の良さを引き出す黄金コンビぶりを見せます。

この二人が組んでいた時期は小野伸二のフェイエノールト(オランダ)移籍もあって短かったのが残念でしたが、田中達也はのちに新たな名コンビを確立します。その相棒はエメルソンでした。当時、アテネ五輪代表を目指していた田中達也にとってエメルソンは身近な手本で、ゴールが見えたら積極的に打つことやスピードの生かし方などエメルソンから得たものは大きかったです。

田中達也にとって、エメルソンと組んでいた時期がベストの時期でした。優勝した2003年のナビスコ杯でニューヒーロー賞とMVPをダブル受賞したのは快挙でした。ただ、田中達也という選手は2トップだからこそ輝く選手です。

MFで起用すると高い位置ならドリブルで仕掛けられますが、パサーではないので引いた位置ではバックパスを選択する物足りなさはありました。また、田中達也は1トップも苦手です。足元でキープするタイプではなく裏へ出るタイプなので、1トップに当てるミシャのサッカーには合わないタイプでした。

ミシャの続投が決まった以上、来年も田中達也がエースストライカーになる可能性は低く、他チームに行った方が本人のためかもしれません。山田暢久、鈴木啓太に続く3番目の古株の田中達也が去るのは寂しいですが、時代の流れは無情なものです。

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